論壇

官僚的教育行政の確立

戦後教育を問う(その4)―1956年地方教育行政法を強行

前こども教育宝仙大学学長 池田 祥子

1 「日本の戦後を問う」の共通課題の下で

「戦後教育を問う(その1~3)」までに記してきたことは、昨年の「戦後70年」の節目にあたって、改めて問い直された「日本の戦後とは何であったのか?」・・・のテーマに連なるものである。

例えば、ポツダム宣言、アメリカの広島・長崎への原爆投下、日本の無条件降伏、国体の護持の国家的願望と創り上げられた象徴天皇制、日本国憲法(とりわけ第9条)と日米安保条約・・・など、それらの歴史的事実の解明や相互の関連など、いまもなお問われ続けている問題とも関わっている。また、戦前の超国家主義・天皇制全体主義から、戦後の「民主主義」国家への転換の特異性をめぐっても、強制的に移入された「民主主義」なるものを、日本の土壌の下、生きた思想ないし社会の基本原理としていかに血肉化していけるのか、この難解なテーマもまた、戦後教育における民主主義を問い続ける作業に通底している。

ただ、これまでの「戦後教育を問う(その1~3)」で明らかになったことは、確かに教育の民主主義化が課題になりながらも、「教育における民主主義とは何か」をめぐってのじっくりとした論議はなされないままに、文部省は、GHQが内務省批判と解体を主眼としていたのに乗じて、いち早くカッコつき「民主主義(教育)」の推進官庁として命を繋げ、やがて、「教権の独立」論(田中耕太郎)に依拠して、一般行政から独立し、文部省を頂点とするある意味伝統的ともいえる特異な教育行政を確立することになった。いわば文部省の見事な復権であった。また、他方、教育学者・教育行政学者や日教組・民間教育団体などは、アメリカ教育使節団が提示した「公選制」の教育委員会制度こそ、「教育行政の民主化」「一般行政からの独立」「教育行政の地方分権」であると、アメリカと日本の歴史や文化の違いを無視して、まさにその理念を恣意的に過大評価し、肝心の公選制教育委員会の混乱の実態や、地方の財政負担という矛盾や困難にリアルに向き合うことは少なかった。また、「選挙」という政治手法にまつわる複雑な政治力学に、冷静に真向かうこともなしえなかった。

本稿で扱う1951年から1956年は、国際的な冷戦の激化を背景に、国内でも凄まじいイデオロギー的・政治的な対立が露骨に展開された時期である。

しかし、冷静に追跡してみると、そこでは対立している両者ともに、「教育を守れ」「教育を政治で汚すな」という「教育」性善説(教育、よきもの!)に依拠しているうえに、「国民形成」のための重要な教育という、「公教育」至上主義までもが見え隠れしている。

はたして、一人ひとりの子どもの実態や育ちを抜きにした抽象的な、あるいは国家的な「教育」は、何のために、また、何から守られなければならないのか、「政治」と「教育」はどのように関係するのか、「国民形成」のための教育とは、それ自体、極めて政治的な営みではないのか、国家はまるごと教育を包括すべきなのか・・・本当に問われなければならない教育論議の多くが、いまなお素通りされたまま、とり残されているように思われる。

2 戦後教育改革の明らかな方向転換―1951年以降

すでに、「戦後教育を問う(その2、3)」で触れてきたように、アメリカ教育使節団報告書に見るような、「日本の精神界を支配した権力の中心であった」文部省に対する批判や警戒、およびその強力な権力の削減(解体ではない)政策は、教育基本法・学校教育法の成立(ともに1947年3月)、および教育委員会法の成立(1948年7月)までは、GHQ=CIE(民間情報教育局)の強力なポリシーではあった。しかし、戦前の「指揮監督権」をもった文部省を、あくまでも「専門的な指導助言」に限定されたサービス官庁に転換させようとするCIEの統制指導は、形式的には(法文上では)成功したかに見えつつ、実質的には文部大臣の権限は温存され、有能な教育専門官庁としての文部省は、見事に生きながらえたのであった。

