コラム/温故知新

関東大震災と南葛労働運動(下)

下町の労働運動史を探訪する(4)

現代の労働研究会代表 小畑 精武

戦前の東京35区時代と23区時代の区(亀戸・南葛地区)

旧南葛飾郡の郡役場庁舎。
現在の江戸川区小松川にあった

・深川区+城東区⇒江東区(この中の向島区に隣接している所が亀戸)
  *城東区、向島区、葛飾区、江戸川区
  のエリアは区制が布かれる以前は南
  葛飾郡といわれ、郡役所は小松川
  (江戸川区)にあった。
・本所区+向島区⇒墨田区
・浅草区+下谷区⇒台東区
・京橋区+日本橋区⇒中央区

平澤計七と純労働者組合 

本稿では、生活協同組合や労働者の信用組合(労働金庫)の提案者でもあった平澤計七の活動の経過を追い、関東大震災前後の東京東部の労働運動の苦闘を探訪する。

亀戸事件で習志野連隊の兵士に殺害された平澤計七は34歳、最も年上だった。渡辺政之輔は24歳、獄中にいて運よく難を逃れた。純労働者組合(純労)の計七は「地域コンミューンをめざしたアナーキスト」と見られていた。しかし、西田勝(元法政大学教授、平澤計七の研究者)は「アナーキズムの信奉者」でも「コミュニスト」でもない。彼自身自分の立場を「強いてあるといえば俺主義」だと称していたと「新組織」(1921年11月号所載『愛と憎厭』)を紹介している。「既成のイデオロギーに囚われることなく、何よりも自分の眼で観、自分の頭で考えて行動していました」と平澤計七から「人間の主体的な思考と行動」を学ぶべきだと強調している。そして「労働者の最大の『敵』は、資本家であるよりは、ほかでもない、労働者自身の心のなかにある卑屈さ、雷同性、非自主性だと見ていました」と平澤が展開する労働劇の背景を指摘している。

亀戸事件で殺された社会主義者、労組活動家10人のうち8人が南葛労働会、2人が純労所属であった。最年長の計七は純労の主事(書記長)を務めていた。純労は当初友愛会に属し、平澤は左翼化、戦闘化する友愛会のなかでは穏健派ともいえる立場だった。計七は1889年新潟県小千谷に生まれ日本鉄道大宮工場(現JR東日本大宮工場)で父親と共に働き始めた。そこで文学に惹かれ「文章世界」「少年倶楽部」などに投稿している。日露戦争に非戦的立場を取った劇作家小山内薫に憧れ、自ら書いた戯曲を持って師とする小山内宅を訪ねている。新橋工場に移り、20歳になって徴兵で習志野の近衛歩兵第2連隊に入隊、1912年に浜松工場へ異動した。洋式鍛冶工として子分もいた。

東京には1914年秋に上京し、大島町(当時)の東京スプリングに就職。同時に友愛会江東支部に入会。まもなく友愛会の機関誌「労働及産業」に「一労働者」と題する小説を投稿している。鈴木文治会長渡米全国労働者大会ではスピーチをしている。

計七が友愛会本部書記に、城東連合会の結成 

上京から1年もたたない1915年4月には10名以上で設立できる分会を寄席「羅漢亭」で大島分会として設立、7月には早くも100名で設立となる大島支部に昇格した。同時に労働者短歌会を結成して「労働及産業」紙面を労働者短歌が毎号賑わかせた。友愛会会長の鈴木文治は「彼は面白い男だ」と評価し、本部書記に抜擢。その頃友愛会の中に、後に日本共産党の議長となる野坂参三が提唱者となって労働問題研究会がつくられ、計七も参加している。

しかし計七は徹底的なインテリ嫌いだった。友愛会編集部員として計七は労働者むきに紙面を読みやすく楽しめるように工夫している。その頃の友愛会本部で労働者出身は計七と松岡駒吉ぐらいだった。松岡駒吉は日本製鋼室蘭工場のストライキを指導し、後に総同盟会長、社会党代議士になる。本部には棚橋小虎、麻生久など大学出の学士が入っていた。

1918年野坂参三がイギリス留学に出発、計七は出版部長になる。この年は第1次世界大戦後の不況下で米騒動が全国で起こり労働争議が広がっていった。そうしたなかで亀戸の隣町にある大島製鋼所でストライキが起こった。10月には東京鉄工組合が産業別組織として発足。計七は亀戸、大島、城東、鶴東の四支部による城東連合会を結成、12月には亀戸の五の橋館で500人が参加する演説会を開催している。

