特集●コロナに暴かれる人間の愚かさ

問われる自由民主主義とセキュリティ

新型コロナ禍に直面して、グローバルな世界、国家、社会はどう立ち
向かうのか

法政大学教授  杉田 敦

鼎談      名古屋大教授 田村 哲樹

司会 本誌代表編集委員 住沢 博紀

1.2020年1月は、21世紀自由民主主義の転機となるか

住沢 『現代の理論』では、自由民主主義諸国におけるポピュリズム政党の台頭や、中国・ロシアなど、冷戦時代とは異なる新しい権威主義的政府の登場に注目してきました。そこで欧州社民政党や日本の政治改革の流れなど、「進歩主義」を掲げる政治の限界と課題をテーマとして、政治学者との対話という形で議論してきました。

2020年1月、中国の武漢から始まる新型コロナウイルスの世界的な流行(パンデミック)は、多くの国々をロックダウンの連鎖に追い込み、大きな経済的・政治的危機を生み出しています。

杉田さんは「権力論」、田村さんは「民主主義論」について研究されており、また、『デモクラシーとセキュリティ:グローバル化時代の政治を問い直す』(法律文化社 2018.6)の共同執筆者でもあります。グローバル化はもちろんキーワードですが、今回のパンデミックでは、それぞれの国家や政府の対応に大きな違いがあり、自由民主主義体制(レジーム)のもとでの人々のセキュリティをめぐり、将来への大きな課題を突き付けています。

コロナ・パンデミックに関しては、専門家、内外の思想家、それに雑誌やメディアでの特集など、すでにいろいろ論じられていますが、21世紀に入ってからの「自由民主主義の危機と変容」に関連付けて、体系的に論じているものはありません。それで先ず、2020年1月が、これまでの政治学での議論の枠組みや課題そのものを変える大きな転機になるのかどうか、という事から。

杉田 自由民主主義体制ということを論じる場合に、経済とどの程度リンクさせて考えるかということ、つまり民主主義と資本主義の関係ですが、それが先ず気になっています。国境線が閉ざされ、人やモノの流れが滞るなど、こういうことが市場経済のありかたを大きく変えることは間違いない。経済とは、基本的にはモノを媒介とした、あるいは貨幣を媒介とした人と人との関係のありかたに他ならないですから。その関係が変化すると当然政治的関係も変化せざるを得なくなります。

そのように中・長期的にはインパクトはあると思いますが、人権とか、熟議とかを基盤とする自由民主主義の枠組み自体が、これを契機に不可逆的に大きく変わるとは思われません。

今回のパンデミックが最初に意識された時期には、中国のような強権的な対応が自由民主主義諸国でも迫られるのではという印象がありましたが、その後の欧米諸国への感染の拡大で、中国ほど強権的な手法でなくても対応可能ではないかということになってはいます。そのため、今回のパンデミックが極度に強権的な制度を生み出し、その意味での体制変革まで及ぼすという根拠はないのではと私は考えています。

住沢 次に田村さんに、今回のパンデミックが21世紀の民主主議論の転機になるのかどうかという質問です。

田村 私は、今回のパンデミックを詳細に追っていたとはいえません。そのため私の話は印象に基づく話になるということを、最初にお断りしておきます。

その上で、自由民主主義の転機かどうかについてです。近年自由民主主義の意義・意味は大きく問われていますが、それは今回のパンデミック以前からです。その起点の特定は難しいですが、少なくとも21世紀に入ってから、自由民主主義の自明性を問い直すような、実態と研究の両方が出てきていると私は思っています。

確かに東西冷戦の終結後、「自由民主主義の勝利」が言われ、民主主義についての思想的研究も、自由民主主義のオルタナティブではなく、その徹底化を唱えるようになりました。しかし、「自由民主主義の勝利」の期間は、長くは続かなかったのではないでしょうか。例えば1997年にファリード・ザカリアが用いた「非自由主義的民主主義(illiberal democracy)」という言葉は、近年の政治を理解する重要なキーワードの一つとなっているように思われます。

また、この非自由主義的民主主義とも関連して、ある種のポピュリズムが典型的な「自由民主主義の敵」として挙げられることがありますが、それはコロナ以前からです。その他にも、西洋におけるイスラームを典型とする宗教の問題も、自由民主主義の自明性を問い直していると言えます。そういうわけで、今回のコロナ・パンデミックによって自由民主主義が問われている、ということではないと思います。

