特集●コロナに暴かれる人間の愚かさ

五輪とナショナリズム――「国家間の競争」を排せよ

オリンピックの孕む問題点を考察する

帯広畜産大学名誉教授 杉田 聡

東京五輪を含む五輪がもつ問題点を論ずる。

五輪史を振り返れば、「五輪憲章」(この問題性については後述する)からはずれた、あるいはそれが明確に禁じた異常が、常態化してきた。

◎強められる国家間競争

◎国家的宣伝・国威発揚の場としての五輪大会の利用

◎勝敗・メダル獲得を至上とするエリートスポーツ観

◎不透明かつ常軌を逸する商業主義

◎米TV局の放送権料との関係で決まる真夏の開催・異常な時間帯の競技

◎五輪大会の巨大化

◎そのために開催国・開催都市に課される膨大な財政支出

◎その結果生ずるハード/ソフト面での負の遺産・市民生活への直接/間接のしわ寄せ、等

「国家間の競争」――あおられるナショナリズム

ここで私が何より問題にしたいのは、五輪によって国家間競争が強められてきたという事実である。

まず問われるのは、IOC委員による本国への五輪大会の誘致である。この際、国と国とのし烈な招致合戦がくり広げられる。その背後では巨大な金が動く。

だがより問題なのは、五輪大会で、国の威信をかけた代理戦争が公然と遂行されるという事実である。五輪憲章は、「オリンピック競技大会は……選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(第1章6)と宣言し、そればかりか、IOC・大会組織委員会は「国ごとの世界ランキングを作成してはならない」とさえ規定している(第5章57)。

なのに、現実に行われているのは国家の威信をかけた苛酷な競争であり、国ごとのメダル獲得合戦であり、メダリストについての大々的な報道(日本では目にあまる)である。メダル獲得は、TVでは番組冒頭の最重要ニュースとして扱われ、新聞では第1面を飾る(特に金メダルの場合)のがふつうである。

五輪憲章で制限されているのはIOC等による世界ランキングの作成である。だからメディアが自国のランキングを報じたとしても、五輪憲章違反ではない。だがこれが平然と行われている現実をIOC等が黙認している事実は、五輪憲章を反故にするに等しい。同国人のメダル獲得についての報道さえ、そうである。市民がこれに関心をもつのは致し方ないとしても、メディアがメダル獲得に大きな意味があるかのように(逆に事実上メダルを獲得できなければ価値がないかのように)報道する姿勢は、放置できない。

何より問題なのは、これによってナショナリズムがあおられるという事実である。

一般に同国人のメダル獲得者に親しみを感ずる人は多いだろう。時には、同じ国民(ネイション)として誇りに思うこともあるだろう。だがこの感情・意識――ナショナリズム――は、しばしば他国人に対する優越意識を、時に排外意識(ショーヴィニズム)を生む。こわいのは、社会的・経済的に優位な立場にある「先進国」国民のそれである。総じて先進国ほど選手の競技力強化に金をかけられる。実際多くのメダルを獲得するのは先進国である。だから特に先進国においてナショナリズムがあおられ、それは、「先進」との意識と共振して優越・排外意識を生む。

メダル獲得者と自己を媒介するのは、日本人の場合、日本という国家(ないしその下での日本人という集団)である。日本人の活躍・メダル獲得を通じて、観客は、会場で振られる「日の丸」を見、「ニッポン、ニッポン!」という声援の奔流に身をゆだねる。特に開催地が日本であれば、それは他を圧するほどの洪水となるだろう。そして表彰式では、厳粛な雰囲気をかもし出す「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱に接することになる。それらはしばしば、人を情緒的に支配するだろう。

このようにして、日本人があげた実績は日本国(日本人という集団)に結びつけられ、それはひいてはその一員たる自己に結びつけられる。それが、ナショナリズムが繁茂する土壌である。これに多数のメダル獲得が実際に伴えば、ナショナリズム(時に排外的なショーヴィニズム)という悪の華はまちがいなく咲く。

