コラム/情報

『激流に棹さしてー想うがままに』発行される

小寺山康雄さん(元本誌編集委員)の追想・遺稿集

本誌編集委員 矢代 俊三

小寺山康雄さんが亡くなって一周忌の今年2月19日、『激流に棹さしてー想うがままに 小寺山康雄追想・遺稿集』が刊行された。

小寺山さんは、60年安保闘争を神戸大学の自治会で闘い、兵庫県学連委員長を経て、労働運動をはじめ広範な社会・政治運動・言論運動に中心的に参画。関西を中心に著名な社会活動家(本人曰く”革命家“)であった(詳しくは追想集で)。小寺山さんの活躍は、50年余にわたって小寺山さんの生活を支えられた、大阪の教育労働運動の活動家でもあったお連れ合いの三左子さんの存在が大きい。三左子さんへの感謝は小寺山さんの遺言のようなもの。

『激流に棹さしてー想うがままに』

『激流に棹さしてー想うがままに』

この「追想・遺稿集」の構成は、最後の日々と告別式/追想1―職業革命家を志して/追想2-思想の深化、運動との結びつき/追想3-新たな政治結集めざして/親族としての想い・遺稿、からなる。約50人が貴重な想いでを寄せている(詳しくは、後掲する追想集・編集後記を参照)。

なお本誌「現代の理論」と小寺山さんの関係は、以下に掲載する追想集に寄せた矢代の一文を参照されたい。小寺山さんが編集委員を担った第三次「現代の理論」(2004年から、現在はデジタル発行)の名物コラムが追想集の表題にもなっている「想うがままに」である(追想集にも一部収録)。今回、ここのクリックで21回のコラムを読むことができるようにしました。

「追想集」の書籍をご希望の方は下記に申し込んでください。

・「小寺山康雄追想・遺稿集」編集委員会

〒530-0041 大阪市北区天神橋2-2-9 プラネット南森町8F ポポロ気付

TEL&FAX 06-4397-4567  Eメール poporoosaka@gmail.com

頒価は任意カンパで。

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雑誌『現代の理論』と小寺山さん

本誌編集委員 矢代 俊三

小寺山さんが逝った。もう梅田の東通商店街の贔屓の店で悪態を突きあいながら飲めないのかと思うと無性に寂しい。ここ数年、小寺山さんの体調、小生は京都なのでちょっと梅田でが無かった。双方べろべろになったのは、あの桃山大の沖浦和光さんの偲ぶ会(2015年11月3日)の後が最後だった。

小寺山さんの多面的な軌跡や思い出は多くの方が寄せられるでしょう。ここでは雑誌『現代の理論』と小寺山さんの関係・思い出に絞ります。同時に小寺山さんが『現代の理論』に執筆したものは、彼の歴史・思想・信条を自らよく表現し、故人を知る上で貴重なもので是非読んでもらいたく、追想集掲載のスペースが必要でないパソコンやスマホで読める方策も紹介します(この追想集にも別掲)。

さて雑誌『現代の理論』の歴史をごくごく簡単に記すと。ソ連のスターリン批判を経て日本共産党内で大きな路線論争があった。日本帝国主義の自立―日本の社会主義革命(一段階革命論)派と日本は米帝に従属し、民族・民主革命が先とする主流派・二段階派(宮本顕治ら)の党内闘争。自立派の理論家や活動家が中心になって『現代の理論』が創刊される(1959年・昭和34年)。しかし共産党中央の弾圧によりわずか5号で廃刊となった。

60年安保闘争を経て61年の党第8回大会の綱領論争で敗北した社会主義革命派は脱党し社会主義革新運動準備会、62年に統一社会主義同盟(神戸大学生の小寺山さんも参加)などを立ち上げる。これらの人を中心に、64年1月に『現代の理論』(第二次)が復刊(創刊)される。第一次の痛苦の反省から、政治党派・組織から自立した理論誌をめざすことを宣言。非マルクス主義の人士との積極的交流もめざした<創刊時の編集委員は井汲卓一(後東京経済大学長)、勝部元(後桃山学院大学長)、佐藤昇(後岐阜経済大名誉教授)、長洲一二(後神奈川県知事)、山崎春成(後大阪市大名誉教授・桃山学院大学長)>。