なお、「自由民主主義」について考える場合は、その多義性を理解する必要があります。日本政治学会の『年報政治学』(2019-II号)に投稿した論文「『自由民主主義を越えて』の多様性」で私は、「自由民主主義」には、「自由」の意味の違いに対応して、少なくとも4つの意味があることを論じました。つまり、(1)資本主義経済と結びついた「資本主義的民主主義」(2)複数政党による選挙での競争的な政党システムと結びついた民主主義、(3)私的領域と公的領域を区別し、政治を公的領域に限定する「公私二元論」に基づく民主主義、(4)人権保障のための立憲主義的な制度をもつデモクラシー、という4つに分類しました。

そして、この4つの意味での「自由民主主義」のそれぞれの批判的検討が、2020年1月以前から政治学では(十分かどうかはともかくとして)行われてきました。この点から見れば、今回のパンデミックが自由民主主義の転機だとは思えません。ただし、あとで述べますが、今回のパンデミックに際して、国家という枠組みと政治・民主主義との関係の再検討が進むということはあるかもしれません。

住沢 そうしますと、リーマンショック時のGMへの国家支援が典型的でしたが、アメリカですら市場経済や資本主義と国家の関係が変容したわけですから、自由民主主義の変容や変質は、21世紀初頭から継続しており、今回のコロナ・パンデミックはそれらを先鋭化させたかもしれないが、質的に新しい課題や問題を生み出したのではないと、お二人の議論をまとめてもいいでしょうか。

杉田 田村さんのご指摘との関係で、近年における自由民主主義の変質の一つの兆候として、事実を否定し、フェイクなことをいってそれを押し通すというポピュリズムの政治手法があります。コロナウイルスについても、トランプ支持者のように、コロナ禍自体がフェイクだという人々もなおも一部にいます。

その意味ではポピュリズムが強まっています。しかし、今回は相手は人ではなくウイルスなので、騙すことも黙らせることもできませんから、やがては化けの皮がはがれて、ポピュリズムの手法も破綻するのではないかと思っています。大きな犠牲が伴いますが。日本でも安倍政権のもと官僚とかメディアを黙らせるなど、あったことをなかったことにするポピュリズムの政治が行われてきましたが、これはウイルスには通用しません。

住沢 そうしますと、これまで自由民主主義VSポピュリズムという構図でデモクラシーの変容を議論してきたのですが、ここにきてポピュリズムの限界が露呈するという事になります。政権の座にあるポピュリスト政治家、トランプやブラジル大統領のボルソナーロなどですが、事実やエビデンスに基づかない政治が、世界1位、2位の感染者と死者の増加という事実に復讐されるという事態になっています。またヨーロッパ諸国のように、野党の座にあるポピュリスト政党も、政府批判はできてもコロナ・パンデミックに対する対案をほとんど提起できないということで、支持率を減少させています。

田村 私には、各国のポピュリスト政党の支持率の増減について、きちんとコメントできる準備がありません。そのことを前提として申し上げますと、ポピュリズム政党・政治家への支持という流れには、社会の分断が関わっている気がします。つまり、必ずしも何か特定の政策が有効だから支持する、あるいは政策がよくないから支持しない、という話ではないと思います。むしろ、たとえ政策パフォーマンスが「悪く」ても、それなりの支持を維持する、ということがあるのではないでしょうか。

杉田 たしかに、選挙というものについて、政党のパフォーマンスや政策の評価にもとづいて投票が行われ、したがって勝った政党は政策や業績がよかったからだという建前、これはかつては信じられていましたが、そうした業績と選挙結果とのリンクが近年、ほとんど切れている感じです。政策的に失敗してもただちにそれが政権への低評価には結びつかないということになっているかもしれません。トランプのコロナ政策は現にアメリカで多くの死者を出し惨憺たるものですが、だからといって彼が秋の大統領選挙で負けるかどうかは、専門家の間でも意見が分かれています。

そうだとすれば、私が先ほどいったような、ポピュリズムはコロナウイルスの事実の前に復讐されるという事も、確実ではなくなります。体制選択にしろ、政治的な政策選択にしろ、まともな業績評価の領域ではなく、感情の領域で決まるようになっているとするならどうしようもありません。今回のコロナ危機で、ポピュリズム政治が転機を迎えるのか、それともそうではないのか、どっちに転ぶのかまだわからない状況なのかもしれません。

