連載●池明観日記─第10回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

(2012年)
≫無思索の時代≪

もしも私に研究のできる余力が余っているとすれば、韓国近現代詩歌史というものを書いてみたいと思う。詩歌がその時代をもっともくっきりと反映してきたと考えるからだ。それが思想史の中心を占めてもいいではないか。詩歌がその時代の世態を結晶して来ているような気がするからである。

素月(ソウォル)、李相和(イサンファ)、金起林(キムギリム)、そして林和(イムファ)、李陸史(イユクサ)、白石(ペクソク)、尹東柱(ユンドンジュ)、盧天命(ノチョッンミョン)などとたどっていけば、日本統治下そして終戦前後の悲しい流れをたどることができるのではなかろうかと思う。朴斗鎮(パクトゥジン)、趙芝薫(チョジフン)において日本の植民地下における最後の日をたどり、金洙暎(キムスヨン)から金芝河(キムジハ)、そして梁性佑(ヤンソンウ)へとたどっていけば、1960年の4.19 から61年以降の軍事政権時代へと歩みを進めて行くことになるだろう。それから民主化した時代ともなれば今日のような懐疑の詩の時代となるであろう。

今度『朝鮮日報』に掲載された新春文芸の当選作「朝鮮史K」を見ると高揚した感情に欠けているといおうか、散文化された詩といおうか、そういったものが感じられる。それは崔ドンホの詩集『氷の顔』とか季刊『抒情詩学』に掲載されている難渋な詩において感じたものと同じものといおうか。それは今からは懐疑の時代であるということの反映であろうかと考える。懐疑しながら悩み苦しむということからも遠い無思索の時代といおうか。そのような全ての時代を生きて行きながら詩はそれを形象化していくものであろう。その時代を生きる人々の心性を結晶してあらわにする。そのあとをたどって思想史を記録していく。詩はいかなる文化現象よりも思想史を編んで行くのに適切な資料となるのではなかろうか。

「先史時代には人間の15%が他殺された」(『朝鮮日報』2011年12月19日付)という記事にハーヴァード大学スティーブン・ピンガー教授の本“The Better Angels of Our Nature”が紹介された。数多くの恐ろしい戦争があったといっても、現代においては人々に比例して戦争による人間の死は減少したというのである。

私は直ちに朝鮮における南北のことを考えた。北のあの凄惨な弾圧と人間に対する殺害。それは何よりも人間の生命を保護する政治と法が存在しないからではないか。あれは歴史において去りゆく社会として見なければなるまい。政治が変わるとしても、今や人間の死がそれに伴うものではないといわなければならないだろう。朝鮮半島が南のイニシアティブで統一されるならば、政治的報復はありえないといえるのではなかろうか。職場からもかってに人を追放することなどできないし、個人の貧しさも国家の責任といわれる時代ではないか。(2012 年1月4 日)

平和を求めるこの時代における隣人に対する姿勢というものを考えてみるべきではなかろうか。彼が気に入らないとしても、彼と対立してはならない。沈黙をもって彼を避け、新しい相手を探すのである。そして新しい気の合う相手と共に友誼を確かめ友情をはぐくんでいくのだ。対立を求めるのではなく、それを避けて、平和と協力を探し求める。これまでは国際的な対立を探してはそれを拡大するというような姿勢が優勢をしめたのではなかろうか。今は平和を求めるとすれば、対立せざるをえない相手は避けて、平和と協力を共にしうる新しい相手を選んで希望を語りあわねばならない、そのような希望をもって過去の歴史も考えるのだ。いわば悔悟の念をもって。(2012年1 月11 日)

シリアにおいて長いこと権力の座にいる大統領が民主化を叫びながら立ち上がる市民に発砲するという事態が続いている。すでに 7000名を超える市民が虐殺されたといわれる。このような事態の中でシリア政府を支持する国はロシアと中国であった。国連がこの事態にブレーキをかけようとしても拒否権を行使して妨害するのはロシアと中国であるといわれてきた。今はかつてのような左翼的イデオロギーとの関連なしに、いわゆる自由陣営の世界支配に抵抗するものであると考えられる。

