論壇

戦後日本共産党史研究の現段階

戦後民主主義の問い直しに向けて

大阪産業労働資料館特別研究員 黒川 伊織

はじめに

なぜ日本共産党史の研究は、歴史学・政治学などの学問的研究のなかで、これほどまでに評価されづらいのか。自民党史や社会党史に関しては相当な研究の蓄積があるのに、戦前の非合法時代はともかく、戦後に合法化され、国政政党となってからの共産党史の研究すら、今も忌避する人が多いのを常々実感している。

私は、左派の社会運動を研究対象としている大阪市在住の無党派の兼業主婦である(大変よく間違われるので重ねて書いておくが、私は女性である。高校生の息子いわく「BBA」だ)。しかし共産党にも新左翼諸党派にも、研究対象として以上の関心はない。そのような立場の私に『現代の理論』編集部から寄稿の依頼があったことに最初はとまどった。しかし、距離感があるからこそ書けることもあるだろうと思い、本誌5号に掲載された富田武氏の「戦後日本共産党史の見直しを」に、歴史学の立場から応答するかたちでお引き受けすることにした。

本稿で述べるように、冷戦崩壊後に旧ソ連文書が公開され、21世紀に入って米国国立公文書館(NARA)の占領期日本関係文書が公開されたことで、冷戦史研究(Cold War Studies)を行ううえでの史料基盤は着実に整備されており、その延長上に戦後日本共産党史研究の新たな可能性が開かれることになった。そのうえ、1970年代から80年代にかけての社会運動史研究最盛期に蓄積されたオーラル・ヒストリーの数々や、戦後の共産党を担った有名無名の人々が残した文書群も、いまだ十分に活用されていないままとなっている。つまり、冷戦期の日本共産党史についての研究はほとんど手つかずの状態と言ってよく、その気になれば相当な研究成果をあげることが可能だ。なかでも、敗戦から「50年分裂」の時期については、後述するようにすでにいくつかの研究成果が発表されており、今後の学問的研究の深化が最も期待される研究領域であると言ってよい。

そして肝心の日本共産党は、もはや「党史」への関心を完全に失っている。学問的研究にすら介入してきたかつての共産党の体質を顧みると(井上清「党の規律と研究の自由」『前衛』臨時増刊号、1957年)、それは喜ばしい変化なのだが、研究者としては複雑な感情を抱く。少なくとも、日本共産党中央委員会党史資料室に所蔵される資料は、死蔵することなく、積極的に公開を進めていくべきであろう。戦後の混乱期に、山辺健太郎・酒井定吉ら戦前からの党員が身を粉にして収集した党史資料室の文書類は、有名無名の党員による献身の賜物なのだから。

以下、本稿では、戦後日本共産党史に関する研究史整理を行ったうえで、とくに研究成果が蓄積されつつある「50年分裂」期を対象とする近年の研究状況を紹介していくことにする。

1.冷戦体制下での研究

日本共産党史の研究は、富田武が指摘するように、「共産党は固有の階級闘争観、組織観(労働者階級の前衛、民主集中制)と不可分の「正史」をもつため、その歴史を客観的に評価、叙述することは難し」かったという事情があり(富田武「コミンテルンと日本共産党―旧ソ連アルヒーフ資料から」『歴史評論』627号、2002年7月)、学問的研究の対象として考えられるまでに、長い時間を必要とした。とりわけ、1950年1月のコミンフォルム批判に端を発する「50年分裂」とその収束をはかった第6回全国協議会(六全協、1955年)、60年安保闘争による離党(1960年)、第8回党大会における構造改革派の離党(1961年)、ソ連派の離党(1964年)、中国派の離党(1968年)により、多くの人が党を去り、宮本―不破体制が構築されるなかで、党の「正史」を相対化することには大きな困難がともなった。

1972年に発表された「正史」である『日本共産党の50年』は、日本共産党の創立者のひとりに堺利彦の名を刻んだ画期的「党史」であった。故・犬丸義一ら党員歴史家の努力と献身が、ようやく実を結んだ瞬間だった(犬丸義一「『日本共産党の50年』の発刊に寄せて」『歴史評論』270・272-275号、1972年12月-1973年4月)。しかし、1950年代半ばから60年代末にかけて党を逐われた人々は、『日本共産党の50年』の叙述に激しく反発した。彼ら/彼女らは、公式見解に集約されないさまざまな記憶を語り残す必要に迫られ『現代の眼』など非共産党系メディアで論陣をはった。