しかし、1947年のマッカーサーによる「2.1ゼネスト」(全官庁共闘の無期限スト)の中止命令、1948年1月、米陸軍長官の「日本を共産主義の防壁とする」という声明発表、また同年7月、「政令201号」による、国家・地方公務員のストライキ禁止など、明らかにアメリカの占領政策は強圧的な「反共」へと切り換えられていく。

これがさらに、1949年10月、中華人民共和国の成立、1950年6月からの朝鮮戦争、1951年9月、サンフランシスコ講和条約および日米安保条約締結と続き、国内でも容赦のない政治的な対決が繰り返されることになる。反対する側からの「逆コース」「反動化」「戦後民主主義の危機」と糾弾される、いわゆる過剰なイデオロギー対決の「第二ステージ」を迎える。

あの、「教師の最善の能力は、自由の空気の中においてのみ十分発揮される」という格調高い一節を含む報告書を提出した第一次アメリカ教育使節団が、朝鮮戦争が始まった後に同メンバーで来日し、同じくマッカーサーに提出した第二次報告書(50年9月)では、「極東において共産主義に対抗する最大の武器の一つは、日本の啓発された選挙民である」と述べている。これがリアルな歴史的現実である。アメリカから強要された「民主主義」もまた、きわめて政治的・時代的な一形態であったことを、日本のいわゆる「進歩派・革新派」はなかなかに認めることができなかったのかもしれない。


さて、1951年4月、マッカーサーが解任される。そして5月、後任のリッジウェイは声明を出し、「戦後改革の見直し」、中でも行政制度の見直しを求めた。「戦後教育を問う(その3)」ですでに述べたが、吉田茂内閣は、このリッジウェイ声明を受けて、早速、政令諮問委員会を設置し、同年11月「教育制度の改革に対する答申」の報告を受けている。この答申には、「戦後教育改革」のさらなる再改革(手直し)の方向性が端的に示されているが、中でも、「教科書の検定制度・国定制度の検討」および、「地方教育制度」については着目すべき内容である。とりわけ後者に関しては、教育委員会を「都道府県および人口15万程度以上の市にのみ限定設置とし(全市町村への設置は廃止)」、教育委員は「首長が議会の同意を得ての任命制」とする案が示されている。ここで早くも後の教育委員会制度の大きな方向転換が構想されているのである。

また、吉田茂内閣は、アメリカによる日本の再軍備要求を、憲法9条規定を梃子に、ぎりぎり最小限にとどめる苦肉の策をよぎなくされたものの、しかし、吉田茂首相自身、次のような愛国心教育に支えられる「自衛のための再軍備」路線を目指していた。

― 物心両面から再軍備の基礎を固めるべきである。そこで、精神的には教育の面で万国に冠たる歴史、美しい国土などの地理、歴史の教育により軍備の根底たる愛国心を養わなければならない。(自由党議員総会で。「朝日新聞」1952年9月2日)

事実、第3次、第4次、第5次吉田内閣が手がけたことは、一つは、日教組運動の抑制・沈滞化であり、いま一つは、文部省―教育委員会へとつながるタテ系列の教育行政の安定化であった。

前者に関しては、まず最初に、教員の処遇の安定化を図るために、1952年8月、「義務教育費国庫負担法」を成立させる。教員給与の都道府県負担(1948年以降)から、さらにその半額を国庫負担にすることで安定化させ、教員の処遇からくる不満をまずは抑えようとした。しかし、これは同時に「教職員の政治活動禁止」政策へとつながる。第4次吉田内閣が1953年1月に提出した「公立義務教育諸学校職員の身分及び給与の負担の特例に関する法律案」とは、教員の給与の全額を国庫負担にすることで、身分を「国家公務員」とし、地方公務員以上に、政治活動の全面的禁止を狙うものだった。