2.国家の再登場とパンデミックへの対応の多様性

住沢 欧米・日本などの自由民主主義国家にしろ、中国などの権威主義的国家にしろ、今回のコロナ・パンデミックは政治学に対して新しい課題を提起していると思います。人々と権力のありかたが問われ、また国家による監視・制御の技術的前提が、個人の位置情報やビッグデータの活用など、これまでの枠組みとは大きく変化していると思われるからです。

今、仮に次のように分類してみました。(1)ハードな監視・管理国家(中国)、(2)ソフトな管理国家(韓国・台湾など東アジア)、(3)欧州型憲法体制のもとでの強制を伴う危機対応、(4)自粛要請という日本モデル、(5)単純放置型(アメリカ、ブラジルなど)、(6)集団免疫への放置型(初期ジョンソン政権、スウェーデン)です。

とりわけ杉田さんが「強権的」といわれた(1)の中国と、(3)、(4)の自由民主主義諸国での国家による規制のありかたについて、比較する形でお願いします。

杉田 いま示された整理でもわかるように、自由民主主義国と言われている諸国の中でも、権力の使い方というか、どこまで規制するかは様々です。つまり、ある国は非常に強く規制し、ほかの国はさほどでもない、という差があります。そういう意味でも、先ほどから議論している自由民主主義体制とか権威主義的体制とか、体制(レジーム)という概念は使いにくくなっているという印象を持ちます。

レジームとはかなり固定的な概念であり、ある体制ではある種の権力の行使の仕方がされる、という話なわけですが、今回のコロナ対策を見ていると、自由民主主義とされる西欧の一部の諸国でも、罰則を伴う外出規制など、かなり強権的なことが実行されているわけです。

人権を大事にしてきたフランスですらそうですから、今回のコロナ対策で豹変したわけです。これが一時的なものなのか、それとも自由民主主義も変容してゆくのかわかりませんが、体制(レジーム)という用語で議論するよりも、それぞれの国家が、強権政治からリベラルまでの濃淡のある連続性を持ち、状況に応じて対応していると思ったほうが適切ではないかと思います。

その上で権力について話しますと、なぜか引用している人が少ないですが、70年代にミシェル・フーコーが感染症と権力との関係について、かなり議論を展開していました。例えば77年の講義録(「安全・領土・人口」)では、3つに分類しています。ハンセン病のように感染力が弱いものについては個人を隔離する「法的」な権力が行使される。これに対して中世のペストのような感染力の強いものは、街を封鎖する「規律」的な権力が行使される。いわゆる検疫をやる。

そしてウイルスになると、感染者が見つかった時にはすでに周囲に感染が広がっているので、ワクチンができるまでは基本的に対処法がない。そこで、死亡率などの数字を見ながら、社会全体の数字が悪くならないように管理するしかない、ということ。ところが今、コロナ対策については、この2番目の検疫的な規律権力が、世界中で程度の差こそあれ用いられているわけです。ワクチンがないので、苦し紛れに、実効性には限界があるものの、中世のペスト対策のようなことをせざるをえなくなっています。

この規律権力の特徴を二つだけ挙げるとすれは、第一は、人々を分断することです。隔離される人と隔離されない人(陽性と陰性、「汚染地域」と「非汚染地域」、「危険な業種」と「危険でない業種」など)に分断することにより管理するわけです。もう一つは規律権力というものはまずは下から、人々の間から湧き上がってくるものです。現在でいえば、東京から来ないでねとか、東京ナンバーを拒否するとか、自粛警察とか、感染へのリスクを少なくしようと、一般の人々が安全を求めて権力を生み出して行きます。国家はこれを創出するというよりも、追認することになります。

しかし今回のコロナウイルスのように、感染の自覚症状がない状態で感染させる可能性があるような場合には、なかなか有効な対処方法はないわけで、スウェーデンのような集団免疫路線はそこから出てきます。皮肉なことには、トランプなどの放置型の、ネオリベラルのコロナ対策と、社会民主主義のスウェーデンが「放置」という結果においては同様ということになるわけです。

