特集●混迷の時代が問うもの

関東大震災96年 朝鮮人犠牲者を追悼

史実直視しない小池知事―慰霊かき乱す否定派

新聞うずみ火記者 栗原 佳子

96年前の関東大震災は、死者・行方不明者10万5千人を数える未曾有の大災害だった。同時に、「人災」でもあり、何千人もの朝鮮人が虐殺された。「自警団」のみならず、官憲も直接、虐殺に関与。都立横網町公園(東京・墨田区)で毎年9月1日に開かれる朝鮮人犠牲者追悼式典には、行政トップの歴代都知事が追悼文を送るのが慣例だった。しかし小池百合子知事は一昨年、昨年に続き今年も送付を見送り、波紋を広げている。「慰霊」の場で、何が起きているのか。

今年9月1日朝、東京・墨田区の都立横網町公園を訪ねた。JR両国駅から徒歩で7、8分。慰霊堂や復興記念館などが整備された震災メモリアルパークだ。

震災当時、ここは「被服廠跡」と呼ばれる場所だった。陸軍の軍服などを作る工場が移転した跡地で、東京ドーム約1個半分という広い空き地だった。

1923年9月1日午前11時58分、相模湾を震源とするマグニチュード7・9の大地震が発生。被服廠跡には4万人もの避難者が次々と押し寄せた。しかし午後4時ごろ、周囲から火の手が迫り、避難民の家財道具などに燃え移った。やがて、炎を伴った竜巻「火災旋風」が発生。この「被服廠跡」で約3万8000人が亡くなった。震災の全犠牲者の3分の1超にあたる。

慰霊堂をのぞくと、午前10時からの大法要は終盤に入っていた。喪服姿の参列者は総じて高齢だ。慰霊堂には東京大空襲の犠牲者もあわせて約16万人の遺骨が安置され、公益財団法人東京都慰霊協会が、春は3月10日、秋は9月1日の年2回、合同で法要を営んでいる。この日の法要では、副知事が代読するかたちで、小池百合子知事の追悼文が紹介されていた。

小池知事は一方で、このあと午前11時から同じ横網町公園で開かれる「朝鮮人犠牲者追悼式典」への追悼文送付を3年連続で見送っていた。「この慰霊堂での大法要で、大震災のすべての犠牲者を追悼している」という理由だった。

96年前に何が起きたのか

朝鮮人犠牲者追悼碑に献花する参列者(墨田区の横網公園・9月1日)

関東大震災は、日本の地震災害史上最悪の大災害という側面だけにとどまらない。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こした」などの流言が広がり、多くの朝鮮人が殺害された。2008年、内閣府中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門委員会」は国の機関として初めて大虐殺事件を分析。<殺傷事件による犠牲者の正確な数はつかめないが、震災による死者数の1~数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない>とした。10万5000人の1~数%、つまり1000人から数千人。当時の政府は隠蔽し、調査すらしなかったため現在までも正確な死者数はわからない。震災まもなく朝鮮人留学生の団体は秘密裏に調査し、約6600人と推計している。

中央防災会議の報告書は、<関東大震災時には、官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害すると言う虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。加害者の形態は官憲によるものから官憲が保護している被害者を官憲の抵抗を排除して民間人が殺害したものまで多様である>と記す。

虐殺事件が起きた背景については、<当時、日本が朝鮮を支配し、その植民地支配に対する抵抗運動に直面して恐怖心を抱いていたことがあり、無理解と民族的な差別意識もあったと考えられる>と指摘、<民族の共存、共生のためには、これらの要因について個別的な検討を深め、また、反省することが必要である>と提言している。

一部で「自警団」などによる虐殺が裁判になった例はあるが、軍隊など国家がかかわった虐殺は不問に付された。戦後、事実を掘り起こしてきたのは民間の力だった。2003年、日弁連は、真相を究明し、責任を認め犠牲者と遺族に謝罪するよう国家に勧告している。

過ち繰り返さないために

慰霊堂に近接して「追悼」と大きく刻まれた石碑がある。震災50年の節目にあたる1973年に建立され、毎年9月1日、市民の手で朝鮮人犠牲者追悼式典が開かれてきた。

追悼碑は都議会各派の代表や、自らも震災時、自警団に朝鮮人に間違われた経験を持つ演出家、千田是也さんらが建立実行委員会をつくり、都に寄贈するかたちで設置した。

朝鮮人犠牲者追悼式典で。舞踊家、金順子さんが鎮魂の舞を捧げた

当時の美濃部亮吉知事はじめ、思想信条を超えた幅広い市民が浄財を寄せた。追悼碑の傍らの石版にはこう刻まれている。<1923年9月に発生した関東大震災の混乱のなかであやまった策動と流言飛語のため6千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命をうばわれました。私たちは震災50周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。この事件の真実を知ることは不幸な歴史をくりかえさず民族差別を無くし人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎になると信じます。思想信条の相違を超えてこの碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します>。

