論壇

教科書検定制度を「検定」する

そのオモテとウラを考察してみると

河合塾講師 川本 和彦

ベーシック・インカムとは雇用の状況や所得、資産に関係なく、政府がすべての国民に一定のお金を支給する制度である。財源を含めて実現可能性は疑わしいものの、左派ポピュリズムの主張として一定の説得力はあった。ところが近年は、竹中平蔵をはじめとする新自由主義者も主張するようになっている。奴ら(敢えて「奴ら」と呼びます)の主張は、「これだけのカネをやるから、あとは知らん。勝手に自助しろ」という本音が見え見えで、こうなるとベーシック・インカムそのものに、真っ向から反対せざるをえない。

文部科学省による教科書検定制度にも、現象は正反対ながら同じような面がある。かつては検定違憲論、あるいは検定の行き過ぎを指摘し、制度そのものに反対するのは左派の専売特許であった。しかるに昨今、またまた新自由主義者が、「とにかく政府の規制をなくせ」「どんな教科書でも認めよ。悪い教科書は、市場が淘汰する」などと言い出している。困ったものだ。

従って私としては、条件付きながら消極的ながら、教科書検定制度をとりあえず容認したい。その上で、より望ましい検定のあり方を考えたいと思う。

 

各国の教科書事情

検定制度そのものは、日本特有というわけではない。

教科書を発行する主体としては、政府と民間がある。政府のみ、つまり国定教科書しか存在しない国もあるが、これはとんでもない独裁国家に限られる。

政府発行の教科書と民間発行の教科書が併存している国としては、タイやシンガポール、マレーシア、ロシアなどがある。どちらの教科書を採用するかは、教科によって定められている。その国の公用語や歴史を教える教科では、政府発行の教科書を使う国が目立つ。さもありなん。

多くの国では、民間発行の教科書のみが採択されている。そのうち政府検定があるのは日本以外では、ドイツやノルウェー、カナダ、中国、韓国、インドネシアなどが挙げられる。前述のタイやマレーシアでも、民間発行の教科書は政府検定を経て採択されている。

では、検定制度がない国において、教科書はどのように採択されているのだろうか。ここでは、新自由主義者が大好きなアメリカを取り上げる。

 

検定なき採択――アメリカの制度

連邦国家であるアメリカでは、教科書採択に関する権限が各州に委ねられている。その権限はさらに、各学区に一部あるいは全部委譲されている。

採択の過程は、2つのパターンに区分される。一つは州政府が候補リストを作成、その中から各学区が、使用する教科書を決定するものである。もう一つは州とは無関係に、各学区で決定するものである。後者のパターンを採用している州の方が、やや多い。

各学区には、教科書採択委員会が置かれている。これは教師の他、行政官や各教科の専門家から構成されている。採択の過程では公聴会が開催されるが、この公聴会には生徒の親や生徒自身も参加・発言できる。

出版社としては当然ながら、人口が多い(生徒数も多い)州で採択されたほうが儲かる。そういう州では、活発なロビー活動が展開される。ロビー活動そのものは、金銭授受や日本的接待がなければ、必ずしも否定されるべきではないだろう。

問題なのは、人口が多い州といえばテキサスやフロリダなど、保守層が多い州が大半ということだ。こういう州では、かつての奴隷制を肯定するとまではいかなくても、奴隷解放や差別撤廃に尽力した政治家や活動家の扱いが小さい教科書が好まれる。反対に、進化論を正しく教えるような、あるいは先住民への迫害を詳しく記述したような教科書は忌避される傾向が強い。

 

市民が守った検定制度――韓国の場合

民間の教科書を政府が検定することは無条件に望ましいわけではないが、1つの国定教科書しかないよりは、まだマシという考えがある(私もそう思う)。この考えを実践し、成功したのが韓国である。

戦後しばらく、韓国の教科書は国定教科書のみだった。これを盧武鉉政権が改め、複数の民間出版社が教科書を執筆、検定を経て採択される制度になった。

ところが盧武鉉政権の後に成立した朴槿恵政権が、国定に戻そうとしたのである。表向きは「現行の教科書は北韓(北朝鮮)を正当化しており、過度に反米的な記述も目立つ」ということであったが、父親である朴正煕の名誉を回復したいという動機が見え見えであった。

