コラム/百葉箱

時代精神を受け継ぐこと

ある戦中派教師・ライブラリアンの評伝から

ジャーナリスト 池田 知隆

新元号「令和」のもとで、時代はどのように動いていくのだろうか。平成が過ぎ去り、昭和の記憶はさらに遠のいていく。天皇制によって「時間を支配する」元号の是非はさておき、日本独自の歴史的区分で時代を見直せる機会がもてるのはいい。いま、何を受け継ぎ、次の世代に何を語っていくのか。

今春、古稀を迎えたのを機に自らの人生を振り返りながら、それに先立つ父母の歴史から何をどこまで学んできたのか、考えさせられている。歴史を貫く時代精神とはいったいどのようなものか。そのことを考えるために無名の国語教師の評伝『読書と教育―戦中派ライブラリアン・棚町知彌の軌跡』(註1)を書き、このほど出版した。そこに見え隠れするのは現代につながる日本のエリート的知性の光と影だった。

時代に寄り添う

その教師の名は、棚町知彌。九州にある国立有明工業高等専門学校(五年制)で、15歳の私に、まだ30代だった棚町は熱く語った。本を開くことは深く考えること、生きることにつながる、と。もう半世紀以上も前のことだが、その姿がいまも鮮やかに甦る。

「国語とは、自分と世界のかかわりについて語ること、国を語ることでもあります」

「私の講義を聴いても何にもならない。私の講義は消化剤であり、ビタミン剤である。栄養はすべて本にあります」

『キュリー夫人伝』(白水社版)に始まり、漱石の『三四郎』など岩波文庫を課題図書として次々と差し出した。講義では、まるでカラオケでも歌っているかのように朗読し、試験は読書感想文を書くことだった。3年間の国語教育の集約として、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(白水社版、全五巻)を読了しなくてはならなかった。

いわば強制的に小説、それも長編小説を読ませようとした。どんな時代を生きているのか、しっかりと考えさせようとした。いまでは日本のどこにも見当たらない「化石」のような熱血先生だった。いったいなぜ『キュリー夫人伝』に始まり、『チボー家の人々』で終わるのか。それは棚町の人生を追うことで見えてくる。

棚町は、私より2回り上の丑年。作家の三島由紀夫、丸谷才一、落語家の桂米朝とおなじ1925(大正14)年生まれ。司馬遼太郎(作家)より2つ下、吉本隆明(思想家)より1つ下で、ちょうど私の父母の世代にあたる。2010年7月に享年84で亡くなったが、その経歴を簡単に紹介しておこう。

東京都の生まれ。父丈四郎は思想検事。旧制成蹊学園(東京・吉祥寺)で学び、戦時中、在校生総代として出陣学徒への「壮行之辞」を読む。北海道大学理学部数学科に進学したが、「徴兵猶予」取り消し手続きをして中国戦線へ。

敗戦後、占領軍の民間検閲局の下で働き、演劇関係の表現物の検閲に従事した。九州大学文学部国文科に入学し、博多工業高校、国立有明高専で国語など担当。山口大学、長岡技術科学大学の教授、国文学研究資料館研究部長、園田学園女子大学近松研究所所長を歴任した。

皇国少年から占領軍の検閲官、数学から国文学、北海道大学から九州大学、工業教育改革から近松門左衛門の研究……。神道・戦争・敗戦・占領軍・検閲と、まるで昭和史の急所に触れて生きるような揺れ幅の大きい人生行路をたどった。終始、時代の機微に深くかかわる生き方だったといってよい。

〝洗脳〟すること、されること

晩年、皇国少年からGHQ検閲官になったことを聞かされ、驚く私に棚町は「時局対応能力は抜群なんだ」と自ら言い、「目の前の当面のことに全力をあげてとりくむのが私の悪いくせ」と苦笑していた。「検閲局では最後まで日本人でトップの仕事をしていたよ」といくぶん誇らしげでもあった。アジアの解放、天皇中心の八紘一宇など日本中心に世界が回っている「天動説」視点から、欧米世界から日本を相対化してみる「地動説」視点へ。敗戦によってそれまでの自らの「信念」が根こそぎに奪われ、社会を見る目は180度のコペルニクス的転回を迫られても、そつがなく対応している。どこまでも周囲から期待される「優等生」としての生き方を棚町は貫いた。

