論壇

現代公教育に風穴を開けるために

『複雑化の教育論』(内田 樹)の問題提起から考える

本誌編集委員 池田 祥子

日本の不登校生、20万人

小・中・高あわせて、不登校の児童、生徒が20万人、と報道されている。

これに対して、内田樹は今年1月に出版した『複雑化の教育論』で次のように述べている。

「20万人はいくら何でも多すぎます。それだけの子どもが学校を忌避しているということになると、これは個人のではなく、システムの問題です。制度設計が間違っているのです」(p.173)

確かに、「公教育=国民教育制度」のシステムそのものの問題である。

1872(明治5)年の「学制」によって、さほど欧米に後れをとることなく早々に制度化された明治日本の国民教育制度は、当時掲げられていた「富国強兵」「殖産興業」のスローガン通り、当初より、初等・中等・高等というピラミッド型の「人材選別」機構であった。国家行政を担う優秀な高級官僚養成の他は、「時間」決めで働く労働者養成(ただし、男女は別コース。女子の「普通」以上は良妻賢母教育)。

こうして、「学校」では、時間割に沿った授業が行われ、学習内容も、やがて「国定教科書」通りとなる。

また、「後れをとった近代国家」ゆえに、効率的かつ忠良な「国民」づくりのために「教育勅語」が頒布され、天皇にかしづく皇民づくりが、やがて日本の日清、日露の戦争を経て、日支事変から太平洋戦争までを支えることになった。

しかし、1945年の無条件降伏による敗戦。占領軍GHQの指導の下での日本国憲法や教育基本法制定がなされ、日本の(カッコつき)「民主主義」化が進められた。ただ、言うまでもなく、皇国日本の核でもあった天皇は、「象徴天皇」として生き延び、内務省と並んで「廃止」が謳われた文部省もまた巧妙に生き延びた。さらに、「公務員=教官」として特別待遇された戦前の教員は、戦後もまた特例法によって「教育公務員」という特殊な身分に保持・継続された。

戦後の束の間、北九州の小学校では、時間割も子どもたちが決めることもあり、教科書でさえ、近くの小学校の講堂に並べられた白表紙のままの教科書を、グループごとに子どもたちが選んだこともある。隣のクラスと教科書が違っていても、誰もが気にすることなく問題にもならなかった。そのような小学校時代を経験した私が、「小学校の先生になりたい!」と思い、長じて、東京の大学、大学院で、その頃の学校経験を話題にした時、多くの人から呆れられたり笑われたりしたものだ。

時代も学校もすでに大きく変わっていた。戦後もまた、じわじわと、ぶれることなく、「公教育=国民教育制度」として、教育内容の基準化、教科書検定の強化、教員統制(勤務評定)、教育委員会=地方教育行政に対する中央統制などが進められたのである(本誌第4号~第10号、第12号の拙稿など参照)。

明治の初めより、「学(教育)は身を立つるの財本」と言われ、無理をしてでも「上の学校」に子どもを進学させることができれば、暮らしは良くなる・・・とお上は宣伝し、庶民もまた、「できることなら」と思いを熱くし、出来ない時は悔し涙を流した。

戦後の「60年安保闘争」以降、政治抗争は背景に退けられ、「経済」が表にせせり出す。「所得倍増」が謳われ、「人材開発」「教育投資論」が悪ぶれることなく強調され、国民の多くも、「できることなら高校全入を!」と積極的に動き出した。そしてその波は「大学」にまでも押し寄せたのである。

しかし、「公教育=国民教育制度」は、「すべての子ども」の育ちを支えるようには組織化されてはいない。「ハイタレント=マンパワー」をこそ、何よりも選りすぐって必要とし、それ以下は、それぞれに応じて配分されれば足りる。そのために、子どもたちの評価も「偏差値」によって序列化され、学校もまた、公立・私立ともに序列化される。