これでは幅広い反発が巻き起こったのも当然だろう。野党が国会で徹底抗戦し、市民が大規模なデモを展開した。歴史学会の学者は大半が「1つの教科書しかなければ、多様な思考力が育たない」として執筆を拒否した。世論調査では、歴史教員の97%が国定化に反対ということが明らかになっている。反対理由には「公正な教科書を作っておかないと、日本の教科書検定を批判できなくなるではないか」という、いい意味で愛国的なものもあった。

国定化の動きは、国定教科書執筆責任者のソウル大学名誉教授がセクハラで辞任(どこの国にもいるなあ)したこともあって失速、その後朴大統領が失脚、弾劾されて立ち消えになった。

 

日本の教科書検定

ここで、日本の制度を簡単に説明しておこう。

教科書は執筆開始から生徒の手に渡るまで、ほぼ4年がかりとなる。

・1年目:出版社が学者・教員へ執筆を依頼し、執筆されたものを編集する。

・2年目:文部科学省の検定を受ける。
検定は文部科学省の教科書調査官の調査を経て、文部科学大臣の諮問機関である教科用図書検定調査審議会が文部科学大臣に答申を提出、これに基づいて大臣が検定合格(不合格)を決める。
審議会の審議は議事録が公開されるが、具体的な意見のやりとりや発言者の氏名などはわからない。教科書調査官の調査は、調査官が出版社に対して修正を求めるなど指示を出すので誰がどのような指示を出したのか、少なくとも出版社にはわかる。
ちなみに2021年3月現在、教科書調査官は女性11名、男性46名。教科用図書検定調査審議会のメンバーは女性12名、男性17となっている。やはりと言うべきか、男性が多いですな。

・3年目:公立学校の場合は各自治体の教育委員会が、私立学校の場合は校長が、使用する教科書を決める(これを採択という)。

・4年目:各出版社が教科書を発行し、生徒に配布される。

 

検定の目的

そもそも、なぜ教科書検定が必要なのだろうか。

根拠となる法令は学校教育法と文部科学省設置法であるが、文部科学省が具体的に挙げている理由は、以下の4点である。

(1)全国的な教育水準の維持向上

(2)教育の機会均等の保障

(3)適正な教育内容の維持

(4)教育の中立性の確保

(1)(2)は学校教育、特に義務教育が格差を助長するようなことがあってはならないとするならば、妥当なものである。私が検定制度を支持する理由とも重なる。(3)は無意味なきれい事で、適正とは何かが不明であるが、そこは追及すまい。(4)には疑問がある。中立などというものはあり得ない。沖縄県辺野古沖を埋め立てて米軍基地を建設することについては、「賛成」か「反対」か、2つに1つであり中立などというものはない(「辺野古沖を埋め立ててディズニーランドを建設しよう」などというのは、中立ではなく「論外」である)。

 

検定への批判――「左」「右」から

以前から、検定制度を否定・批判する声がある。この否定・批判はかなりまっとうなものもあるが、条件付きながら消極的ながら検定制度を支持する者として、反論できる部分では反論をしておく。

1、左翼・リベラル陣営からの主張
①検定は憲法違反である

家永教科書訴訟では、憲法第21条が検閲を禁止しており文部省(当時)の検定が違憲であるとの主張がなされた。検定不合格処分は表現の自由を侵害するものだという立場である。

☛①には、不本意ながら反論する

この主張は学問的には正しい。正しいのだが、ここは少し政治的判断が必要であると思う。憲法第21条は表現の自由を保障しており、検閲の禁止はそのための手段である。教科書検定に合格しなくても、それは教科書として採択される機会がなくなったということだ。教科書ではない一般書籍として出版することはできるのだから、強引に合憲と言い張れるのではないか(実際、家永氏が書いた本は一般の書籍として出版された)。

少なくとも憲法第9条と自衛隊の矛盾よりは、小さな矛盾であると思われる。違憲であるとして検定がなくなれば(そんなことはなさそうだが)、後述するようにかえって事態が悪化しそうである。ここは憲法問題にふれぬが無難だろう。