1976年に発足した運動史研究会は、運動の当事者と研究者による共同研究の場として、運動史研究一般の深化に極めて大きな足跡を残した(『運動史研究』全17巻、三一書房、1978-86年)。それまで、戦前の非合法時代の運動経験の発掘に軸足をおいてきた共産党史研究が、戦後の運動を担った当事者が自らの運動経験を語りはじめたことをきっかけに、戦後の経験をも視野に入れることになったのだ。とりわけ、痛苦の記憶である「50年分裂」の経験が四半世紀を過ぎて有名無名の当事者の肉声により語られはじめたことは、現在の研究においても参照すべき重要なアーカイブとなっている。

1970年代から80年代にかけては、運動史研究会をはじめ、大阪労働運動史研究会の発足など、各地で当事者と研究者による共同研究の場が生まれた。その要因には、運動史研究一般が戦後歴史学の重要な一環として認知されていたということがある。しかし、このような共同研究の場は、当事者の高齢化と、冷戦体制の崩壊による研究者の運動史研究への関心の低下により、1990年代前半までに消滅するに至った。

2.冷戦体制の崩壊と東アジア冷戦への関心の高まり

冷戦体制が崩壊したことで、それまで門外不出とされてきた旧ソ連の史料が公開され、皮肉にも共産党史研究の史料的基盤が整備されることになった。しかし、旧ソ連の史料公開に最初に飛びついた日本人は、研究者ではなく、マスコミだった。日本共産党名誉議長・野坂参三のスパイ疑惑を報じ、満100歳の野坂を失脚に追い込んだのは、『週刊文春』1992年9月3日号に掲載された小林峻一・加藤昭による記事「野坂参三、同志を売った密告の手紙」である。この記事により野坂を追放した共産党も、不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録―ソ連共産党秘密文書から』(新日本出版社、1993年)を発表して、「自主独立」を掲げる国政政党・日本共産党を「操ろうとした」ソ連共産党を告発するというかたちで、この状況に敏感に反応した。

言うなれば、マスコミと共産党のリークの場となった野坂問題であったが、一次史料を精読する歴史研究者の立場からこの問題に一石を投じたのが、和田春樹『歴史としての野坂参三』(平凡社、1996年)である。和田は、1930年代のスターリン粛清のさなか、同志を売らざるをえない状況におかれた野坂の苦悩をも描き出すことで、野坂による山本懸蔵への告発をたんなるスパイ問題に収斂させることなく、1930年代のスターリニズムの跋扈と大粛清の嵐のなかで、個人がいかにして生き抜くかという倫理的課題へと昇華させた。

しかし、野坂問題以降、戦後日本共産党史に関する学問的関心が日本国内で深まることはなかった。そのかわりに戦後日本共産党を含む東アジアの冷戦史像についての問い直しが、1990年代後半に東アジアの各地から噴出するようになった。冷戦構造が解体して台湾・韓国の民主化が実現するなか、冷戦下東アジアにおける白色テロ―台湾における2・28事件(1947年)、韓国・済州島における4・3事件(1948年)―の真相究明がはじまったことがそのきっかけであった(国際シンポジウム「東アジアの冷戦と国家テロリズム」は1997年から2002年にかけて台湾・済州島・沖縄・光州・京都・麗水で開催されている)。

そしてこのような東アジア冷戦への関心の高まりは、日本にも波及することになる。2004年に、1970年代から個人誌『文学ノート』に自らの「50年分裂」期の武装闘争・山村工作隊の経験を書き綴ってきた脇田憲一の大著『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』(明石書店)が刊行されたことは、東アジア冷戦に関心を抱く若い世代の研究者が「50年分裂」期の運動史に対する関心を深めていく重要な転回点となった。また、2004年度から同志社大学人文科学研究所の共同研究として取り組まれた「近代日本の社会運動家―その書誌的研究」においては、研究代表者であった田中真人が、当事者による手記や回想録を手がかりに「50年分裂」について歴史学の立場から体系的研究をはじめようとしていたが(田中真人「日本共産党「50年分裂」はいかに語られたか」『キリスト教社会問題研究』55号、2006年)、2007年の田中の死によりその試みは途絶した。

2003年に社会人入試により神戸大学大学院博士前期課程に入学した私が、はじめて社会運動史研究の手ほどきを受けた場は、田中が主宰するこの共同研究だった。今もなお思い起こすのは、脇田の著書を紹介しながら、田中が嗚咽をこらえきれず涙を流した姿である。あれから10年以上の時を経て、戦後の社会運動に携わった多くの人々の肉声を聞かせていただくなかで、田中の涙の理由に少しだけ近づけたような気がする。私は決して共産党員にはなれそうもないが(いや、なりたくない)、〈パルタイ〉という自らが信じてきた絶対的権威から切りすてられることへのはかりしれない絶望感は、少しだけ想像できるようになったのだ。