歴代知事はこの追悼式典に「痛ましい出来事を世代を超えて語り継いでいかなけれればならない」などとする追悼文を寄せてきた。在日コリアンをはじめ、多様な民族的背景を持つ人々が暮らす首都のトップが「不幸な歴史を二度と繰り返さない」と決意を示すことの意味は大きい。実行委員会は今年の追悼行事を前に、小池知事に追悼文送付と参列を求める要請書を5000余の署名とともに送った。しかし、一顧だにされなかった。

午前11時。開会のあいさつに立った実行委員長の宮川泰彦・日朝協会都連会長は、中央防災会議がまとめた虐殺犠牲者の推計に触れ、「政府自身が自然災害とは違う流言による虐殺の事実を認めている。同じ過ちを繰り返してはならない。小池知事には再考を求めたい」と強く訴えた。

実は小池知事は、知事に就任した2016年の追悼式典には、歴代知事を踏襲して追悼文を送っていた。しかし2年目となる一昨年、態度を翻した。

何があったのか。契機と指摘されているのが一昨年の3月議会だ。自民党のベテラン、古河俊昭都議が追悼式典の案内状にある「6千余名」「虐殺」の文言を問題視、「歴史を歪める行為に加担する」として、小池知事に追悼文送付の見直しを迫ったのだ。古河都議は日本会議に所属。「虐殺否定本」を引きながら、「独立活動家が震災に乗じて凶悪犯罪を行った。そうした犯罪を行った朝鮮人が殺された。だから自警団の過剰防衛だ」などと持論を展開した。

これに対し小池知事は「適切に判断する」と答弁。追悼式典1週間前の会見で、送付見送りを明言した。虐殺の認識について記者に問われた小池知事は、「さまざまな歴史的な認識があろうかと思う」とはぐらかした。荒唐無稽な「虐殺否定論」についても、否定を避けた。

「追悼式典」潰しが目的

この日の横網町公園は、朝から物々しい空気に包まれていた。朝鮮人犠牲者追悼式典と同時刻、約30㍍の至近距離で「真実の関東大震災 石原町犠牲者慰霊祭」と称する「もう一つの慰霊祭」が行われたからだった。石原町は横網町に隣接していた町。住民らが建立した古い慰霊碑の前には「慰霊祭」のテントが設営されていた。しかし、警官や都職員が固める人の壁の隙間から見え隠れするのは、「六千人虐殺の濡れ衣を晴らす」「日本人の名誉を守ろう」などの立看板や日の丸だった。

追悼式典と至近距離で開かれた「そよ風」の「慰霊祭」

「慰霊祭」の主催者は、在特会とも関連があるとされる女性グループ「そよ風」。群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」に設置された朝鮮人追悼碑をめぐり、撤去を求め攻撃を仕掛けた団体だ。

追悼式典主催者によれば、「そよ風」は4年前、つまり、小池知事が追悼文送付を見送る1年前からJR両国駅前で、朝鮮人犠牲者追悼碑撤去を求める街頭宣伝をはじめたという。小池知事が3年前、追悼文を見送った際にはブログで「大英断」と賞賛した。そしてその年、呼応するかのように「真実の関東大震災 石原町犠牲者慰霊祭」を初めて開いた。小池知事は国会議員時代の2010年、「そよ風」主催の講演会で講師を務めたことがある。知事自身が日本会議に所属する。

午前11時、君が代のテープが流れ、もう一つの「慰霊祭」はスタートした。僧侶が進み出て、「大東亜戦争がいかに正当だったか」などという説法をしているのが聞こえてくる。読経が終わると、「そよ風」代表や来賓が次々にマイクを握り、「6000人大虐殺には全く根拠がない」などと口々に主張していった。「不逞朝鮮人」「朝鮮左翼による暴動・テロ」など、聞くにたえないヘイトスピーチのオンパレード。それも、「追悼式典」の音声をかき消すような大音量だ。警備にあたる都職員が注意をすると一旦はスピーカーを内側に向けるが、またすぐ元に戻してしまう。

筆者は、追悼文拒否問題が浮上した一昨年もこの場にいたが、音量といい、発言といい、エスカレートしたというのが実感だった。こんな醜悪な「ヘイト集会」が、都の公園使用許可を得て行われている。それも3年連続で。

ノンフィクション作家の安田浩一さんは「慰霊祭」を見つめながらこう話した。「要は嫌がらせです。あの集会の最終的な目的は、朝鮮人犠牲者追悼式典をつぶすことだと思います」。

騒ぎたてることによって小競り合いなどに発展すれば、行政は「どっちもどっち」だとして、双方を公園使用不許可にする、という流れだ。

関東大震災の朝鮮人虐殺をテーマにした『九月、東京の路上で』(2014年、ころから)、「TRICK『朝鮮人虐殺』をなかったこといにしたい人たち」(2019年、同)の著者、ノンフィクション作家の加藤直樹さんは「『三国人』発言をしたあの石原慎太郎ですら追悼文を出していました。虐殺を否定するという発想はなかったのです」と小池知事の姿勢を批判した。2000年4月、当時の石原都知事が陸上自衛隊練馬駐屯地創隊記念式典で「三国人」という言葉を使い、「不法入国した外国人が凶悪な犯罪を繰り返している」「大きな災害が起きたときに大きな騒擾事件すら想定される」「皆さんに出動願って治安維持を遂行してほしい」などと発言、大問題になった。