革命的な左派イデオロギーがこのように変質したといえるかもしれない。そのような姿勢から彼らは朝鮮半島においても北の政権を支持するというのではないか。イデオロギーの問題であるよりは、今は良識の問題であるべきではないか。このような中国のために、北東アジア共同の秩序を目指すとすれば、我々はどれほど険しい道を歩まねばならないのであろうか。 

いま野党の民主党が自分達もお金を包んだ封筒を廻しておいて、それは隠しておいたままハンナラ党だけを攻撃しているといわれる。そして法を犯したものを野党だから迫害を受けているのだとかばっているという。自分にはもっと厳しい尺度を適用し他人はより寛大であるという道徳的尺度など政治においては通用しない。政治の世界では常識的モラルなど通用しないのか。

彼らの世界はこの世の道徳的または宗教的基準とはほど遠い。政治とモラルの乖離というのは世界的現象といわねばなるまい。今日においては黒幕に隠れて取り引きする政治ではないといわれて久しいのにもかかわらずである。このような悪しき雰囲気をどうすればいいのであろうか。革命的で良心的な政治はなくなって久い。若い反体制的勢力といわれるものもあのような悪しき遺産に染まっているような気がしてならない。北の悪しき勢力に同調するものも政治的配慮という黒幕によって隠される。今日のような雰囲気がこれから何を呼び寄せることになるのだろうか。恐ろしい道徳的退廃だと思われてならない。(2012 年1月23 日)

≫また南北のことを考えながら≪

世界政治の残忍性といわざるをえない。北を脱北して中国に行った子供たちがこうむる残酷な日々の生活が新聞に報道されていた。それは北の残忍性とこれに同調している中国の非人間性というべきであろうか。それだけではあるまい。これを放置しておく国際政治そして韓国の冷たい対応。世界史の残忍性は続いている。

それがそのまま国連でも繰り返される。国連安全保障理事会でも去る4日シリアにおける「1 日300 名が死んでいく」凄惨な状況に対して拒否権を行使してシリアの独裁者バッシャール・アル=アサドに「虐殺免許」を与えるのに同意したのは15カ国理事国の中でロシアと中国の2 カ国のみであったという。2カ国はアサド政権と結んでいる利権があまりにも大きいからであるという。ロシアはシリアとの間で輸出11億ドル、投資19億4000万ドルなどの関係を保っており、中国は輸出22億ドルに石油の利権に関係しているという。

これがかつての共産国家であり、反米をかざす国の姿というものであろうか。理念的なものは少しもなく利害打算のみが働くのか。共産主義は政治過程においてすでに理性的で理想的な判断など放棄して利益一辺倒の姿勢に転落して久しい。勝利のための現実的姿勢であるというのかもしれない。自己合理化の恐るべき政治的姿勢ではなかろうか。人間とは、特に国家とはそういうものであろうか。

しかしたとえ何か善良な目的のためとはいっても悪しき手段を正当化することは出来ない。国家であってもそのような自己弁明を許してはならない。そのようなロシアと中国の反人間性は没落していかねばなるまい。アメリカをはじめとした自由世界もそのような過ぎ去った時代の反人間的な歴史から脱皮をし続けなければならない。アメリカも今までの歴史の中でいかに多くの罪悪にまみれてきたことか。どの国もそのような歴史の影におびえているではないか。我が国の歴史もそうであり、北朝鮮は今も残忍性と虚偽を日常的に繰り返しているではないか。悪に目隠しをしようとすれば、それはいっそう拡大し、再生産される。暗闇はいっそう濃くなる。これは歴史の法則であるといわねばならない。

私は、姜東鎮(カンドンジン・前建国大学教授)のことを忘れることが出来ない。彼の運命は彼がひとりで背負うべきものではなく、それこそ朝鮮の運命であった。1980年頃、東京のあるコーヒーハウスの片隅で彼に会った時、彼は解放後お兄さんが左翼として虐殺された人たち、または北の方に行って消息が分からなくなった人たちのことが思い出されてならないといった。そのために南の方が進んで行く道にそのままついて行くことが出来ないというのであった。どうしても南があの時自分の家族を迫害したその時の親日派(解放後登場してきたかつての日本統治に協力した人々)の国であると思えてならないと。