3.「50年分裂」下の経験を問い直す

ソ連邦の崩壊により歴史的正統性を失墜するに至った左派社会運動全般についての研究者の関心は低下を続ける一方であるが、しかし「50年分裂」前後の共産党に対する学問的関心は、前述した2004年前後を画期として逆に高まりつつある。多かれ少なかれ党内の人的対立の解明や理論的対立のあり方に重点がおかれてきたこれまでの研究とは関心を異にする新時代の研究潮流について説明しておこう。

第一に、冷戦史研究の文脈における戦後日本共産党史研究の学問的深化である。外交史の立場に立つ下斗米伸夫が、『日本冷戦史』(岩波書店、2011年)によりソ連共産党モロトフ文書に残された「50年分裂」当時の日本共産党幹部の発言・動向を記した一次資料に基づき、ソ連共産党・中国共産党の視点をも踏まえた「50 年分裂」についての事実関係の整理を行った。よく知られているように、1950年9月に地下潜行中の徳田球一が中国に密航してから、100人以上の党幹部や中堅幹部が北京に送られた。

私は、その生き残りのおひとりから個人的に北京での経験―軍事訓練や日常生活―を伺う機会を得たが、その方が「あれは消えてしまわないといけない歴史なんだ」と呟かれたことに、その方が今も抱え込む深い傷を感じ取った。当事者が抱え込む傷の深さといえば、ロシア史研究者の富田武による『シベリア抑留者たちの戦後―冷戦下の世論と運動』(人文書院、2014年)が描き出した、シベリアからの帰還者をめぐる日本国内の政治的せめぎ合い、そして帰還者のなかでの激しい対立などは、冷戦構造が固定化されていくなかで個々の生が軽んじられていくさまを告発してやまない。

第二に、東アジア冷戦に関心を抱く若い世代の研究者がその解明の手がかりとして取り組んでいる戦後文化運動研究において、文化運動の中心にあった共産党が運動に果たした正負の役割が明らかになりつつある。その嚆矢となったのが、社会学者の道場親信らが編纂した力作「特集 戦後民衆精神史」(『現代思想』35巻17号、2007年)の刊行である。

1950年代前半の東京・下丸子で、地域の若き労働者が文学サークル活動に自らの生を賭け、それに呼応する安部公房ら共産党系知識人との協働のなかで生み出された表現を半世紀の時を経て発掘したこの特集の発行を機に、1950年代のサークル運動に関する研究者の関心は急速に強まった。以降、有志が集う戦後文化運動合同研究会などの場で、サークル運動研究に関わる文学・社会学などの研究者による討論や相互批評が重ねられてきた(1950年代を中心とする戦後文化運動の概要は、文学研究者・鳥羽耕史の『1950年代―記録の時代』(河出書房新社、2010年)にまとめられている)。その過程で、戦後文化運動が生み出した数々のサークル雑誌の復刻も進められた(『ヂンダレ・カリオン(復刻版)』不二出版、2008年、『東京南部サークル雑誌集成』不二出版、2009年、『人民文学(復刻版)』不二出版、2010-11年、『われらの詩(復刻版)』三人社、2013年、『山河(復刻版)』三人社、2015-16年)。

2016年中には、戦後文化運動合同研究会による研究成果をまとめた論文集を刊行する予定となっており、私も朝鮮戦争下の抵抗としてのサークル運動の経験について論じている。戦後文化運動研究をリードしてきたのは文学・社会学の研究者であるが、本論文集の刊行をきっかけに、歴史研究の立場からも、戦後史の証言としてのサークル運動の表現に関心を抱いてほしいと願っている。

第三に、「50年分裂」の経験を、地域の労働運動や社会運動との連動性という視点から捉えようとする研究である。このような研究の担い手は、2000年代以降に社会運動史の研究に取り組みはじめた若い世代の研究者である。1977年生まれの福家崇洋は、アメリカ国立公文書館(NARA)での史料博捜の成果として、「京都民主戦線についての一試論」(『人文学報』104号、2013年)を発表し、ソ連共産党・中国共産党の介入という視点から、革新知事・市長を生み出す原動力となった京都民主戦線が瓦解し、「50年分裂」へと至る過程を描き出した。さらに福家は、1950年前後の京都大学において共産党の指導下に展開された学生運動―その象徴が京大天皇事件である―の経験を、大学文書館に寄託された史料から跡づける作業も行っている(福家崇洋「1950年前後における京大学生運動(上)(下)」『京都大学大学文書館研究紀要』13-14号、2015-16年)。

