特集●闘いは続く安保・沖縄

「悪霊」の復活に警戒せよ

安倍戦後七十年談話の隠された意図

神奈川大学名誉教授・前本誌編集委員長 橘川 俊忠

低調な安倍談話への反応

安倍総理大臣の戦後七十年談話が発表されて、早くも二か月が経過した。安倍が、彼なりの意欲をしめしながら戦後七十年にあたって総理大臣談話をだすと言明してから、その後さまざまに議論されてきた状況に比べると、それが発表されてからの反応は、少し拍子抜けがするほど低調であったような感がある。

低調と感じさせる理由は、安保法制をめぐる対立が激しさを増し、政府や与党政治家のいい加減さが次々と暴露され、反対運動も最近にない盛り上がりを見せるという状況で、一総理大臣の談話どころの問題ではないという雰囲気ができていたということかもしれない。また、国外でも、談話の内容に危惧をしめしていたアメリカ合州国の反応が、まあまあであったこと、反発を予想された中国、韓国の反応も、政府レベルにかぎれば厳しい批判は表明されなかったことによって、アジアの緊張を高める恐れがなくなったと判断し、世論もひとまず安心してしまったようにも見える。実際、談話が発表された直後の世論調査では、安保法制の強引な進め方に批判が集中し、内閣支持率は低下し、不支持が支持を上回る事態になっていたが、若干ではあるが内閣支持率は上昇し、談話の内容をよしとする回答の方が悪いとする回答を上回っていた。

こうした状況を生みだしたのには、談話の内容が、安倍の「戦後レジーム」からの脱却という基本姿勢や談話をだすことにかけているように思われた意気込みからみると、随分後退しているようにみえたことが大きく作用した。安倍は、根っからの歴史修正主義者で、彼の「お友達」学者・評論家には東京裁判批判、自虐史観批判を繰り返す、時代錯誤的タカ派右翼ナショナリストが多いことも周知のとおりであった。したがって、安倍の七十年談話は、戦後日本の戦争への反省にもとづく平和国家の在り方を大きく変更するものになるのではないかと予想された。実際、安倍内閣によって武器輸出三原則や集団的自衛権に関する憲法解釈の変更が強行され、自民党推薦の憲法学者やもともと改憲論を主張していた憲法学者からも違憲と断じられた安保法制が国会に提出されるなど、歴史修正主義的方向を実質化する動きがつづいた。

ところが、七十年目の八月が近づくにつれて、安部のトーンは次第に下がっていった。アメリカ合州国が、安倍の歴史修正主義に批判を強めてきたのである。第二次世界大戦における自己の立場を「正義」とするアメリカ合州国にとって、歴史修正主義は絶対に容認できないものであるし、安倍の政治姿勢によって東アジアの政治的不安定が昂進するのは、国益にも反すると判断したためでもある。また、尖閣諸島や竹島をめぐる領土問題、南京大虐殺や従軍慰安婦を中心とする歴史認識に端を発する、日中、日韓の対立も、これ以上緊張が激化すれば、双方の経済的利害に打撃を与えかねないという判断もブレーキの役割をはたした。安倍は、談話の内容を検討するための私的な二十一世紀構想懇談会をもうけ、自分の主張の裏付けをえようとしたが、懇談会は、安倍の真意に反して、以上のような状況に配慮した、歴史修正主義者からみれば微温的な内容の提言を作成した。

このような状況において安倍は、閣議決定を経た内閣総理大臣談話という形式をあきらめ、総理大臣たる安倍個人の談話という形で、自分の個人的所信を貫こうと抵抗をこころみた。しかし、その形式上の違いは、国際的にはなんの意味も持たないという批判をあびて、ひっこめざるを得なくなった。また、安保法制反対の声が、マスコミ各社の世論調査でも60%を越えるという水準に達し、国会前の抗議行動も次第に大規模化するという情勢のなかで、なにがなんでも安保法制の成立させることを最優先するという方針に転換し、七十年談話の政治的争点化を避けるという道を選択したのであろう。その結果、当時マスコミで注目されていた「侵略」「謝罪」などのキーワードをいれ、戦争への反省を表明し、アジア諸国民にたいする謝罪の意志をしめした村山談話・小泉談話を継承するということを明記した安倍談話が発表されるにいたったのである。