②修正意見に行き過ぎがある

とりわけ目立つのは、日中戦争とアジア太平洋戦争における日本軍の犯罪性を少しでも薄めようとする意図である。第二次世界大戦中の沖縄戦では、ガマと呼ばれる洞窟の中で,住民の痛ましい「集団自決」が多発した。あるガマでは81人の住民中47人は15歳以下、そのうち26人は9歳以下であった。幼児や子どもが自分の意志で自決、しかも集団で自決するものなのか?日本軍の強制があったとみなすのが「適正」であろうし、それを否定するのは一つの立場であり、もはや「中立」ではない。しかし「集団強制死」という記述があれば、検定には合格しない。

☛②には、反論せず

これにはまったく異論がない。家永訴訟でも最高裁は、教科書検定は検閲に当たらず合憲としたものの、検定意見のうち4カ所を違法と認定し、国に賠償を命じている。明らかにおかしな検定は改善すべきだ。

③教科書で思想統制はできない

作家の高橋源一郎氏は、学校教科書で学んだことなど卒業すれば忘れてしまうであろうと述べている。これは、教科書を通じて保守的思想を注入しようとする面々への批判であろう。

☛③には、ささやかに反論する

生徒の多くは高橋氏とは違って、ほとんど本を読まないのだ。生徒にとって教科書は人生で接する数少ない活字なのであり、その影響力は侮れない。好きな小説として漱石の『こころ』をあげる高校生が多いが、その最大の理由は『こころ』の一節が高校国語教科書に掲載されているからである。教科書で形成される視点というものは、少なくとも一部の生徒には確実に存在する。従って検定をなくす、ノーチェックで構わないというのは危なかろう。

④教師と著者・編集者の間に官僚は介入するな

教育研究者の古山明男氏は、教科書は現場の教師と著者・編集者とのキャッチボールを通じて作られるべきもので、文部科学省の介入は不要であると述べている。

☛④には、不本意ながら反論する

これまた正論。理想的にはその通り。だがこれは現実には、教師の負担増となる。第一に、教師は忙しい。明日の授業の準備をする時間さえ確保するのが難しいのに、来年以降の教科書を研究する時間があるだろうか。第二に、すべての学校が民主的に運営されているわけではない。職員会議が校長の意思伝達の場でしかないような学校は少なくない。

校長が「新しい教科書を作る会」の会員だったら、目も当てられませんぞ。文部科学省はともかく、何らかの存在がチェックする存在として介入することは必要であると思われる。

2、新自由主義的立場からの主張
❶教科書市場への参入自由化を求める

日本人は四文字熟語を示されると、思考停止してしまう民族のようである。かつての「八紘一宇」「鬼畜米英」「一億玉砕」に始まって、「高度成長」「内需拡大」「構造改革」、そして昨今は「規制緩和」である。

メーカーのSONY、流通のセブンイレブンが銀行業を営み、銀行が保険を販売することが可能になった。電力も自由化され、福岡県在住であっても九州電力以外の会社から電気を買うことができる。再生可能エネルギーの会社を選んで電気を買うことができるのは、結構なことである。競争によって電気料金が下がることも、ある程度は期待できよう。

☛❶には、きっぱりと反論する

電気と教科書を同列に論じるわけにはいくまい。太陽光発電の電気で洗濯機を稼働させても汚れの落ち方は同じだし、ましてや使い手の思考や価値観が変わるわけではない。教科書はそういうものではないのである。銀行が「政治・経済」の教科書を作るようになれば、金融商品や資産運用の項目が多い教科書になるだろう。竹中平蔵が著者になれば、派遣労働をバラ色に描いた教科書ができるのではないだろうか。

❷市場原理を信じる

市場の建前としては、良い商品は売れるし悪い商品は売れない。言い換えれば売れる商品は良い商品で売れない商品は悪い商品なのだ。検定がなく、その結果として品質劣悪な教科書が出版されても売れないので、そういう教科書は市場から駆逐されるだろうというのが、新自由主義的な発想である。

☛❷にも、きっぱりと反論する

これまた、電気と書籍を同列に論じる暴論であろう。例えば宮城県教育委員会がある教科書を採択すれば、宮城県内の公立高校はその教科書を、次の検定時期まで使い続けなければならない。そう簡単に「駆逐」されないのである。

