コラム/ある視角

詐欺史

「反歴史」「反事実」がまかり通る未来は暗い

小説家 笠井 一成

一九三八年。アメリカ。

ラジオ音楽番組の放送中。突然「番組を中断して臨時ニュースをお伝えします。ただ今入りました情報によりますと××方面に未知の物体が墜落しました」「詳細は今のところ不明」。音楽再開。しばらくしてまた「番組を中断します。先ほどお伝えしたニュースですが、現場からの報道によれば、未知の物体から何かが現われ」……雑音。

視聴者の多くはこれをドラマと思わず事実と信じ、パニックに陥った。有名な「ラジオドラマ『宇宙戦争(火星人襲来)』事件」(演出・オーソン・ウェルズ)である。

 

「一九四一年。日本軍捕虜収容所から脱走したエイナール・ペテルスン=シェムトクヴィストが、ハイダダィフィ島に漂着。島は東部太平洋に位置するハイアイアイ群島の一つで、珍しい動物、鼻行類の宝庫であった。鼻行類はだいたいがネズミのような形態だが、特徴的なのは、鼻で逆立ち状態になって暮らすことである。一九五七年に行われた核実験(実施国は不明)の予期せぬ影響により、群島全域が水没。ハイアイアイ・ダーウィン研究所の貴重な資料はほとんど失われてしまった。しかし、それより以前に一研究員のハラルト・シュティンプケが、ハイデルベルク大学教授・ゲロルフ・シュタイナーに研究草稿を渡していた」

以上は『鼻行類 新しく発見された哺乳類の構造と生活』(日本語版 日高敏隆訳 一九八七年 思索社)の、刊行に至るいきさつである。

本書は脊椎動物門哺乳綱鼻行目を研究した「学術書」、の体裁を整えた偽書である。つまり中身は全部ウソ(作・ゲロルフ・シュタイナー)。

 

二〇〇三年、インドネシアのフローレス島で非常に低身長の人類化石が発見され、調査の結果、新種だと確定された。上野の国立科学博物館にも、このホモ・フロレシエンシス(以下フローレス原人)の生体復元像が展示されている。

フローレス原人は一万二千年前まで棲息していたという。一万二千年前は日本なら縄文時代の開始時期。すなわち「最近」である。

いやいや。最近どころか。実は「フローレス原人は現生する」!

という番組が、アニマル・プラネットから放送されたことがある。

モッキンバードという小鳥がいる。モックとは真似るの意。この小鳥は、オウムや九官鳥のように人真似をするわけではないが、鳴き声が多彩なのでそう呼ばれる。和名もマネシツグミという。

話を戻す。

ドキュメンタリーを真似たのをモキュメンタリーと呼ぶ。

アニマル・プラネットの「フローレス原人は現生する」はモキュメンタリーだった。The Cannibal in the Jungleという二〇一五年制作のフィクションである。

(同チャンネルには、水棲人類説を視聴者に信じ込ませようとするMermaids: The New Evidenceという二〇一三年制作のモキュメンタリーもある)

 

ここまではエイプリルフール的な楽しいウソの例。鵜呑みにしたらワハハと笑われるが、それだけのことだ。

 

ベルリン在住の作家・多和田葉子が書いている(『朝日新聞』「歴史の輪郭ぼやける怖さ」2017.5.19)。

乗ったタクシーの運転手が、移民ではなく珍しいことに金髪の若いドイツ人で、その彼が多和田を日本人と知って話しかけた。

曰く「福島の原発事故は事故に見せかけたイスラエルの秘密兵器実験」「広島に落ちたのは原爆でなく通常爆弾」、と知っていますか?

驚いた多和田が問い返すと、「ネットに書いてある。信用できるサイトだ」と彼は答える。

多和田は呆れ、降車時に言ってみた。「ところであなた、地球が本当は四角いって知っています? ネットに書いてありますよ」

運転手は狐につままれたような顔をしていた……。

保守・革新問わず、史実は史実として共通認識だったのに最近は平気で否定される、みんなが同意していた歴史の輪郭が次の世代に伝わりにくくなっている、と記事は続き、第二次世界大戦のような惨事を再び繰り返さないためには、あれがどういう戦争だったかという認識を共有する必要がある、「もしも、わたしを乗せたタクシーの運転手のように、広島に原爆が落ちたという事実さえ認めない人間が増えていくようなことがあれば、わたしたちは携帯を見ながら運転するドライバーの車に乗せられた客と同じで、大変危険な未来に突入することになるだろう(引用)」と締めくくられる。

このドイツ人運転手も、ある意味ワハハである。但しそのワハハは冷笑。楽しくない。

 

インターネットは情報源として役に立つ。但しそれは、情報の真贋見抜く目があってのことだ。真贋見抜く目を持たなければ、インターネットは危険極まりない似非情報源ともなる。

真贋見抜く目を養うのは書物である。読書を積み重ね、人は判断力と価値観、そして良識を培っていく。ところがこのごろは、本を読まないのが「普通」であるらしい(*)。無知が世間の標準であれば、真贋見抜く目どころではない。

(*)…全国大学生活協同組合連合会の第五十三回学生生活実態調査によると、一日の読書時間は「ゼロ」と回答した大学生は53.1%と過半数(回収数一万二十一人)。

 

さてここに、もう一つのワハハがある。

読書をし、判断力と価値観と良識を培った「はず」の「いい大人」の醜態である。

適例が「神戸の酒鬼薔薇聖斗事件はCIAの陰謀」説と「9・11は米国の自作自演」説。

両方とも一蹴が当然のトンデモ説だが、信奉者は現実に存在する。私が直接知るのは三人で、一人は大学教授、一人は元市議、あとの一人はwikipediaに項目を持つ思想家。三人ともバカではない、と思う。

