連載●シリーズ「抗う人」⑩

被差別部落民18人殺害、
美作騒擾140年の沈黙に抗う~頭士 倫典

ジャーナリスト 西村 秀樹

 日本の近代黎明期、明治政府の新政策への反対一揆が多発する。1873年岡山県で被差別部落民18人が殺され襲った15人が死刑という美作騒擾が勃発。なぜ政府反対運動が部落民を襲うのか。襲った百姓の子孫が真相究明に乗り出した。

ときに笑い、ときに沈む。なぜを問う日々は続く。頭士倫典(ずし とものり)さん/(筆者写す)

《ベクトルは逆方向》

殺されたのは被差別部落民ばかり18人、襲った側は死刑が15人、処罰者数が2万7千人。

1873(明治6)年、岡山県北部美作(みまさか)地方でおきた騒擾事件は明治の同種の事件の中でも大規模なのに、正史ではほとんど扱われない不思議な事件である。正史には政治指導者の動きや制度などが記述され、民衆の運動は記録されないのが普通といってしまえばそれまでかもしれないが、一番の謎は、明治政府への反対運動がなぜ下層の民を襲ったのか。沈黙が140年覆う。

永き沈黙に抗い、岡山の地元で真相解明が始まった。

やっかいなことに事件の名称が定まっていない。実は先行する少数をのぞけば研究は決して多いとはいえない。

概要を調べようと、さっそく手許の事典をひもとく(『岩波日本史辞典』)。

「解放令=1871.8.28明治政府による、穢多・非人等の称を廃止し、これら賤民の身分・職業を平民同様にするとした太政官布告。賤民廃止令・賤称廃止令とも。
これにより身分差別の法的根拠はなくなり、その後の差別撤廃運動の拠りどころとなったが、旧来の身分的特権喪失にかわる経済的措置が講じられず、人々は貧困を余儀なくされた」

ここまでが前半。続いて事件に及ぶ。

「民衆の側も今まで下位にあった者が浮上することへの危機感から各地で解放令反対一揆を起こすなど排除・差別の姿勢を持続し、とくに旧穢多身分に対する差別は被差別部落問題として今日に残る」

そうなのだ。そもそもの始まりである太政官の布告(1871=明治4年)ですら、名称が定まっていない。部落解放同盟のシンクタンク、部落解放・人権研究所の事典を調べてみると、見出しは解放令を採用している。

「もともと正式な名称がないことから、さまざまな略称がつけられてきた。最近は、学術上の略称として賤民制廃止令ないしは賤民廃止令の略称が多く用いられている」(『部落問題・人権事典』新訂版)。

というので、ここからは勧めにしたがい賤民廃止令を使い、とりあえず新政反対一揆とくくっておく。

まぁ「先の大戦」も、大東亜戦争、太平洋戦争、さらに15年戦争ともアジア太平洋戦争と多々ある。大東亜共栄圏を肯定するか否定するか、侵略か自衛か、歴史認識というか立場によって名称が複数あるのに似て、明治4年の布告もしかり。

今回とりあげるのは、一連の新政反対一揆のうち最も大規模だったものの一つ、明治6年の岡山県美作地方の津山騒擾事件だ。新政反対一揆は西日本を中心におよそ21か所でおきたが、そのうち多数の被差別部落民が殺されたのはここだけだ。

《皇国少年から解放運動へ》

今回の主人公、頭士(ずし)倫典(とものり)は、津山の北東の郊外・加茂町(現在は合併で津山市)の出身。1928年5月生まれというから今年86歳。「私の苗字は、苗字の事典を調べても、この文字をつかうのはたぶん日本中でうちの一族だけ。名前の方は上の一文字は父親から、下の一文字は、昭和3年、京都で昭和天皇のご大典が開かれたのでそこからもらったもの。だから、名前の半分に天皇が入っているの」と苦笑する。

父は農業しながら教員をつとめた。男二人女一人の3人兄弟の長男。旧制中学を4年で卒業した。本土決戦を前に、この年だけの特別な措置であったという。本人は「皇国少年であった」と当時をふり返る。戦争末期、旧制中学から飛行機の部品工場にかり出された。

日本の敗戦を多感な17歳で迎える。同級生が一人戦死している。「戦争はダメだ」との思いは強い。

東京で学問を修め卒業後は埼玉県下の市役所にいったんは就職したが、父が帰ってこいと誘ったので故郷の加茂町に戻り、町役場職員として移る。

岡山県美作(みまさか)地方は岡山県の北東部に位置し、古くから日本海側の出雲地方と瀬戸内を結ぶ、交通と文化が交わる要衝だ。美作の中心地、津山の北東、鳥取に向かう谷に位置する加茂町は林業が盛ん、被差別部落が点在する。