国家が集団認知の枠組みとして機能するのではないが、類似した例はいくらでもある。

しばしば「白人」は、自分は「黒人」や「黄色人」ではないと自認し、白人という観念上の集団に自らのアイデンティティを見出す。傑出した偉人(ミケランジェロであれ、ルソーであれ、ベートーヴェンであれ)は白人であり、白人こそが歴史を作ってきたと理解し、そして自分をその一人と見ることで、他人種を劣等視し排斥しようとする人種差別が生じるのである。

以上の「白人」を男性に、「黒人」「黄色人」を女性に置きかえると、性差別の構造が見えてくる。

五輪の問題も以上と同根である。メダル獲得は選手個人の実績にすぎないのに、その個人が属する国家(そこで意識される民族集団)の実績であるかのように錯覚し(五輪組織委員会もメディアもそれをあおる)、ひいては同国人として、メダルをろくにとれない他国人に対する優越感・侮蔑意識をもつ危険性が大きい。

そうした回路を、なるほど五輪憲章は否定する。だがその回路は、「国家間の競技」を当然視しメダル獲得に絶対的な価値を置くことで、五輪大会ごとにくりかえし息を吹き返す。この事実は、それだけで五輪に反対する大きな理由となる。

大事件を隠す五輪報道

以上には、五輪自体と同時に五輪報道が小さくない関わりをもっていた。だが後者はもう一つの大きな問題をかかえる。以上を通じて他の出来事を過小評価し、ひいては重大事が国民の目・意識から隠されるという事実である。

たとえば2004年8月13日、沖縄県・普天間基地から飛び立った米軍ヘリが、同基地に隣接する大学内に墜落するという大事故があった。だが全国紙は、この時行われていたアテネ五輪一色に染まり、同事故についてほとんど報道しなかった。また2014年2月14~19日にみぞうの豪雪が関東一円をおそったが、19日のNHKがトップ・ニュースで報じたのは、ソチ冬季五輪での日本人の金メダル獲得であった。

こうした報道の問題性は、すでに1950年代末のいわゆる「ミッチーブーム」(現上皇・上皇后の婚約・結婚報道が「60年安保」報道を片すみに追いやった)や、1988~89年の昭和天皇の死去時等にも見られたが、それと同質の現象が、五輪を契機に2年ごとにメディアを席巻するのである。

それには一定の必然性がある。特に新聞の場合、少なくとも全国紙五紙およびブロック紙・北海道新聞について言えば、「東京2020オリンピックオフィシャルパートナー」あるいは「同オフィシャルサポーター」(いずれもスポンサー名)に名を連ねているからである。この異常事態は、五輪の問題性を長年追求してきた谷口源太郎の言い方をかりれば、「オリンピック翼賛」体制である。

感動を与えスポーツ振興に役立つか

以上のような本質的な問題をかかえているというのに、五輪に疑念が抱かれないのは、それが市民に感動を与える・スポーツ振興に資するといった理屈が、無邪気に信じられているからであろう。

だがたとえ感動を与えたとしても、各種種目のW杯が、そればかりか「全米……」「アジア……」等と銘打った選手権大会が、年中行われて「感動を与えて」いるのに、さらに五輪を、しかもとほうもない経費――東京五輪では今後の出費を含めて4~5兆円に達する。当初予算7340億円とされた「世界一コンパクトな大会」の実態がこれである――をかけ、また上述のごとき数々の問題をかかえたまま、夏季・冬季を含めて2年ごとに開催する合理性は、どこにあるのだろうか。

スポーツ振興という大義名分も、五輪開催を合理化できない。一面ではスポーツ(ことにプロの)振興自体すでに過剰になっているのに(たとえばNHKニュースでは短い時間内に「スポーツ」の枠を設け、新聞でも数ページを同記事にあてている)、五輪がなければ振興が進まないという論理は、とうてい納得を得られまい。

あるいは、五輪によって国民の健康・体力増進が図れるという理屈もある。だが、今日それが不十分なのは、日本で五輪大会が開催されないからではなく(これまで東京、札幌、長野で3度も開催された)、政府が80年代から財政支出を怠ってきたからである。それでいて五輪には、湯水のように金が使われてきた。東京五輪に足かけ8年の間に費やされた国費だけでも、私が調べた限り1兆円をゆうにこえる。これらをふり向ければ、国民の健康・体力増進はより進んだはずである。