安倍談話に仕込まれた「悪霊」

かくして、安倍の戦後七十年談話は、ある意味で当たり障りのないものになった。マスコミが注目していた「侵略」や「謝罪」というキーワードも一応はいり、村山談話・小泉談話も継承すると言明された。インターネットのキーワード検索で事足れりとする程度の発想にとらわれている者には、それで十分かもしれないが、異例の長さの文章のなかには、とんでもない「悪霊」が潜められているのである。

綿密に検討すればいくらでも問題はでてくるが、ここでは特に大きな論点にしぼって検討しておこう。その論点とは、談話冒頭のつぎのような文章である。すなわち「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」という文章である。

これを読んで、すぐ頭に浮かんだのは、林房雄の『大東亜戦争肯定論』であった。今では記憶している人もほとんどいないかもしれないが、林房雄とは、小説家・文芸評論家で、戦前には共産党の活動に参加し、逮捕起訴されたのち転向し、戦後も民族派右翼として論陣を張り続けた人物である。その林が、一九六四年から六六年にかけて『中央公論』に連載し、後に単行本にまとめたのが『大東亜戦争肯定論』である。七百ページをこえる大著を貫く主張は、「私は、『大東亜戦争(太平洋戦争)は百年戦争の終曲であった』と考える。ジャンヌ・ダルクで有名な『英仏百年戦争』に似ているというのではない。また、戦争中、『この戦争は将来百年はつづく。そのつもりで戦い抜かなければならぬ』と叫んだ軍人がいたが、その意味とも全くちがう。それは今から百年前に始まり、百年間戦われて終結した戦争であった」(第一章)という認識であり、「日本は一国のみで約百年間戦わざるを得なかった。他の被征服諸国はこれを壮挙と見、勇戦とながめつつも、その『後進性』の故に日本に協力し得なかったために、『盟主観念』も生れ、『皇道主義』も生まれ、後に東京裁判検察官と進歩人諸氏によって『侵略』と定義された強引な軍事行動も生まれたのだ。しかし、『文明論』の見地から見れば、日本の『東亜百年戦争』は決して侵略戦争ではなかった」(終章)という結論であった。

問われているのは、昭和前期の十五年にわたる戦争であるにもかかわらず、問題を百年前にまで引き延ばす発想、あたかも日本のみが植民地化の圧力に抗して一定の勝利を収め、それが被抑圧諸国に勇気を与えたという論理、その発想と論理によって、林は十五年にわたる戦争を正当化あるいは免罪しようというのである。結論の最後の部分を除けば、安倍談話の発想と論理は、ほとんど一緒である。また、談話ではさらに、「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました」と、孤立させられたために「強引な軍事行動」に走ったという林の論理とぴったりと符合する論理を展開しているのである。

このような論理が、戦争は他国の領土内で行い、朝鮮・台湾を植民地化し、第一次大戦時には中国に対して不当な要求を突き付けるなどの「西洋諸国」と同じ強盗行為を働いたこと、さらに同じ強盗仲間のナチス・ドイツおよびファシズム・イタリアと同盟を結んだことなどの事実を完全に無視した上で成り立っていることは、少しでも歴史を勉強したことがある者にとっては指摘するまでもないことであろう。こんな論理で戦争を正統化も免罪もできないことは自明のことである。

しかし、始末におえないのは、「盗人にも三分の理」ということわざの通り、この主張にも一つ一つの事実に分解すれば、なにがしかの「真理」が含まれている部分もあるということである。というのは、少しでも「真理」があればそれにすがって自己弁護に走るという心理が働きがちになるという人間の弱さにつけこまれるおそれがでてくるからである。いったんそういう心理にとらわれてしまうと、「盗人猛々しい」と責められれば責められるほど、「三分の理」にすがりつく態度を強化し、反省からはますます遠ざかる。安倍談話は、そういう心理を利用して、歴史修正主義への誘導を図っているといわざるをえない。