このような彼の心情に私は北から南下してきたにも関わらず共感したといおうか。お互いが身を寄せた政治的イデオロギーは異なっていたとしても、南北で追われた人々は同じような道を歩んできたといおうか。それでも南は民主社会を志向しながら多少でも自己を修正しようとしながら歩んできたといえるかもしれない。しかし北は権力が変化を拒み続けている国である。今は中国の力に頼りながら残命を維持しているといえよう。解放後大学は北から南下した人々と南から北上したかまたは北に傾いている人々とが一つにならなければならないのにと言っていた友人たちもいた。両方が同じく、与えられた現実には批判的であったからだ。

しかし、それははかない夢にすぎなかった。国土分断を前にした民族的苦悩、現実政治との葛藤であったといえよう。そこで私は運命的に選択してしまった南の政治的現実において少しでもよりよくなりうる現実を見出してそれを肯定しようと、それを実践の糧にしてもがいたといえるであろう。そして南下して生きて行く自分の現実を少しでも肯定しようとした。そのような生き方に時には憐憫を感じたといえるかもしれない。今日も恐ろしい圧制の下で飢えている北の人々を考えながら。なんという運命であろう。私は友人、蔡在善(チェジェソン・中学時代の友人)を通して救いだされ南の方にやってくることが出来たが、彼は20代で肺を病み人生を終えねばならなかった。私は90歳を目の前にしてまだ生きているのだが。このような歴史、このような人生をいかに受け入れることが出来るというのだろうか。(2012 年2月6 日)

新聞は政治記事で騒ぎ立てているが、私はそういうのには関心もなく別にそれを読もうとも思わない。今日もヤスパースとアレントが政治に対する関心を失って生きていた晩年のことを思っている。昨日はフィリピン移住女性李ジャスミン(後日、比例代表国会議員になった)の話が『東亜日報』にのっているので読んだ。19歳の時、医科大学に入ったばかりで、夫になる韓国人と出会ったという。とても賢い女性である。夫は一昨年の夏、休暇地で川の急流に流されて命を失ったという。結婚で移住してきた外国人女性たちが「お姉ちゃんは私達の偶像」といいながら「どうすればわれわれもお姉ちゃんたちみたいになれる」と慕いながら問いかけてくるという。これに対する答がふるっている。「義理の母があまり干渉してくる」と不平をいうが「よくかまってくれると考えてみたら」と答えるそうである。混血の息子に自信を植え付けた話はもっと素晴らしい。

「子供にこういってやりましたよ。おまえはフィリピンの血と韓国人との血とを持っているからもっといいじゃない。たとえば一つがいい、二つがいい。二つだろう。だからおまえがもっといいのだよ。子供は、私のママはフィリピン人だよと自慢して廻りましたよ。自分が他の人より特別だという自信をもつようになりました」

夫が亡くなったら義理の母は再婚を勧めたが、これに対する答がまた実に素晴らしいものであった。

「母がもっと素敵ですよ。おまえは私の娘と同じだから、良い相手があればあまりくよくよしないで再婚しなさい。いずれにせよ、本家はこちらだから。お前はまだ若い、お前の年齢でまだ結婚していない人も多いじゃないか’とおっしゃるのです。結婚は一度すればいいでしょう、結婚している人の中にもどうすればこの結婚生活から抜け出すのかと考えている人もいるのに……」 

夫は常に「あなたは頭の回転も速いし理解の心も深い。あなたほどの移住女性はいないと私に自信を植え付けてくれました」

実に聡明な人である。夫が亡くなると「一か月の間ひっこんでいた」。しかし子供たちが学校に行く準備を「ばりばりと」し、「娘が台所でエッグ・フライをし……」、こういうのを見て生きている人間は生きて行かねばと考えたというのである。夫が亡くなったのだからフィリピンに帰るのではないかと尋ねると次のように答えた。

「私はフィリピンに帰るということなど全く考えたことがありません。私の国籍は韓国ですし。私の子供たちは韓国人でしょう。私の家があり、義理の父母がここにいらっしゃいます。ここに来るようになったのは夫のためですけれども私が大人になる歳月を韓国で送りました。19歳の時に来て35歳になるまでここで暮らしたし。私が学んで知っている社会が韓国社会だし、私の人生がここにありますよ」 

