論壇

「日本的慣行=慣習の束」の「研究」とは?

小熊英二『日本社会のしくみ:雇用·教育·福祉の歴史社会学』から読む

本誌編集委員 池田 祥子

著者の問題意識

本書は「講談社現代新書」だが、601頁の大著である。今年7月20日第一刷発行、8月7日、すでに第三刷となっている。著者の人気が窺える。

各章の折々や「あとがき」で述べられているように、著者の問題意識は、以下の二つに絞られるだろう。もっとも、この二つは、ある意味では表裏一体のものではあるが。

一つは、日本の伝統や「特殊性」への過度な思い入れへの批判。日本で生起して来たさまざまな現象も、閉ざされた「日本の国内だけの」特殊なできごとではない。「じつはその多くが、世界の同時代的な潮流に添っている」(あとがき)。

二つには、にもかかわらず、やはり「日本の独自性」は存在する。世界とは異なる「カイシャ」と「ムラ」を基本単位とする雇用・教育や福祉、政党や地域社会、さらには「生き方」までを規定している「慣習の束」の存在である(あとがき)。

その上で、上記の一つ目に関わって、「日本の伝統文化とされるものも、明治期以降に形成されたものが多い」と付記されている。そして、日本を「タテ社会」として捉えた社会人類学者中根千枝の仕事を一定程度評価し、次のように述べている。

―― (中根は)日本社会の特徴を、職場や村落など「場」における直接接触的tangibleな関係が優位であること、「場」を横断した「資格」「『ヨコ』の同類」意識が欠落していることだと主張した。この中根の主張は、結果として本書の主張にも近い。/しかし、慣行が歴史的に形成されるという視点が欠落している。彼女がいう日本の特徴が、古代から存在したという主張に陥っている。また中根の説では、なぜ万単位の従業員をもつ日本企業に、tangible な接触範囲を超えて「同類」意識が発生するのか説明ができない。総じて中根は、村落単位の現状を調査する人類学の知見を、空間的にも時間的にも、不用意に拡大しすぎているのだ(15頁、以下数字のみ)。

そして、著者は、いわゆる「社会のしくみ」としか言いようのない日本の「慣習の束」を包括的に論じようと試みたという。しかし、「その社会で「あたりまえ」であるような慣行ほど、本や論文を調べてもよく分からないことが多い。その社会の人にとっては当然のことなので、体系的に書いたりはしないからだ」(97)。そういう歴史研究としては根源的な限界と悩みを持ちつつも、著者は「歴史社会学者」として、可能な限りの文献や資料にあたるというこれまでの方法を駆使している。ただ、作業途中で、「雇用慣行」の規定性や重要さに気づき、途中でそれまでの原稿を破棄し、新たに書き直したという。したがって当初は構想に入っていた「教育や社会保障の記述」は減らされ、「政党や税制や地方自治については割愛」されている(あとがき)。

日本の社会保障の「型」―「カイシャ」と「ムラ」

サブタイトルに入っている「福祉」だが、上記のような事情から、充分な分析はなされてはいない。だが、団塊世代の後期高齢者入りを前にして、「年金」問題に焦点が当てられている昨今、まずは本書の言う「カイシャ(職域)」と「ムラ(地域)」の二重構造を前提にした「日本の社会保障の型」を確認しておこう。

詳しい歴史は省略されているが、世界的な端緒としては、ドイツのビスマルク宰相時代(1880年代)の「政府が国費でまかなう社会保障の構想」が挙げられている(177)。日本では、1907(明治40)年の国鉄従業員から始まる健康保険が、1922(大正11)年に法定されるものの、被保険者は1930(昭和5)年の就業人口の6%程度だったという(401)。さらに1938(昭和13)年、「国民皆兵」をもじって「国民皆保険」として地域単位での国民健康保険制度がつくられるが、敗戦で事実上崩壊する。戦後、市町村が徴収できる「国保税」を1951年創設し、1958年に市町村運営方式で再出発となった(404)。

一方の年金制度については、1944(昭和19)年、小企業を除いた厚生年金法が制定されている。その対象に入らない国民のために、戦後の1959年「国民年金」が制度化される。ただし、当初の要綱では、「国民年金は全国民を対象にする」という原則であったものが、大蔵省の反対に会って、「厚生年金の未適用者を対象とする」原則に変更されたという(404)。