1960年代半ばからの全国の大学の学生叛乱は、最初は「私立大学の学費値上げ」反対闘争から端を発し、やがては、大学そのものの権威的・非民主的な組織や学生対応、また利潤追求の私学体制なども批判の的となり、最後には、その国民的な教育制度の中の「駒」として位置づけられる「己自身の相対化=自己否定」という思想にまで行き着くものだった。言い換えれば、その時代の「学生叛乱」は、ある意味では世界的な、戦後生まれ・戦後育ちの若者たちによる、既存の「国家」や「文化」「教育」などへの根底的な異議申し立てだったのである。

しかし他の国々は別にしても、日本では、学生たちの頑なな思想や短絡的な暴力依存などによって、国家権力の弾圧に抗しきれず市民の支持も失い、脆くも潰えてしまった。

その後しばらく、私たちは、大学やその他の教員、院生や学生などによる研究会などで、「公教育批判」を繰り返し、教員や父母の連携による「下からの教育改革」を提唱し続けた。しかし、「国家イデオロギーの注入」と「労働力商品の再生産」!という公教育批判の内容は、今でもそれは「正論!」だと思っているが、残念ながら、そのままでは、多くの教師や父母、学生たちに響き届く言葉にはなりえなかった。また、教職員運動も、政治的な分裂もあり、組合運動は縮小していった。

内田樹の「教育論」をまず紹介しようと思いながらも、何と長々と「個人的な注釈」を入れてしまったことか。スミマセン。ただ一言弁解すれば、それは、一人ひとりの子どもたちの「育ち・学び」を保障すること・・・そのことよりは、国家や経済に必要な「人材育成」に力を注いできた「公教育=国民教育制度」が、今や、多くの子どもたちを「学校」から排除してしまっているという現実に対する私の、改めての怨嗟なのかもしれない。さらにまた、その公教育批判の言葉の硬直性から、一歩も進みえない私たち自身への不甲斐なさも加わっているのだろう。

事態はかなり切羽詰まっている現在、しかし逆に、もう少し丁寧に、「学びの場とは?」について、じっくりと考え、言葉を蓄え、それらを互いに伝え合うことが必要なのかもしれない。批判や糾弾だけではなく「納得」しあうことが求められているのだろう。その意味で、改めて内田樹の「言葉」を紹介し、それを元にした共感と了解が拡がってくれればと思うのだ。

成熟とは「複雑化」することだ

内田樹著/東洋館出版社/2022年1月/1,870円(思想家、翻訳家、フランス文学専攻、神戸女学院大学名誉教授。『街場の〇〇論』など著書多数。

本書は、内田樹の「教育講演全国ツアー」が予定されながらも、長く続くコロナ感染状況ゆえにやむなく中止され、急きょ変更されて実現した「内田樹の3回講演」の記録である。会場は、彼が館長である神戸の「凱風館」(合気道の道場・学塾)であった。

まず最初に、書名となっている「複雑化」という言葉の中身を聞いてみよう。

「教育の目的は子どもたちの成熟を支持することであり、 (傍点は原文のママ、以下同)・・・ 僕は 。・・・でも、そういう複雑化のプロセスを連続的に繰り返す以外に子どもたちが成熟する道筋はありません」(p.2~3)

。昨日とは違う人間になるということです」(p.36)

「学校は格付けのための機関ではありません。格付けしたり、選別したりする機関じゃありません。」 (p.35)

教育の目的は子どもたちの成熟を支持すること、成熟とは複雑化すること、昨日とは違う人間になること・・・このような本人ですら未知の「成熟=複雑化」の過程を、当人と周りの大人(とりわけ対する教師)とともに育て上げて行くことが「教育の目的」ではないか、と内田樹は断言する。

そして、そのようなプロセスを保障する「場」を、彼は次のように語っている。

「『学びの場』であるための第一条件は、『居心地の良い空間』であることです。・・・学びにおいて最もたいせつなのは、来た人たちが『心を開いてくれること』です。人の話を聞く気になってくれないと学びは始まりませんから」(p.14∸15)

さらに、彼は「学びの場」になりうる「居心地の良い空間」を次のように言う。

「生まれて初めて口にする言葉は大きな声にならない。『大きな声で、はっきりと』という条件をつけると、言うことが定型的になります」(p.17)

「定型というのは傷つきやすい自我を守る『防護服』なんです」(p.41)