1974年生まれの私は、市田良彦による「50年分裂」当事者からの聞き取りプロジェクトに参加し、その解題として「尼崎における日本共産党「50年分裂」の展開」(杉本昭典(市田良彦・黒川伊織編)『時代に抗する―ある「活動者」の戦後期』(私家版、2014年)をまとめた。当事者の高齢化によりオーラル・ヒストリーの収集と一次史料の収集が困難になるなかで―それはある意味「歴史化」が完了するということであろうが―、どのように当時の運動の連動性を描き直すか。過去の運動史研究の蓄積に学びながら、その方法を見つけ出さねばなるまい。なお、『時代に抗する』の入手を希望される際には、大阪産業労働資料館(エル・ライブラリー)までご一報いただければ幸いである。

4.一国一党主義を問い直す

ところで、もともと第一次日本共産党史研究に取り組んできた私が、戦後共産党―なかでも「50年分裂」期―を研究対象としている理由は、第一次日本共産党にはじまる一国一党主義の原則が、1955年に日本共産党から在日コリアンや華僑などの外国籍党員が分離して終焉するという一連の流れに強い関心を抱いているからである(詳しくは、黒川伊織『帝国に抗する社会運動―第一次日本共産党の思想と運動』(有志舎、2014年)の終章を参照)。その限りで、日本人コミュニストと在日コリアンのコミュニスト(そして華僑のコミュニスト)が共闘して朝鮮戦争に対する抵抗運動を行ったことを決して忘れてはならないと考えている(黒川伊織「〈まいおちる〉ビラと〈腐る〉ビラ―朝鮮戦争勃発直後の反戦平和運動と峠三吉・井上光晴」『社会文学』38号、2013年)。

そのような観点からすると、六全協に至るまでの日本共産党史の研究とは、一方で在日コリアンのコミュニスト(そして華僑のコミュニスト)による運動経験を研究することでもあるといってよい。実際、戦後再建された日本共産党の最高幹部のなかには、金天海・金斗鎔ら戦前からの運動経験をもつコリアンのコミュニストがいたし、1949年2月には、在日本朝鮮人連盟の方針により多くの在日コリアンが共産党に集団入党していた。在日コリアンや華僑のコミュニストは、「50年分裂」そして朝鮮戦争による弾圧のもと、物心両面で共産党を支え続けた。その経験を「なかったことにする」現在の共産党の立場、そして在日コリアンや華僑の存在を「なかったことにしてきた」冷戦期の運動史研究への違和感(先駆的研究として、戦前期を対象にした岩村登志夫『在日朝鮮人と日本労働者階級』(校倉書房、1972年)があったことを指摘しておく)こそ、私が社会運動史研究を続けていくうえでの原動力になっている。

とくに私が暮らす関西では、在日朝鮮人運動史研究会関西部会を中心に、戦後の在日コリアンの運動経験の発掘を進めてきた伝統が今も続く(朴慶植『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』(神戸学生青年センター出版部、1989年)、金慶海・堀内稔『在日朝鮮人・生活擁護の闘い―神戸1950年「11・27」闘争』(神戸学生青年センター出版部、1991年)、金乙星『アボジの履歴書』(神戸学生青年センター出版部、1997年)など)。さらに近年では朝鮮史研究者の活躍により、一次史料を駆使した新たな研究も続々と発表されている(呉圭祥『ドキュメント在日本朝鮮人連盟―1945-1949』(岩波書店、2009年)、鄭栄桓『朝鮮独立への隘路―在日朝鮮人の解放五年史』(法政大学出版局、2013年)など)。また、1955年の路線転換以降は内政不干渉原則のもと歴史的証言を封じてきた華僑のコミュニストからも、証言が発表されはじめた(大類善啓「ある華僑の戦後日中関係史―日中交流のはざまに生きた韓慶愈」(明石書店、2014年)、郭承敏『ある台湾人の数奇な生涯』(明文書房、2014年)など)。