ただ、集団免疫獲得路線には膨大な犠牲も伴うので、多くの国では、ペスト対策的な検疫の規律権力を行使しているわけですが、ある程度の感染や重篤者を抑えることができても、ワクチンができるまでは何度も再発が起こるわけで、規律権力の手法が適切かどうかも実は分からないわけです。対策の「正解」を世界中のどの「専門家」も見つけていません。治療薬もまだです。失敗する可能性はかなりあり、それで科学者と政治家が責任を押し付けあっている状況になっています。

住沢 政治体制に関係なく検疫的な規律権力モデルは、社会的な分断を呼び起こすといわれますが、それでも、中国型のハードな監視・管理国家と、韓国型のソフトな管理国家はでは、人々の生活や市民社会の自由度に大きな違いがあると思うのですが。

杉田 同じ強権的な分断でも、中国と自由民主主義社会の程度の差が、人権に関して基本的な違いになるのではないか、という事は確かにあると思いますが、もう一つの大きな問題として、いわば自発的な服従というか、そういうものが広がっていることをどう評価するか、という点があります。

日本では、「自粛要請」が基本とされ、先ほども述べたように、下からの監視みたいなものが非常に強くなっています。学生たちも実家に帰省できない、帰れば迫害されるのではないかなどと心配し、実際に東京から帰って陽性になった学生が厳しく非難されるなど、かなり集団ヒステリーに近い状態になっています。政府が必ずしも強権的でないことによって、社会的な権力がいわば強権的になっている。これをどうとらえるべきかです。

住沢 この議論の前提として、ヨーロッパ型の強制を伴うコロナ対策、地域のロックダウンや外出制限などですが、こうした内容の私権の制限も含めて、これも立憲主義に入るといえますか。お二人に先ず確認したいと思います。

田村 立憲主義の枠内かどうかという以前の話で恐縮ですが、私は欧州のかなり厳格に見える「ロックダウン」の措置がなぜ通ってしまうのか、なぜ強い異議が出ないのかということを、少々不思議に思っています。

杉田 例えば、イギリスでは以前から数多くの監視カメラが街頭に設置され、面積当たりの台数では中国より多いといわれています。これに対してほとんど反対の声が出ていません。だから中国が監視国家で西ヨーロッパは異なると単純には言えないかもしれません。

もっともイギリスあたりで反対の声が出ないのは、政府が監視映像を政治弾圧などに使うことはなく、犯罪目的に限定されるという人々の政府への信頼感があるからかもしれず、問題は複雑です。いずれにしても、国民への監視は、かつてのように、強権的な国だから監視があり、自由民主主主義諸国では監視はないという整理の仕方は難しいです。

3.立憲主義と非常事態宣言

住沢 次の整理ですが。つまり監視カメラの設置や、デジタル通信によるビッグデータや国民の多くの個人データなどを政府が管理しようと思えば可能ですが、立憲主義に立つ諸国の場合には、制度設計の観点からも、違法な利用やプライバシー侵害など具体的な事例に対しても異議申し立てをすることができ、司法による救済も可能です。中国ではおそらくそれらは難しいと思います。

杉田 確かにイギリスあたりで、そうした監視によって政治活動が弾圧されることはあまりありそうではないし、その点では中国やロシアとは違うといえます。他方で日本では、マイナンバーカードがまったく普及せず、今回も自粛警察は出現しても、接触アプリは普及しないとか、個人情報が政府に利用されるのではないかという不信感があります。ここがヨーロッパとは異なります。政府による管理は嫌がるが、社会的管理は許容するという事なのでしょうかね。

田村 杉田さんの見解を興味深くお聞きしました。ヨーロッパでは国家なり政府への一定の信頼があるから、一見したところではかなり強い規制や政策的介入を市民が許容する、というになりますでしょうか。

杉田 立憲主義というか法治国家の原則という観点からは、今回の政府のコロナ対応政策には多くの問題があり、法的根拠のない3月の学校の全国一斉休校とか、法的根拠を明示せずに営業自粛を要請するとか、あるいは専門家会議メンバーの発言に委ねて政治が責任を取らないとか、いろいろなことがメディアで指摘されています。

ただ、難しい点は、もちろん法的な整備をした上でコロナ対策を実行したほうがいいことは決まっていますが、最初から政治家が前面に出てきていたほうが良い結果を得られたのかというと、必ずしもそうとは限らないというところです。専門家を無視して政治が暴走すればもっとまずいことになります。専門家の意見をきちんとふまえた上で、国民に対して何かをお願いする際には、政治家が責任をもって出てくる、ということが必要です。

