特集●闘いは続く安保・沖縄

安倍内閣はみずから墓穴を掘った?!

やはり「転換期」は続いている

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

1.さわやかな「敗北」

9月18日深夜、国会前から帰宅して、未明の国会中継で戦争法案成立を見届け、ひと眠りして目覚めると、さわやかであった。敗北感はない。安倍政権を倒せる、世の中を変えられるという希望のようなもので満ち溢れていた。

8月末から、わたしは連日のように国会前に出かけた。12万人ではまだ少ない、30万、50万人でないと、また、戦場は国会の中だけではないと思いつつも、国会前の熱気が、そして全国の運動の盛り上がりが、野党議員たちを突き動かし、安倍首相を追い詰めているという実感があった。

今国会では、戦争法制の強行可決だけではなく、労働者派遣法の改悪で、派遣労働者を使い放題、切り捨て放題にできることになった。第2次安倍内閣成立以来、特定秘密保護法、辺野古基地の工事着工、原発の再稼働、大学の新自由主義的再編と、政権の悪政・暴走はとどまるところをしらない。

ある教育関係者が「安倍首相には学力がない」と喝破したことがある。知識量の問題ではない。社会から、人から学ぶ力、学ぼうという姿勢がまるでないことは、今回の国会論戦で世界に披露された。質問をはぐらかし、自説だけを繰り返す安倍首相とは、200時間、いや1000時間議論しても何も生まれない。このような人物を育てたのは、安倍首相の重視する日本の戦後教育にも一端の責任があるのかもしれない。

安倍首相の言説をまともにあげつらう意欲が起きないのは、彼が嘘を言うからである。典型的な例が、ポツダム宣言をめぐる発言である。今年5月20日、国会の党首討論で、志位日本共産党委員長の「戦後の日本はポツダム宣言を受諾して始まった。ポツダム宣言は日本の戦争を世界征服のための戦争で侵略だったと判定している」という投げかけに対し、首相は「その部分をつまびらかに読んでいないので、論評は差し控えたい」と答えた。

その後の記者会見で志位委員長は、「ポツダム宣言は戦後日本の民主化の原点になった歴史的文書。読んでいないとは、それだけで首相の資格はない」(以上『毎日新聞』)と批判したが、安倍首相が読んでいないはずはない。後述する柿崎明二(めいじ)が指摘するように、今年6月の政府答弁書では、太平洋戦争を「世界征服の挙」としたポツダム宣言第6項について、「当時の連合国側の政治的意図を表明した文章」としている。「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍首相にとって、ポツダム宣言は否定されるべき戦後政治の出発点であり、読みたくないだろうが、彼の歴史認識を組み立てる上でも鍵となる文書である。

安倍首相が否定したいのは、ポツダム宣言を受諾したこと自体にあって、しかしそれはアメリカの手前、公的な場では決して言えないことであるから、「読んでいない」と無知を装って逃げたのである。けれども先の政府答弁書の「当時の連合国側の政治的意図を表明した文章」という表現は、「連合国が勝手に言ったこと」ということになり、ポツダム宣言が求めた東京裁判についても安倍首相の持論通り、正当性を認めないことになる。安倍個人の見解ではなく、政府見解であるから、連合国、とりわけアメリカとの間で外交問題にならなかったのは奇妙である。

ファシズムの特徴のひとつに、嘘による扇動がある。国会議場における日教組にかかわる野次もまったくの事実無根であったが、これは下品なだけではなく、名誉棄損訴訟になってもおかしくない。『毎日新聞』は「バカヤロ―解散」を引き合いに出し、吉田首相の「バカヤロー」はまわりにもあまり聞こえない呟きでしかなかったが解散になった、安倍首相の野次は内閣退陣ものであるのに、そこへ追い込めないマスコミと野党の無力さを嘆いていた。