そもそも、何を根拠に「良い教科書」「悪い教科書」と判断するのか。戦争中に日本軍が行った蛮行を詳しく記述している教科書は、ある人にとっては「自虐的でけしからん」となるだろうし、別の人にとっては「生徒に伝えるべき事実を載せた良い本だ」ということになるだろう。

都市部と地方の格差という問題もある。前述のアメリカ同様、人口が多い自治体で採択されたほうが利益は出るわけだから、出版社としてはそれを目指すだろう。そして人口が多い自治体は、進学率が高い自治体でもある。そこでは、受験向けに特化したような教科書が好まれるかもしれない。

❸行政改革につながる

教科書検定に使われる費用は、人件費ひとつとってもばかにならない。検定を廃止することは、税金の無駄遣いをなくすことになる。

☛❸にも、きっぱりと反論する

これはイギリスでジョンソンらが、「EUから離脱すれば,分担金を払わなくて済む。そのカネを有効に使おう」と述べた論理(というかウソ)に等しい。検定廃止で浮く費用が、国民福祉に用いられる保証はない。それに、学校教育で必要な教科書を作るための費用は無駄なのか?そういう発言をする方々は、「アベノマスクは無駄だ」と官邸に抗議したのだろうか?していないな、たぶん。

3、国家主義的立場からの主張

大勢ではないが自民党、あるいは日本維新の会の一部に、国定教科書を望む声がある。戦前の日本を美化したい「ノスタル爺(婆もいるな、いや、若僧もいるか)」である。

☛斜めから反論する

こいつら(あえて「こいつら」と呼びます)は今のところ少数だが、国民の支持をある程度得る可能性がある。首相を批判しただけで「反日左翼」呼ばわりされることがある時代なのだ。「自分たちの政府が1つの教科書を制定して何が悪い」という声は、案外若い世代に広まるかもしれない。

とはいえ、こいつらと根本的に理解しあうのは無理だし、説得する時間が惜しい。ここは韓国の例に倣って「愛国的に」反論しよう。第4次産業革命ともいわれる激変の時代、1つの価値観しか持たない国民は、経済競争に負けてしまう(本音を言えば負けてもいいのだが、ここは本音を封印しましょう)。多様性こそ国の強みなのだ、ということを強調したい(これは結構、本音です)。

検定制度に問題はある。しかしながら廃止した場合のメリット・デメリットを比較するならば、デメリットのほうが大きいと言わざるを得ない。検定教科書はどう考えても国定教科書よりはマシだし、やりたい放題の制度よりも無難であろう。

 

望ましい検定制度

(1)透明性の確保

調査官と出版社のやり取りや審議会の審議は、非公開である。これは公開すべきであり、インターネットで生中継しても良いと思う。「透明性を確保するために非公開にする」などという、五輪組織委員会のようなことをしてはいけない。

(2)公正性の確保

中立というものは幻想であるが、外部からの圧力を受けない公正性というのはあるはずだ。教育行政のトップが文部科学大臣である以上、最終的な決定権が大臣にあるのは仕方ない。だが検定過程における文部科学省の影響力は、極力排除すべきだと考える。

文部科学省とは別の、例えば日本学術会議が指名したメンバーで審議会を構成して、その答申に基づいて文部科学大臣が(形式的)に承認した本の中から、教育委員会や校長が採択する、というのが実現しうる理想ではないだろうか。

審議会のメンバーは、原則として男女同数が望ましい。

詳しく触れる紙幅がなくなったが、教育委員会や職員会議の民主化も必要であろう。

ただし、どのような制度を構築しても問題は残る。最終的には現場の教師が「教科書を教える」のではなく、「教科書で教える」ということを徹底できるかにかかってくる。私は予備校という気楽な場で(少子化で大変な面もあるのですが)、受験という目的に特化した講義ではあるが(時に目的から逸脱するんですが)できることを実践していきたい。

                    (文中意図的に一部敬称略)

かわもと・かずひこ

1964年、福岡県生まれ。新聞記者を経て予備校講師。「政治経済」「倫理」「現代社会」を教える。日本ブラインドマラソン協会会員。

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