コラム/温故知新

“今ちゃん”と下町の労働・社会運動

黒の詰襟で労働運動/“懇親”区労協から“運動”区労協へ――下町の異色の行動派・今泉清さん

現代の労働研究会代表・元江戸川区労協事務局長 小畑 精武

(以下随時掲載)「一人でも必ず守る」東部一般統一労組の結成・中小企業労働者の組織化/
「一人の首切りも許さない」・中小企業争議/「区長は区民の手で」・地域社会運動との連帯・区議会を
占拠/下町タイムスの発行/

今ちゃんの青年オルグ時代、ホンダカブと鳥打帽子(1960年頃)

今泉清さん(1937~2001年)。「今ちゃん」と親しまれ、黒い詰襟で労働運動を始めた労働者?学生?

詰襟姿で東京東部の江戸川区労働組合協議会(江戸川区労協;労働組合の地域共闘組織)のオルグ(組合の専従者)として社会運動に飛び込み、南北12㎞、東西7㎞の広い江戸川区内を最初は自転車で資料配布をやり始め、やがてスーパーカブ(写真)、4輪車へと代わり、最後はトレードマークの作務衣で交差点を横断中に交通事故に遭って逝った“異色の行動派”。下町タイムス社長、そして私の師匠でもあった今ちゃんの行動の軌跡を振り返り、没後21年、下町・江戸川に咲いた労働・社会運動を紹介し、あらためて追悼の意を表したい。(以下敬称略)

1.詰襟(つめえり)姿で労働運動

今ちゃんは江戸川区労協オルグであったと同時に、60年安保のころは地域の社会党オルグでもあった。原水禁などの平和運動、労働者の権利確立、各種選挙など運動として重なる面があったからだ。同じような仕事でそれぞれの賃金が安かったからと推測する。

東京の東のはずれ、江戸川に仕切られた千葉県との境に位置する江戸川区、その小松川地区は戦前に形成された東京東部の下町工業地帯の最も東にあった。隣の亀戸を拠点とする南葛労働者の闘いの場でもあり、関東大震災直前には小松川地区に南葛労働協会の2階建ての事務所が一時あり、渡辺政之輔が働く工場もあった。(「日本共産党と渡辺政之輔」恒川信之、三一書房)。

関東大震災と東京大空襲で焼け野原となった江戸川にも戦後労働運動が雨後の竹の子のように広がっていく。地域では民間労組共闘組織(ライオン油脂、第一製薬、本州製紙、電産〈電力〉など)と官公労(全逓、国労、都職労、都教組)が2・1ストの盛り上がりのなかで東部ブロック共闘会議に参加し、戦後江戸川地域労働運動の出発点になった。だが50年にはレッド・パージ(GHQによる共産党員や同調する戦闘的な労働者の企業からの追放)の嵐が吹き荒れ、ライオン油脂、電産と次々に敗北。この間各単組は企業内に閉じこもり企業内意識が強まり、外部との組合運動もほとんどなくなり、共闘会議は壊滅していった。

2.“懇親”区労協から、“運動”区労協へ

「つくるまでは非常に苦労しましたね。2・1ストとレッド・パージが地域に大きな混乱を与えていた。組合も経営者も『企業内組合で十分だ』と考え、横の連帯を恐れていた。『そうではない!隣の工場がストライキをやるときに黙って通りすぎていいのか!と初代区労協事務局長となる東交江戸川(東京交通労働組合江戸川支部)の北村重雄さんは区内労組を説いて歩きました』(「ロマンに生きるー江戸川区労協30年の歩み」北村重雄元議長)。

そしてさらに北村は戦後民主化の一環として労働組合づくりをすすめていた行政とも協力し、東京都亀戸労政事務所の協力を得て江戸川区労働組合“連絡”協議会を20組合によって1952年11月1日小松川公会堂で結成、江戸川地域労働運動の再建がはかられた。それでも「労組“連絡”協議会」であり「共闘会議」には程遠かった。初代会長は都教組、書記長は東交荒川支部(江戸川支部)から「生みの親」北村重雄さんが入った。