しかし、このあまりに赤裸々なアメとムチを狙う法案は、吉田首相の「バカヤロー」発言で衆議院解散により廃案となってしまう。

だが、この法案にかける与党の意気込みは半端ではなかった。1953年5月、第5次吉田内閣は、大達茂雄文相・田中義男文部次官・緒方信一初・中等教育局長という「内務トリオ」という万全な体制を敷いて、いわゆる「教育二法案」をついに成立させる(「戦後教育を問う(その3)」参照、詳細は略)。ただし、身分は「地方公務員」のまま、政治活動の中立違反は、国家公務員並みに全国どこでも処罰されるという内容である。この法案の原案では、「刑事罰」に処せられる、ということになっていたものが、審議の過程で「行政罰(懲戒処分)」に引き下げられた。


ここで少しだけ横道に逸れるが、教員の政治活動は常識的に自由とされるアメリカでも、もちろん公務員である教員のストライキ権は禁止している州の方が圧倒的に多い(禁止してはいない州にオハイオ州、ミネソタ州、オレゴン州などがある)。しかし、禁止している州でも、例えばミシガン州では過去10年間に100件以上の違法ストライキが行われているという(杉田荘治「アメリカの教員のストライキ(その1)」、MaCarthy 「Education Law」2d. )。また、オハイオ州その他では、禁止されていないからといって、ストライキはほとんど行われてはいない。

ただ、アメリカでは、ストライキはあくまでも教員たちの労働団結権の一つという社会的同意がなされており、労働条件をめぐってのギリギリの選択としてのストライキ、という解釈もなされ、処分も通常重いものではない(ストライキ1日について2日分の給料カット:ニュヨーク州)。日本の場合は、対等な労働関係という位置づけはなく、まさしく国家的政治関係が主要に位置づけられているのであろう(国家の「僕=しもべ」「臣民」という感覚を思わせられる)。


こうして、占領下での「政令201号」による国家・地方公務員のストライキの禁止政策が、さらに拡大されて、「地方公務員」という身分・処遇により、教員の政治活動が「中立」という名の下で禁止されることになる。すでに記したことだが、第4次吉田内閣での審議中に来日したアメリカの教員組合(ICFTU・国際自由教員連盟)委員長およびAFT(アメリカ教員組合)書記長ケンズリーが、時の文相岡野清豪に「教師が政治に参加するのは当然で、これを禁止するのは独裁への第一歩だ」と抗議したという(望月宗明『日教組とともに』三一書房、1980年)。着目し続けたい逸話である。

アメリカあるいは西欧社会と日本との「政治」という言葉をめぐる日常的な感覚の違いが、ここにも見られるのかもしれない。「政治」とは、日々の生活の中にも日常的に生起する事柄であり、人々の表現の自由、意見表明の自由の保障の上に、初めて国の政治の「健全さ」が担保される、という政治感覚は日本ではまだまだ根づきにくいのだろうか。  日本の公立学校の教員たちが、公務員という身分で経済的な保障を与えられる代わりに奪われてしまった「政治活動の自由」は、やはり、結果として、教育の中にタブーを設け、教員を萎縮させ、教育そのものを硬直させるものになっていったと言えば、言い過ぎだろうか。見直すべき一つの課題であろう。


いま一つの、タテ系列の教育行政制度確立の課題は、実は、1948年10月の第一回教育委員の直接公選が行われた直後から浮上している。その時すでに冷戦体制が敷かれ、国内でも激しい政治対決が起こっていた。日教組は全力を挙げてこの都道府県(5大都市)の公選に取り組んだ。そもそも教育委員会とは、地方の市民(素人)による学校管理・運営を主とする行政委員会とされたが(Layman Control)、実際は、日教組の運動の成果もあって現職教員の被選挙権は認められていた(当選後は兼職はなし)。したがって、結果として、現職教員の割合は34.4%、前歴が教員であったものを加えると、71.6%であった(新藤宗幸『教育委員会』岩波新書、2013年)。(不思議なことに、教員は、教育の「素人」なのか「専門職」なのか、問われないままであった。)

