特集●混迷の時代が問うもの

なぜテレビは「嫌韓」を煽るか

悲しき視聴率の奴隷―安倍政権は国民に内在する嫌韓意識を利用し、
排外主義を煽り延命図る

ジャーナリスト 西村 秀樹

1.「嫌韓」を煽ったテレビ

編集部からのリクエストはタイトルの通り、「なんでテレビは『嫌韓』を煽るのか、あんたはテレビ局員だったから、実相を教えてくれ」というものだった。

いまは亡き筑紫哲也(TBSのニュース番組『筑紫哲也NEWS23』キャスター)の言葉を思い出す。「講演会に呼ばれて、講演会の最後にメディアが悪いというと、右も左も、皆んな納得するんだよねー」と冗談めかしてメディア批判に対する批判をしていたことを思い出す。メディア批判だけではだめですよ、という気持ちだったのだろう。

確かにテレビが日本の中の韓国嫌い(反韓・差別意識)を煽っているのは事実であり、確かにひどい。その一方で、反韓一色ではない要素を持っていることも事実であると内心思っている。だから、編集部からのリクエストに直接の解答を用意できないかもしれない。

けれども、日ごろ日常生活の中でテレビを含め、マスコミ、あるいはメディアは空気や水みたいな当たり前に存在する情報化社会の中で、一般の人がなかなか知りえないテレビの産業構造を含め、メディアのリアルな姿とあるべき姿を共に考えてみたい。 

【「嫌韓」を煽ったケーススタディ】

A)謝罪(2019年8月30日)

(以下は、インターネットのまとめニュースサイト「ニフティニューストップ」からの引用である。理由は当該番組の時間帯、わたしが住まいする大阪では別の番組を放送しているので、当該番組をリアルタイムで見ることはできなかったから)

今年8月30日、名古屋のCBCテレビが制作し東京のTBSなどで放送しているワイドショー番組『ゴゴスマ GOGO!Smile!』(以下、ゴゴスマ。月~金、13:55~15:49)において総合司会の石井亮次アナウンサーが番組の冒頭、次のようなお詫びを放送した。

「今日も日韓問題についてお伝えしますが、その前に皆様にお伝えしたいことがあります」と切りだした。

「今週火曜日(27日)にゴゴスマで放送した日韓問題のコーナーについて、ゴゴスマとしてはヘイトスピーチはいけないこと、ましてや犯罪を助長する発言は人として許せないことと考えています」と延べ、具体的な発言内容には触れなかったが、次の発言がつづいた。

「ゴゴスマとしてはヘイトや犯罪の助長を容認することはできません。番組をご覧になって不快な思いをされた方々にお詫びします」と、謝罪を口にした。

B)放送内容(8月27日分)

30日放送分では何がヘイトなのか、何が犯罪を助長するのか、よく判らないが、27日の放送内容はつぎのような発言だった。発言の主は、火曜日レギュラーのコメンテーター、中部大学教授・武田邦彦。

「明らかに反日の教科書を作り、反日の教育をし、路上で日本人の観光客をその国の男が襲うなんつうのはね、これはもう世界で韓国しかありませんよ」とコメントした。

周囲からは「それは言い過ぎ」と諫められたが、武田はさらに発言をつづけた。

「韓国の大統領から政治家から何から反日の雰囲気を作った中から生まれたんですよ」と話した。この後に、決定的な発言を口にした。

「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しなけりゃいかんからね。日本男子は我慢すると思うけど」

C)テレビ朝日『モーニングショー』では真逆な発言

ゴゴスマが「ヘイトスピーチ、犯罪助長」(CBCのコメント)を放送したそのわずか6時間前に、テレビ朝日の『モーニングショー』が真逆の内容を放送している。

こちらのコメンテーターは、青木理。元共同通信のソウル特派員。「ぼくがソウルの特派員なら今回のケース(韓国男性がソウル旅行中の日本人女性の髪をひっぱる『暴行事件』)は書かない」と発言した。

ここから判ることは、「暴行」がレイプを意味せず、暴力行為を示すこと。日ごろ、その程度の「事件」はソウルの日本人特派員は記事にしないのに、日韓関係悪化の文脈の中でこの暴力行為を新聞が記事として掲載し、それをさらにテレビ(とりわけワイドショー)がことさらに取り上げ、憎悪の負の連鎖が拡大する一連の動きであった。つまり、ここでは確かにメディアが「嫌韓」を煽っている。その構図を浮かびあがらせた。