「基本方針」のメダル至上主義

他にも東京五輪には多くの問題が潜んでいる(福島をだしにして「復興五輪」という建前を前面に出し、首相が福沢第一原発を「統制下にある」とうそぶいた点等は大問題だが、ここでは略す)。

たとえば東京五輪の「基本方針」(2015年閣議決定)では、「メダル獲得へ向けた競技力の強化」が重視されている。IOCが上位者を表彰しメダルを出すていどのことならまだしも受容できるが、一国の政府が、メダル獲得にこそ意味を認め、またそれをほとんど自己目的とするほどに重視するとなると、話は別である。

「基本方針」には、「日本オリンピック委員会〔JOC〕……の設定したメダル獲得目標を踏まえつつ云々」と記されるが、政府が、私的団体とはいえ五輪大会実施に関与するJOCの名をあげつつ「メダル獲得目標」まで掲げるという事態は、五輪憲章の完全な逸脱である。前記のように、五輪大会は「選手間の競争であり、国家間の競争ではない」、IOC・大会組織委員会は「国ごとの世界ランキングを作成してはならない」と、五輪憲章は明確に規定しているのである。

にもかかわらず政府・IOCが公然・隠然と憲章を無視している事実に対して、メディアは本質的な批判の目を向けなければならない。そのためにこそまず大新聞社は、五輪スポンサーとなっている姿勢を改めなければならない。いわば巨大多国籍企業の司令塔であり、それ自体巨大な権力であるIOC(会長ともなると国家元首なみに扱われかつ行動する)や、その巨大営利事業を支援することは、高校野球のスポンサーとなるのとは、訳が違うのである。

日本=成熟社会という不遜

また「基本方針」は、五輪を「成熟社会における先進的な取組を世界に示す契機」とすると、五輪利用の価値をあけすけに記している。これでは五輪は国威発揚のための手段にすぎず、スポーツの価値それ自体を損ねている。しかも自国を「成熟社会」などと言える姿勢は、まともではない。

しかもこの言葉は、「多くの先進国に共通する課題である高齢化社会、環境・エネルギー問題への対応」等を念頭において使われている。だが日本政府が、高齢社会を前に人々の生存基盤である「買い物」の条件を大々的にぶち壊し(拙著『買物難民』大月書店)、また世界の流れに抗して原発と火力に頼ろうとするかたくなな姿勢を堅持している点において、「成熟」などという言葉は場違いである。

おまけに、「大会を世界と日本が新しく生まれ変わる大きな弾みとする」というのも尋常ではない。五輪大会によって「日本が新しく生まれ変わる」どころか、福島の復興をますます困難にしている。「世界……が新しく生まれ変わる云々」という一文にいたっては、厚かましいにもほどがある。

五輪憲章と平和

これまで五輪憲章を五輪・東京五輪を評価するための基準としてきたが、憲章自体にも問題がある。最後にこれにふれる。

「オリンピズム〔五輪精神〕の目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである」、とある(前文「オリンピズムの根本原則」)。要するに五輪憲章は、「スポーツ→人類の調和のとれた発展→平和」という目的・手段関係を明示する。

だが、スポーツが人類に「調和のとれた発展」をもたらすというのは、理念にすぎない。まして、それが「平和」を生むというのは、むしろ空理と言うべきだろう。五輪(およびスポーツ)関係者は上の目的・手段関係を妄信しているようだが、それにまともな根拠は示せないだろう。

一般に平和とは戦争状態の不在を意味するが、五輪にできるのはせいぜい、2国間の政治的対立・紛争をおし隠して「城内平和」を一時的に演出することだけである。

五輪報道も大差はない。もし五輪競技が「選手間の競争」として行われるなら、国籍は選手にとって一つの属性にすぎず、2国間の対立・紛争に取り立てて言及する必要性は低い。仮にふれても背景としての言及以上は行わないだろう。

一方、競技が「国家間の競争」として、言いかえれば国民を単位として行われるならば、メディアは各国についてより詳しく報じ、2国間に対立・紛争があれば、それにふれざるを得ない。だが現実には、対立・紛争の事実は隠されるであろう。関連する発言・報道は、直ちに当事国の抗議を呼びさますからである(2018年のピョンチャン冬季五輪において、日本と朝鮮半島の歴史に関わる報道について同様の問題が起きた)。