戦後、頭士は加茂町職員として産業課長や町議会の事務局長など要職をつとめたが、ずっと気になっていたのは町内の被差別部落の存在であった。

まだ高度経済成長期に至る前の1958年ごろ、小学校のPTAの集まりで、被差別部落の子どもたちへの心ない差別発言が親から飛び出すなど、部落差別解消に向けた取り組みは決してうまく行っているとはいえない状況であった。以来、頭士は戦後民主主義の勃興期に青春をすごしたものとして、部落問題の解消に向けて心を痛め尽力する。

《町史に騒擾事件の記載を計画》

頭士が加茂町の教育委員会社会教育主事の仕事をしていた時期、ちょうど元号が明治になって100年の節目にあたった。頭士は町長に対し、明治100年記念事業として加茂町史を作りましょうと提案し、町長と議会の予算の承認をうけて町史の作成に入った。

頭士の狙いは、かねてから気になっていた明治六年の事件を町史にきちんと記録することだ。背後に、地元の人たちに負の遺産を知らせ理不尽な部落問題解消に向け町民にこの問題を正面から認識してもらおうと意図した。

岡山大学を訪ね、近現代史の研究者に美作騒擾のことをきちんと書いてほしいと希望を申し述べると、研究者も喜んで執筆を引き受けた。こうして作業が進むことになった。

この加茂町史作成の過程で、頭士はたいへんなことを知る。

頭士家は幕末から明治初頭、地域で庄屋のような「オサのような」役割をつとめていた。その関係で、家の古文書をあれこれ調べてみると、頭士のひぃじいさん、つまり曾祖父というか三代前の祖先がこの美作騒擾で襲撃側のまとめ役だと発見した。

文書には、例えば「一揆に参加しないと(罰として)襲うぞ」と一揆への参加を強要する文言とか、「行かないと罰金をとる」、さらには「引き揚げてきたときには、いったん村の(日常的な暮らしとは)別の場所でほとぼりを冷ます」などの細かな取り決めが定められ、地域の一戸一戸の戸主の署名と捺印が押してあった。

「それを知ったときの驚愕といったら、なかった」と、頭士は絶句した。

以来、頭士は基礎資料を探す。1984年、頭士は研究者と共著で『美作津山藩被差別部落関係資料』全5巻の編纂をしたのをはじめ、岡山県立図書館ホームページで頭士での名前を検索すると14件の論文や著作がリストアップされる。頭士はさらに友人知人と共に加茂町人権問題研究会を結成し、事件の全容解明に取り組む。

《賤民廃止令の前提》

時代になじみが薄いと思われるので、少し横道にそれ、当時の時代背景を述べる。

ちょうど島崎藤村が小説『夜明け前』で描いた時代が舞台だ。江戸湾への黒船騒ぎ、やがて薩長を中心とした勢力が天皇を錦の御旗にかつぎ、戊辰戦争で軍事的クーデターまがいの新政権を打ち立てる。小説『夜明け前』で、主人公の中仙道馬篭宿の本陣嫡男・青山半蔵は、はじめ明治の維新に封建制の抑圧を脱して王制復古を願い、維新に希望をたくす。が、やがて西洋一辺倒の文明開化の名の下に、旧幕時代と変わらぬ絶対主義的な施策を強引におしすすめる明治政府の暴政に、半蔵は明治天皇の行列に直訴を企て、狂気にとらわれる、そんな時代である。島崎藤村の父をモデルにしたと伝えられる、小説の主人公・青山半蔵にとって、明治維新は「裏切られた革命」であったに違いない。

福沢諭吉の『学問のす丶め』(1872-76年)はこう述べる。江戸時代は武士だけが戦(いくさ)を担ってきた。しかし、元号を慶応から明治にかえ、近代的な世の中になると、農民も読み書きや算数ができないと、近代的な軍隊さらに言えば近代的な国家は成立できない。だから、学問に努めなければいけないというが、この一説には300万部を超える明治初期のベストセラーの背景だと、小熊英二・慶応大学教授が解説している(『日本という国』)。

明治初期は大きな改革のときだ。富国強兵の一環として、徴兵制、税制改革から国のかたちを変えることがはじまる。それまでの徳川幕藩体制では藩ごとの武士が治安と軍事を担っていたが、明治の新政府は、1871(明治4)年8月29日藩を廃し県に置き換える廃藩置県の詔書を出し、1年半後徴兵令を公布する。また軍事費など国家運営の費用捻出のために、地租改正、つまり土地所有税を国民から得る段取りをはかり、中央集権をめざした。