認めたくないことを無知を装ってシラをきるのは、国会で指摘された通り反知性主義といってよいだろう。

2.柿崎明二『検証 安倍イズム』

安倍首相の言説の特徴として、嘘のほかに、二枚舌と受け取られかねないすりかえがある。内閣官房長官時代、はじめて首相になる直前に刊行した『美しい国へ』(文春新書、2006年)は、福祉について語っているところなど、国家主義が気にならない読者なら、「安倍さんは本当に国民のことを考えてくれているのだなあ」と誤解しかねない。実は福祉もすべて「国家のため」というところに収斂されていくので、実は一貫しているのだ。

最近、共同通信論説委員の柿崎明二が『検証安倍イズム 胎動する新国家主義』(岩波新書、2015年)という好著を刊行した。戦争法制成立までをカバーしている。先に述べたような安倍首相の言動の特徴も原因なのだろうが、柿崎は利用する資料を「国会審議や政府の会議の議事録、著作、公表された提言、報告書など」に限定している。といってもそれらの膨大な資料からコンパクトで論理明快な新書一冊にまとめたのだから、さすがに長年政治部記者で鍛えられただけのことはある。

柿崎は「安倍イズム」を「国家性善説から国家先導主義へ」とまとめる。これは本書の序章のタイトルでもある。「国家性善説」とは、日本国家は日本国民を保護するものだから、それ自体善であるということである。だから保護されている国民は国家に対してさまざまな義務を持つことになる。

「国家先導主義」とは、これまで個人のことがらとされてきたことについても、「分野、領域を問わず、国家が直接関わって問題解決に当たるべきだとする」立場である。具体的な例として、安倍内閣や政治家安倍が関与した、最近の賃上げ要請、「女性の活躍」政策、少子化・人口対策、金融の異次元緩和、旅券返納事件・拉致被害者滞在延長問題をあげる。

本来、労使で決定するはずの賃金について、政府は介入するべきではない。連合も及び腰だったが、結局条件付きで政労使交渉に参加して合意した。情況が変われば、政府が賃下げを要請する道を開いたといえよう。「女性の活躍」もあくまで経済的視点からであるし、子どもを何人産むかは極めて個人的問題である。日本銀行は政府から独立した機関である。拉致被害者が最初に帰国した時、「一時的」であったのを当事者自身の意思で日本に残ることになったのを、残されている家族の安全のためを理由に、当時の安倍官房副長官の主導で「国家の意思として帰さない」こととした。

これらの事項について、強い反対の論陣は張られなかった。一見、国民生活にとってはプラスに受け取れるからであろう。しいて言えば賃上げについての麻生副首相の抵抗、「女性の活躍」について安倍応援団の長谷川三千子や櫻井よしこからの「家族の美風を守れ」という批判、少子化対策について出生率の数値目標をかかげることへの森雅子少子化対策担当相の強い慎重意見など、身内の抵抗があっただけである。「女性の活躍」が、女性を安価な労働力として利用しようとしているだけだという批判はあるが、それは労働政策についての議論であり、「女性の活躍」そのものに対する反対ではない。柿崎は「これは、国家による個人生活や民間活動への介入をできるだけ限定的にしようとする自由主義思想が主流ではない日本では、様々な問題に対し、むしろ国家の関与を期待する傾向が強いことが要因と見られる」としている。

第2章「何を『取り戻す』のか」は、紙幅も多く取られ、力の入った叙述である。2013年4月28日に政府主催「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が挙行された。独立時を別にすれば初の開催で、「天皇陛下万歳」がわき起こった式典である。安倍首相は式辞で1952年のこの日を「主権を取り戻し、日本を、日本人自身のものとした日」と位置づけた。安倍にとって占領期は「日本が日本人以外のものだった」期間であり、占領期は日本の歴史の中で深く断絶しており、その時期に決定されたことは認められない。その代表が日本国憲法であり、旧教育基本法であり、東京裁判なのである。占領レジームが独立後も続いているからこそ、戦後レジームから脱却しなければならない。そして取り戻すべきものは「美しい日本」なのである。