 連合会には倶楽部、図書館、弁論部、文芸部、家庭部、余興部、労働問題研究部、労働争議調停部など13の事業部門。労働倶楽部では将棋、蓄音機、図書室があり、地域に対して「招待会」を開催して職制、町長、警察署幹部などを招き、寄付金までもらっていた。

友愛会を脱退、純労働者組合(純労)を結成

1919年6月計七は友愛会出版部長を辞任、背景には棚橋たちとの激しい路線論争があった。友愛会の急進化をはかろうとした知識人グループに追われたのだ。計七はロシア革命を「生きる光明を与えたり」と評価していたが、日本の資本主義は弱く、階級闘争よりも労使共同で労働者の地位を向上させることを中心に考えていた。

7月に起こった大島製鋼所の3割賃上げ(2割で妥結)、久原(のちに日立)製作所亀戸工場解雇反対争議は21日間のストの後に敗北。8月久原製作所請負工の争議を指導、最低条件で妥結。その際重役と妥協工作をしたとの責任を問われ、戦闘化しつつあった友愛会関東大会で平澤計七弾劾決議があげられた。亀戸支部の渡辺政之輔(のちに南葛労働会を結成、日本共産党の委員長)と東京鉄工組合の山本懸蔵、棚橋小虎らが弾劾決議に同調した。

弾劾された計七たち城東連合会組合員約300人は20年10月2日に純労働者組合(純労)を計七宅で結成(計七は主事)することになる。下町労働運動はやくも分裂を味わうことになる。

小説、演劇、労働者文化を追求

平澤計七は労働運動のリーダーであるとともに、小説家でもあり、演劇による労働者の啓蒙と社会改革を主張し実践した。計七の純労は労働争議だけではなく、労働者文化を追求していた。労働者劇団を組織し、自ら脚本を書き、演じることもあった。1916年には戯曲「工場法」を執筆。機械工職人が工場で怪我を負い100円の補償金が出ると聞いて、使い道をめぐり妻と喧嘩になるが、実際には20円しか出ない。それが工場との手切れ金になると忠告する片腕の古本屋の老人を無視して、受領印に拇印を押してしまう。老人は「指のけが位じゃだめだ。足をきれ、目玉をつぶせ、死んでしまえ。死ななきゃわかるまい。意気地なし。意気地なし。」と絶叫する筋書だ。

1921年には以下のような規約をもって「労働劇団」を結成している。

本劇団は労働劇団と称す。
  本劇団は民衆芸術革命の為に存在する。
  本劇団は技芸員であると同時に観客である会員組織とす。
  (中略)
  第九条 本劇団は当分の中事務所を東京府下大島町(現江東区、亀戸に隣接)2丁目
  31番地大島労働会館に置く。

この劇団の特徴は第3条にみられる「演ずる者」と「観る者」を一体化することによって一方通行ではない、双方向での認識の深化をねらった先駆的な取り組みにあった。

亀戸を舞台にした「石炭焚(たき)」という戯曲もある。ある職工がいい金になるから鉄を溶かす炉に石炭をくべる仕事につかないかと誘われ応じる。だが仕事は午前4時から午後8時まで、休みも月2回しかない。過労の結果、やせ衰え、夫婦げんかが絶えず、娘も煤煙のなかで呼吸病になって死んでしまう。すでに1916年(大正5年)に労災が公害問題と結合していることを提起している。

当時の下町を描いた図画には煙突が街を林のごとく林立している。労働者にとっては労災であり、地域住民にとっては公害だった。戦後になっても同地区には1970年代に環境汚染と鼻中隔せん孔、肺がんをもたらした日本化学の六価クロム問題があった。公害問題は「東京に青空を」訴えて美濃部都知事が1967年に当選する後まで続いた。

「大島に労働者コンミューン」

計七はさらに大島に理想的な労働者の街をつくろうとした。1920年10月の純労働者組合結成後間もなく、日本ではじめての本格的な消費組合(生協)共働社がつくられ、純労の大島労働会館に店を開いた。翌年の第一回総会では余剰金の処分案としてその4分の1を労働運動基金とすることが提起され、まもなく日本鋳鋼所の争議支援で実践される。

設立から半年までの決算書では、全購買高6077円で利益は663円、半分を配当金、70円を争議援助金やスト支援金に回した。掛け売り制を取ったものの未払い組合員はゼロに近かった。

翌21年3月には、これまた日本ではじめての信用組合労働金庫を設立している。現在の労働金庫は1950年に岡山と兵庫から始まったから、その30年前だ。関東大震災後に神戸から救援に来たキリスト者賀川豊彦が本所(現墨田区)に中ノ郷信用組合を設立するのは遅れること7年(1928年)。5月の預金高は3655円、貸出高は1301円。スト中の労働者から「借入請求」が殺到したという。