D)ゴゴスマ発言の背景

メディア、とりわけ民間放送の産業構造については後述するが、キーワードは「視聴率」だ。月曜日から金曜日(ウィークディ)の午後帯は、多くの人は学校や勤務先に出かけ、そもそもテレビを見ている人びとの視聴率(業界ではセットインユースという)が低い時間帯だ。その上、ライバルの日本テレビ系列は『情報ライブ ミヤネ屋』(こちらも東京のキー局制作ではなく、大阪の読売テレビ制作)との競争が激しいし、低視聴率帯だから番組制作費も多くを見込めない。そうなると、どうしてもエキセントリックな発言をするコメンテーターで、なおかつ、放送倫理の枠内で話をできるゲストに限られる。

2.メディアと民主主義

【メディアは諸刃の剣】

わたしは放送局を定年退職後、大学で「放送論」を教えている。そのときのキーワードは「メディアは諸刃の剣」。権力の拡声器になれば、逆に民衆の闘う武器にもなるというものだ。

電気通信の技術が1920年代に発達、日本では1923年の関東大震災で朝鮮人虐殺を引き起こすような流言飛語が飛び交う中、1925年逓信省は新聞にかわる新しいメディアとして、即時性をもつラジオ放送をスタートさせる。

わたしの毎年一回目の授業内容は、「ヒトラーとラジオ」である。映画が誕生して100年にあたる1995年に放送された『NHKスペシャル 映像の世紀』第4集「ヒトラーの野望」を使って、ヒトラーによるナチスドイツ党大会での演説シーンを見せる。第一次世界大戦の敗戦国ドイツでは、年間国家予算の20年分の賠償金を英米から求められ、若者の失業率が3割を超すめちゃくちゃな経済状況にあった。そのような状況下におかれた失意のドイツ国民(とりわけ若者たち)に対し、新しいメディアであるラジオをヒトラーが効果的に使うことによって、国民の心をつかむプロセスを見せる。つまりラジオは、権力者の支配の道具になったというわけだ。

【メディアの戦争責任】

ヒトラーのラジオ使用とならび、日本でも軍部が大本営発表をラジオで垂れ流し、国民の多くは、アジア太平洋戦争で、日本が負け続けている真実を知らなかった。アジア太平洋戦争で、日本国民310万人が死に、アジアの民衆2000万人を殺し、東京も大阪も名古屋も焼け野原になってしまい、日本人の多くは「敗北をだきしめた」(米国の近現代史研究者ジョン・ダワーの著作『敗北を抱きしめて』)。

満州事変が関東軍の自作自演だと実は知っていたにもかかわらず、新聞は真実を国民市民に伝えることを怠ったばかりか、ひたすら戦争へ国民をあおりに煽った。新聞は敗戦後、自らの戦争責任を不十分ながら表明した。

朝日新聞は「国民とともに立たん」(1945年11月7日)でこう懺悔した。

「支那事変勃発以来大東亜戦争終結にいたるまで朝日新聞の果たした重要な役割にかんがみ、我等ここに責任を国民に明らかにする」と、あいまいな言葉ながら「重要な役割」と国民を戦争へ煽った戦争責任をとって、村山社長以下全取締役など経営側にとどまらず、編集総長、編集局長、論説主幹の総辞職を発表した。

読売新聞は正力松太郎が公職を追放され、労働組合の委員長鈴木東民が編集現場を掌握して民主化と経営者の戦争責任を追及した(鎌田慧著『反骨・鈴木東民の生涯』講談社文庫に詳しい。内容はきわめておもしろいから推奨します)。

【放送の二元体制と民主化】

問題は、放送だった。大本営発表を垂れ流し、NHKの施設内に逓信省の検閲官が滞在し、ニュースは同盟通信(のちの共同通信、時事通信)からの原稿をアナウンサーが読むだけという仕組みから、自立する放送局への脱皮を迫られた。連合国内部ではNHKをどうするか制度設計が求められた。NHKの職員は1946年2月、「新聞単一(日本新聞通信労働組合という職能労組)」に参加、読売争議にも連帯、ストライキを打った。

そうした中、GHQ民間通信局調査課長クリントン・ファイスナーが公共放送と民間放送の二元体制(相互チェックができる)を示唆するメモを示した。その結果、公共放送としてのNHKと民間放送が並立する二元体制の放送システムを前提に、1950年放送法が施行される。ファイスナーはアメリカ東部ペンシルバニア出身の弁護士で、1920年米国大統領選挙をラジオがはじめて実験放送した地に育った。