こうした土地所有者からの税収確保を計画する段階で、やっかいな問題の存在を明治政府は知る。それは、部落の居住地の一部にあった無税地の問題であった。

穢多とか非人と呼ばれる被差別民は、刑場での斬首や町のガードマンなどの役務、死牛馬取得権(死亡した牛馬の処理する権利)など、ケガレ意識の結果、一般の人がやりたがらない仕事を独占する替わり、従来、被差別民衆の土地の一部は無税扱いになっていた。

明治政府は71(明治4)年4月に戸籍法を制定し、続いて8月28日解放令を布告する(廃藩置県の詔書の前日)。通商関係を結んだアメリカやヨーロッパ諸国からキリスト教の容認とともに、賤民制度を廃止する要求、つまりは外圧がかかった。欧米諸国では、すでに、身分制を廃止していたためだ。

8月28日の太政官の布告は極めてシンプルだ。

「穢多・非人等の称を廃し、身分職業共平民同様たるべき事」(原文はカタカナ)

この布告の直後、各地で差別事件が頻発する。

この年の10月、広島県の沼田郡(現在の広島市)では、酒屋に酒を飲みに来た元革多の若者2人を町人が殺す。翌11月、愛媛県の温泉郡(現在の松山市)では、温泉に元穢多の人びとが入浴したため、町中で打ち払う暴行事件が発生する。当時の被差別民衆は、居酒屋で席を同じくしたり温泉にいっしょに入るなど、きわめてささいなことをきっかけとして、殺害された。背景に「ケガレ」意識があり被差別民を暴力で排除の対象とする、農民にはそれほど強い差別意識が根強くあったことを示している。

賤民廃止令はいっぺんの紙切れや布告の掲示だけ。最初に引用した事典の記述とおり「旧来の身分的特権喪失にかわる経済的措置が講じられず、人々は貧困を余儀なくされた」

賤民廃止令の布告は、被差別民衆の解放にはつながらず、むしろ、この布告後、戸籍には「新平民」の呼称がスタートし、新たな差別の始まりとなった。

《血税一揆へ》 

話は本論に戻る。津山周辺の加茂谷一帯は林業が盛んだ。緑深い中国山地からは、良質な木材がとれ、加茂川をいかだ下りなどで、姫路や岡山に出荷していた。その林業に必要なのが馬で、数多く飼育され、加茂谷には被差別部落が点在した。

1871年8月の賤民廃止令以降、それまで農道ですれ違う際、土下座した被差別民は一般の農民と対等に振る舞うようになった。こうした「民衆の側も今まで下位にあった者が浮上することへの危機感」に加え、1年半後の徴兵制の施行が農民の不満を高めた。兵役に富裕層の子弟は免除され、負担は中層以下の農民層の次男、三男に集中したことから農民の新政府への不満が沸騰点に達する。

73年の初夏は干ばつであった。農民の間に凶作のおそれが強まる。津山北部にはV字の形に二本の谷が集まり、津山盆地はその扇の要に位置する。V字のうち西側の吉井川沿い谷、西西条郡貞永寺村の有力者、筆保卯太郎が一揆を計画する。村の鎮守の森にある神社の社務所に地域の有力者を集め、秘密裏に計画を練った。

5月26日、貞永寺村に突然、白装束の不審な男が現れる。白装束は血取り、つまり血税=徴兵のシンボルである。

白装束の出現は卯太郎たちがあらかじめ計画したことではあったが、何も知らない村人は戦々恐々となる。村のあちらこちらから白装束の目撃談が語られ、人びとの不安は増す。やがて当初の計画通り白装束の男は姿を消し、ただでさえ不安にかられた農民たちは集まった。そこに指導者の卯太郎があらわれ「北条県庁へ強訴しよう」とそそのかすと、農民たちは行動に移した。

集団のメイン部隊は貞永寺村を一路南下、当時の北条県の県庁取在地、津山を西側からの攻撃をめざす。一方、卯太郎たちは東側の加茂谷からの攻撃を計画した。別働隊を組織、貞永寺村から峠をこえて東にまっすぐ直進、津山の北東に位置する加茂谷一帯を一揆に組織しようと試みた。計画では、東からの一隊は加茂谷を一路南下し、やがて津山の県庁を挟み撃ちにする計画である。

《虐殺そして処刑》

問題は、その津山を東側から襲撃する加茂谷一帯でおきた。頭士家の文書にもあったように、一揆がいったん始まると参加はボランティア参加ではなく、強制であった。強訴集団のスローガンは、「血税反対」など新政府への不満に加え、「新平民を穢多に改めよ(戻せ)」など反動的なものがあった。