                        分離運動宣言
 我らは共同自治の新社会を理想とする。(略)ただ合理に目覚めない少数の特権階級が、我欲の立場から故意にこの理想に反対する。あるいは理想としては善いが実行が不能だという。(略) 来たれ!共同自治の新社会へ!  東京の郊外、東都工業の中心地に大島労働会館がある。労働会館と名付けるには梢々狭隘を感ずる日本造の家屋であるが、それでも8畳の座敷が3個も連続する広間があり、大小10個の部屋と、250坪の広庭を有し、消費・・・

さらに、21年6月には「資本主義からの分離、共同自治の理想社会」実現を志した「分離運動」のアピール(上)を発する。労働者のための夜学校「文化義塾」も立ち上げている。

まさに「大島に労働者コンミューン」である。このロマンは戦後労働運動の高揚のなかの「東部ソビエト」構想と東部7地区労による東部ブロック共闘の運動に繋がっていく。

関東大震災直後の渡辺政之輔

関東大震災の頃、総同盟内の左右の分岐は広まっていったが、まだ深刻ではなかった。むしろ、大震災の被害に対する救援、官憲による亀戸事件への抗議と下町労働者への多大な支援が統一的に行われた。その中心を担ったのが東では総同盟の鈴木文治会長であり西(大阪)では西尾末広だった。

殺害を逃れた渡辺政之輔は南葛労働運動の再建に身を投じた。幸い亀戸の南葛労働会本部は無事であったが、川合義虎はじめ8人の活動家を失った南葛労働会への影響は大きかった。主事の平澤計七が殺害され、再建を担うべき戸沢が大阪に逃れた純労も亀戸事件以降解体状況に追い込まれる。

渡政は市ヶ谷刑務所を1923年12月28日に仮出獄し、ただちに翌24年2月17日に亀戸事件犠牲者合同葬を青山斎場で営んだ。5日後には南葛労働会と江東自転車組合を合同して東京東部合同労組を結成した。結成総会には60人ほどが亀戸の渡政の家に集まった。江東自転車工組合が40数人、南葛の残党はわずか19人にすぎなかった。この中には渡政の連れ合い丹野セツも含まれている。東京東部合同労組は結成と同時に総同盟関東同盟会に加入した。本所太平町2丁目(現墨田区)にできあがったばかりの新事務所で24年4月に第1回大会が開かれ、200人が出席。渡政が議長となった。

新事務所は、同年2月の総同盟第13年大会で、「総同盟職業紹介所兼東京東部合同労組本部」として建設されたもの。資金は、ベルリンの国際労働者救援委員会からの寄付金8,000円全額であった。建坪18坪、木造のしゃれた洋館で当時の流行を取り入れ内部は和洋折衷であった。2階は12畳の応接兼会議室、6畳、3畳、台所、便所があり、1階は3坪の事務所、6畳、3畳間に台所と便所があった。設計は組合員で工手学校夜学を中退した出井紀作。彼は間もなく病没するが最初で最後の”建築“だった。新しい事務所は計七の大島労働会館ほどは大きくはなかった。

関東大震災被災者救援の申し出はソ連からもがあったが、政府は「革命の宣伝だ」として入港を断った。国内では、総同盟は左右の立場を超えて被災労働者への救援を行った。南葛労働会の総同盟への加盟は、総同盟の亀戸事件への救援と結びついている。総同盟は、自由法曹団とともに、亀戸事件の真相を追究し、当局を糾弾していた。同時に、総同盟の階級的強化を求める渡政らの決意のあらわれでもあった。

総同盟・鈴木文治の大震災復興支援

鈴木文治

「大正12年(1923年)9月1日に襲って来た関東地方の大地震については、いやしくもその渦中にあったものとして恐らく生涯を通じて忘れることが出来ないであろう。阿鼻叫喚、焦熱地獄、恐怖戦慄、その他あらゆる形容詞を並べても、到底その真相をつくすことは出来ないのである」と鈴木文治総同盟会長は自著『労働運動20年』で巨大な地震エネルギーを表現している。そこには、自宅近くの皇室の邸宅に「朝鮮人が入って暴れている」と兵隊が整列し、実弾が配られた場面など大地震の体験が生々しく描かれている(早い段階から朝鮮人が暴行を働いているとのデマが意図的に流されていたことがわかる)

文治はその頃、現品川区の上大崎に住んでいた。総同盟の本部は文治の家から歩いて1時間もかからない三田の芝園橋にあった。文治は途中にある松岡駒吉の一家を見舞い、一緒に本部へと向かった。「とんでもない誤解から、彼の朝鮮人騒ぎの悲劇が演ぜられた。私はしみじみ非常時に対する我が社会組織には、多くの欠点あることを感じたのである」(鈴木『労働運動20年』)