感動すべき答えであった。夫を亡くした状況においていっそう大きく成長してくれることを願うのみである。(2012年2 月14日)

≫李泰俊そして金承鈺≪

李泰俊(イテジュン)文学全集第三巻『解放前後・故郷への道』を読んだ。最初の作品「解放前後」(1946年3 月23 日)という作品は解放直後それこそ、愚かであった頃の情景といおうか。それは日本統治時代の下手人ともいうべき各界の有志という人々が台頭してきたといえる頃ではなかろうか。そのような状況に抵抗して李泰俊も左派へと傾いていったのであろう。それが米軍政下の南朝鮮の状況であった。それで善良な勢力が左翼であるという時代風景が繰り広げられた。そのようにして北への道を選んだ尚虚(サンホ)李泰俊であった。1949年11月に出版された彼の北における作品集『最初の戦闘』には6.25即ち朝鮮戦争前であったにもかかわらず南の山でゲリラ戦を繰り広げているという一群のことが描かれている。「最初の戦闘」にはこのような文章が入っていた。

「……鄭ウンゾの奴は今はその客間の柱に独促支部(独促とは独立促進ということであり、右翼団体)の看板をこれみよがしに掲げて西北(青年会右翼暴力団体)の奴らと向き合って座りビールばかり飲みこんでいるではないか!」

南に対してはこんな調子で、北の状況に対しては次のような讃辞を並べ立てた。

「ソ連軍隊が入って来た北朝鮮ではあの搾取なき労働制度を実現した! そこでは他人の土地ではない農事が実現された。北朝鮮は真実に解放され朝鮮人民の朝鮮として無限の可能性において発達しているではないか。どうして一つの朝鮮の中にこんな二つの現実が現れるのか? ホッジ(南の米軍司令官)よ! 李承晩の奴よ! 貴様らの胸板は今日我らの前になんと広い大門番の標的であることか」(71頁)

「……この国を売り飛ばした李承晩の奴から何銭もらい喰ったのか?……われわれもソ連軍隊が入ってきて北朝鮮のように良い暮らしができなかったではないか。金日成将軍の領導に従って土地改革を始めとして……わが民族と国土を分裂させて米国に売り飛ばしてしまった単選軍政(南だけの選挙と政府)を企んだ李承晩、金成洙奴らの……」(97頁)

「この犬のような奴らよ! 見てみよう! 誰が服従するか見てみよう」(140 頁)

「米国大使館」(1951年4月)という作品には次のように書かれている。

「この犬奴らよ! ここは朝鮮だということを知らないのか? 大統領も全て買ったり売ったりするお前らの米国であると思うのか? こんなことはわが朝鮮軍人には侮辱だ、侮辱! 本当に死んでみたいのか?」

美文でセンチメンタルといえる文章で名をはせていた李泰俊もこのような文章でイデオロギー賛美の小説を書かざるをえなかった。彼が1946年の夏、越北という北への道を選ぶ直前まで南における最後の作品として『現代日報』に連載していたが中断せざるをえなかった「不死鳥」という作品の世界は、北における彼の作品とはあまりにも異なるものであった。「不死鳥」には彼の文学持ち前の感傷がそのまま流れていた。

彼は日本統治時代の終わり頃、故郷江原道の鉄原(チョルウォン)に帰り筆を絶ち、親日文学に流れることがないようにと身構えした。私は1940年頃であろうか、平壌で朝鮮の作家たちが時局講演会を開かざるをえなかったことを記憶している。兪鎮午(ユジノ)は朝鮮の作家たちが日本語で小説を書くということがいかに難しいかを流暢な日本語で語った。李泰俊はこの時も泰然と長編小説と短編小説の比較について朝鮮語で話した。李光洙のみが親日的な話を露骨に口にしていたのを記憶している。その時彼はすでにいわゆる創氏改名をして香山光郎と名乗っていた。