この章で柿崎は、集団的自衛権、歴史認識と東京裁判、教育改革と憲法改正を取り上げる。それぞれのテーマについては、多くの論者やわたしも述べてきたことでもあり、本稿はこの本を紹介することが主目的ではないので略記するが、著者の指摘で重要なのは、集団的自衛権の行使容認はアメリカに要求されてのことではなく、日米の双務性を高めていくこと、イコールパートナーとなることを安倍首相はめざしているということである。それは当然、核武装につながる。

2002年5月、早稲田大学での発言を追及された安倍官房副長官は、参院予算委員会で「憲法第9条第2項……そのような限度の範囲内にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではないとの解釈を政府は取っているということでございます」と答弁したことを柿崎は紹介している。これは祖父の岸首相の見解でもあった。

戦後70年談話について、柿崎は「侵略」、「お詫び」の主語が安倍になっていないことを指摘したうえで、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という部分が核心部分だとする。謝罪に終止符を打つということである。その通りなのだが、わたしがより重要だと考える点については後述する。

教育については、『美しい国』で述べられていることで、柿崎が触れていない個所を引用しておこう。第7章「教育の再生」の「ダメ教師には辞めていただく」の項で次のように書いている。

ぜひ実施したいと思っているのは、サッチャー改革がおこなったような学校評価制度の導入である。学力ばかりでなく、学校の管理運営、生徒指導の状況などを国の監督官が評価する仕組みだ。問題校には、文科相が教職員の入れ替えや、民営への移管を命じることができるようにする。

いくら何でもと思うが、暴走安倍ならやりかねないから警戒する必要がある。

第3章「『国家』とは何か」は「祖父・岸信介と政治改革という二つの源流」という副題が付され、安倍首相の思想を抽出している。

今回の国会審議で、安倍首相の立憲主義に反する手法が批判されたが、それは馬耳東風だろうと柿崎は指摘する。憲法が権力を縛るという立憲主義は王政時代の古色蒼然たるものであって、人権・自由・民主主義を守る現代の日本国家は憲法に縛られる必要がないというのが安倍のスタンスである。

教育基本法改悪の際、安倍は「愛国心というのは両親に対する愛に似ているんではないか」と答弁し、改悪教育基本法には「教育の目標」に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する……態度を養う」という文言が書き込まれた。わたしも『伝統・文化のタネあかし』(アドバンテージ・サーバー、2008)などで、国家と郷土というまったく異なるレベルのものを並列して、郷土を愛する者は国を愛するのは当然だとするのは、国のため、天皇陛下のために死ぬということに疑問を持った特攻学徒が、愛する者を守るため、ふるさとの山河を守るために死ぬのだと自分をごまかしたのと同じ論理だと批判したが、両親と国を同列視する安倍の耳には届くまい。国と親は同じだから、選挙で首相に選ばれた自分が憲法解釈の最高責任者になるのである。

ここで気になるのは、戦争法案反対集会で、「戦争法案は国を滅ぼす」、「原発再稼働は国を滅ぼす」という発言が聞かれたことである。偶然かどうか、二人とも弁護士であったが、そのような論理では安倍首相と同じ土俵に乗ることになる。

これだけでは本書の魅力は伝えきれていないので、ぜひ読んでいただきたい一書である。安倍首相は支離滅裂なのではない。彼なりの論理の一貫性はある。安倍の公式発言を感情を交えることなく積み上げることによって「安倍イズム」を整理し、その危険性を指摘しているのである。

3.帝国主義化を賛美する「安倍談話」

戦後70年安倍談話は、発表前に予期されたほどには反響を呼ばなかった。「侵略」と「お詫び」という単語が入るかどうかが焦点であったが、安倍首相が使いたくなかったこの用語も、外国や公明党への配慮上、組み込まざるをえず、なおかつ主語を自分本人としなかったことによって他人ごとにしてしまって、自分のメンツも保った。柿崎の言う通り、換骨奪胎は安倍の常套手段である。国外・国内ともにそのずるさを指摘する声はあったが、強い反発は起きなかった。国内の右派・保守マスコミは歓迎、右翼は幸福実現党が「英霊を冒瀆する土下座談話」と弾劾した以外は、さほど反応はなかったようである。