住沢 日本では問題は少しねじれていて、憲法に非常事態法を導入することには反対する野党は、他方でコロナへの特措法の拡大措置など、国会での審議を条件に、立法による営業などの私権を制限する強制的な政府の介入を求めています。他方で、非常事態法による私権制限を憲法に織り込みたい安倍政権は、現行の拡大特措法の枠内では、そうした私権制限には消極的です。立憲主義の立場からは、特措法のような法律に、必要とされる私権制限を盛り込んでも違憲ではないのですか。

杉田 今回のインフルエンザ特措法を改定して作った新型コロナ特措法も、災害対策基本法と比べてもまだ私権制限の規制はゆるいですし、多くの憲法学者の解釈では、もう少し強い規制を入れても違憲ではないということになっています。確かに、護憲派のほうが、こと感染症対策に関しては私権制限や強制力を伴う措置を要求しがちであり、ねじれがあるのは事実です。ただ、そこで何が対立軸になっているのかというと、感染対策の規制を緩和して経済を回したい人々と、生命の安全という意味での感染症対策を第一に掲げる人々の間の対立です。

この問題は、トランプなど、ネオリベラルな政治との関係でも浮上します。彼らは経済を優先するために規制緩和を主張し、コロナ禍のもとでもそれを意図的に過小評価し、規制を避け個人や市場の自由を唱えます。しかし彼らは他方で、移民問題など特定の分野では政府による規制を非常に強権的に行います。現在の安倍政権のちぐはぐな政策対応も、トランプなどのネオリベラルな政治と共通点があるように思います。

田村 杉田さんが最後におっしゃったことに関して言うと、新保守主義・新自由主義の政治は1980年代の当初から、自由な市場と強い国家を掲げており、その都度、市場経済を優先する規制緩和と、国家の強権的な政策を使い分けてきました。つまり、ある種の「ちぐはぐさ」は、あり得ることだと思います。

また、民主主義論の視点からすると、今回のコロナ・パンデミックに際して、経済を回すことを優先するか、感染対策と生命の安全を優先するか、あるいは両者の何らかのバランスを追求するのかは、やや極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、二義的な問題ということになります。民主主義論の視点からは、どの政策選択が内容的に正しいかよりも、政策決定に至る民主的手続きの正統性があるかどうか、政府が説明責任を果たしているか、人々を納得させるに十分な手続きを踏んでいるかなどの方が重要です。

杉田 私も田村さんのご主張に、半分くらい同意します。しかし冒頭で述べたように、今回のコロナ禍に関しては、通常の政治的な争点とは違う側面があるようにも思います。それは、政策が間違っていたかどうか、すぐにわかるかもしれない、という点です。憲法改正の是非については、それぞれの陣営の論点があり、また改正したからといって、すぐにどうこうなるわけではないもしれません。税金をめぐってもこれも賛否があり、決定の是非はすぐには明確には示されない可能性があります。

しかし例えば、今問題となっているGo Toトラベルのような政策は、それが感染を拡大させたか、それとも経済を回す成果の方が大きかったか、ある程度、判断できるような結果が短期間で示される可能性があります。この点で、これまでの政策決定とは異なる構造を持っています。これがこれまでの政治にどのようなインパクトを与えるか、まだわからないところがありますが。

住沢 田村さんに一つの質問です。例えば、今回のコロナ・パンデミックに際して、各国政府は史上例のないような規模の、国債による財政支出を行っています。2008年のリーマンショック以来、異次元の金融緩和や赤字国債が世界的に常態化しました。デフォルトはおこらないという事にして、巨額の財政出動も自分たちが負担することなく、すべて将来に先送りしています。

すると現在の世代がデモクラシーにより正当性を付与するとしても、未来世代への責任はどのように担保されますか。これは気候変動による地球温暖化で、高校生グレタ・トゥ―ベンさんが「大人世代への批判」として「未来のための金曜日」行動で訴えたことでもありますが。

田村 仮想的に将来世代の人を加えた議論の場をつくるというアプローチはあります。日本でも西條辰義先生などによって、「フューチャー・デザイン」というプロジェクトも行われていますし(西條編著『フューチャー・デザイン』勁草書房、2015年)、海外でも将来世代の立場をどのように民主主義のプロセスに反映させるべきかという研究はあります。