日本統治時代をそのように生き抜いた李泰俊であるが、北では小説でない宣伝文を書きながら「奴らに仇を返すのに百倍、千倍にして返そう」 (1951年4月「百倍千倍に」)を結びの言葉とするイデオロギー小説、いや小説ではない小説を書かなければならなかった。そこには「口穴に注がれた血」(88 頁)、「でぶっちょの腹」……と李泰俊らしくないことばが数限りなく飛び出してくる。1946 年に訪ソ文化使節団に参加してから帰国して彼が金日成大学で語った「ソ連紀行」のことが思い出される。それは政治の言葉は避けながら実に面白く美しく語ったものであった。その後、南の韓国に来てみると出版されていたので、私はその全文を読むことが出来た。

「ソ連紀行」は彼が43~44 歳の時ではなかっただろうか。ソ連で風邪をひいて入院せざるをえなかったことを語りながら、彼は看護士が率直に自分を愛しているといってくれたと伝えながらその国ではそのように人間の感性が解放されていたと純真な口調で伝えていたことが思い出される。しかし彼は初秋の清らかに晴れた日に平壌の空港に降り立った時、やはりこの国が自分にとっては最も美しく愛すべき国であると感じたと結んだ。

その後北朝鮮芸術総同盟副委員長であった彼は南労党粛清の嵐の中で没落に没落を重ね山あいの協同農場で一般労働者として働かされたが、1960 年代の初め50代の齢で死亡していたことになっているという。北では、『現代日報』に書いた「不死鳥」のようなセンチメンタルな作品は一行もなしに作品ではない作品を書いたのにもかかわらずである。日本統治時代を節を曲げずに生き延びた彼であるが、同じ民族の弾圧を耐え抜くことはそれほど困難であったのだろうか。

南北の対立、とりわけ北のあのような政治体制によっていかに多くの純真な知識人が死の道へと追いやられたのであろうか。そのような暗闇の時代をへて南にいるわれわれはいま21世紀の自由の時代を生きているのだといえるだろうが、心苦しい思いが尽きない。そして、苦難の時代に保っていた美しい人間性を失ったのではなかろうかと恥じているとでもいおうか。私はこのように人生の最終段階に至ったせいか、北の歴史をほとんどイデオロギー抜きに直視しながら南北問題を考えなければならないと思うのである。もう一方で南では左翼活動をした人々を保導連盟に加入させておいては朝鮮戦争が起こると引き出して数多く殺害したではないか。このような不幸にあった家族は今でもその痛ましい思い出のために南の政治的正当性を認め難いと思っているのかもしれない。

私はこのようなことが心の片隅に残っているのをどうにもできないでいる。解放後ソウル大学の文理学部では多数の学生が左翼的であったという記憶とともにである。彼らはどうなったのであろうか。あの頃は本当に途方もない狂気の日々ではなかったかという思いを私は打ち消すことが出来ないでいる。それから南では軍事政権が君臨した日々が続いたではないか。(2012年2月21日)

今日朝鮮日報に「脊髄障害-14歳でお手伝いさん-世界障害人機能で金メダル-14年間アフリカに奉仕-米コロンビア大学修士」という説明のついたタイトル、「134 ㎝の巨人」というタイトルの記事が出ていた。涙と刻苦の努力によってこのように成長したという47歳の金ヘヨンとのインタビューであった。彼女の終わりの言葉はこういうものであった。

「ママにたたかれて成長した記憶そして父親の死が私にとってはダイヤモンドであった。それに負債を負って生きている。幸福なことはそのまま過ぎ去っていくが痛みと傷跡は過ぎ去らないでその場に残ってピッカピッカに光っていた。ダイヤモンドのように輝くその傷と痛みの力で私は生き続けていると考える」

「私が耐えることのできる苦痛があるということは祝福だ」と彼女は締めくくった。これはなんという恐ろしくも美しい哲学だろうか。(2012 年3 月10日)