こうしたアメリカ主導の二元体制に、連合国内部から異議申し立てがでた。反対したのは、ソ連、中華民国、オーストラリア。民間放送はスポンサーの意向が強く番組に反映されるからという、過度な商業主義への危惧だった。しかし、アメリカが二元体制を押し切った。ソ連との冷戦激化の折、共産主義に対抗する橋頭堡に日本をせんとする意識改革への狙いが見える。

大日本帝国の敗戦後、連合国側は日本が二度と敵にならないようにするため新しい憲法(日本国憲法)を作らせた。民主化を進めるためだ。主権在民、平和主義、基本的人権の尊重が三大原則とされ、日本国憲法21条「一切の表現の自由は、これを保障する。検閲はこれをしてはならない」が規定された。

今年8月、愛知県立美術館などで開催されたあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」で、公職にある河村名古屋市長や菅官房長官の文化庁交付金をめぐる発言が「検閲」にあたるか、多くの人たちが関心を持っているのは、そうした戦前のマイナスの歴史を踏まえた結果だ。

1950年、こうしてできた放送法で、第一条「放送の不偏不党、真実および自律を保障することによる表現の自由を確保すること。放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」と、高らかに謳われた。

3.産業構造

【民間放送の産業構造】

放送局の経営システムは、三種類ある。

一つは、国営放送。中国や北朝鮮が採用している(もっとも、中国の中央電視台はコマーシャル放送も是認されているが)。ヒトは国家公務員、放送機材は国有財産、番組制作費は税金だ。そうなれば、大本営発表どころか、権力の広報になる(香港の市民デモをめぐって、中国・中央電視台がどんな放送をしているか、容易に想像できる)。

二つ目は、公共放送。日本のNHKはイギリスのBBCをお手本にしている。ヒトは職員。放送機材は自前、番組制作費は受信料といって公的な性格をおびたお金だ(韓国の公共放送KBSの聴取料収集は電力会社に委託しているので、支払いを拒否すると、電気まで通電ストップになる。イギリスなどは支払い拒否者には罰則がある。今度の参議院選挙で「NHKから国民を守る党」がNHKの受信する人だけが受信料支払うことを主張したが、公共をどう考えるか。NHKは受信料が放送サービスの対価ではないと反論している)。

三つ目は、民間放送。ヒトはその会社が独自の選考基準で選んだ会社員、放送機材は自前の会社の施設、番組制作費はスポンサーからの広告費だ。

【視聴率というバケモノ】

資本主義は、商品を購入させる仕組みだから、人びとの購買力をそそるさまざまな手練手管が必要になる。その一方で、スポンサーにしてみれば、広告費を支払うからには費用対効果を計る必要がある。GDP(国民総生産)に占める広告費は、日本でおよそ1.2%、500兆円に対し6兆円だ(アメリカのそれは2%、30兆円)。

そこで、広告主(たとえば自動車会社)、広告業者(たとえば電通)、そしてメディア(ここでは民間放送)。三者が出資して、視聴率の調査会社ビデオリサーチ社を設立した。ちょっとやっかいだけど、大事なシステムを説明するのでおつきあいいただきたい。

あるスポンサーが新しい商品を消費者に周知徹底させ、購入させようと計画する。広告費の費用対効果を図り、広告の届く視聴者の数を合理的に判定する合理的な計算式が必要になる。

GRPという特別な指標がここでは使われる(GRP=グロス・レーティング・ポインツ。のべ視聴率の意味)

テレビ局Q社は平均視聴率10%の時間帯に、スポットCM(15秒)100本放送すると、10x100=1000GRPに達すると計算する。1億円の広告費なら、CM一本当たり百万円という値段で、広告主、広告業者、メディアはスポンサー契約を結ぶ。

ところが、テレビ局R社は視聴率が低くて、平均視聴率が8%しかないとする。そうすると、1000GRPを達成するためには、平均視聴率8%で割ると、CM本数は125本になる。つまり、視聴率がわずか2ポインツしか変わらないのに、R社はQ社に比べCMの放送本数は25本余分に放送する必要がある。

ここまでが、GRPの原理論。しかし、放送時間は、一日24時間、一週間に7曜日しかない。テレビ局R社にとって、売り場面積は限定的なため、結局のところ、8x100=800GRPという数字がはじき出される。広告主の要望という観点から視聴率をチェックするとこれは歴然たる事実だ(Q社にくらべコマーシャル放送を見る視聴者の数は80%となる)その結果として、視聴率はそのまま、コマーシャル放送の価格になる。