さらに、問題なのは、林が『大東亜戦争肯定論』を発表した五十年前は、大きな問題となり、論壇では厳しい批判が相次いだが、今回の安倍談話に対しては、厳しい批判は、その当時に比べればはるかに少数にとどまっているという現状である。時間の経過によって、戦争を単なる年表上の出来事としてしか考えられない世代が圧倒的多数になったこと、インターネットのデジタル思考にとらわれたマスコミ・言論界の知的劣化が進んだこと、などが直接の原因であろう。しかし、こういう事態がつづくならば、五十年前には戦前右翼の「亡霊」にすぎないと一蹴できたものが、「悪霊」となって人の心にとりつき、より巨大な悪事を働くことになりかねない。かつて、一評論家の「たわごと」であったものが、内閣総理大臣の公式見解として定着せしめられたのだから、「亡霊」が「悪霊」に転化したという比喩は、ただの比喩ではなくなったと考えるべきであろう。

「悪霊」は「詔書」によって育てられる

ところで、こういう「亡霊」や「悪霊」を発生させ、生きながらえさせる源は、どこにあるのだろうか。それは、歴史をさかのぼれば、いくつも指摘できるが、戦後に限っていえば、その最も大きな源が、一九四五年八月十四日に決定された「詔書」、いわゆる「終戦の詔書」にあることはまちがいない。

この「詔書」は、戦争と戦後を舞台とした映画やドラマ、ドキュメンタリーなどで、今でもたびたび使われているので、知らない人はいないといってよいだろう。しかし、これも「ポツダム宣言」と同様、名前を知ってはいても、中身はよく知らない、知っているとしても、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」という一節ぐらいだという人が少なくない。実際、テレビなどで流されるのは、一九四五年八月十五日正午にラジオで放送された天皇の肉声のこの一節ばかりだから、そうなっても仕方がないかもしれない。それにしても、なぜ「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」ばかりが繰り返し、繰り返し使われるのか。映画やドラマの制作者が、どれほど意識的かは分からないが、これは、あきらかに戦争終結についての天皇の「聖断」という「神話」と結び付いている。どう結びついているかを詳述する余裕はないが、この一節が、最も情緒的反応を呼起す部分であることは確認しておきたい。

それはともかく、「詔書」がなぜ「悪霊」を生みだすのか、を検討しよう。「詔書」の本文は、その原本の写真版とともにインターネットで簡単に見ることができるので、それを参照してもらうことにして、ここでは、論理だけを追っておこう。

「詔書」において、天皇は、まず国民に対して「ポツダム宣言」を受諾したことをあきらかにし、そこに至った経緯を説明する。最初に、戦争の目的は、「帝国ノ自存ト東亜の安定」を願うことにあり、侵略の意図はなかったと弁明する。ついで、戦局及び世界の大勢が不利になった現状と原爆投下という悲惨な事実をあげ、このまま戦争をつづければ、自民族の滅亡どころか、人類文明の破壊にいたることになるだろうとの危惧を表明し、「ポツダム宣言」受諾の理由とする。その上で、アジアの日本協力者に対する遺憾の意と自国の戦争犠牲者・被災者への同情とをしめし、「時運ノ趣ク所」にしたがい、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」戦争をやめることにしたと、その心情を述べる。そして、戦争を終結するにあたって、国体護持という目的は達したから、自分の意に背いて騒乱を起こすようなことはするなと釘を刺し、最後に、将来に向かって、「誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサランコトヲ期スヘシ」と国民を督令して結びとしている。