加茂谷に点在する被差別部落では強訴集団への対応が分かれた。ある部落では多勢に無勢と、屈服してわび状を差し出すところもあった。が、中には賤民廃止令は明治政府が出したもので自分たちは何も謝る理由はないと、徹底抗戦を決めた部落もあった。

加茂谷の、群衆への抗いを決めた部落で悲劇がおきた。

この部落には智恵者がいて、庄屋の自宅に黒い筒を設置し群衆のいる河原方向に向けた。群衆たちは大砲の出現におびえたが、やがて、それが張り子の虎だと見破り、群衆の怒りに火をつけた。多くの若者が一斉に部落内に乱入、人びとを襲った。

当時の記録『美作騒擾記』の記述はこうだ。

「群衆は、これ(捕らえた部落民)を加茂川の辺なる火葬場の傍なる一陣の内に押し入れ、最初に半之丞(被害者の名前)を引き出し、これを水溜の中に突き落とし、悲鳴を挙ぐるを用捨なく、槍にて芋刺しに串貫ぬき、かつ石を投げつけてこれを殺したり。
それにより順次に同一方法を用いて5人を殺し、最後の6人目なる松田治三郎に至るや、隙を見て逃亡せんとし、今一歩にて加茂川に飛びいらんとするところを、後より石を擶(う)ち、これを惨殺せり。猛り切ったる群衆は、猶これにあきたらず、同部落民の家に火を放ち、半之丞の居宅ならびに土蔵三棟、納屋一棟を焼き払いたるを手初めに、火はしだいに次から次へ焼き移り、遂に全部落百余戸を灰燼に帰せしめ、また悲鳴を挙げて逃げ迷う老少婦女を捕へて、背に藁束(わらたば)を縛し、これに火を放ちて焼死せしむるなど、すこぶる残惨を極めたり」。

パソコンのキーボードをたたき文章を転載するだけで、こちらの心が凍ってくる。人間はここまで残酷になれるのかという立ち振る舞いである。

部落民への虐殺は、加茂川の河原だけではなかった。部落民の一部は、加茂川の支流をさかのぼって、鳥取県方面に逃走をはかった。しかし、やがて追っ手の群衆に見つかる。山中で殺されたのは9人。うち4人が65歳以上の高齢者、9歳と1歳の幼いというにはあまりにいたいけない年齢の子どもも含まれている。結局、即死が18人、うち男11人、女7人。

美作地方をゆるがした騒擾は6日間つづいた。一揆への参加者は3万人にも及んだという。津山の警察力だけではだめで、6月2日、知らせで大阪から鎮台兵がかけつけ、ようやく鎮圧した。

残虐に殺されたもの18人、一方大阪鎮台兵はリーダーたちを捕え処罰者数2万6907人、これは美作地方の全戸数の半数にあたる。そして裁きの結果、斬首となったもの15人を数える。一揆を組織した筆保卯太郎は、部落民の殺害や襲撃に直接タッチしたわけではなく、騒擾の途中で村にもどったものの、一連の騒擾の責任を問われ死刑になった。

《農民と部落民の共闘》

問題は、なぜ明治の新政府への反対行動が被差別民衆への襲撃事件に発展したのかだ。

この地域の民衆は被差別部落に対して厳しい差別をしているかといえば、そうではないことを示す前例がある。

美作騒擾の先立つ16年前(1857=安政4年)渋染(しぶぞめ)一揆が発生しているが、ここでは、地域の民衆は被差別部落民と共闘し、施政者に抗い、差別を撤廃させているのだ。

岡山藩は、黒船来航以後の深刻な財政危機を克服するため、藩政改革の一環として、被差別民衆に対し、渋染・藍染以外の衣類、紋付の着物の着用、傘・下駄の使用などを禁止した。さらに百姓にであったときは裸足になって辞儀をするように命じた。この差別条項の目的は、部落民を差別して一般農民に優越感をいだかせ、その抵抗力を弱めて、年貢増加を実現しようとしたと考えられている。

これに対して、領内53か村の人びとはこの差別条項の撤回を求めた。いったんは郡代が拒否したため、吉井川の河原に千数百人があつまり、家老宅に向かった。途中、別の強訴勢いと合流し、2夜3日の交渉の末、嘆願書の差し出しに成功し、後日、差別条項を空文化する約束をとりつける。この一揆の結果、指導者12人が投獄され、うち6人が獄死したため、残る6人に釈放嘆願運動がおこり、全員が釈放されたという。 

