[追加発信―声明]

姑息極まる菅政権を糾弾する

日本学術会議会員任命拒否の根本問題

2020年10月21日 現代の理論編集委員会

発足早々、菅政権はその本性を垣間見せる事件を引き起こした。日本学術会議会員の選任にあたって、学術会議が推薦した会員候補のうち、六名について政府は選任を拒否したのである。これは、学術会議会員の選任について、歴代の内閣が踏襲してきた内閣総理大臣の任命権は形式的なものであり、学術会議からの推薦名簿にしたがって任命手続きをとるという慣例に重大な変更を加える行為であった。

日本学術会議は、この行為に対して当然抗議し、排除された六名の任命を要請した。また、野党も政府の法律解釈の変更であり、憲法23条が規定する学問の自由を侵す危険性もあり、変更の根拠を明確に示せと要求した。これに対して菅政権は、「任命拒否は、ただちに学問の自由を侵すことにはならない」、「総合的・俯瞰的観点からの決定である」、「内閣総理大臣の任命権の範囲内の行為であって解釈は変更していない」、「排除した個別の理由は明らかにできない」などと、意味不明の返答を繰り返し、挙句の果てには菅総理大臣が、「六名を含んだ名簿を見ていない」とすら言い出した。小賢しい官僚的答弁の域を超えて、姑息極まる対応というしかない。

こんな姑息な言い訳を繰り返しても、任命拒否が政府に批判的な立場をとった研究者を排除するという政治的意図をかえって鮮明に示すことにしかならないだろうが、そこには学問の自由を侵すことに対する後ろめたさが、まだ残っているとみてよいかもしれなかった。しかし、菅政権・自民党および一部右翼論壇は、論点ずらし、居直りによって、さらに問題の本質の隠蔽を図り始めた。いわく、「学術会議の在り方には以前から問題があったから、この際検討する」、「総理大臣の任命権が法的に認められている以上、総理大臣が任命の正否を判断することに問題はない」、「予算を付けているからには、一定の規制が加わるし、予算の執行権者の総理が監督権限を持つ」等々。

機械的文理解釈によって制度を運用しようとする形式主義、金を出しているから言うことを聞けという金権主義、いちいち反論する気力さえ無くすほど低水準なすり替え論理にはあきれるばかりだが、何が根本的問題なのかだけははっきりさせておこう。こうした言い訳やすり替えに終始する政権擁護の論者たちに共通しているのは、学問の自由について根本的に理解し、それを守ることの意味について真剣に考えようとする姿勢がまったくみられないことである。政治権力が学問の自由を踏みにじった結果がどういうものであったかは、第二次世界大戦という人類史上最悪の歴史が示しているにもかかわらず、まるで憲法に規定してあるので仕方なしに尊重しているように見せかけているだけである。

学問の自由は、学問を担う研究者個々人とその組織の自治があってこそ守られ、実現されるものである。憲法の規定は、その原則の上に立つことによって生かされる。今回の学術会議会員選任に対する政権の対応は、この原則に対する重大な挑戦である。

現在、大学を中心とする学問・研究機関は、補助金・研究費の削減、資金問題による組織運営への外部から介入の危険にさらされてきた。たとえば、防衛庁予算による軍事研究の推進は政治による学問研究への介入の典型である。しかし、それは研究資金の操作という間接的な方法によるものであった。今回の政権の任命拒否は、直接的に学術研究世界の自治の破壊を狙った人事介入にほかならない。今回の六名の政府に批判的研究者の排除は、まさに政治と学問の自由との関係に重大な変化をもたらすという点こそ最大の問題なのである。

人類の福祉と普遍的真理の探究を目的とする学問と、民族や国家のような限定された集団の個別利益の増大を目指す政治の間には常に緊張関係が存在してきた。政治権力による学問の道具化の危険は依然として大きいのが現実である。富、名誉、名声、権威、地位など操作し得る価値およびそれを操作する手段・方法については、圧倒的に政治権力の側が有利な立場にある。だからこそ、学問の自由を憲法上の権利として規定することの意味があるのである。その規定をないがしろにする行為は、権力の暴走を抑止する手段を失わせるのだということを銘記しなければならない。

事の歴史的重大性に鑑み、異例ではあるが現代の理論編集委員会として声明を発し、読者諸賢に訴えるものです。

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