コラム/想うがままに 沖浦和光さんを偲ぶ

50年余の同志の死を悼む

元統一社会主義同盟議長 小寺山 康雄

7月8日、沖浦和光(かずてる)さんが腎不全でなくなった(享年88)。 沖浦さんは幼少の頃、交通事故で片方の腎臓を失ったこともあって、3年ほど前から二日に一回人工透析をされていたが、しょっちゅう、「しんどい、しんどい」とぼやかれていた。亡くなる日の朝、おつれあいの恵子(やすこ)さんが起こしに行くと、眠るが如き安らかな表情で息を引き取られていたという。

わたしと沖浦さんとの出会いは、1961年に遡る。つまり日本共産党第8回大会を機に、山田六左衛門、春日庄次郎、原全五、安東仁兵衛(いずれも故人)さんらが共産党から除名・除籍されたとき、わたしと沖浦さんも「反党分子の構造改革派」として、共産党から追放された。それから50年余、同志としておつきあいさせていただいた。

佳き遊び友だちだった

1962年、わたしたちは社会主義革新運動(社革)を経て統一社会主義同盟(統社同)を結成するが、沖浦さんは統社同の学者・研究者の中心メンバーとして活動された。

しかし、勉強嫌いのわたしにとっては沖浦さんは学者としてよりも、政治活動の同志であり、もっとありていに言えば安東仁兵衛(アンジン。1998年肺ガンで逝去)さんとともに、遊び友だちであった。ただ残念なことには、お二人とも酒をほとんど受つけなかったのが呑兵衛のわたしとしてははなはだ物足りなかった。

沖浦さんとアンジンさんはよく連れ立って、当時わたしがいた尼崎の拙宅に麻雀をしに来られた。あと一人の面子(メンツ)は、わたしの行きつけの喫茶店、居酒屋のマスターなどであったが、どうしてもメンツが揃わないときには、わたしのおふくろまでが喜々として参加することがあった。たいてい朝までの徹夜マージャンであるから、お二人より13才年下のわたしは明け方近くからスパートして逆転するのが得意業であった。「もう一丁、もう一丁」と昼近くまで離してくれないのだ。そうなるとますます体力勝するのだが、今となっては懐かしい佳き思いでである。

アンジンとともに統社同から離脱

1969年11月、わたしは統社同を離脱し、統一労働者同盟準備会(統労同)を立ちあげた。統労同はけっきょく準備会のまま終わったが、統労同を軸にやったことはなかなかのものであったと自負している。それについて書く前に、どうしても書いておきたいことがある。わたしは20才台で統社同の議長という要職に就いたたが、それは当時の東京のフロント(社会主義学生戦線)のメンバーのクーデター的陰謀の結果ということだ。

当時、統社同の書記長をしていたのはアンジンだったが、彼は40才台前半で、ほぼ同世代の大阪の村田恭雄、大森誠人(いずれも故人)らと協同して統社同の枢軸をになっていた。

アンジンは東京の事務所の財政的維持を一人でやり、くわえて64年に創刊した第二次『現代の理論』(89年までの25年間刊行)の財政、執筆者の確保もほぼ一人でになってきた。完璧なヒモ稼業であるが、それを支えてこられたのはアンジンのお姉さんのお仕事や店を手伝い、銀座のママもやられたおつれあいの年子さんである。

話を戻すと、クーデター派は「構造改革は修正主義。グラムシは改良主義。我々はレーニン主義者である。アンジンはメンシェヴィキだ。これからは統社同でなく、共産主義革命党でいく」と、ほざいていた。クーデター派の首謀者は実家が富裕で慶応大学の学生あがりだった。貧困家庭出身で、アンジンの経済的困窮、政治的しんどさがよくわかっていたわたしは、クーデター派を生理的にも許せなかった。にもかかわらずクーデター派は学生に毛が生えた程度の年齢ということもあって、アンジンを追い出したあとの組織運営に自信がなかったのだろう。かれらより少し年長のわたしを議長に据えようとした。また、アンジンや大森誠人ら東西の「おとな」たちも、ここまできたら統社同を壊滅させるわけにはいかないというので、渋るわたしをむりやり議長に就かせようとした。

わたしが統社同の議長になったのは、こうした漫画チックないきさつからであった。したがって1969年11月に議長を辞めたばかりか統社同まで離脱したのは、わたしにとってはいとも簡単なことであったと言えば、真面目な読者に叱られるだろうか?