平均視聴率10%のテレビ局は1億円を獲得するが、平均視聴率8%なら15秒CMを同じく100本放送しても8千万円の売り上げとなる。視聴率の高い日本テレビ系列は、売り上げが大きくなり、利益も多くなる。一方でフジテレビ系列は低視聴率にあえぐと、利益も少なくなる勘定だ。

民間放送が視聴率競争に奔走し、愚にも付かないお笑い番組やグルメ番組があふれ、まじめだが視聴率の望めないドキュメンタリー番組が深夜に追いやられるのは、そうした資本の論理の結果なのだ。

【テレビの二重雇用形態】

今ではテレビ業界でもあまり語られることが少なくなったが、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こす1995年の前後に、TBSオウムビデオ事件という、テレビ業界を揺り動かした大事件があった。この事件では、ワイドショーがごく少数の正社員と関連会社の多数のスタッフによって制作されている「雇用の二重構造」が明らかになった。

1989年坂本弁護士一家3人が行方不明になる直前、TBSのワイドショー『三時にあいましょう』の総合プロデューサーと曜日プロデューサーの二人のもとに、オウム教団幹部が訪れ、放送前の編集段階の坂本堤弁護士への取材ビデオテープを見せろと強訴した。TBSスタッフはその暴力的な圧迫に屈し、オウム教団の幹部たちはインタビュービデオをスタッフルームで視聴することができた。その9日後、教団は批判的なコメントをする坂本弁護士を敵視し、幼子を含む一家3人を殺害するという凶悪な事件を起こした。

坂本一家に直接手を下したのはオウム教団のメンバーであることは今さら言うまでもないが、ワイドショーといえども報道機関であることは変わりなく、取材倫理上、けっして許されることのできない間違いをTBSスタッフは犯したことになる。

この番組は、月曜から金曜日までの5曜日、毎日午後3時からのおよそ一時間のワイドショー。制作側を点検すると、ワイドショーのスタッフはTBS正社員が総合プロデューサーと5曜日プロデューサーの合計6人だけで構成され、実務の多くは関連会社のスタッフが担うことで、週300分近い番組内容を制作放送していた。

関連会社のスタッフには、取材テープを他人に見せる見せないと判断する権限は全くない。オウム教団に対する強制捜査が終末を迎えた1995年10月19日になって、日本テレビが「TBSスタッフが坂本弁護士の取材テープを放送前にオウム教団幹部に見せた疑いがある」と放送した後も、TBSワイドショーの二人は保身のため、口をつぐみ続けた。よくやく翌年になって(1996年3月25日)TBS磯崎社長が緊急記者会見を開き、ビデオを視聴させたことを認めた。TBSの社長は責任をとって辞任し、曜日プロデューサーを懲戒解雇処分とした。

1970年代、ずっと視聴率トップを走っていた王者TBSは、この事件をきっかけに長期低迷状態に陥る。筑紫哲也が「TBSは死んだ」と宣言したのはそうした放送倫理が欠落した結果なのだ。

【一分計】

視聴率の調査会社ビデオリサーチのホームページを見ると分かりやすいのだが、視聴率は一分単位で表示される。折れ線グラフで、横軸は一分刻み、縦軸に視聴率が5%、10%、15%と刻む。

そうすると、例えば、15時00分00秒から3分間は5%だった視聴率が、15時03分から10分までは8%となることが折れ線グラフに表示される。つまり、60分番組のどの企画コーナーで視聴率があがり、どの企画コーナーでは視聴率がさがる、傾向がはっきり数字、あるいは折れ線グラフになって表示される。

そういう傾向がわかると、どうなるかというと、例えば社会保障の改革というようなこむつかしい話題では視聴率はあがらず、安くておいしい下町のB級グルメをお笑いタレントが面白おかしく伝えれば視聴率が上がるという経験則が得られる。

その結果、どの番組も似たようなグルメコーナーばかりになり、まじめだけれど大切な企画は二度と放送されなくなっていくのだ。悪貨は良貨を駆逐する、悪しきワイドショーの劣化は、なにも、テレビ局員がバカなのでなく、そうした視聴者の好みを反映させた結果とも言える。

つまるところ、韓国に対して悪口を言うワイドショーが跋扈するのは、そうした嫌韓の企画を視聴者が好む傾向をテレビ局の番組プロデューサーが一分計の視聴率表を眺め、はまり込んだ結果なのだ。