再び地域共闘が盛り上がりはじめた57年、勤評闘争(日教組による教員の勤務評定反対闘争)は全国に広がり、江戸川では都教組支部長が58年6月逮捕され都心にある神田署に留置。これに対し署長への面会を求め江戸川から150人もの労働者部隊が集まり神田署は取り巻かれ“無血占拠”状態がつくりだされた。

江戸川区労協生みの親・北村重雄元議長 (祖国復帰闘争支援で沖縄を訪れる)

江戸川区労協では「勤評闘争を地区労が支援すべきか、懇親会に徹すべきか」と意見が分れた。こうした地域での新たな支援活動で組織活動強化が迫られ、57年には社会党の“アルバイト”をしていた今ちゃんが初代区労協オルグとして誕生した。

事務局の場所は都職労(区役所)、東交、日産化学、東電と転々としていたが、やがて本州製紙の組合事務所に区労協専用デスクと電話が2年間設けられる。当時の北村重雄区労協議長から「地区労なんていうのは黙ってそっとしとけばもつけれど、なまじっか活動してバラバラにするのはやめろよ!」と今ちゃんは言われた。「それなら、なんで俺を入れるのだ」と後に飲んだ時に大笑いとなった。元気あふれる今泉オルグ主導のもと“懇親”区労協“は”運動“区労協へと変わっていく。

安保闘争と地区労 闘う青年労働者の登場

江戸川区労協の春闘デモ行進

勤評闘争につづく警職法(警察官職務執行法案)は反対運動により廃案になる。59年から60年にかけて安保闘争が盛り上がり、地域でもかつてなく小松川、小岩、中央など複数個所での集会、デモ、さらに国労スト支援などが展開された。ここでも23歳の今ちゃんは労働組合と青年組織の二股をかけた。

「あの時は区労協のオルグだったと思うけど。社青同(社会主義青年同盟)もやっていたからなあ。地区労の部隊はあまりおもしろくないので、区労協旗を誰かに渡して、若いのを引きつれて、社青同のもっとも激しいデモに参加した」。「すみません、年をとった人はこちらで、若い人は僕と一緒にあちらへ、なんてね」(「ロマンに生きる」)

「そういえば、そんな書記がいたかな。60年安保のデモで、旗を持たせたのはいいけど、区労協部隊よりどんどん先に行っちゃう。ちょっとみると、旗だけ。だいぶ先で機動隊ともみあっていた」(「ロマンに生きる」旭喜久男元事務局長)

こうして勤評反対、警職法反対、安保闘争、中小争議支援のなかから青婦協(青年婦人労働者による労組内協議会)が生まれ「運動」区労協を担っていく青年労働者が育っていった。今ちゃん自身も戦後2代目の労働運動・行動派のリーダーとしてユニークな運動感覚を磨いていった。戦前の運動経験を持った北村議長たち戦後第一次世代から、戦後の焼け跡で育った戦後第2世代の芽が育ち、地域の共闘をつくり出していったのだ。

“「懇親」”を深めるため幹事会の前にタバコが配られていた“「懇親」”区労協の青年たちがついに地区労クーデタを起こした。北村議長を残して全員役員は入れ替わって青婦協役員が常任幹事になった。「地域労働者が集える区労協会館」「中小企業労働者の組織化」「争議支援」さらに「1万円以下の労働者をなくそう」「青年の結婚式場をつくれ」を掲げ、柴田頼三青年部長(全逓江戸川支部)はじめ、各労組の精鋭が結集した。後に区議になる“肉体派”の中田久義さん(名古屋精糖)が事務局長、今ちゃんは専従区労協オルグとして事務局次長になった。地域労働運動の課題が増え二人目のオルグが配置されていく。

区労協オルグ、役員を今ちゃんは延べ14年間(オルグ7年、副議長1年、議長6年)、小畑(小生)も23年間(1969年12月~92年5月)経験したが、肉体的にはニュースやチラシ配布、オルグ活動、団体交渉、対区要求・交渉、争議支援、集会、会議準備、集金など財政活動、物品配達、野球大会の準備など「過重な労働」だった。