「お詫び」を他人事とするということは、謝罪に終止符を打つということであり、「ずるい」ということでは済まされない。わたしもことばづらだけの「お詫び」は必要ではないと考える。世界が納得する歴史認識を示し、それを若い世代に継承していけば、外国からこれ以上謝罪を要求されないだろう。これまでの自民党政権は歴史認識を示さないからこそ謝罪を求められつづけた。安倍政権にいたっては侵略を正当化したいという衝動が露骨である。

安倍談話には、一見、「反省」的な文言が多く連ねられている。アジアの人びとが嘗めてきた苦難が日本の責任であることも明記されている。しかしその叙述に違和感をおぼえるのはなぜだろうか。その原因はまず、「反省」と安倍首相の普段の言動との落差にあるだろう。これまで村山談話などに繰り返し反発を表明してきたからである。だとすれば、「反省」は諸外国に対するリップサービスでしかない。

もうひとつの原因は、文章形式にあると考えられる。「戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや」とあるが、苦痛の原因は五つ前の段落までさかのぼって、ようやく「我が国は、先の大戦における行いについて」だと、何回か読み返してようやく理解できる。村山談話、小泉談話の数倍の長さになったのは、責任を直截的に認めたくないからであろう。日本語作文としてはややお粗末である。

朝鮮植民地支配の文言が、ひとこともないことも注目される。これは、第1次世界大戦以前の侵略行為を不正義としない立場からきているのだろうか。安倍談話の最大の犯罪性は、冒頭の第2段落にある。

百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

勇気づけられた人びとがいたことは事実である。しかし日本からそう主張することは、日本の帝国主義化を賛美することにほかならない。次の段落では、1000万人もの戦死者を出した悲惨な第一次世界大戦を経て民族自決と、「戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました」として、さらに続く。

当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

そして「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」となる。安倍の個人文書であれば「自存自衛の戦いでした」と書きたかったであろう。しかしアメリカをふくめた外国への配慮上、そうは書けなかった。しかし注意深く読めば、衣の下に鎧が見えている。日本が世界の大勢を見失ったのは、欧米諸国の経済のブロック化だとしているのである。日本のせいではないという本音は隠しきれなかった。わたしはこれを「人のせいにする歴史観」と呼んでいる。

安倍談話は、植民地化にブレーキがかかったのは第1次大戦後であって、日本が日露戦争に勝って帝国主義化し、朝鮮を植民地化したのは正当である、問題は第1次大戦後であるというところで、欧米と妥協した。たしかに欧米諸国は日本の帝国主義化自体について、批判はしないだろう。しかしアジアの人びとにとってはどうか。事実、日露戦争での日本の勝利に快哉を叫んだ朝鮮の人びとはいた。欧米帝国主義の圧迫は、日本が自分たちへの抑圧者となるということを予測させないほど強かったのであろうか。

4.「日本会議内閣」

安倍談話は日本の帝国主義化を賛美した。そしてその基底には、靖国神社と日本会議の歴史観がある。第1次安倍内閣、麻生内閣のときに、その閣僚のほとんどが日本会議の会員であるということに注意を払う人は少なかった。

急に注目され始めた日本最大の右翼組織といわれる日本会議とは、1997年に「日本を守る国民会議」(有名人団体、1981設立)と「日本を守る会」(新宗教系運動団体、1974設立)が合併して設立された。会員数などは明らかではないが、実質的に日本会議である多くの大衆団体を擁している。天皇制擁護、改憲、反ジェンダーフリー運動などを展開している。初代会長は塚本幸一ワコール会長、現会長は田久保忠衛、名誉顧問は三好達元最高裁長官。