テレビ、とりわけワイドショーの放送内容は、TBSオウムビデオ事件で明らかになったように、コーナー企画の大部分は下請けプロダクションが制作している。コーナー企画を担当するプロダクションは、放送局の社員プロデューサー以上に視聴率に敏感だ。なぜなら、視聴率をとらないと次に注文がこないからだ。

さらに言うと、テレビが「嫌韓」を煽っているのではなく、「嫌韓」ものを放送すると視聴率が上がるという国民(の排外主義)をテレビが切り取った結果とも言える。

【絶滅危惧種】

今まではテレビがマスメディアの王様でいた。過去の栄光にすがっているから生じた結果なのだ。しかし、メディア環境はいま、劇的に変化している。

今年(2019年)6月、大分県別府市の立命館アジア太平洋大学で開かれた日本マスコミュニケーション学会で、ある全国紙の東京本社編集局長の発表が衝撃的だった。年代別の円グラフには、10代、20代がそれぞれ5%しか占有しておらず、40歳代以上が全体の四分の三、毎月3万部程度、読者が減り続けているという。

わたしが教えている立命館大学や同志社大学で、200人くらいの学生に一日30分以上新聞を読んでいる人、手を挙げてと呼びかけた。二つの大学で手を挙げたのは、共にゼロ。それでもジャーナリスト志望者がそれぞれ10人くらい挙手したのがせめてもの救い。

4.メディア環境の激変

【メディア革命の訪れと民主主義の変容】

学生たちの間で、テレビと同様、ラジオもほとんどリアルタイムのリスナーはいない。その一方でSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)といって、ツイッターが学生たちの欠くことのできないツールになっている。

米国トランプ大統領がツイッターで重要事項を発表する世の中だ。

接するメディアが変わると、思考も変わる。例えば、アマゾンという通信販売の会社が繁栄すると、アメリカでは小売店が大巾に減り、とりわけ書店がつぎつぎに潰れていく。

ネット言論が大きな役割を占めるようになると、例えばアメリカでは地方新聞がつぎつぎに潰れていく。その結果、「権力の番犬」=ウォッチドックたる新聞やテレビの役割が減少し、カルフォルニア州のある街では、市長や幹部職員の年収が6千万円を越すことを市民は誰も気付かないという驚くべき事態が起きる。

ネトウヨ(ネット右翼)の正体もかなり判ってきた。貧困層の若者たちが1930年代のドイツよろしくルサンチマン(妬み)から排外主義に走っているのではなく、40歳代、50歳代の中小企業の経営者などがネット右翼に走っているという研究成果が最近出版されている。

参議院議員選挙の投票日直前、日本経済新聞は「若者の7割が保守化」と一面トップで伝えた。日本の若者の保守化は深刻な社会現象だが、少し飛躍的表現をすれば、接するメディアが異なると民主主義は変化するのか。  

15世紀の半ば、ドイツの印刷業者グーテンベルグは活版印刷を発明、聖書(バイブル)を印刷した。はじめラテン語、やがてドイツ語に翻訳され出回った聖書は、当時ローマカソリックが派遣したイスラム教徒から聖地エルサレム奪還のための十字軍失敗やイタリアのルネッサンスの人文主義思想とあいまって、活版印刷発明から半世紀で、宗教革命をもたらす。何が言いたいかというと、紙印刷というメディアの変容が、人びとの精神革命をもたらしたということ。

20世紀はじめのラジオの普及は、ヒトラーや大本営発表という全体主義を生み出し、20世紀半ばのテレビの普及は、ベトナム戦争の映像が茶の間に持ち込まれ、黒人の公民権運動、フェミニズムとあいまってベトナム反戦運動を導いた。

1995年マイクロソフトの基本OSウィンドウズ95の発売は、パーソナル・コンピュータとともに世の中を大きく変え、新聞、出版などの伝統メディアを絶滅危惧種に追いやりつつある。ネットメディアは、世界最強の国家の大統領がツイッターで重要事項を発表し、誰もが発信者になれることで「ポスト真実」の時代が到来した。

ネットメディアの普及は、若者たちの意識を変えていく。ちょうど活版印刷から半世紀後に、精神革命としての宗教革命がヨーロッパを席巻したのと同じことが起きつつあるのではないか。ドイツをはじめヨーロッパでの最近の緑の党の躍進に大きな寄与をしている