「いま思いついたこと、まだ輪郭のはっきりしない星雲状態のアイディアって、どうしても小さな声で、つぶやくようにしか言えないんです」(p.17)

「うまく言葉が出ないで、言葉に詰まったりしている時でも『言葉になる前のアイディア』みたいなものは気配としてそこに漂っているわけですが、それが感知できる」(p.18)

「『リラックスしても不利益をこうむるリスクがない環境』を用意するというのは、学びにおいてはとてもたいせつなことだと思います。『学びを場が支援してくれる』と僕が言うのはそういうことです」(p.22)

「複雑化」とは対極の「単純化」「効率化」 

内田樹は、いまの日本社会で指導層を占めている人々は、「組織マネジメント原理主義者」「管理コスト最小化原理主義者」たちであるという(p.124)。

しかし、「『ジュラシック・パーク』でマルコム博士(ジェフ・ゴールドブラム)が言うように『生命は生き延びる道を見出す(Life finds a way)』のです。生き生きとしたシステムであれば、それはどのような状況に逢着しても、より複雑化することで、進化し、危機を生き延びようとする。そういうものなんです。/でも、この三〇年間日本人がしてきたことは、その逆でした。ひたすらシステムを単純化し、退化させ、生命力の枯渇した、痩せ細って、水気のないものに作り替えることに全力を尽くしてきた。まことに愚かなことをしたものです」(p.125)

この教育界の「単純化」「効率化」の前に、70年代初め、政府は国立大学の授業料を一気に3倍にあげた。(私たちが大学生だった1960年代初めは、国立大学の授業料は年間9000円だった。福岡県の県人寮の住居費と食費合わせて1カ月9000円。育英会の普通奨学金は1カ月3000円、特別奨学金は1カ月8500円の支給だった)。

70年代初めは、年間12000円だった授業料が3倍ということは、月額1000円だったものが3000円になったのである。このことを、内田樹は次のように批判する。

「学生たちを親に経済的に依存させて、親の管理下に置こうとした。そして、そのあとも、ひたすら授業料を上げ続けた。・・・どうやって親の負担を軽減するかではなく、どうやって親の負担を増大して、子どもが就学しにくい状態を創り出すか、それを工夫したのです」(p.137‐138)

「進学先の決定権が自分にないというのは大きいことです。『苦学』できる環境なら、親が『そんなことを学んで何になる!』と怒り出すような専門領域を選んでも、『自分で学費を出すから、好きにさせてよ』と言えた」(p.140)  言うまでもなく、国立大学の授業料の値上げは、もともと私学は別格!と、公立・国立を優に超えていた私立大学の授業料の更なる値上げをもたらし、学生たちは親の経済格差の下にがんじがらめに縛られてしまった。

さらに、「無駄の排除」「効率化」の動きは、大学の教授会の「諮問機関」への格下げや、教員たちへの「年間シラバス(授業計画)」作成の義務化などにもつながっていった。

「『PDCA(Plan Do Check Action)サイクルを回す』とか『質保証』というような用語もある時期から教育を語る時の定型句になりました。でも、これらの教育工学的な述語は工場で工業製品を作る時の用語の転用です」(p.116)

「組織が上意下達的に編成されるにつれて、組織は効率的になるどころか、膨大な『ブルシット・ジョブ』(くそ無意味な仕事:アメリカの人類学者デヴィッド・グレーバー)を生み出すようになる」(p.122)

ところで、なぜビジネスマン(的発想)がここまで自信満々に「教育」現場に侵入してきたのか。それは、「マーケットは間違えない」という、すべてのビジネスマンの「信仰」のゆえだと、内田樹は言う。そして、さらに、

「ビジネスマンが教育について提言する時に非常に乱暴なことを言うのは、ビジネスでは『それがふつう』だからです。失敗しても、倒産するだけで済むからです。・・・『失敗したらやり直せばいいじゃないか』というようなことを気楽に口走るのは、学校教育での失敗は取返しのつかない傷を子どもたちに負わせることがあるという事実を知らないからです」と手厳しい(p.145)。「学校教育の失敗は無限責任です」(p.147)(太字は池田)