《フィールドワークへ》

加茂谷で、頭士たちが、加茂町人権問題研究会を結成し、部落解放に尽力を始めたことは先述したが、こうした地元の教職員や行政の職員たちが先頭に立って、美作騒擾の解明をはじめたことがきっかけとなって、3年前、フィールドワークがスタートした。以来、事件発生時期の5月26日前後の週末、フィールドワークは続き、私も毎年参加している。

フィールドワークの言い出しっぺは、部落史に詳しい上杉聡だ。上杉は、関西大学や大阪市立大学人権問題センターで教鞭をとるかたわら『明治維新と賤民廃止令』などを著し、歴史認識の問題でも積極的な役割をつとめている。

私にも上杉から呼び掛けがあり参加することになった。大阪から高速バスにのり中国自動車道を一路西に進む。140年前、騒擾鎮圧のため、大阪鎮台兵が進んだのも、このルートであったのだろうか。津山駅前で参加者は集合した。およそ25人の参加者がマイクロバスの補助イスまでぎっしり乗り込んだ。参加者の多くは、学校の教員や行政の人権問題担当者の現職やOB、OG、若者もいた。地域も大阪や兵庫県下を中心に、鳥取方面からの参加者もいた。

津山から鳥取県境の人形峠方面にすすむこと30分、のどかな元貞永寺村に到着した。

農民を集めた半鐘もぽつんと残っていた。筆保卯太郎の墓を訪れると、民家の裏にひっそりたたずむ墓が140年前の騒擾を実感させる。墓の周辺は、明治時代とちがって耕運機がテンポよく田植えをすすめていた。

140年前、貞永寺村を出発したメイン部隊は南下したが、フィールドワーク参加者は別働隊のルートを歩くことにした。

筆保卯太郎が津山を東西から挟み撃ちにするために、加茂谷に援軍を求めた別働隊のルートをひたすら歩く。軽自動車の通行がかろうじて可能なほどの細い山道をひたすら東に進む。歩きながら一揆を組織した民衆のせっぱ詰まった高揚感を実感する。

およそ2時間、加茂谷にでた。加茂谷を一望できる金比羅神社の見晴台にのぼる。そうか、ここが加茂谷か。決して広いとはいえない加茂川をはさんだ地域が、襲う側と襲われる側に分かれ、戦々恐々とした数日間に思いは馳せる。

やがて、部落民6人が石もて虐殺された加茂川の河原、さらに鳥取方面に逃走を図ったものの山中で幼子ら9人が殺された現場に向かう。参加者の口数はどんどん少なくなる。この辺りではと推測した山中の窪みで、持参した花をたむけ、浄土真宗大谷派の僧侶の読経に、皆、手を合わせた。線香がたゆたう。目の前で幼子を殺された親の気持ちを察する。

その夜、加茂谷の宿泊施設で、私は頭士とはじめて出会った。加茂町人権問題研究会の面々がフィールドワークの参加者との交流会を開いてくれたのだ。会場には頭士がしたためた横断幕が書いてあった、達筆で「美作明六騒擾」と。頭士にとって部落民を襲う行為は一揆ではない。一揆は権力に刃向かうものだという。

私が「解放令反対一揆ですか、血税一揆ですか」と尋ねると、頭士はう~んと悩んだまま、返事がない。加茂町史の見出しは、血税一揆。上杉聡の著書は賤民廃止令反対一揆。でも、頭士は違うという。18人を虐殺した群衆のリーダーを祖先にもつだけに、ひと言ひと言が重い。140年間、なぜに地元で沈黙がつづくかと問えば、部落差別がなくなっていないからだと、小さな声が返ってきた。

21世紀の現代でも、なぜ維新という政党は新自由主義の旗をふり格差を拡げるにもかかわらず非正規労働者の若者たちは支持するのか。なぜ朝鮮学校を襲うヘイトスピーチの集団は、実は非正規労働者たちなのか。単なるうっぷん晴らしを目的としているのではないのか。

美作で140年前おきたできごとは、民衆の反権力意識がなぜ被差別部落への差別意識に転化したのか。そうしたベクトルのすり替えが、決して過去のものではないことを示している。民衆の差別意識の根深さ、140年間の沈黙、なおそれを切開し差別を撤廃しようと、頭士たち加茂町人権問題研究会メンバーは、真相解明を一歩一歩すすめる。

答えは容易には見つからない。問い続けることが大切だ。

頭士のずっと下向いたまま返事のない姿が心に響いた。

にしむら・ひでき

1951年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、元毎日放送記者、近畿大学人権問題研究所教員。著書:『北朝鮮抑留~第十八富士山丸事件の真相』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争~吹田・枚方事件の青春群像』(岩波書店)など。

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