一国一党主義の問い直しは、戦後民主主義の問い直しでもあるはずだ。1950年代後半以降の「国民」運動の範疇に、果たして在日外国人は入っていたか。戦後民主主義が60年安保闘争や三池闘争を経験するなかで、在日外国人の権利獲得に目を向ける運動はあったか。一国一党主義を手放したのちの共産党が急速に「一国化」していく一方、1970年前後に戦後民主主義から放逐された人々―在日外国人・被差別部落の人々―の問題が可視化されたとき、これらの問題に積極的に関わっていった人々は、共産党と距離のある人々であったと思う(あえて新左翼とは私は言わない)。この反転をどう思想史的に位置づけるのかという問題は、戦後共産党史というマニアックな枠組から共産党史を解き放ち、戦後日本において共産党が果たした正負の作用をできる限りニュートラルに捉える作業の一環となるはずだ。そして、そのような作業により、戦後日本社会における日本共産党という存在の呪縛が、ようやく解かれることになるだろう。

おわりに

さて、最後に一読者としての希望を『現代の理論』に述べて、本稿のまとめにかえたい。大阪市中心部に20年暮らす私は、この10年で住民の都心回帰が進んだことを実感している。息子の通った公立小学校は、卒業までの6年間で学級数が1.5倍に増え、校舎の増築を余儀なくされたほどだ。そして、都心回帰してきた住民のほとんどが団塊ジュニア世代前後の比較的裕福な階層であり、彼ら/彼女らこそが、橋下徹氏の登場に熱狂し、維新の会を支持する層の中核をなしている。なぜ、彼ら/彼女らが維新を支持するのか。私自身は、橋下氏に批判的立場をとるが、東京のメディアが、大阪市のなかに暮らすことで日々感じざるを得ないさまざまな矛盾―市内の南北格差やホームレス問題、行財政改革のあり方―を理解することはあるまい。外部から一瞥して批判するだけではなく、実際に大阪市の内部に暮らして維新を支持する人々の声まで拾い上げる丹念な作業をもとにした冷静な議論の場を提供することこそ、メディアが担うべき役割だろう。

また、今の若い世代は決して社会に関心がないわけではない。大学の講義で「ブラックバイト」の話などをすると、ふだん寝ている学生が起きてきて私の話を聞く。「おかしいと思うことがあったら個人でも入れる労働組合のおじさんたちに言いなさいね~」と話をまとめると、学生は「労働組合って何ですか」と聞いてくる。大学生でも、労働基準法も最低賃金も知らないのだ。

そして、多くの学生が真剣な面持ちで聞くのが、奨学金返済の話だ。半数の学生が奨学金で進学し、その返済計画についての具体的イメージを持たないまま学生生活を送っている。私が国立大学を卒業したのは20年前だが、その時点での奨学金返済予定総額は、無利子で130万円強だった。そしてそれをすべて返済するのに10年かかったことを学生に説明すると、私が教える私立文系の学生は絶句する。彼ら/彼女らが借りている金額は、私よりはるかに多いのだ。「130万円でも10年かかる…」とショックを受けて帰っていく。このように社会の現実から子どもの関心をそらしてきたのは、学ぼうとしない若者にも当然問題があるが、大人にもそのような社会を作ってきた責任がある。

安定成長と終身雇用が崩壊した今、若い世代の生き方は多様化せざるを得ない(そして、より多様化することで、活躍の場をひろげてほしいと私は願う)。多様化する生き方のなかで、さまざまな理由で若者が生活に困窮してしまうことを、彼ら/彼女らの自己責任と考えるのか、そのような社会を結果として作りだした上の世代にも責任があると考えるのか。このような世代間断絶は、上の世代の方々も若い頃に経験されただろう。しかし、2016年の現状はもっと過酷だ。左翼がオルタナティブとして機能するには、「上から目線」で若者を教え導こうとするのではなく、真摯に若い世代の抱える問題に向きあうしかないはずだ。

もはや、努力が必ず報われるような時代ではない。どのような家庭に生まれたかで、人生の到達点を想定できてしまう時代なのだと実感する。すべての人々の生のスタートラインをできるかぎり平等にするために我が身を削る努力こそ、左翼がオルタナティブとして現代に甦るためのただひとつの道であるだろう(「社会主義への道はひとつではない」と山川均は言ったけれども!)。

くろかわ・いおり

1974年広島市生まれ。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程修了。専門は日本思想史・社会運動史。現在、大阪産業労働資料館(エル・ライブラリー)特別研究員。著書に『帝国に抗する社会運動―第一次日本共産党の思想と運動』(有志舎)、『「在日」と50年代文化運動―幻の詩誌『ヂンダレ』『カリオン』を読む』(人文書院、共著)、『戦後日本思想と知識人の役割』(法律文化社、共著)など。

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