同時に、「これと関連して私の特に最も遺憾に感ずることは、左翼と認められたる労働運動者の一群が、××(官憲)の手によって犠牲に処せられたことである」と亀戸事件について文治は述べている。亀戸事件の調査が自由法曹団の布施辰治弁護士などによって行われ、これに基づいて総同盟は遺族の救済、組合葬等できる限りの救済策が試みられた。関西においては、西尾末広が9月5、6日ごろに中央線で上京している。帰阪後理事会を開いて義援金募集運動を起こし、古着類を集めて本部に送った。義援金は関西でも3000円集まった。

9月20日には大杉栄が伊藤野枝、甥の橘宗一と憲兵によって殺された甘粕事件が、続いて10月に入ると亀戸事件が明らかとなった。11月20日には中之島公会堂で開かれた総同盟関西同盟会などによる官憲横暴糾弾の亀戸事件労働者大会は超満員となった。西尾は「大杉一派とは激しい反目の間柄であり、またこの両組合(南葛と純労)は総同盟とは直接の関係はないけれども、この官憲の暴虐には憤激せずにいられなかった」(西尾末広『大衆と共にー私の半生の記録―』1951)と「全労働者の観点」に立っている。

大会は「速やかに司法権を発動し、責任者を厳罰せよ」と当局に要求した。同様に東京でも責任追及の抗議行動が行われた。しかし、「結局その責任者の罪を問うことが出来なかった。これは実に千秋の遺憾である」と鈴木文治は総括している。

文治は、震災後3日に開いた緊急協議会で、罹災救援委員会を設け罹災会員の調査と救援に努力することを決めた。文治も会長として、9月11日に内務大臣後藤新平に会見し、失業者の救済を訴える。ただちに後藤は1000人の失業者を人夫として使うことを約束。しかし、すでに失業者の雇い入れは東京市が行うことになっていると社会局長から後藤は告げられ、総同盟を通じた雇用は出来ないと態度を変えてきた。

文治は引き下がるわけにはいかない。「内務大臣と総同盟会長との公約じゃないか」とテコでも動かない腹を決め椅子の上に胡坐をかいた。結果、300人を東京市の雇入れとし、文治も5日間午前5時半に家を出て、6時半本部前集合、7時からは芝浦で懸命に働いた。体格のよい文治は米を担ぎ、テントも担いだ。焼け跡の片付けは失業者の救済事業でもあった。

石川島の造機船工労組も職業紹介や請負事業について総同盟と連携をとった。10月25日には失業対策を目標に「関東労働組合連合協議会」が結成されている。

“労働組合は理屈ばかりではダメだ”

文治は大震災が労働運動に与えた教訓として次のように記している。「何といっても、労働組合は理屈ばかり言っていてはダメだということである。共済機関もなければならぬ。潔癖な独善的な運動では結局なんら社会的勢力を築き上げ得るものではないということであった。とくに南葛労働組合と純労働者組合の幹部はひとたまりもなく軍憲の手に虐殺されている。もし、これらの諸君が、もっと社会的に地位勢力を植え付けていたなら、よもやかかる悲惨な運命に陥らずに済んだであろう。これは労働運動者の頭にピンと響いた実地教訓であった。口よりも手、議論よりも実行、理想よりも現実と、労働者の心持ちも地味に落ち着いてくるようになったのも、また当然の道行きであった」(鈴木文治『労働運動20年』)

巨大な関東大震災のなかで多くの組合員が亡くなり、被災し、右も左もなくその復興支援に力を注いできた総同盟であったが、分裂の危機が襲ってくる。1924年10月の渡政は大会運営の横暴、不公平さに抗議し、同盟関東労働会定期大会から退席。翌25年には総同盟は分裂し、5月に左派は評議会を結成する。後に渡政は「総同盟の分裂は失敗だった」(「左翼労働組合の組織と政策」)と語っているが、真意はどこにあったのか?分裂は何をもたらしたのか?

【参考文献】

藤田富士男、大和田茂著、1996、『評伝平澤計七』、恒文社

西田勝、2013「『平澤計七殉難90周年記念の午後』参加者の皆さんへ」

加藤文三著、1991、『亀戸事件‐隠された権力犯罪』、大月書店

渡辺政之輔、1972、『左翼労働組合の組織と政策』、而立書房

加藤文三、2010、『渡辺政之輔とその時代』、学習の友社

鈴木文治、1966、『労働運動20年』、総同盟50年史刊行委員会

西尾末広、1951、『大衆と共に、私の半生の記録』、世界社

おばた・よしたけ

1945年生まれ。東京教育大学卒。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティ・ユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ・公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティ・ユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)

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