例えば財政赤字の問題では、将来世代も仮想的に交えて民主主義的な手続きのもとで議論をして、財政赤字に反対という結論が出るならば緊縮財政を採択し、財政赤字は問題ではないという結論になるならばこのまま継続する、ということになるかと思います。

4.ガバナンス問題:国と県、地方自治体、社会の役割

住沢 次に、今回のパンデミックと政府・自治体のガバナンスという論点に進みます。集権国家の日本で今回は珍しく、東京都や大阪府だけではなく、各地の知事や市長たちの間でも、政府の方針に対して批判的なコメントや独自の施策を発表する自治体が相次ぎました。これをどのように評価しますか。

杉田 感染症に対処する保健所の制度が、日本では珍しい分権的な制度になっており、都道府県知事にかなりの権限が与えられています。アメリカの占領政策に加えて、おそらく感染症は風土的というか、地域に限定されるものと想定され、今回のような全国、あるいは世界的な流行をあまり想定していなかったかもしれません。今回も感染は大都市が中心となっているので、それぞれの地域で異なる対応があっても当然であり、その意味ではある程度合理的な制度になっているともいえます。

ただ、例えばアメリカに目を向けると、連邦政府と州知事、場合によっては同じ州内でも市長によって、例えばマスクをつけることを義務化するかどうかで異なる規制や見解を発信し、むしろ混乱を招いています。ブラジルでも似たような状況が生まれています。ということで、分権的がいいのか集権的がいいのか、いちがいに言えないのかもしれません。

日本ではこれまでのところ、分権的なシステムがうまく機能したようにも見えますが、まだ断定はできません。大阪が典型的ですが、橋下さんの維新の会のもと、ネオリベ的な経費削減の観点から保健所や病院が整理統合され、それが今回のウイルス禍で多くの問題を生んでいます。

他の地域も似たようなもので病院の減少がみられますから、下手をすると、大きな感染症が起きたとき、東京都など豊かな自治体は対応できるが、自前ではできない自治体が出てきて、その場合に、それぞれの都道府県で対応するとなると大変な問題が生じます。ですから今までのところ分権的なシステムがうまく機能しているように見えますが、場合によってはナショナルな制度の方がいいという事もあるかもしれません。

田村 確かに住沢さんが提起するように、自治体側の地元事情に応じた対応が注目され、いくつかの自治体の首長の評価につながったという側面はあるとは思います。しかし、もしも国家と自治体の2層構造のガバナンスの問題として感染症対策が議論されるとすれば、欠けている部分があると思います。

かつてドイツの社会学者U.ベックは、「リスク社会」としての現代社会における「サブ政治」の重要性に注目しました(ベック(東・伊藤訳)『危険社会』法政大学出版局、1998年)。ベックの議論を援用すれば、ガバナンスの問題は政府と自治体だけではなく、地域社会や家族、さらには大学でも起きていると考えられます。

今回の感染症では、国家や政府など大きな政治ユニットのありかたが問われています。しかし、感染症対応をめぐる意思決定が、家族や企業や大学など、より多様なところで行われなければ、本当の意味での解決につながらないのではないでしょうか。いいかえれば、ガバナンスの問題を考える時には、国家や自治体などの公式の政治ユニットだけではなく、人々の日常生活や仕事や学習の場でこうした議論を行わなければならないということが、明確になってきているのではないかと考えています。政治学は国家・政府に政治を見てきましたが、むしろ「社会の中に政治」はあるという形での視点転換が求められていると思います。

住沢 そうすると前に杉田さんが国家的規制と社会的規制の話をしました。今田村さんが公式の政治圏だけではなく、社会というか私的圏での議論こそ問われているといわれました。確かにイタリアでは、医療崩壊がおこり政府も連立政権が成立するかしないかという中で、ともかく持ちこたえました。国民医療サービスのあるイギリスよりも死者の数は少なかった。ミラノ周辺の北イタリアが感染の中心地という事もあったけれども、市民社会の強さを示しました。しかし日本の現実にある社会的規制のモデルは、望ましいものでしょうか。

田村 杉田さんがいわれたように、日本の社会的規制で目立っているのは、監視権力のような形での相互監視や自主規制、例えば隣県からの車の監視であったり、SNSでの拡散であったりします。だからこそ、こうした監視権力を、どのようにして社会が自らのルールを自ら作るという意味での「権力」――これは民主主義における権力の意味です――に変えていけるのか、ということが問われているのだと思います。