その後、1970年代になって、改めて「日本型福祉社会」が強調され、福祉政策を支える「理念」ともなっていく。それは、言うまでもないことだが、「家族」「企業」「地域」の助けあいを強調し、政府の財政負担を軽減しようとするものだった(27)。

具体的な事例をあげると、2017年度末、国民年金受給者の老齢年金の平均月額は、55,615円。2019年発表の新規裁定者モデル例(20歳から60歳まで40年間保険料を払った場合)でも、月額 65,008円である。著者が述べているが、「この金額では、都市部の賃貸住宅に住んでいたら、とうてい生活できない」。しかし、次のように続ける。「国民年金は、もともと農林自営業を想定して作られた制度だった。彼らには定年がないから、年をとっても働き続ける。さらに持ち家があり、野菜やコメは自給で、・・・年金が少額でも問題ない。もともと、年金だけで生活することを前提とした制度ではなかったともいえる」(29)。

しかし、1980年代に入ると、「兼業農家を含む農家戸数の減少が大きくなり、さらに自営業主全体も減少に転じ」る(514)。そして、地方から都市に流入する人々の多くが、1986年7月、業務限定つき(13業務)で制定された「労働者派遣法」に依拠する「非正規労働者」に従事することになる。著者はいう、「大企業に雇用されておらず、農村部に住んでいるわけでもない人々は、いわば残余のそのまた残余だった」と(404)。

こうして、「大企業型」「地元型」に並んで「残余型」として類型化されるのであるが、「歴史社会学者」としての著者は、この類型化の提示のみで終わっている。

「日本型雇用」の起源―明治初期からの「官尊民卑」

著者が指摘するように、確かに、日本の明治時代は、すでに近代化の途上であった欧米各国のさまざまな法・制度・科学・技術を学び、積極的にそれらを取り入れながら新しい「近代的な国家」を創り上げていった。その意味ではすでにして「グローバル」な「近代国家」の一員としての出立ではあった。にもかかわらず、そこには「日本的特殊性」も色濃く認められる。ただし、本書では「主権在君」として君臨した戦前の「天皇制」についてはほとんど触れられていない。本書では、あくまでも「雇用」中心であるため、強調されているのは、「官庁の身分給」「企業に持ち込まれた官制」「身分的指標に転化した学歴」などである。

<官庁の身分給>

ヨーロッパの貴族は土地を所有しており、それを基盤にその後も地位を保ち続けた。それに対して、日本の武士は土地と切り離され、城下町に住んで俸禄を受け取っていた家臣団であった。したがって、明治の秩禄処分後は武士・士族は早々と退潮した(224)。

また、江戸時代に職種別団体はあったが、いずれも大名から御用を受注する組織で、藩ごとに分断され、全国的なものではなかった。この結果、ヨーロッパのような職種別組合や協会の伝統もなく、有力な民間産業すら育っていなかった。

そのため、近代教育を事実上政府が独占し、「身分」ではなくなった武士・士族は、藩校での知的教養を活かして、いち早くその子息の「帝国大学」への入学を志したであろう。そして、その卒業後の初職は、まずは「官職」であっただろうし、政府は、職種へのこだわりもなく、近代教育を受けた少数の人材を、さまざまな職種に使いまわした(224)。

ところで、官庁組織は、戦前も戦後も基本的には変わらず、次のような三層構造をなしている。

・キャリア(上級職員):おおむね2年ごとにさまざまな部署を異動しながら、いちはやく昇進していく。
・ノンキャリア(下級職員):キャリアを補佐して働き、昇進は限定。
・地方職員

現代では、こうした三層構造の人事処遇に、必ずしも法的な根拠はないが、戦前では、これは法的に決められた身分だった(226)。1869(明治2)年、官吏を勅任官、奏任官、判任官、と定め、1871(明治4)年には15の等級に分けられ、さらに「上・中・下」の区分なども入り、1911(明治44)年には基本形が固まったとされる。(廃止は、戦後の1949年である)(228)。

上記の官吏の身分を規定した法は、大日本帝国憲法第10条であり、そこには「天皇が文官、武官を任命し俸給を定める」とある。また、服務規律や俸給令は勅令で定められていた(231)。因みに、1886(明治19)年の俸給表では、各省大臣・陸海軍大将は年報6,000円、判任官10等(警部補や看守補など)は月俸12円とある。1882(明治15)年の男子の日雇い労働者の日銭は平均0.22円(月に27日で5.9円)、綿力(ママ)紡績女工は日銭0.16円(月に27日で4.3円)。年報、月俸、日銭で比較しにくいが、要するに、「日雇いの6年分の年収を、勅任官は1カ月で稼いでいた」ということになる(232)。(稲継裕昭『公務員給与序説』有斐閣、2005)