ただ、皇国少年として「〝洗脳〟された」側から戦後、GHQ検閲に日本人スタッフとして「軍国主義下にあった日本人を〝洗脳〟する側」に移ったとき、心の奥に澱のようなものが残っていた。GHQの〝洗脳〟作業は見事な成果をあげ、戦前の天皇と臣民の関係は米国と日本の関係にすり替わり、戦後政治の動向に「第3の〝洗脳〟」を見ていた。その対処として個人的に取り組んだのが棚町式読書鍛錬術だった。

自分の頭で考えること。正々堂々と生きること。本当に豊かな心で、自分が本当に感じたことを大切に、社会の問題を考えたり、自分の身近なところから人生や自然や社会への理解を深めたりしていくこと。「戦中」派の国語教師として若い世代に熱く語り継いでいった。

棚町の歩みはそのまま日本の近代史と重なっている。私はその人生行路を追い、評伝を書き進めるなかで、私だったらどのような選択をするのか、問い続けた。棚町の人生にある評価を加えれば、そのまま自分に戻ってくる。刀で切りつければ、その切り口から噴き出す返り血を浴びることに甘んじなければならない。自分という人間に巣くっている俗物性も露出させる。そうやってみると、棚町の人生を通して今日の現代的課題も浮き彫りになってきた。

『菊と刀』も通用

「(この本で)米国の文化人類学者、ルース・ベネディクトの『菊と刀』の分析を想起したよ」。友人からのメールにそんな感想があった。

「彼女は日本人の身の処し方を、日本人がよく使った表現『各々其ノ所ヲ得』という表現の中に見いだした。目の前に現れた現実、事実、場を受け入れ、そこで全力で献身していく。日本人の、戦時中から敗戦直後への変わり身の屈託のなさに驚きをもって受けとめ、分析している」と。

その言葉にはっとさせられた。ベネディクトの指摘は、棚町の多彩な選択にもそっくり当てはまると思えたからだ。「日本をして日本人の国たらしめているところのもの」とは何か、という疑問からベネディクトは欧米と日本の文化の違いを「罪の文化」と「恥の文化」と分けたことはよく知られている。欧米では「道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みに」する。これに対して、他人の批評こそがもっとも気になる日本人にとっては、恥こそが大きな強制力になる、という日米の比較文化論だ。

例えば、日本軍兵士にとっての「名誉」とは、死ぬまで戦うことだった。ところが、いざ実際に捕虜になったとき、日本人としての命は終わったのも同然と受けとめ、逆に「模範的な捕虜」になり、自軍の武器弾薬の場所や兵力配備を教えたりするようになったというのである。「日本人の行動は、ある一つの行動方針にすべてを打ち込んで、しかもそれに失敗した時には、別な方針を取ることは当然なことと考えているかのようであった」。 戦争が終わるや、「死ぬまで竹槍をもって戦うことを誓った」はずの日本人が、米軍占領部隊が進駐してくると、がらりと態度を一変させて友好的な姿勢で迎えた。欧米人にはそれは到底理解できないことだった。

機を見るに敏な日本人の「現実主義」。状況が一変すると自らの立場をガラリと変える。ベネディクトは、日本人が自分の位置を理解して態度を決めるのだととらえ、「各々其ノ所ヲ得」を日本民族の原則だと見なした。国としても個人としても、置かれた状況を重視し、それに応じて方向と行動を決め、そこに日本社会の階層制度に基づく発想と文化を発見した。

だから敗戦を迎えると、日本人はその事実を受け容れ、今度は新しい事態のもとで「所を得る」ように対処していく。無気力から立ち上がり、民主主義と自由を受け容れ、他人(欧米人)から「尊敬を博する」ことに力を注ぐように方向転換した。企業の中で社員がそれぞれの場で役割を果たすことに目的達成の満足を覚え、これを得意にしてきたのも「所を得る」こととつながっていた。友人はそのようにベネディクトの『菊と刀』を紹介している(註2)

「恥の文化」は

このベネディクトの分析は現代の日本社会にも通用する。常に「所を得る」ことを求めてきた棚町の生き方はまさに日本人の典型的な生き方をたどっている。だが、なにも恩師の人生を批判しているわけではない。むしろその場その場で熱情をたぎらせて生きた姿に深い感動と敬意を抱いている。ただ、それでも相対的に見る視点を失ってはならないだろう。

日本人はいまもなお、その階層制度の中に生きていることを知るべきではないか。戦中と戦前の軍国主義を払拭したとはいえない。その独特の思考法、行動様式は現代日本人の体内に深くしみこんでいる。新しい事態が生じれば、日本人は一瞬で『各々其ノ所ヲ得』て、社会は激変するのだ。