そして、学校という場の「複雑」にして「ゆるゆる」なあり様を、次のように確認するのである。

「学校教育ではリスクはとれないのです。せいぜい、『こういうふうにやったら、割とうまくいった』という経験知を突き合わせて、『子どもによって好き嫌い、当たり外れがあるから』いくつもの教育方法を同時並行に走らせる・・・ということしかできない」(p.145)

民主主義の空洞化

世界的な潮流なのか、国内のどのような根拠によってなのか、私自身うかうかしている内に、今年2022年4月から民法が改正され、明治以来140年間続いてきた「成人年令20歳」が「18歳」に引き下げられることになった。

早くに「一人前」に扱われること自体は、当人にとっても「自由」に生きられるし悪い事ではないかもしれない。

しかし、民法改正に先だって改正された「公職選挙法」(2019年6月改正、2020年6月19日施行)の下で、18,19歳の投票の実態から、「政治的な無関心層」の多さが嘆かれたりしている。それも「むべなるかな」だろう。なぜなら、教員には、フィクションでしかない「政治的中立」を要請する教育現場で、生徒たち自身もまた現実の「政治」に対峙する機会も、その難しさを学ぶ術も用意されてはいないからである。

内田樹は、18、19歳にのみ限られた話としてでなく、現在の日本の大人たち総体が、結果として「政治」にも「民主主義」にも疎くなり、「民主主義ってまどろっこしい」「ズバリ、権力的にまとめるべきだ!」となってしまいがちな風潮を、次のように批判する。

「民主主義が非効率な制度であることが暴露されたからではなく、市民たちが合意形成を成功させるだけの成熟に達していないということなんです」(p.160)

「いまの日本で進行している民主主義の空洞化というのは、複数の異論をすり合わせるということ自体ができなくなっている日本人の幼児化の帰結です」(p.161)

「合意形成するためには技術と器量が要ります。民主制というのは主権者を成熟させるための制度なんです」(p.162)

「成長を促すのは全能感ではなく、不全感だからです。自分にはできないことがある、それができるようになりたいという不全感が子どもたちの『学び』を起動させる」(p.165)

「教育=学び」の場をつくる?!   「家塾」「寺子屋」は参考になるか?

明治から150年の歴史をもつ「公教育=国民教育制度」の内容を変える?!

それは並大抵のことでは変わらないかもしれない。しかし、今の「学校」ゆえに、学校に通えなくなり、働くこともできず、終いには外にも出られず、他の人とも、家族とも顔を合わさず・・・いわゆる「ひきこもり」と呼ばれる人々も増えている。それは、やはり心痛む社会的な事象である。不登校が引き金になった人も少なくないだろう。

そのためには、「教育=学び」とは何か?を、じっくり考え直し、いきなり公教育そのものに風穴を開けることはできなくとも、あちらこちらで、小さくてもいい、多様な「教育=学び」の場を、創っていくことはできないのだろうか。

日本では、欧米に見られる「自主的な私的学校」(いわゆる「私立学校」)の伝統も定着も見られなかった。日本で「私立学校」といえば、大方は偉人・有名人が創立した「お金持ちの家の子どもたち」が通う「私立学校」である。そして、それは、公立学校以上に、教育競争を勝ち抜いていける名門学校である(もちろん、そうではない私学もある)。

それとは別に、内田樹も言うように、「他人がどう言おうと、私にはどうしても教えたいことがあるという人が学校を建てた。本来、学校とはそういうものだと思います」(p.106)・・・今風に言えば、斎藤幸平『人新世の「資本論」』いうところの「コモン」や、少し前での「アソシエーションassociation」のあり様にも関わるかもしれない。もっと分かりやすい例を上げれば、江戸時代の家塾(内田樹の「学塾」!)や寺子屋のイメージであろう。

私的でもありかつ公的でもある「市民」(個人でもチームでも)が、目の前の子どもたちのために「教育=学び」の場をつくる・・・その場自体も、「私的でありつつ公的である」。したがって「公的財政保障」も当然である。そのような多くの「人と人とが基本的に対面で関わる」試みが、「教育=学び」の場の主流になっていく・・・ただここまで行くと、これはやはり「希望の先走り!」と嘲笑されるだろうか。 

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

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