官吏の俸給の途方もない格差だけでなく、官吏は「無定量勤務」、すなわち勤務時間が設けられていない。たとえば、1869(明治2)年の規則では、午前10時登庁、午後2時退庁、 昼休みは1時間、したがって、実働時間(もっとも無定量勤務だから形式的にだが)は3時間とされている。その上、官吏は退官後の終身保障として、国家予算から恩給が与えられた(235)。具体的には、1890(明治23)年、官吏恩給法(終身恩給)が制定された。

<企業に持ち込まれた官制>

企業にも官制が持ち込まれた事例としては、まずは「官営工場」として始まった八幡製鉄所がある。もともとドイツから導入された最新鋭の鉄鋼一貫設備が、日本の在来技術と隔絶していたため(222)、「官営」とせざるをえなかったのである。

「官営」ゆえに、内部の組織には官庁の官制が適用された。

・職員:高等官・判任官・雇
・傭人:守衛・小使・給仕
・現場労働者:職工

そして、ここでも職員の任用で重要視されたのは「学歴」であった。そして、正規の中等学校卒業以上が「職員相当」として採用された(225)。

また、労働時間に関しても、官営工場には身分構造が持ち込まれた(240)。1872(明治5)年、海軍省管轄の造船所や兵器工場では、「官員」は午前8時から12時までの4時間勤務、「職人」は午前6時から午後4時までの10時間勤務であった(240)。

<身分的指標に転化した学歴>

文部省が一括管理した日本の学校教育は、人材登用装置としては、極めて「近代的」(効率的)ではあった。1887(明治20)年、高等官の採用のため文官試補試験が実施されるが、その時点では、帝国大学法科大学・文科大学卒業生は試験免除とされる(232)。さらに、1891(明治24)年、帝国大学卒業生で省庁の採用が埋まり、行政官試補の需要がゼロになると、試験そのものが中止になった(284)。

民間、庶民からは桁外れに高い俸給ということもあり、1885(明治18)年には、官員数が10万人に達しつつあり、国家予算の28%が官員の俸給だったという(286)。

その後、1920(大正9)年の大学令によって、一挙に慶応、早稲田、明治、法政、中央、日本、国学院、同志社など10校が「大学」として認可され、大学卒業生も、年間2000人弱だったのが、一挙に6000人を超え、1930(昭和5)年には1万人を超える。

こうして、「身分」としての士族が早々に退潮してしまった後、日本では「学歴が一種の身分的指標に転化」してしまったのである(267)。したがって、官庁や民間企業が望んだのは、卒業生の「専門能力」の保証よりも、全般的な学力および総体的な「人物」評価であった(319)。

日本の働き方、世界の働き方

分厚い著作であるので、あとの紹介は端折らざるをえないが、要点のみを上げることにする。

「地続きである世界と日本」が著者の基本的視点であるため、日本の慣行=慣習の叙述の際に、決まってイギリス、大陸ヨーロッパ、アメリカの歴史や制度が紹介されている。しかし、体系的な比較制度史としてのスタイルではないために、歴史的な時間は前後し、必要に応じて他国の歴史が持ち出されている。ここでは、特記すべきことだけを整理しておこう。

・ドイツを初めとするヨーロッパでは、職種別組合が、労働運動の結果として、各企業を貫く形で、横の広がりを持ってつくられ強い力をもった。

・封建制のなかったアメリカでは、19世紀末の分業の進展と機械の導入によって、熟練工の必要性が薄れ、次第に「職務 job」分析による「職務job」原理が一般化する。1910~40年代には「同一労働同一賃金」がめざされた(180)。

・欧米企業では、上級職員>下級職員>現場労働者の三層構造は根強い(101)。したがって、日本では、一つの企業内で下から上への「タテの移動」(昇進)が一般的であるが、欧米その他の企業では、「ヨコの移動」の方がむしろ簡単で、「タテの移動」のほうがむずかしい(105)。

・「学歴」の機能が違う。「何を学んだか」が問われ、幹部は修士号、博士号が必修であるため、在学中は学業に集中せざるをえない。職能機関(組合や協会)が証明する基準QF (Qualification Framework)が有効である。