スウェーデンの少女・グレタさんの武器はSNSだ。その呼びかけによる環境保全へのうねりはヨーロッパで燎原の火のごとく燃え広がっている。

【問題をいかに立てるか?】

なぜテレビは「嫌韓」を煽るのかを考える時、問題の立て方を一歩進める必要があるのではないか。テレビメディアが視聴率という人びとの趣味嗜好の反映であることを見れば、むしろ、なぜ日本の市民は韓国嫌いの意見を唯々諾々と好むのかと問題を立て直す必要があるのではないだろうか。

ここまで書くと、テレビが「嫌韓」を煽ったのではなく、視聴者にこびた「反映論」であって筆者はテレビを擁護するのかと、読者の誤解を生みそうだ。だが、実情はもっと複雑だ。商業主義から、マスメディアの制作者側に売らんかなという過剰な忖度が生じているのだ。

例えば、小学館発行の週刊ポスト(9月13日号)の見出しはこうだった。「『嫌韓』ではなく『断韓』だ。厄介な隣人にサヨウナラ。韓国なんて要らない」と10ページの大特集を組んだ。ポストの書き手からは当該記事はヘイトスピーチだと執筆拒否宣言が相次いだため、結局、週刊ポストは次号で謝罪をした。 

まるで、新潮社の月刊誌新潮45(2018年10月号)が、「性的少数者は生産性がない」という差別と偏見に満ちた自民党衆院議員杉田水脈(みお)の論文を掲載、炎上し、ついには廃刊に追い込まれたことを思い出す。週刊ポストも新潮45も出版業界の中で売れ行きが芳しくなく、ついつい炎上商法という姑息な商法に手を出したあげくの差別表現だった。

ジャーナリズムの王道は、事実のたんねんな発掘という調査報道によって、権力の暴走を監視するということにつきる。こうした調査報道には、取材にたけたベテラン記者の長期間にわたる地道な取材が必要になるだけに、そうした取材には優れた人材を確保し(高給を支払い)、費用対効果の薄い取材作業を長期間担保する資金力が必要になってくる。貧すれば鈍すというが、スクープが少なくなり、結局のところ、エキセントリックな論評によって、雑誌なら売れ行き、テレビなら視聴率を確保する炎上ジャーナリズムが跋扈するわけだ。

5.政治責任は重いー安倍政権の黄昏

メディアは伝える手段だ。はじめにも述べたように、ヒトラーや大本営発表を象徴するような権力のラウドスピーカー(拡声器)にもなれば、市民に権力腐敗を知らせる闘う武器にもなりうる。「諸刃の剣」とよばれる所以だ。

それにつけても政治家が悪い。

2002年小泉総理のピョンヤン訪問で、キムジョンイル(金正日)総書記が日本人拉致を認め謝罪した途端、安倍官房副長官以下、歴史修正主義的な政治家による猛烈な北朝鮮バッシングをきっかけに、北朝鮮たたきの報道が半年くらい続いたことを思い出す。

トランプ米大統領がこれから北朝鮮と国交を回復しようとするのを前に、安倍対米従属政権はナショナリズムを鼓舞するため、北朝鮮脅威論を前面に打ち出すことは差し障りが出てくる。中国は日本のGDPの三倍の経済大国、日本はソロバン勘定が第一でけんかするわけにもいかない。結局、1965年の日韓基本条約以来の歴史認識を正面から問うことをはじめた韓国を日本の安倍政権は仮想敵にするしか選択肢はなくなっているのではないか。

韓国嫌いを煽っている真犯人はメディアではなく、安倍排外主義内閣ではないだろうか。アジアに心の底から話し合うことのできる友人のいない日本は、韓国の文在寅政権への小手先のいじめと敵視政策を繰り出すしか、安倍政権の延命策は残っていなかったのではないだろうか。  

安倍政権はその歴史的な役割をそろそろ終え、寿命の途絶える時期を迎えている。むしろ、日本が東アジアとの歴史を正視し、日本が東アジア諸国との友好へと政策を転換する時期は案外近いように思える。                 (文中敬称略)

にしむら・ひでき

1951年名古屋生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日放送で放送記者。近畿大学人権問題研究所客員教授を経て、現在、同志社大学嘱託講師、立命館大学嘱託講師。著作に『北朝鮮抑留』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争』(岩波書店)、『朝鮮戦争に「参戦」した日本』(三一書房、2019.6)ほか。

特集・混迷の時代が問うもの

  

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