例えば今大学では、キャンパス閉鎖・授業の形態をめぐって、学生からいろいろな意見や要望が、SNSなどのツール経由も含めて出されています。そうであれば、例えばキャンパス利用に関する大学の意思決定のプロセスにおいても、学生がもっと参画できるルール作りなどが課題となるのではないでしょうか。

杉田 今回、私たちの共通の敵はウイルスであり、それと最前線で戦っている医療従事者への敬意が必要です。ところがしばしば、医療従事者に対する差別や分断が報道されており、非常にゆゆしい問題です。もっとも、日本ではいま議論されたような市民社会がないのかというと決してそうではなく、例えば大震災の場合など、互いに助け合い、被災地に盗難なども少なく、社会的な連帯がある程度実現していました。

今回、そうした連帯ができていないのは、誰がウイルスに感染しているかわからないという不安に人々が駆られ、相互不信がみなぎっているからでしょう。東日本大震災の折りも福島原発事故の被災者に対してはそうした差別が一部にみられました。人間はウイルスや放射能のような目に見えないものに本能的に不安を感じるものかもしれません。そうした不安に抗して連帯するには、別の物語(ナラティブ)が必要です。医療従事者は偉い、インフラ供給者は偉い、無条件で支えなければならない、という物語が。

ただ、政治家が説教すればよいというわけでもありません。ドイツのメルケル首相はかなり適切に、コロナ危機に際してすべての人々との連帯を市民に訴えました。それはそれで大事ですが、本来であれば、社会の中から湧き上がってくるような形が望ましいです

5.セキュリティをめぐる国家の新しい課題

住沢 自由民主主義とセキュリティというテーマでコロナ・パンデミックを語っていただいたわけですが、最後に残された、しかし重要ないくつかの問題について、簡単なコメントをいただきたいと思います。

第1に、10万円の個人給付金や、事業者と休業を余儀なくされた人々の生活を支援するための助成金や給付金など、単なる量的な拡充ではなく、制度設計はありませんが事業や生活保障まで踏み込みました。さらに補正予算では予備費を10兆円にするなど、あまりに巨額すぎて全貌が見えません。国家の機能と正統性を維持するために、どこまで国民の生活を保障し、またどこまでそれが可能なのでしょうか。

第2に、グローバル化や東京など大都市への一極集中のリスクが明らかになりました。現在多くの国では国境を遮断しています。国家の境界線(国境)によるセキュリティの保障という手法が復活した形ですが、EUでは域内での開放を再開しました。これへの対応は中期的にはどうなるでしょうか。

第3に今回のコロナ危機は、社会の転換への新しいチャンスと見るのか、それとも悲観的な将来像を反映しているのか、とりわけ「衰退国家・日本」の問題としてどうでしょうか。

全部を論じることは無理なので、いくつかの論点を指摘していたければと思います。

田村 20世紀に社会保障が発展してきた当初は、資本家、労働者階級、農民、自営業者といった、それなりにまとまった規模の社会階級・集団があり、社会保障はそうした集団を想定して発展してきた側面があります。しかし現在では、例えばシングルペアレント家族の問題や高齢者単身世帯と介護の問題など、社会保障による対応を必要とする問題が、より多様化・個別化しています。

育児の問題でさえ、「育児中の家庭」という、社会全体から見れば「一部の人々」の問題となりかねません。つまり、社会保障の問題が、どの側面から見ても「一部の(困っている)人々の問題」として受け止められる可能性があります。このような状況のもとで、社会保障をめぐる社会全体としての合意が得られにくくなっているのではと思います。

コロナ対策について言えば、住沢さんがご指摘のように、特定の人々への支援が弱いという指摘が出ると、それではということで、(ある程度は)対応するかもしれません。ただし、その結果として社会保障の対象が個別化していくと、こうした個別的な支援事業と、社会的な連帯という理念との緊張関係が生じる可能性もあると思います。

杉田 今回、一人あたり10万円の給付金に加え、さまざまな事業者・労働者に対する支援・給付金、それに東京都など自治体の特別定額給付金などによって、政府も自治体も、すでにほぼ財政的な限界に達してしまっています。政府の財政力というのはその程度なのか、というのが私の実感ですし、多くの人々も感じていることと思います。国民のかなりの部分がリスクにさらされているときに、長期に渡って生活のセキュリティを保障する力は実は政府にはないということが明らかになってしまいました。