昨日、金承鈺(キムスンオク)の「登壇50年祝賀文学朗読会」に出席した。私も一言しゃべらされた。金承鈺はハングルの美しさを引き出して書いたいわゆるハングル世代の代表作家であると私は思っている、といった。我々の場合は日本語が頭にこびりついていて、韓国語で書こうとしては自分のハングルの気まずさに苦しんできた。先日、蔡万植(チェマンシク)の『濁流』と廉想渉(ヨムサンソプ)の『三代』のような作品を読みながらも同じような気まずさを感じた。蔡万植の文章は全羅道式対話の文章であるといえよう。その特異性を感じながらも何かしっくりしないものと思えた。彼の場合にはわれわれが今はほとんど使わない古い漢文式表現が多かった。

また15世紀に製定されたハングルの運命を考え、その一方で、8世紀に製定された日本の仮名のことを考えた。そしてハングルの使用が弾圧を受けてきた歴史を想起した。そうしながら金承鈺に現れた美しいハングルといおうか、そういったものに言及した。特に彼の作品「霧津紀行」に現われたハングルを例として上げた。

金承鈺にこの集まりに出席してくれるようにと強いられて、このような作品を読むことができたことを心から感謝した。そしてこれからもっと彼の作品を読んでいくことを約束した。そういいながら「歴史の消去と交叉」ということを話した。昔『思想界』においてわれわれはほとんど彼と対話を交わすことがなかったではないか。われわれの世代は 1964年といえば、非常戒厳令の6.3事態、ベトナム派兵などと政治の渦巻きの中で生きていた。

その一方で金承鈺の世代といえば「霧津紀行」「ソウル1964年冬」のような作品に現れている憂愁の精神の中で生きていたといえるかもしれない。われわれが生きていたのは表層の歴史であり、金承鈺の「霧津紀行」「ソウル1964年冬」というのは深層の歴史、泡ではない水の底を音もなく流れる歴史、とても実存的であった凄絶な世界ではなかったかと思われる。彼の作品世界はそれこそ〝アンニュイ〟(ennui)の世界であったであろうといった。

その時は表層の世界と深層の世界の間に対話というものがなかった。われわれが書いてきた表層の歴史はある意味では深層を流れる歴史を消去した虚偽とさえいえるかもしれない。このような意味でそれは決して‘situation’に根づいた全史、トータル・ヒストリーにはなりえないと反省せざるをえない。そのすべてを包摂した思想史的な接近が求められるのであり、そのような全史的なもの、そのような思想史的歴史がほんとうの歴史でなかろうかといった。この二つの流れが、金芝河が「五賊」という作品のために投獄された時には交錯したのかもしれないが。

私は今や老年に至り、表層に対する関心は薄らいで来たのかもしれない。今は失われた時間を求めて深層の歴史に共感したいと思っているのかもしれない。しかしこのような老年ともなれば20年の年齢の差にもかかわらずみんなが一緒に歩いているといえるのであろう。朴正煕の娘が声を上げ、無名または虚偽の群が騒ぎ立てる歴史をただ茫然とながめながら。私は来る 4月の国会議員の選挙に関心を持ちたいとは思わない。

さて金承鈺のその記念会にはどうして昔の彼の同僚たちはほとんど参加していなかっただろう。李清俊(イチョンジュン)のような作家はすでになくなっている。金承鈺がからだに不自由を感じるように(言語障害)なるとみんな離れてしまったような淋しさを感じた。作家とはこのような席に集まって共に何かを感じあうべきではなかろうかと思った。(2012 年3月24 日)

続く

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)

池明観さん日記連載にあたって 現代の理論編集委員会

この連載「韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート」は、池明観さんが2008年から2014年にかけて綴ったものです。TK生の筆名で池明観さんが1970年代~80年年代に書いた『韓国からの通信』は雑誌『世界』(岩波書店)に長期連載され、日本社会に大きな衝撃と影響を与えました。このノートは、折々の政治・社会情勢を片方に見ながら、他方でその時々、読みついだ文学作品、あるいは政治・歴史にかかわる書籍・論文を参照しながら、韓国の歴史や民主化、北朝鮮問題、東アジア共同体の可能性などを欧米の歴史・政治と比較しながら考察を加えています。

今回縁あって、本誌『現代の理論』は、著者・池明観さんからこの原稿の公表・出版についての依頼を受けました。第12号から連載記事として公開しております。同時に出版の可能性を追求しています。この原稿の出版について関心のある出版社は、編集委員会までご連絡ください。

  

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