そのため、文部省は、次の1952年10月に予定されている市町村含めた全面設置のための公選をできることなら避けたいという思惑の下で、1951年2月、前田多門を委員長とする大規模な「教育委員会制度協議会」を設けている。10月、「市町村では任意設置(選択制)」「教育委員は公選、任命、その他、などの意見列挙」の答申を時の文相天野貞祐に提出した。

先に述べた政令諮問委員会が吉田茂内閣の下、設置されたのはこの1カ月後のことであり、ここでは早々と「教育委員の任命制」が明確に選択されている。この後さらにこの答申を受けて、第一次地方制度調査会(会長、前田多門)が設置され(1952年12月)、教育委員会制度の方向転換は、より一層具体化されていった。

したがって、1952年8月の第3次吉田内閣は、10月に迫る第2回公選を前にして、大急ぎで「教育委員会法改正法案」をも併せて提出している。文部省の内部で、すでに方針と条文など検討されていたものであろう。しかし、この法案は、吉田首相の「抜き打ち解散」のため廃案となり、元の教育委員会法に従って、10月、市町村全面設置の教育委員公選が実施された。

このような流れを辿ると、教育委員会の改組と教育行政の統制化(一面では権力集中による効率化)は、吉田内閣が果たせなかったがゆえに、当時の政権与党の、残された最大の政治課題の一つであったことは明らかである。

3 1956年、地方教育行政法の強行採決

1955年10月、内部対立の激しかった左派社会党と右派社会党は、「日本社会党」に合同する。その翌11月、自由党と日本民主党の二大保守党も「自由民主党」として巨大な政権党としての合同を果たした。いわゆる戦後日本の「55年体制」の発足である。因みに、日本共産党も、1955年7月、第6回全国協議会(六全協)を開き、大同団結をなしている。

この自民党結党時の綱領的文書「党の使命」には、当時のイデオロギー対決の赤裸々な姿勢が示されている。少し長いが、以下に引用しておこう。

― 独裁を目ざす階級闘争は益々熾烈となりつつある。/思うに、ここに至った一半の原因は、敗戦の初期の占領政策の過程にある。占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。この間隙が新たなる国際情勢の変化と相まち、共産主義及び階級社会主義勢力の乗ずるところとなり、その急激な台頭を許すに至ったのである(白井聡『永続敗戦論』太田出版など参照)。

1955年12月20日、鳩山一郎首相、清瀬一郎文相の下、第24回国会が開かれる。先の自民党の「綱領」に謳われた「占領政策の大刷新」の方針通り、この国会では、憲法調査会法案、小選挙区法案、防衛二法案など、憲法改正、選挙制度改革などに関連する重要法案も上程されていた。

しかし、この国会では、吉田内閣がし遺した「占領教育政策の大刷新」、その仕上げ作業に焦点が絞られた。いわば「教育三法」(時に「教育二法」とも言われる)の上程である。

① 臨時教育制度審議会設置法案

② 教科書法案

③ 地方教育行政の組織及び運営に関する法案(略して、地方教育行政法あるいは地教行法)

最初の「臨時教育制度審議会設置法案」は、いわゆる中央教育審議会(中教審)が制度化されているにもかかわらず、内閣直属の「臨教審」の設置法案である。そこでは、教育基本法の改正、道徳教育の基準の検討、戦後633制度の再検討、教育への国の責任と監督の検討、等々、まさしくこれ以降の重要な教育改革の課題が並んでいる。そして、この法案は、56年3月13日衆議院を通過したにもかかわらず、内閣は、第3番目の地教行法の成立一本に絞ったため、①と②は、ともに審議未了・廃案となっている。


さて、③の地教行法案だが、法案の正式名称に記されている通り、地方教育行政の「組織」と「運営」に関する、国(文部省)と都道府県教育委員会の「指導的地位」を制度化するものであった。その法案内容の主だったものを列記してみよう。