以上のような「詔書」の論理には、戦争に敗北したという認識は、全く示されていないし、敗戦の責任はどこにあるかについてもふれられていない。それどころか、動機に悪意はなかったにもかかわらず、敗戦にいたったが、その原因は、時局や大勢あるいは時運という主体の所在が不明な要因に帰せられている。さらに、国体は護持できた、だから今後も「神州ノ不滅」を信じ、「国体ノ精華」の発揚につとめなさいというのだから、軍事的には敗北を認めざるを得ないが、道義的には敗北を認めていないということになる。これは、『大東亜戦争肯定論』の立場とぴったり一致する。

この「詔書」が、まだ戦争継続を主張する徹底抗戦派が軍部を牛耳っている状況で、かれらを説得して、「ポツダム宣言」受諾を承認させるという目的のために出されたという事情を考慮すれば、そういう論理を組み立てることについて全く理解できないわけではない。しかし、「ポツダム宣言」受諾後、徹底抗戦派はたちまちのうちに姿を消してしまった。彼等も大勢や時局、時運を行動の根拠とするという論理を共有していたとすれば、その根拠が変化した時、たちまち姿を消すのも当然といえば当然であるが、問題はその後にある。「詔書」作成の直接的目的が、そうして消えてしまっても、その論理を再検討する動きはついに起こらなかったことである。少なくとも、国会や内閣という国家の正式な機関で議論されたという事実は、寡聞にして知らない。また、日本の戦争を軍国主義者による世界征服のための戦争と断じ、戦後日本の非軍事化と民主化を要求する「ポツダム宣言」の論理とは明白に矛盾するこの「詔書」の取り消しを連合国側が求めたという事実も確認できない。

「詔書」は、単なる天皇の「お言葉」ではない。国務大臣全員が連署した国家の最高の意志が示されている公文書である。それが、明確に取り消されていないとすれば、法的形式論の立場からは検討を要するだろうが、実質的には生き続けているといえるかもしれない。今まで指摘してきたような「亡霊」や「悪霊」が、この「詔書」を自覚的に根拠としているかはともかく、彼等がそだつ温床がそこにあることはたしかである。

「悪霊」退散はいかにして可能か

今度の安倍の七十年談話には、その表面的なあるいは外交に配慮した表現の背後に、とんでもない「悪霊」が潜んでいることを指摘してきた。では、その「悪霊」をどのように退散させたらいいのか、という問題がたちまち提起されるに違いない。しかし、即効性のある方法は、残念ながら思いつかない。ただ、いえるのは、戦争の原因を世界の大勢や時運のような主体不明な概念に求めるような思考様式を克服するということが必要だ、ということである。また、なぜ日本だけがいつまでも責任を問われなければならないのか、という先生に怒られたガキによくみられるような心理を棄てる覚悟も求められる。ギャング仲間から、一切の責任を押し付けられ、仲間外れにされ、使い走りとしてしか認められないのが悔しいからといって、ギャング仲間にもう一度いれてくれというのでは、なんの進歩もない。世界は、ギャング化した政治家ばかりが目立つような状況になっているが、そうだからこそギャングから完全に足を洗ったものの価値が増す。

そういう覚悟を持ち得る条件は、歴史の事実から逃げない、そしてその事実に主体的に向き合うこと以外にはない。そのためには、まず、歴史の事実そのものを発掘――実際、七十年前に終わった戦争については、まだまだ明かにされていない事実や忘れられてしまった事実は少なくない――し、その事実の意味することについて徹底的に考え抜くことが必要である。

幸か不幸か、安保法制論議の過程で、「戦後レジームからの脱却」を掲げる総理大臣が、「ポツダム宣言」を「詳らかには」読んでいなかったことが発覚した。それと同時に、読んでいないのは、総理大臣ばかりではなさそうだということもはっきりした。ここは一番、「ポツダム宣言」と「詔書」だけはきっちりと読むことから始めよう。「悪霊」は、読んでいないことによって生じる隙間から忍び込んでくるからである。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任、昨年4月より名誉教授。前現代の理論編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)など。

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