それでは、「バカではない」彼らはなぜトンデモ説に魅かれるのか。

なんらかの心理バイアスがもともと彼らにあるからだと、私は憶測する。そしてそのバイアスとは、おそらくアメリカ帝国主義に対する敵意である。ちなみに三人とも政治的には左翼である。「あのあくどい米帝ならそれくらいやり兼ねない、いややるだろう」と決める傾向を心の中に持ち合わせているからだと、私は考える。

ところで、この左翼三人が「CIAの陰謀」「米国の自作自演」を信じ込む有様は、何かに似ている。

その何かは右翼である。ホロコーストや南京事件を「なかった」と主張する連中である。

ユダヤ嫌い(なボクはホロコーストを奴等の自己宣伝と思いたい)。日本人は美しい(心の持ち主だから南京虐殺なんかするはずないとボクは思いたい)。「こう思いたい」が先にあり、主観を裏付けてくれそうな「証拠」だけを探し、好都合なのが見つかれば飛びついてのめり込む。反証は見たくない、読みたくない。そもそも「真贋ってどういう意味?」的状態である。

かたや先の左翼三人は、真贋見抜く目の持ち主のはずだ。しかし少なくともアホ説を信じた結果においては、右翼の下種と同一となる。

かくも心理バイアスは、真贋見抜く目すら曇らせる。もしもワハハ的醜態を晒したくなければバイアスは必ず排除すべき、なのである。

あのタクシー運転手の持つバイアスは知らない。反ユダヤかな?くらいは私にも想像がつくが。いや、やはりただのバカだろう。手の込んだ詐欺に遭えばイチコロのタイプである。

 

「オルタナティヴ・ファクト」「ポスト・トゥルース」という言葉がある。「もう一つの真実」などと訳される。

「一面の真理」という表現があるからには、真理の評価軸は複数なのかもしれない。

しかし真実=事実は一つしかない。「オルタナティヴ・ファクト」「ポスト・トゥルース」は、「もう一つの真実」よりも「反事実」とするのが適訳である。

「反事実」が歴史に向えば、「反歴史」となる。

「広島原爆はなかった」「福島原発事故は実験だった」「ホロコーストや南京事件はでっち上げ」は、「反歴史」である。

「反歴史」は「反事実」即ちタワゴトであるから早晩消滅するだろう、とは楽観に過ぎる。そもそもオルタナティヴ・ファクトやポスト・トゥルースという不気味な新語の誕生自体が、反歴史の流行と増殖可能性を裏付けている。

史実の直接体験者が「ゼロ人」になるときは必ず来る。広島原爆や福島原発が遠い過去になり、それらを否定する言説がまかり通っている未来図は暗い。

真贋見抜く目を養い、事実を事実として確認し、その認識を共有する。そして、バカ歴史を未来に伝えようと企む犯人=事実を否定したがる輩を、今のうちに我々は、世の中から駆除しなければならないのである。

 

俗に両論併記という。

対立意見の片方だけを扱うのは不公平だから二つを差異なく取り上げよう、とする態度である。

バイアス排除の客観主義のつもりか、フェアで平等な民主主義という自負か、或いは「偏向だ」という批判が怖いのか。マスコミ(特に新聞)は、よく両論を併せて記載する。

また、「世の中には多様な意見があります。一意見は一意見として尊重しましょう。排除しないのが最低限のルールです。『もう一方の側』として相手を認めることから始めましょう」という手合いが最近、特に若年層に目立つ。

「ホロコーストはない」「南京事件はない」「広島原爆はない」「福島地震はない」は、「意見」ではない。

これらは、いかに科学の裏付けを装い真実に見せかけようとしてもジョークである。騙す意図の有無に関わらず詐欺である。主張者自身が強固に信じていても「だから何?」のタワゴトである。

詐欺的タワゴトは、歴史に対して有害である。

詐欺師の害は取り除かなければならない。

愚説の主張者・支持者だけではない。真贋見抜けないから詐欺を詐欺と分からず、そのくせ変な民主主義だけは身に沁みついていて、「両論併記」的発想をすぐにする輩。詐欺的愚論を「意見」に格上げしてしまう勘違い民主主義者たちも、我々は排斥しなければならないのである。

 

ペテン愚論は最後までペテン愚論である。歴史を欺くペテン愚論が「もう一方の側の意見」として「尊重」される道理は、天地のあいだに一つもない。

有害な詐欺師に「表現の自由」権など、与えられない。有害ペテン師の有害タワゴトは、「表現」の名に値しないからである。

有害詐欺師と、それにまんまと騙された信奉者と、有害詐欺師に居場所を用意する勘違い平等主義者。この三者は、アホ歴史を未来に伝えないためにも、人類知性の名において撲滅されねばならない。

「世の中には多様な意見がある」、ではないのである。

かさい・いっせい

1959年生まれ、京都市左京区出身。旧ペンネームはヨーゼフ・Kまたは闇洞幽火。1990年「犬死」が第22回新日本文学賞候補作。1992年「希望」が第23回新日本文学賞候補作。1993年「特殊マンガ家の知性」が第1回マンガ評論新人賞最終銓衡作。著書、『形見のハマチ』(近代文藝社 1995年)、『はじめての破滅』(東京図書出版会 2009年)、『父と子と軽蔑の御名において』(牧歌舎 2011年)、『不戦死』(風詠社 2016年)、『血魔派の三鷹』(幻冬舎 2017年)。

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