荒唐無稽な『否定論』に反撃を

喧騒が去った午後、石原町の慰霊碑にお参りした。「大正大震災石原町遭難者碑」。震災の2年後に建立され、その後、横網町公園に移設されたという。住民約8000人のうち約7000人が焼け死んだことがカタカナ交じりで碑文に刻まれている。「真実の関東大震災 石原町犠牲者慰霊祭」と称しながら、石原町の犠牲者を悼む言葉はないに等しかった。結局は、嫌がらせに最適な位置にあるから利用しただけだろう。あまりに死者を愚弄している。

安田浩一さんはこうも話していた。「彼らが言う『虐殺否定論』を見過ごし、『ウソ偽りの歴史』に強く反論してこなかった私たちの責任は大きいと思う」。

深く頷きながら聞いた。ネット上などではここ数年、「朝鮮人虐殺はなかった」などと主張する言説が広がっている。2009年に産経新聞から出版された『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(工藤由美子著)などがネタ本だ。いかにも荒唐無稽。しかも、圧倒的な史実だ。「修正」するのは難しいのではないかと筆者も少々甘く考えていたのも事実だ。しかし、追悼文送付について知事を質した古河都議が根拠にしたのも「虐殺否定本」だった。今年、加藤直樹さんが今年出版した『TRICK』は、こうした「虐殺否定論」を徹底的に検証した労作。具体的な反論方法を身に着けるための〝指南書〟でもある。

今年はかなわなかったが、一昨年は追悼式典の翌日、JR高崎線沿いに埼玉、群馬へと足を伸ばした。虐殺は関東全域で起きている。避難民とともに流言が広がり、地方の新聞がそれをさらに拡大した。埼玉では、警察に保護・検束され都内から群馬方面に移送中の朝鮮人が熊谷市、本庄市、上郷町などで相次いで自警団に襲われる事件が起きた。犠牲者は243人とされる。群馬県の新町(現・高崎市)の土木業者は、埼玉での虐殺事件を知り、藤岡警察署に朝鮮人従業員ら17人の保護を求めた。しかし自警団や住民が暴徒化し署内に乱入、無抵抗で命乞いする朝鮮人を虐殺したという。

個人的な話になるが、一帯は筆者の生まれ育った生活圏。東京の下町で震災に遭った1910年生まれの祖母が、いつか男性の声色で再現した、「朝鮮人が来るぞー」という節回しが不意に記憶に蘇ったのもこのときだった。

再び東京に戻り、荒川河川敷で一般社団法人ほうせんかなどが開いた追悼式に参加した。避難者であふれた河川敷に流言が広がり、自警団が結成され、朝鮮人虐殺が始まった。軍隊も出動し、土手に機関銃を据え、次々と朝鮮人を撃ち殺したという。

複数の親族がここで自警団に襲われ重傷を負ったという若い男性の話が強烈に印象に残っている。在日3世で法政大学准教授の慎蒼宇(シン・チャンウ)さん。克明な手記を残した祖父の長兄、昌範さんの壮絶な体験を紹介した。瀕死の状態で警察の死体置き場に放置されたが、弟が死体の山から探し出してくれ生き延びた。署の留置所を訪ねてきた朝鮮総督府の役人は、「天災だと思って諦めるよう」告げたという。小池知事が追悼文送付をやめた「すべての犠牲者を追悼している」という理由と一緒だった。

前述の中央防災会議の報告書は強いトーンでこう指摘している。<自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある><時代や地域が変わっても、言語、習慣、信条等の相違により異質性が感じられる人間集団はいかなる社会にも常に存在しており、そのような集団が標的となり得るという一般的な課題としての認識である>と。

96年前に起きた惨事は、遠い昔の出来事ではない。いまの私たちと地続きにある。特に韓国に対するヘイトの空気が増した今年の秋は。

くりはら・けいこ

群馬の地方紙『上毛新聞』、元黒田ジャーナルを経て新聞うずみ火記者。単身乗り込んだ大阪で戦後補償問題の取材に明け暮れ、通天閣での「戦争展」に韓国から元「慰安婦」を招請。右翼からの攻撃も予想されたが、「僕が守ってやるからやりたいことをやれ」という黒田さんの一言が支えに。酒好き、沖縄好きも黒田さん譲り。著書として、『狙われた「集団自決」大江岩波裁判と住民の証言』(社会評論社)、共著として『震災と人間』『みんなの命 輝くために』など。

新聞うずみ火

ジャーナリストの故・黒田清氏が設立した「黒田ジャーナル」の元記者らが2005年10月、大阪を拠点に創刊した月刊のミニコミ紙。B5版32ページ。「うずみ火」とは灰に埋めた炭火のこと。黒田さんがジャーナリスト活動の柱とした反戦・反差別の遺志を引き継ぎ、消すことなく次の世代にバトンタッチしたいという思いを込めて命名。月刊一部300円/年間3600円。

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