このところ相次ぐ政治的な不始末をよそに不思議と勢いを保ち続けている「自民党一強」の政権。上位の権力に対する過剰なまでの配慮を意味する「忖度」という言葉がはやり、そのような精神的な流行が官僚たちを縛っているようだ。頭のいい人はいつの世にもたくさんいるが、「優等生」とされる人は時代の先端に身をまかせていくほど、その時代の波形は見えなくなりがちだ。そしていまや「恥の文化」さえも見失われている。

「世界から考える」か「日本から考える」か

時代の「勢い」に流されず、自立して考えていく姿勢を保つにはどうすればいいのだろうか。人間は、自由を求めながらも、簡単に滅私奉公してしまう存在だ。そのことを国家によって強制される存在でもある。世界の一切から自由な個人というものは存在しないし、組織や国に帰属してしか人は生きてゆけない。また人間は、正しさだけで生きられるものでもない。他人や理念のために生きることがあり、それらの葛藤の中で生きることも強いられる。

かつての戦前の時代には、多くの人は最初のうち、正しい戦争だと信じ、ごくごく自然に戦争に協力していた。やがて自主的に積極的に戦争協力させられていく。それが戦争の怖さだ。「私は洗脳されない」「私は詐欺にはひっかからない人間だ」というような感じで、「戦争が起こりそうになったら、事前に反対できる人間である」と考えているようであれば、戦争の阻止には役立たない。いまの時代がどのように動いているのか、見究めるのはかなり難しいことである。

棚町が「第3の〝洗脳〟」と見た時代の勢いをどうとらえるか。社会全体が個人を飲み、一定の考えに染めていく背景には、権力者による「思想戦」が展開されているとみることもできる。メディアを取り込み、国民すべてを動員していく国家の総力戦体制といえるものがそれにあたる。メディア研究者の佐藤卓己・京都大学教授が著書『ファシスト的公共性―総力戦体制のメディア学』(岩波書店)を通して提起している課題は重い。

佐藤教授は、「思想戦のかけ声の下で整理統合されたメディアと情報体制は、ほとんど無傷で占領体制に組み込まれた」と指摘する。さらにその「日本軍国主義の情報統制体制」は、占領軍の情報管理にも、さらにその後の高度成長時代にも「適合」していたとみなしている。しかし、福島第一原発事故を機に、政界、財界、メディアがそろって「原発の安全」を唱えてきた欺瞞性が露呈された。「第3の〝洗脳〟を許してはならない」との棚町の叫びが彼岸から聞こえてきそうだ。

歴史をつなぐ縦糸

本当のところ、世界はどうなっているのか。情報が洪水のように氾濫しているなかで、何が事実なのか、見えにくくなっている。トランプ米大統領の登場で「ポスト・トゥルース(脱・真実)」といった「新しいポピュリズム現象」が現れて、フェイク(虚偽の)ニュースによって人々の政治行動が左右される状況が生まれている。それは既に戦前の日本にもあったことだ。これからの新たなファシズムが起こるとしても決して悪のイメージをまとって出てくるわけではない。

坂口安吾は戦後すぐに著した『堕落論』で、戦前期の日本は「人間は考える葦でなく、ただ歴史の渦に巻き込まれているというわけだ。……日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない」と書いている。冷静に考えれば、日本は米国と戦争などできるわけがない。それなのに戦争に突入するというのは、どこかで日本人は考えることを放棄していたのではないか、と。

今日に引き寄せれば、聞けば、なんでも答えてくれるスマホを手にした世代を目にしたとき、安吾は「日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供」との嘆きを繰り返すだろう。

かつて戦後民主主義をリードした政治学者の丸山真男は「確たる理念や価値判断」を伴わない「なりゆきのままに」という姿勢を生み、日本では近代的な主体が確立しにくいと論じた。いつまでもそれでいいはずはない。先人から学び、承継していかなくてはならないものがあるはずだ。

世界にはいま再び、自己中心の「天動説」の時代に戻ろうとしているかのようだ。それでも、世界から日本を考える「地動説」の視点に立ち続けること。それは不断にこれから努力して行かねばならないきわめて困難な課題でもある。恩師の人生を〈旅〉しながら、そのようなことを考え続けた。

註1 『読書と教育―戦中派ライブラリアン・棚町知彌の軌跡』(池田知隆、現代書館、2019年4月刊、2000円+税)

註2 豊田企画制作舎「和風」原論 

いけだ・ともたか

一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著書に『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

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