関西が誇る政治風土

関西には他に誇るべき政治的風土がある。それは大衆的で民主的な労働組合運動の層の厚さであり、学者・研究者の分厚い存在である。この独特の政治的風土の上に、以下に述べる活動が可能になった。

ひとつは1977年から97年までの20年間続いた「社会主義理論政策センター」(理論政策センター)の活動である。理論政策センターは、会員は約2000人、学者・研究者は約300人近く存在し、月一回の定例研究会を催し、『社会主義と労働運動』を月刊で刊行した。わたしはその事務局を担当したが、とくに沖浦さんが学長まで務められた桃山学院大学と大阪市大の存在が大きかった。

第二に、1995年から10年続いた市民運動情報紙『ACT』がある。まだ「市民運動」という用語が、さほど人口に膾炙していなかった時代であるが、わたしはその編集長を務めた。

第三に、わたしが88年に呼びかけ、92年に結成した「自治・連帯・共生の社会主義政治連合」(政治連合)である。わたしはその共同代表を務めているが、これには離脱した統社同も参加している。

沖浦さんは、そのすべてに協力していただいたが、とりわけ「理論政策センター」は沖浦さんの存在抜きには語りえない。

沖浦さんに深い恩義

最後に、沖浦さんの恩義で忘れられないことを書いて、沖浦さんへの追悼の言葉にしたい。

反アンジン派の東京のフロントグループが「小寺山さん、至急逃げろ。逮捕状がでている。議長が拘束されると大変だ。組織がもたない」というのだ。そして、クーデター派のリーダーはすでに東京にアパートを借りていた。アパートの費用は、それでなくても乏しい組織の金である。

ところが無一文の議長のわたしには一円の金も出さず、ひたすら「逃げろ」というだけだった。わたしは、もし逮捕されるなら御堂筋デモで公然と逮捕されるほうが、恰好いいし、多くの人の印象に残るだろうと考えていたが、クーデター派は「政治局決定」という錦の御旗を掲げて、執拗に逃亡を迫るのだった。

そんなわたしの窮状をどこで聞いたのか、沖浦さんが「わしの家に来い。匿ってやる」と、おっしゃってくれた。金もなく、隠れる場所のあてもないわたしは、渡りに船と、沖浦さんの家にころがりこんだ。

しかし、無神経なわたしでも、学者という沖浦さんの立場はわかっていたが、ついつい沖浦さんに甘えてしまい、一か月近くものうのうと滞在してしまった。そんなわたしでもこれ以上沖浦さんに迷惑をかけるわけにはいかないと思い、こっそり沖浦宅から消えようとしていたが、それを察知した沖浦さんは、黙ってわたしのカバンに10万円を放り込み「身体に気をつけろよ」と、半泣きの表情でわたしを抱きかかえてくれた。

今頃、沖浦さんは17年も前に死出の旅に出てしまったアンジンさんと、わたしが来るのを手ぐすね引いて待っているだろう。三人打ちの麻雀をするために。

こてらやま・やすお

1940年神戸市生まれ。1944年から播州竜野に疎開し10年居住。1960年安保闘争のさ中に神戸大学文学部入学。中・高時代以来、在日朝鮮人、被差別部落を直近で知った経験は、わが人生において何よりの体験であった。60年安保闘争をまっただ中で闘った。それ以来、職業革命家をめざす。わが人生において最高の出会いは、こうした生き方を認め、支えてくれた妻、三左子である(本人談)。

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