様々な禁止事項を掲げる規制権力は、いくらでも政府は行使できます。お金がかかりませんから。しかし、パンデミックに際して病院などの医療体制を維持したり、人々の仕事や生活を保障したりする力は、つまり費用が掛かる対策に関しては政府に限界がある。となると、これからこの感染症に対して、あるいはもっとひどい感染症が流行することもありうるわけですが、政府が何も生活を保障できないということになった時に、国民はどう思うか。これが大きな問題です。

かつてユルゲン・ハバーマスらは、福祉国家を国家が維持できなくなった時に、人々が政治を見放すようになり、一種の「正統性の危機」が生じるとしたわけですが、同じことは感染症や災害などのリスクについても言えるように私は思います。田村さんは民主主義論の視点からどう考えますか。

田村 先ほどの政策パフォーマンスの話に戻るのですが、現在では政府は国民に対して税を徴収し、さまざまなサービスを提供しています。とりわけ今回のウイルス危機では、医療体制の拡充とか生活・事業支援の現金給付とか、物質的な支援が大きな役割を占めています。このような形でセキュリティを保証する政策が実施されるかどうかが、政府の正統性確保にとって鍵であることは確かでしょう。

ただし、同時に私は、政府の正統性を確保する方策として、政策的なパフォーマンスがすべてとも思いません。政府の正統性にとってのポイントの一つは、人々が納得することです。限られた資源のなかでも、人々が納得して合意できるような方法で政策を決定していくことができれば、直ちに政府の正統性が失われるわけではないと思います。

住沢 そうするとデモクラシーのもとでは、パンデミックが襲ってきても、必ずしもデストピア(反ユートピア)的な悲観的な未来像に至るわけではなく、人々が議論したり、合意したりする中で、社会として進むべき道を見出してゆくという事になりますか。ただ私が危惧するのは、1国的な解決が困難な中で日本の選択肢は、現状では非常に狭いという事です。

先ほど杉田さんが、EU諸国でも国境を閉鎖したといわれましたが、確かに感染症の最盛期にはすべての国境が閉鎖されましたが、今では「見切り発車」とでもいうべく、いくつかの国ではシェンゲン協定のレベルに戻っています。またこれまでは不可能と思われていた、92兆円におよぶEU復興基金の設立に成功しつつあります。コロナ危機がなければ不可能な制度と額であったと思います。まだわかりませんが、危機をチャンスに変える一つの事例ともいえます。

日本の場合、現在の危機をチャンスに変える契機が、国内でも、東アジアやTPP(環太平洋パートナーシップ協定)やRCEP(東アジア地域包括的経済連携)の枠組みでも、今のところは見当たらないことです。これまで「なかったことにされてきた」7年に及ぶ安倍政権の失敗の数々が、改めて問われる時が来ています。

すぎた・あつし

1959年生まれ。東京大学法学部卒。東大助手、新潟大助教授を経て、現在、法政大学法学部教授。専門は政治理論、政治思想史。日本政治学会会長(2010~2012年)。主な著書に、『政治的思考』(岩波新書、2013年)、『権力論』(岩波現代文庫、2015年)、『境界線の政治学 増補版』(岩波現代文庫、2015年)、杉田敦・田村哲樹他(編著)『デモクラシーとセキュリティ』(法律文化社、2018年)など。

たむら・てつき

1970年生まれ。名古屋大学大学院法学研究科博士後期課程修了。現在、名古屋大学大学院法学研究科教授。博士(法学)。専門分野は政治学・政治理論。主な著書に、『熟議の理由―民主主義の政治理論』(勁草書房、2008年)、『熟議民主主義の困難』(ナカニシヤ出版、2017年)、『日常生活と政治――国家中心的政治像の再検討』(編著、岩波書店、2019年)、『政治学〔アカデミックナビ〕』(共著、勁草書房、2020年)など。

すみざわ・ひろき

1948年生まれ。京都大学法学部卒業後、フランクフルト大学で博士号取得。日本女子大学教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。専攻は社会民主主義論、地域政党論、生活公共論。主な著作に『グローバル化と政治のイノベーション』(編著、ミネルヴァ書房、2003)、『組合―その力を地域社会の資源へ』(編著、イマジン出版 2013年)など。

特集・コロナに暴かれる人間の愚かさ

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