この第二次『現代の理論』は、安東仁兵衛さんを中心に(関西では沖浦さんら)、時々の編集委員会が組織され89年12月まで25年間続いた。いわゆる構造改革派の雑誌として。小寺山さんは安仁さんと親しく何かと協力を続けていた。小寺山さんの自慢は64年の創刊の頃、貧乏学生が無理をして現代の理論社の株を買って支えたと。だから現代の理論は皆のものや、とよく言っていた。(『現代の理論』の歴史については、現在の『現代の理論』デジタルの題字下から。http://gendainoriron.jp/ )。小生、安仁さんによばれ京都より理論編集部に。68~69年編集担当。㈱現代の理論社は安仁さんによって完全に清算される。その安仁さんも98年に逝去された。

現在の『現代の理論』発刊の発端は沖浦和光さんである。世紀がかわり統社同40周年の同窓会的記念集会が開かれ沖浦さんが講演。全共闘世代を前に「君等もエエ歳や。現代の理論でも復刊したらどうか」と発破。現代の理論と何らかの関係のあった有志が集まり、やれるものならやろうかと相談を開始。発刊準備の会合を重ねた。やはり関西の存在は大きいので、その過程で小寺山さんに相談。“大変やがやるか”と受けてもらえた。

小寺山さんが発刊準備の関西会合を段取りしてくれた。現代の理論の最初の中心人物であった山崎春成さん、沖浦さん、熊沢誠さん、後藤邦夫さんらが集まっていただいた。この関西会合は発刊への大きな弾みとなった。以降、小寺山さんには現代の理論編集委員を引き受けてもらった。市民新聞『アクト』の編集長も担当され、東京での理論編集委員会にもよく参加してもらった。

2004年6月に創刊準備号(小寺山さん発刊への座談会に参加)、10月に創刊号発刊で事実上の第三次の季刊『現代の理論』の出発となり(30号まで)、14年発刊の季刊『現代の理論』<デジタル>(この11月で24号)へと繋がっている。

小寺山さんは2号(05年新春号)より21回にわたってコラム「想うがままに」の連載で健筆を振るった。そのタイトルをちょっと見ても、

「ぼくがイタリア贔屓になった理由」「革命やらんとあかん」「熊沢誠さんの退職を労う」「革命家として清田祐一郎を葬送する」『忘れがたき人①安東仁兵衛さん/②山六さん、原全さん、そしてお雪さん/③青年のまま逝った中島秋生さん/④外柔内剛の人 大森誠人さん」「人生の起点 六〇年安保闘争」

など懐かしい。

これらは小寺山さんの想い・思想などを知る上で貴重なコラムです。

『現代の理論」への小寺山さんの最後の執筆は、2015年11月のデジタル版6号「想うがままに」-「50年余の同志の死を悼むー沖浦和光さんを偲ぶ」です。沖浦さんへの痛切な想いと自己の軌跡にもふれています。特に貴重な稿です(本追想集にも収録)。

以下も触れておきたい。この沖浦さんへの追悼文のプロフィールを“おい矢代、これにしてくれ”でした。小寺山さんの生活・活動を生涯支えられた愛妻・三左子さんへの感謝の想いです。最後の(本人談は矢代が挿入)。再録します。

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こてらやま・やすお

1940年神戸市生まれ。1944年から播州竜野に疎開し10年居住。1960年安保闘争のさ中に神戸大学文学部入学。中・高時代以来、在日朝鮮人、被差別部落を直近で知った経験は、わが人生において何よりの体験であった。60年安保闘争をまっただ中で闘った。それ以来、職業革命家をめざす。わが人生において最高の出会いは、こうした生き方を認め、支えてくれた妻、三左子である(本人談)。

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小寺山さん、もうゆっくり休んで下さい。酒を飲まない安仁さん、沖浦さんと三人打ちのマージャンを大いに楽しんでください。

三左子さま、本当にご苦労様でした。

(『激流に棹さしてー想うがままに』より)

 