1 都道府県教育委員会は5人、町村は条例により3人でも可。

2 教育委員は、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する。

3 教育財産取得・処分権、教育予算の原案作成権・支出命令権、教育事務の契約締結権は、教育委員会から、地方公共団体の長の権限とする。(いわゆる二本立て制度の廃止)

4 事務局の長としての教育長の事前承認。(都道府県の教育長は文部大臣、市町村教育長は、都道府県教育委員会)

5 文部大臣の措置要求の規定。教育委員会の事務が「法令の規定に違反している時、または、教育の本来の目的達成を阻害していると認めるとき」

以上の内容以外にも、第23条には、教育委員会の「職務権限」が19項目挙げられている。学校その他の設置・管理・廃止、生徒・児童の入学・就学・転学・退学、学校の組織編制・教育課程・学習指導・生徒指導・職業指導、教科書その他の教材、校舎その他施設・設備の整備、校長・教員・その他職員の研修、関係者すべての保健・安全・厚生・福利、学校その他の環境衛生、学校給食。・・・もちろん、これらの業務の具体的な内容は、それぞれ個別の学校や教員の自由裁量部分もあるであろうが、少なくとも、教育委員会の職務権限が、学校業務のほとんどすべてを網羅していることは事実である。

さらに、第55条では、教育行政にも機関委任事務が設けられ、都道府県知事、都道府県教育委員会、市町村長、市町村教育委員会が国(文部相)の地方機関と位置づけられ、国(文部相)の指揮監督権限が定められている。これらに関して、都道府県教育委員会では、1学級あたりの児童・生徒数の基準設定、市町村の学級編成の認可や、教科書の受領・給付に関する事務などと並んで、「児童・生徒へ特定政党の支持を「教唆」する教員の処罰」までが含まれているのである。

戦後当初の、「教育の民衆統制(民主化)」「教育行政の地方分権化」「教育・教育行政の自主性の確保」を掲げた「民主的な教育委員会制度」が、以上のようなあからさまな「教育委員の任命制」「文部省-都道府県教育委員会-市町村教育委員会のタテ関係の徹底」という法案内容に対して、当然のごとく反対運動も激化する。

全国都道府県教育委員会委員協議会、全国地方教育委員会連絡協議会の反対運動を初め、日教組、小学校・中学校長会、等々、「教育を守る国会請願署名」は725万を超え、国会史上、最高を記録したといわれる(三上昭彦『教育委員会制度』エイデル研究所、p.96)。

また、矢内原忠雄、南原繁、大内兵衛、大浜信泉、安倍能成、蝋山政道、上原専禄、務台理作など、いわゆる「10大学長声明」や、関西でも末川博など「13大学長声明」が出されている。

いずれも、「公選制の教育委員会=教育における民主主義」という前提の下で、「戦後の民主主義を守れ」「文教政策を政争の道具にするな」「教育の国家統制の復活反対」というものであった。

もちろん、行政法学者の田中二郎や、広島大学学長の森戸辰男などは、「公選制の実情を見る限り、公選制でなければ非民主的、とは言えない。任命制でも公正かつ妥当な方法ではないか」という意見など、それなりの説得力を持つ法案賛成論も出されてはいた(新藤宗幸、前掲書、p.125 )

しかし、国会審議は大混乱を来した。日本社会党が清瀬一郎文相の不信任案を提出するや、与党は国会期日を6月3日に再延長し、6月1日、参議院での質疑打ち切り動議を可決し、6月2日、500名の警官待機、20名が国会内に出動して、混乱の中での可決・成立となり、6月30日公布された。

このような与党による審議打ち切り、強行採決の手法は、これ以降もたびたび繰り返されるが、奥平康弘は、法治主義ならぬ「法痴主義以上のもの」と抗議している(『法律時報』1965年8月号、鈴木英一『教育行政』東大出版会、1970年、p.423参照)

