コラム/発信

辺野古・高江・オスプレイを来て・見て・聞いて

自由ジャーナリストクラブ 森 暁男

今、これを書きかけたところに嬉しいニュースが飛び込んできた。沖縄県は「公有水面埋立承認取り消し通知書」を防衛省に提出した。私にとっては我が意を得たりという感じだが、翁長沖縄県知事は毅然と「辺野古埋立には瑕疵あり」と前知事の承認を取り消した。現地辺野古のキャンプ・シュワブ前のテント村は沸いていた。知事の埋立承認の取り消しで政府の新基地建設作業は法的根拠を失った。

午前10時、カヌー隊16隻、抗議船4隻は一斉にフロートを越え、中に突入した(Facebookに画像あり)。海上保安庁のゴムボートも流石にこの日は実力行使に出ることは出来なかった。沖縄防衛局は、14日大浦湾に張られた立ち入り禁止のフロートの撤去を始めた。

私が、辺野古、いや沖縄にこだわるには訳がある。私はかれこれ30年以上に亘り、毎年と言ってもいいくらい沖縄を訪ねている。

キャンプ・シュワブのフェンスに掲げられた沖縄の叫び(辺野古で筆者写す)

今年6月18日、慰霊の日の直前、泉州ユニオンの人たちから、「辺野古・高江」に行こうと誘われた。この目で辺野古の新基地阻止闘争を改めて見たいと飛んだ。

紺青の空とその青さを写し込んだかのような海が日常的風景としてあった。沖縄に住む人にとっては青い海も紺碧の空も日常的だが、本土の人間にとっては非日常の風景である。悲しいかな基地の騒音やジェット機やオスプレイの爆音も日常化しつつある沖縄、沖縄と本土のあらゆる点での乖離に驚く。

翌日、早朝5時、キャンプ・シュワブの正門、通用門を資材搬入車が入るというので、基地門前のテント村を訪ねた。この日は座り込み347日目で6時には既に30名ほどの人が搬入門の前に座り込んでいた。門の前にはガードマンが一列に立ち並び、門を固めている。

キャンプ・シュワブ通用門に座り込む(辺野古で筆者写す)

この日沖縄は快晴であった。7時近くになると辺りに緊迫感が漂う。連日交代で座り込みを続けているメンバーが言う。「無理のないように」と安全に心配りをしているが、その眼には、間もなく機材の持ち込みを図る車両を迎える緊張感が見て取れる。リーダーと思しき人がガードマンにむかって説得的に呼び掛けている。「ウチナンチューとして恥じるようなことをするな」というような呼びかけである。この姿勢は後に出てくる警官にむかっても同様であった。

沖縄の運動の特徴はウチナンチューの視点を覚醒させる努力だ。

搬入車両の到着する時刻だ。突如搬入車は今日は侵入路を正門に変えたようだ。通用門の前に座り込んでいた人たちが正門にむかって疾走する。文字通り疾走だ。大型車両の一隊が正門に入ろうとした。人々はその前に身を投げ出すようにして侵入を阻む。沖縄県警察がゴボウ抜きを始める。

私たちはこれといった座り込みの用意もしていないうえ、バッグ、鞄の類を持っていると基地内に引きずり込まれるから要注意とのことだったので、専らカメラ、ビデオで沖縄県警の取り締まりの暴力性を記録することに徹した。彼らも市民の目を意識しているようでそれなりに効果があったようだ。テント村の人からはこういう現実の状況を本土の人に伝えて欲しい、と要望された。県警の撮影隊は高みからデモ隊を撮り放題だ。その撮影隊を私は下から撮り放題だ。激しいやり取り、ゴボウ抜きされた人はまた戻っていく、そう言うやり取りも30分ほどで落ち着き、今度は正門をガードする警官隊に説得的な呼びかけをしている。

陽はすっかり昇り、ヤンバルの緑の森に陽光が降り注ぐ。結果的にはもちろん機材は搬入されたのだが、つい先程まで激しいせめぎ合いのあったその正門から海兵隊の3人がジョギングに出て来た。私はこの場にそぐわない3人の若い兵士をじっと見ていた。