要するに五輪は、一見「平和」に資するように見えても、結局は現実政治に従属する。市民・国際社会にとって当事国間の厳しい現実は、五輪と無関係にそれ自体で知り、そして五輪と無関係にそれ自体でなくす努力を行うしかない。

国家間競争は構造的暴力を隠す

一方平和を、20世紀という未曽有の時代の到達点を踏まえて、戦争の不在であるよりは構造的暴力、つまり社会的・経済的・政治的等の構造がつくり出す暴力の不在(ガルトゥング)と見なすなら、国家間競争をあおる五輪の問題性はより明らかとなる。

ここで「構造的暴力」とは、一国内の多様なマイノリティ――民族、宗教、人種、階級、性等々における――にもたらされる貧困や生活苦であり、彼らに対する差別・人権の抑圧である。それらは、国民を十把一からげに捉えたのでは、見えてこないことが多い。

五輪大会においてもそうである。国民内にひそむ構造的暴力は、「国家間の競争」という、五輪憲章を裏切る現実によって、むしろ――単に消極的に触れられないのではなく――積極的に隠蔽されるであろう。それどころか五輪大会は、あえて国民間の統合・融和さえ演出してしまうだろう。開会式の場で、あるいはサッカーのような勝敗を競う競技の場で特にそうである。本国に帰れば、マイノリティにとって厳しい差別が待っていたとしても、である。

かつて、人種差別に対する抗議が、五輪の場でなされたことがあった。男子200m競技で第1、3位となった米国黒人の2人が、表彰式で米国国歌が流される間、黒い手袋をした握りこぶしを宙に上げ続けたのである(1968年メキシコシティ五輪)。この行動は、アメリカにおける黒人差別と同時に、ネイション(国民)を単位とした五輪自体がもたらす暴力性をも告発した。

膨大な経費を食う「ショービジネス」と化した五輪大会を今後も続けるまともな理由があるとは思えないが、もしその暫定的な改善がありうるのだとしたら、せめて五輪憲章は、他国への優越・排外意識(ナショナリズム・ショーヴィニズム)をあおり、一方マイノリティへの構造的暴力を隠蔽する「国家間の競争」を、断じて禁止すべきであろう。そうしなければ、平和をめざすはずの五輪によって、むしろ平和が破壊されるだろう。

【参考文献】

猪瀬直樹『勝ち抜く力――なぜ「チームニッポン」は五輪を招致できたのか』PHPビジネス新書

猪谷千春『IOC――オリンピックを動かす巨大組織』新潮社

小笠原博毅他編『反東京オリンピック宣言』航思社

小川勝『東京オリンピック――「問題」の核心は何か』集英社新書

ガルトゥング, J.『構造的暴力と平和』中央大学出版部

谷口源太郎『日の丸とオリンピック』文藝春秋社

『インパクション第194号――返上有理! 2020東京オリンピック徹底批判』インパクト出版会

「オリンピック憲章(2019年版)」

「基本方針」(「2020 年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会の準備及び運営に関する施策の推進を図るための基本方針」

「東京2020オリンピック競技大会公式ウェブサイト」

“Media Close-up Report”

すぎた・さとし

1953年生まれ、帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)。著書:『福沢諭吉と帝国主義イデオロギー』(花伝社、2016年)、『天は人の下に人を造る――福沢諭吉神話を超えて』(インパクト出版会、2015年)、『「3・11」後の技術と人間――技術的理性への問い』(世界思想社、2014年)、『逃げられない性犯罪被害者――無謀な最高裁判決』(青弓社、2013年、編著)、『カント哲学と現代――疎外・啓蒙・正義・環境・ジェンダー』(行路社、2012年)、『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集――「国権拡張」「脱亜」の果て』(明石書店、2010年、編著)、『買物難民―もうひとつの高齢者問題』(大月書店、2008年)、『AV神話――アダルトビデオをまねてはいけない』(大月書店、2008年)、『「日本は先進国」のウソ』(平凡社新書、2008年)、『レイプの政治学――レイプ神話と「性=人格原則」』(明石書店、2003年)など

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