事実、常に過半数を維持してきた政府与党は、「数の力」任せに、数々の法案を強行採決という手法で成立させ、その法案遵守という形で、自らの「正当性」を誇示してきた。

この法案審議の過程で、清瀬文相は、先の「10大学長声明」に触れて次のような答弁を行っている。「学長諸君のこの文章もいい文章だと思っております。・・・すなわち教育は政治の動向によって左右されるべきものではない。したがってまた、学長諸君はあまり政治にお口をお出しなさらぬ方がいいのじゃないかと思っております。」「政府のすることに何もかも統制だ、圧迫だ、上からの命令だと考えられるのは、失礼だけれども少し頭が古いと思っているのです。」(『参議院文教委員会議録』21号、20号、鈴木英一、前掲書、三上昭彦、前掲書など)

この清瀬文相の答弁は、残念ながら、国会の委員会での真面目な議論にはなっていない。しかも、東京、関西の多くの学長の声明に対して、明らかに失礼でもある。だが、国会審議とは、数合わせだけで結論ありき。もし、野党が多数派になった暁には、ほぼ同じ手法が繰り返されるのではないか。そのような国民の諦念にも支えられて、与党の暴挙への怒りは真の怒りにならず、野党の反対もまた、国民の真の共感を生み出すことはなかったのだろう。

教育委員会制度とは、そもそもどういう趣旨のものなのか、なぜ、地方ごとの教育行政は育たなくて、文部省に一元化される中央集権型の教育行政に転換させられるのか、国民の多くは理解できないままだったに違いない。

おわりに

今回の論稿は、これまでの「戦後教育を問う(その3)」とダブルところが多かった。

ただ、1956年に強行採決された地方教育行政法の成立の経緯は、どうしても1951年吉田茂内閣の動向を前提にしているために、あえて意図的に重複させたところもある。

いずれにしても、激化する冷戦体制の下で、占領期の「民主主義的な」(カッコつき)教育改革が、急転直下、「反共」の中央集権的な教育体制へと転換させられていくのは、いずれにしても不本意なことだったと思う。

ただ、そのような世界的、外部的な条件が強かったにしても、戦後の文部省や、「民主主義的」と過大に評価されている(旧)教育基本法自体の中にも、国家からの教育統制、国家のための教育(国民形成)という、教育パターナリズムが濃厚であるのは否定できない。 

戦前の教育学者小林歌吉の『教育行政法』の中では、教育行政とは、「国家ガ教育ニ関シテ命令権ヲ実施スル行為」と書かれている。また、小学校教員とは、「国家ノ命令ニ依リ教育事業ヲ担任スル者」とある(金港堂、1900年、鈴木英一、前掲書、p.409参照)

文部省も、また教員もふくめた国民自身もまた、はたして以上のような教師観、教育行政観を、戦後に、どこまで相対化しえていたのだろうか。文部省は、国の教育の隅々にまで目を光らせ、教員の政治的な問題行動を、できるだけ事前にチェックしようとする。一方、教員や国民(保護者)もまた、文部省の全国的な方針や指導を望んでしまう。

このような日本の教育文化の中で、これ自身を相対化できる相互の議論が可能なのだろうか。しかも、冷戦体制下、与党、野党・反対派いずれもイデオロギー過剰であったのも事実であろう。

1956年の地方教育行政法の強引な成立以降、教員の勤務評定実施、学習指導要領の告示(強制的提示)、教科書検定の強化、等々が矢継ぎ早に施行されていく。このような政治過剰の日本の教育を、「教育を政治で汚すな!」という空論で非難するのでなく、いかにして、政治と教育の関係性をつくっていけるのか。

戦後初期の束の間、日本には「民主主義教育」の芽吹きと意欲的な実践の息吹とエネルギーは、確かに存在していた。それを忘れることなく、教育とは?教育行政とは?を問い続けていくことだろうか。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。前こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、歌集『三匹の羊』(稲妻社)、歌集『続 三匹の羊』現代短歌社、など。

論壇

第8号 記事一覧

ページの
トップへ