テント村に着替えに来た73歳の男性の話を聞くことが出来た。彼は、先程車道で3人の警官から歩道に押し上げられた際激しく抵抗し抗議していた一人で、歩道に押し上げられてもすぐ搬入車の前に飛び出し、また押し戻された。腕にもみ合った時の青い痣を作ってはいたが、頑健な筋肉質の褐色の肌は見るからに頼もしい。

男性の名前はつい聞きそびれたが、なんでも茨城から毎月、週単位でカヌー隊の一員として大浦湾・辺野古沖で抗議しているという。ある時には海保にカヌーをひっくり返され、海中に頭を沈められたという。

「ライフジャケットは着けていたんですがね、殺されるかと思いましたよ」と笑いながら話すものの、その言葉は、ここ、今、辺野古で聞くと迫真的な力を持つ言葉であり、私の中にも沸々としたものがわいてくるのを感じた。

「テレビにもよく写されるので『じいちゃんまた出てたよ』と孫に言われるんですよ」と相好を崩した。

「これから茨城に帰るので失礼します」と挨拶されたので、最後に一言お聞きしたいと聞いてみた。

「あなたをこういう行動に駆り立てるものは何なのですか」と尋ねて見た。

「怒りです」ときっぱり!手を振りながら足早に去って行った。

翌日、再び辺野古の海岸べりのテント村を訪ねて見ると当番の人たちが詰めていて、この方たちも毎日「辺野古通信」を手書きで作成、配布したり、次から次へと立ち寄る訪問者に丁寧な説明を繰り返していた。汀の波音、鳥の囀り、群青の空、ジュゴンの姿が見えるのではと思わせる澄明な水、私たちにはかけがえのない非日常的な世界を満喫した。僅か3日間の旅であったが印象的な人との出会いの旅であった。

沖縄は琉球であるべきだ。私が沖縄を訪ねて得たものは、未知なる所はどこでもそうであろうが、沖縄のことは、沖縄に来て、見て、聞いて、初めて分かることが多いということだ。当然のこととして日本という国のあり様をよく見ることが出来たのは、沖縄からであったし、山之口獏の詩をなんとなく分かったような気がしたのも沖縄に来てからだ。目取間俊の「水滴」や、東峰夫、新城卓の「沖縄の少年」を理解出来たように思ったのも沖縄に来てからだ。

思えば2年前、ドキュメンタリー「標的の村」の舞台、高江に行き、ヘリパッド建設阻止に立ち向かう人口150名余の村人たちの24時間張り込みの実像は、想像を超えていた。日本全体の0.1%にも満たないヤンバルに、5000種以上の動物が暮らしている。国際自然保護連合(IUCN)が保護を求めているところであることを知った。そこが東村高江。

ここに造ろうとしているヘリパッドはオスプレイ用であり、辺野古と連携して活用される。辺野古と高江の接点がここにある。辺野古は普天間の危険性除去が目的ではなく、オスプレイの活動と新機能を持った新基地であることが見えてくる。

最近私は、その人の沖縄の理解度を次の物差しで測ることにしている。

① 沖縄の経済は基地で持っている。
② 地勢的戦略的に日本防衛の要は沖縄だ。
③ 沖縄は振興予算の恩恵を受けている。
と疑うことなく確信している人。

若い世代はまだ柔軟に対応すると希望を持っているが、こういう考えを修正しようとしない大人には辟易している。

沖縄の県民がオールオキナワを選択したのはこの3点の無意味さに気付いたからだ。これこそが「構造的差別に他ならない」と気付いたに違いない。問題は本土の問題なのだ。分かろうとしない、知ろうとしない、聞こうとしない・・・。

私は考える。夢物語と言われるかもしれない沖縄の将来、嘉手納をアジアのハブ空港にして国連関係の機関を誘致、キャンプ・シュワブを先端医療基地に、観光と医療、福祉、教育を軸に平和の発信基地としての沖縄、そういうことを想う辺野古あった。

もり・あきお

1940年大阪市生まれ。早稲田大学文学部卒。2001年まで大阪府立高校教員。2001年から一年間、中国・蘇州大学で日本語教員を務める。現在、蘇州大学と交流する大阪府教職員の会顧問。自由ジャーナリストクラブ会員。

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