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小寺山康雄追想・遺稿集―<編集後記>

10年近く前になるか、小寺山さんが唐突に「俺も70歳を過ぎたぞ」と言った。たぶん大学の一期先輩だった松本剛弁護士の偲ぶ会の相談会の後、そういう心境になっていたのか、二人で芦屋の居酒屋(よりも少しお洒落な店)に入っての冗談半分の酒飲み話。その流れで「小寺山さんは自分の偲ぶ会になにか要望はありますか」と聞いたら、「俺は葬式も偲ぶ会もいらんわ」と答えた。しかし、時の経つのは早い。こればかりは変えられない。

当初は昨年の秋頃にでも偲ぶ会を開催して、友人・知人たちからの追想文を集めて、その場で配布するつもりだった。その際も少しの不安はあったが、コロナ禍は予想を遥かに上回る勢いで世界を席巻し、偲ぶ会開催の見通しが立たなくなった。これは今でも続いており、今年中に開催できるのかさえわからない。そこで追想・遺稿文集を先行して作成することに方針変更。とはいえ、特別な財源があるわけでもない。ポポロ(共同事務所)も移転費用がそれなりにかかって残金も残り少ない。

事務局(私や泰山さんらの、比較的若い世代で構成)では、少しは安く仕上げられるパンフレット形式を提案した。小寺山さんも多少は関わっていた研究会『職場の人権』の会報のスタイルだ。しかし、全体の相談会では、三左子夫人をはじめ年配者層から「それでは読んだらすぐに捨てられてしまうだろう。できれば長く保管してもらえる書籍スタイルが望ましい」と言われ、事務局案は見事に粉砕された。

40年ほど前、小寺山さんが実務責任者になって山田六左衛門さんの追想・遺稿集を作成したときのことを思い出した。当時、世の流れは完全に写植印刷の時代でそれで進行していたところ、原前伍さんたち年配層から「それでは軽るすぎる。やはり活版印刷でやるべきだ」と言われ、方針変更を余儀なくされたと語っていた。歴史は繰り返す、のだろうか?

そこで書籍スタイルで刊行する、一周忌には間に合わす、と決めて再作業に入った。しかし、ここでも事務局の「貧乏性」は止まらず、できるだけページ数を抑えることに腐心した。結果、150ページ近くになる書籍を100ページ以下に圧縮、要するに文字を出来る限り小さくしたのである。これをお読みになる方の多くは年配層であろうから、ご苦労をおかけすることになる。お叱りは覚悟の上だが、責めはひとえに事務局(具体的には丹羽と泰山)にある。小寺山さんであれば「お前ららしいわ」と笑ってくれるかもしれないが、はてさて・・・。

内容的には4部構成になっている。1部は職業革命家を目指した疾風怒濤の時代。2部は見聞を広げた社会主義理論政策センターの時代、3部は新たな政治結集をめざした社会主義連合・新聞ATCの時代についての知人・友人たちの思い出話を並べた。といっても、それぞれに長く交遊を続けた人が多かったわけで、あくまでも主な思い出話しを編集事務局が勝手に配置しただけともいえる。そのところどころに、小寺山さんが執筆したACTのコラム「いずみ」を挿入した。これも当初は40本以上選んだのだが、10本以下に絞らざるを得なかった。そして4部は実弟の小寺山亘さんと三左子夫人の回想と小寺山自身の遺稿。この遺稿には、第3次『現代の理論』(およびデジタル版)から2つ、60年安保闘争の回想と沖浦さんへの追悼を選んだ。それぞれ最後に、前者では共産党からの離脱と統社同結成、後者は統社同との訣別が述べられていて、小寺山さん自身の大きな人生の転機だと推察したからである。(丹羽)

(『激流に棹さしてー想うがままに』より)

 

やしろ・しゅんぞう

1947年生まれ。立命館大学から68年、『現代の理論』編集部へ。77年より総評全国金属労組京滋地方本部の専従オルグ、金属機械労組京滋地本副委員長。その間約10年京都地方労働基準審議会委員、京都府最低賃金審議会委員を務める。97年末退職。関西対外交流センター代表理事。2004年より第3次『現代の理論』発刊に伴い本誌編集委員。現在も中小企業労組の顧問を務める。

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