今ちゃんの時代には4輪車はまだ区労協にはなく、私の最初のころ70年代前半は電話局の電報配達の中古軽自動車だった。区役所から本州製紙までの数キロメートルを自転車にニュースや資料を積んでいった。「雪の日や、雨の日は泣いちゃうね」(今泉)やっとオートバイのホンダカブを買ったのが、62か63年頃、大事故を起こして40日ぐらい入院した。「そのおかげで今みたいに太っちゃった。雷族の走りだった。痔にもなった」。

“運動”区労協の拠点 どぶ川の上に“無から有”の「労働会館」

青年部のエネルギーが集約された、無から有を生み出した「権利」闘争が労働会館建設だった。「それにしても、事務所のつくり方は強引だった。一応区の当局者からは了承がとりつけてあった。それでも若手が謀議をこらすと、『あれでは小さい、もっと大きく』と、あらかじめ材木を刻んでおいて、一日で建てちゃった。「まさに、一夜城」(今ちゃん)。水洗トイレも完備?(事務所の下はどぶ川で床に穴を開けて小便をする“水洗”だった)。

この事務所建設には区労協傘下の土建労組ががんばった。北村さんは区労協加盟の区内企業をまわってお金を集めた。

はじめはちゃんと地代を払った。「当時の区労協はお構いなく『俺たちの労働会館だ、モックあるか! 今なら道路の上に家をつくるみたいなものだ』(北村さん)」。そのうち区は受け取らなくなり区議会で「不法占拠」ともめ始めた。北村さんのあとを継いだ東交江戸川支部の長島岩男元議長は「俺が議長の頃で『じゃ、どくよ。どくについては、ちゃんと補償しろ、区で土地を買え』とやった」。

移った先は江東区との境・逆井にある旧中川わきの土木資材置き場。区が66㎡(20坪)提供し、会議室、事務室、和室6畳にトイレの新築トタン屋根の“立派な労働会館”だ。61年11月に新事務所はしっかりと大地の上に完成した。建物は無くなったが今もコンクリートの土台だけが残っている。新事務所ではその後10年を過ごし、「区長は区民の手で」を掲げて1972年に闘われた区長準公選闘争の民事訴訟和解の一環として、1980年4月再度区役所に近い中央地区に現在の事務所を借り続けることになる。

60年安保に続き江戸川区労協の60~70年代は「運動区労協の時代」として今ちゃん時代をむかえる。「中小労働者の組織化」「中小争議」「地域最賃(1万円以下をなくそう)」「結婚式場をつくれ」などが今ちゃんのもとに、20~30歳代の「青婦協の時代」として若さいっぱいの行動が展開されていった。
 (以下次号)

【参考文献】

「ロマンに生きるー江戸川区労協の30年のあゆみ」(江戸川区労働組合協議会 1983年)

「半世紀のロマンー江戸川区労働組合協議会結成50年・江戸川区労働組合センター発足10周年記念誌)(江戸川区労働組合センター 2002年)

おばた・よしたけ

1945年7月九州生まれ、東京、小倉、大阪で育ち、64年東京教育大学史学科入学。教育大闘争に参加、卒業。69年12月江戸川区労協オルグに。東部一般統一労組書記長・区労協議長の今泉さんと出会う。東部一般統一労組の支部執行委員を兼務。72年1月「区長は区民の手で」をかかげて区労協は「区長準公選条例直接請求署名」地域運動の先頭に立つ。6万8千筆を集めたが区選管は無視、今泉議長と区労協組合員は法無視の区議会議員に抗議し議場を占拠、今泉、小畑が逮捕・起訴される(罰金5000円。詳しくは続編で)。84年3月「ふれ愛・友愛・助け愛」「一人でも入れるユニオン」をかかげて江戸川区労協は労働組合江戸川ユニオンを結成、書記長。翌年コミュニティユニオン全国ネットワーク事務局長。87年区労協事務局長。92年6月自治労中央本部・産別建設センター事務局長。公共サービス民間労組協議会事務局長。現在「現代の労働研究会代表」「現代の理論(デジタル)編集委員」、労働ペンクラブ会員。

第27号 記事一覧

ページの
トップへ