日本会議国会議員懇談会は超党派で289名が参加しているが、民主党議員で公表されているのは、長島昭久、原口一博、前原誠司、松原仁、笠浩史、鷲尾英一郎である。この6議員については、インターネット上で、民主党から追い出せ運動が始まっている。国会議員懇談会の役員はたびたび入れ替わっているようだが、現在は麻生太郎特別顧問、谷垣禎一相談役、平沼赳夫会長、副会長に安倍晋三、石破茂、菅義偉などが名を連ねている。また日本会議地方議員連盟も活動を活発化させている。その主張を表す文書を長文ではあるが、一点だけ載せておこう。今年の8月15日、靖国神社で「英霊にこたえる会」と共催した第29回「戦歿者追悼中央国民集会」の声明である。

大東亜戦争終結より七十年の歳月を経た今日、戦争の真実も戦後の苦難の歩みも知らない世代が国民の大半を占めるにいたった。しかしながら、現在の国民が享受する平和と繁栄は、国家存亡の危機に際会して尊い一命を捧げられた、ここ靖国神社に鎮まる二百四十六万柱の英霊の殉国の誠心の上に築かれたものである。

にもかかわらず、敗戦後の日本には、東京裁判がもたらした自虐史観をいつまでも払拭せず、英霊の名誉を冒涜する、事実関係を無視した過去のわが国の歩みを断罪する風潮が横行してきた。こうした一部の日本人およびマスコミが作り上げた虚構の歴史は、いわゆる「従軍慰安婦強制連行」など中韓両国が対外宣伝に利用することで、国際社会に広く浸透する結果となっている。

幸いにも終戦70年を迎えて、わが国にようやくかかる風潮と決別し、いわれなき非難を拒否し、正しい歴史的事実を世界に発信しようとする動きが生まれてきている。

昨日、安倍総理が発表した戦後七十年談話もまた、「村山談話」や「小泉談話」で示した「植民地支配と侵略」を認め、「おわび」と「謝罪」を要求する内外からの執拗な圧力にもかかわらず、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」として、日本が謝罪の歴史に終止符を打ち未来志向に立つことを世界に対して発信したことを高く評価したい。(中略)

終戦七十年の年を迎え、我々はあらためて、安倍首相に靖国神社参拝を継続し、「総理参拝の定着」を要望するとともに、英霊の御前において、憲法改正の早期実現を中心とする諸課題に取り組み、誇りある国づくりを目指す国民運動を一層力強く展開することを誓うものである。(後略)

妥協的な安倍談話は、わたしが右翼であれば幸福実現党的な反応をすると思うが、右翼の元締めともいえる日本会議が「高く評価」するのは安倍首相が身内だからであろうか。10月7日に発足した安倍改造内閣は20人の閣僚のうち、12人が日本会議国会議員懇談会に所属し、残りの石井国交相(公明党)を除く7人も、「神道政治連盟国会議員懇談会」、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のいずれか、あるいは両方に所属する靖国派議員である。安倍自民党の単色化は、ここまで進んでいる。

日本会議の歴史認識は、靖国神社の軍事博物館「遊就館」で、毎日上映されている映画「わたしたちは忘れない~感謝と祈りと誇りを~」(日本会議・英霊にこたえる会制作)に過不足なく表現されている。欧米の侵略に抗して自存自衛のために戦ったのであり、朝鮮は自立する力がないから保護してやった、中国は日本が合法的に得た正当な権益を、不当にも返せと言ってきたから懲らしめたというものである。鬼畜米英の精神が貫かれているから、アメリカにとっても不都合な内容である。安倍首相の歴史認識の本音はここにあると考えていい。

わたしは原発震災をふくむ現在の時代を、明治維新以来の大きな転換期にすることができると主張してきた。しかし、安倍政権が復活し、震災の記憶が東北を除いて風化しつつあるかに見えるなかで、その確信は弱まりつつあったことは告白しなければならない。しかし戦争法案反対運動の現場に身を置くことで、やはり転換期は続いていると実感することができた。

安倍首相が無知であるとすれば、これまでの暴走が、みずからの墓穴を掘っていることに無知であるということだろう。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て今春より名誉教授。日本国公立大学高専教職員組合特別執行委員。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『伝統・文化のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

特集・闘いは続く安保―沖縄

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