また、「聖職者と紳士の養成所」(イギリス)、「人文主義の大学」(ドイツ)であった大学に、工学や商学の課程が増えて行った(197)。また、アメリカは多様な大学があり、入学選抜の方法も多様である。

・オフィスの形が、日本では「大部屋」で共同作業。アメリカはもちろん、大陸ヨーロッパでも「個室」である(ウェーバーの考える官僚制)(129)。

戦後の日本の姿(第6章、第7章、第8章)

戦後の歴史は、ほぼ年代順に記述されている。それぞれの章のタイトルを挙げる。

第6章 民主化と「社員の平等」
第7章 高度成長と学歴
第8章 「一億総中流」から「新たな二重構造へ」

60、70歳以上の読者は、ほぼ自分の生きてきた時代と重なる所である。それぞれに、その時代の持っていたうねりや匂い、感触も生々しいだろうと思う。本書の要は、この戦後の部分であろうと思うが、ここでは要約して、特記事項あるいは問題点のみを列挙するに留めたい。

<敗戦から1950年代半ば>

・本書の6章に当たる部分である。タイトルは「民主化と「社員の平等」」であるが、内容的には、職員と現場労働者との差別撤廃を求めた「年齢と家族数で決まる生活給の獲得」とも言えよう。

・敗戦から4、5年は、やはり「異常」かつ「悲惨な」事態だった。

1945年9月には、2労働組合、1,077人だったものが、1949年6月には、34,688組合、665万5,483人、推定組織率は55.8%である(355)。

―― 焦土と化した都会にとどまったのは、帰るべき田舎をもたない人々であった。彼らにとって企業は最後の拠り所となった(358)。二村一夫『戦後社会の起点における労働組合運動』

―― 戦前においては、「社員」とは職員であり、特権層のことだった(363)。企業別に従業員組合を作ることは、(欧米に例をとっても)「迷妄」という批判があったが、日本の労働運動は「企業内の民主化=すべて社員」を獲得していった(356)。

・しかし、1949年2月、ジョセフ・ドッジの来日(ドッジ・プラン)以降、経営からの巻き返しが始まる。1949~50年にかけて大企業での解雇が目立つ。東芝21%、日本電気35%、日立製作所17%、日産自動車23%、トヨタ自動車21%(377)。

・1949年6月、労働組合法が改正され、敗戦後の労働協約の多くは無効となる。経営側は、「経営権」の回復を・・・めざした(378)。

・敗戦直後の生活苦のなかでは結束できていた職員と工員は、・・・結束が崩れ、(職員による第二組合設立などによって)混合組合の弱点を露呈させた(379)。

<1950年代半ばから60年代前半>

・企業規模による賃金格差が広がっていった(397)。

・1957年の『経済白書』は「近代的大企業と、前近代的な労使関係に立つ小企業および家族経営による零細企業と農業」との間の「二重構造」を指摘し、「二重構造論」という言葉を広めた(398)。

・敗戦直後に、労働組合運動によって獲得された「長期雇用」と「年功賃金」は、経営者にとって重荷となって、日経連はこの時期、「同一労働同一賃金」の職務給を提唱していた(405)。

―― 労組側は、同一労働同一賃金の原則は肯定しながらも、経営側が揚げる職務給には反対した。(中高年の賃金を切り下げる目的が赤裸々なため)(410)。

<1960年代~1973年>

・まさしく「高度経済成長と進学率の上昇」の時代である。(参考までに、拙稿「(戦後教育を問う、その5)高校全入運動と大衆教育社会の到来」デジタル版『現代の理論』2016、秋号参照)

・1960年「国民所得倍増計画」、1963年「経済発展における人的能力開発の課題と対策」

・・・前者は、「同一労働同一賃金」の浸透、「産業別」「地域別」労働組合の重視、年功序列型賃金制度の見直し、公的年金制度の体系的整備、「すべての世帯に一律に児童手当を支給する制度」の導入、労働時間短縮、職業訓練制度、公的賃貸住宅の建設・・・などを提唱している(411)。後者も、大企業と中小・零細企業の二重構造の解消のために、賃金を職務給にし、他方、第一子から所得制限なしの「児童手当制度」を提言している(これは1964年、中央児童福祉審議会で具体化されたが、「大蔵省と財界は批判的で」(416)、結局妥協的な「児童(こども)手当制度」のまま、今日に至っている:池田)。

以上の二つの「計画」や「対策案」は、ある意味で、日本の慣行を大胆に企業横断的に変えようとする意図はあったものの、あまりに「功利的」で、「ハイタレント・マンパワー」「人的投資」「教育投資」等々の用語にも反発があり、結局、「企業横断」を望まない経営者にも反発され、戦前の「複線型」を嫌い教育による「上昇志向」を諦めきれない父母・国民からも受け入れられなかった。同じく、日経連などが提唱する「工業高校の充実」「職業教育の推進」「普通課程と職業課程を6:4から5:5にする」政策案も、大学進学に有利な「普通科希望」の大衆的な動きの中で、充分な成果は果たせなかった。

<1970年代後半~1980年代>

・この時代のタイトルは「一億総中流」から「新たな二重構造」へ、である。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称されたのは1979年である。「だが、これは、一時的な均衡状態だった」(516)。

―― 雇用者総数に占める大企業正社員の割合は、74年の30.6%をピークにして、その後は20%台後半で推移した(502)。

・80年代、企業は「人事考課」を強化し、中核をなす「社員」の外部に、「出向」「非正規雇用」「女性」を作り出す(524)。

―― 「現在の低賃金の主力をなす女子パートタイマー、高齢者、定職につかない若年層の三つのグループは、それぞれ夫の所得、年金、親の所得という核になる所得を持っており、大部分は働かなくとも生活に困らない」というのがその基本的認識でもあった(531)。

<1990年代以降>

―― 1990年代は、大学進学率がふたたび上昇に転じた時期でもあった。だがこの上昇は、60年代と異なり、正規雇用の増大を伴うものではなかった。・・・結果として、90年代に起きたのは、若年者の非正規雇用の増大と、大学進学率上昇の同時発生だった(534-535)。

・したがって、この時代のタイトルは「進学率の上昇と「ロストジェネレーション」」となる。

終章「社会のしくみ」と「正義」のありか

「膨大な新書」を、やや律儀に細かく紹介しすぎたようだ。予定の字数も大幅に超えている。ただ、団塊の世代、団塊ジュニアの世代を抱え、驚異的な高度経済成長を経験した日本の社会が、いま、極端な少子高齢社会を迎え、大企業正社員の割合はさほどの増減はないものの、若い人の非正規労働者がますます増えている。しかも「7040」「8050」という言い方で、40代50代の「ひきこもり」の人々の多さが憂えられている。

また、1960年代後半の全共闘運動の後、ますます管理化され、一向に緩和されない進学競争のなかで、「不登校」の児童・生徒は増え続けている。

このような社会に生きる一員として、この著者が最後に何を示唆するのか、それを期待しながら読み続け、紹介もしてきた。

確かに、著者は、今後の改革に当たって、「透明性」と「公開性」の向上を挙げている(576)。もちろん、それに異議はない。その上で、著者自身、「残余型」(他には「大企業型」と減少しつつある「地元型」)が増大している状況下では、「社会保障の拡充によって解決するしかないと考える」(576)と方向性は示している。しかし、その後は次のような文章が続いている。

―― そうはいっても、社会を構成する人々が合意しなければ、どんな改革も進まない。日本や他国の歴史は、労働者が要求を掲げて動き出さないかぎり、どんな改革も実質化しないことを教えている。そうである以上、改革の方向性はその社会の人々が何を望んでいるか、どんな価値観を共有しているかによって決まる(576-577)。

―― いったん方向性が決まれば、学者はその方向性に沿った政策パッケージを示すことができる。政治家はその政策の実現にむけて努力し、政府はその具体化を行うことができる。だが方向性そのものは、社会の人々が決めるしかないのだ(579)。

―― 学者は事実や歴史を検証し、可能な選択肢を示して、議論を提起することはできる。しかし最終的な選択は、社会の人々自身にしか下せないのだ(580)。

初めから、分かる人には分かっていたのかもしれない。小熊英二は徹頭徹尾「学者」なのだ。たとえ「学者」でも、この社会を支える「一員」であることは自明のことと思うのだが。

また、社会の「合意」というものも、一人ひとりの主体的な意見・行動と、対立や妥協や調整のせめぎあいの過程で辛うじて生み出されるものだと思われるのだが、小熊英二にとっては、「合意」というものも、どこかから降ってくるもののようだ。終章のタイトルに入っていながら、触れられることのなかった「正義」のありか、についても、私たち自身が考えて行かなくてはならないのだろう。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。前こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

  

第21号 記事一覧

  

ページの
トップへ