特集●どこに向かうか2019

[連載]君は日本を知っているか―(13)

かつて日本は移民送り出し国であった

移民の経験から何を学ぶか

神奈川大学名誉教授・前本誌編集委員長 橘川 俊忠

サンパウロで聞いた日系人の声

2011年9月にブラジルを訪れた時のことであった。その訪問は、神奈川大学日本常民文化研究所・非文字資料研究センターとサンパウロ大学日本文化研究所との交流協定締結のためで、1週間という短い訪問であったが、ブラジル側から東日本大震災の様子について報告して欲しいという要望があり、サンパウロの日伯文化協会で報告会を開くことになった。神奈川大学では、東日本大震災の救援に大学として学生ボランティアの派遣体制を整え、常民文化研究所も組織的に歴史資料の救出に取り組んでいた。筆者もその活動に参加し、個人的にも現地に数回訪れていたので、実際に目で見た実情を報告することにした。

報告会の当日は、日系人を中心に多数の人が集まり、関心の高さを実感した。その報告会の後だったと思うが、かつて日本人街と呼ばれていたリベルタージ近辺を歩いていた時に岩手県県人会の看板を見つけ、話を伺おうと思ってその部屋を訪ねた。アポなしの突然の訪問だったにもかかわらず、その部屋にいた方達は親切に応対してくれた。その時、テレビでNHKの国際放送だったか、震災支援の御礼として行われた日本と台湾の遠泳大会の模様が映しだされた。それを見ながら、県人会の方の一人が、我々も義援金を集めて送ったのに、日本のマスコミはまったく取り上げてくれないとつぶやいた。

その言葉を聞いて、筆者はハッとした。そういえば、日本では海外のミュージシャンや俳優からの支援の呼びかけや被災者への励ましの声などについては大きく報じられているのに、海外在住の日系人たちからの支援についてはまったく報道が無かったことに思い当たったからである。

そういえば、戦後の復興支援についても、ガリオア・エロア資金とかララ物資というアメリカ合州国からの援助についてはよく知られているが、それ以外の地域の在外日系人からの公的・私的支援についてはほとんど知られていないのが実情ではないであろうか。筆者も、ブラジル移民について調べ始めるまではまったく知らなかった。今から15年ほど前、国際交流基金の客員教授としてサンパウロ大学に招請されブラジルの日系人からいろいろ教えてもらう中で、日系人たちが自分たちも敵国人待遇から解放されたばかりで苦しい生活を余儀なくされているにもかかわらず、砂糖や衣類、義援金を集めて日本に送っていたことを始めて知った。

また、招請された客員教授の義務として、サンパウロの国際交流基金で講演をすることになっていたので、その義務を果たした時のことで、今では何を話したかよく覚えていないが、とにかく講演が終わって一人の老齢の紳士から質問があった。それは、「私たちは、第二次大戦中敵国人としてひどい目にあわされ、戦後も肩身の狭い思いをさせられてきた。今でも日系人としてなにを誇りにして生きていけばよいのかと考えることがある」ということであった。その時も、ハッと胸を突かれる思いがしたが、「戦後日本は、六十年も戦争をしないできた。戦争の反省が不十分だとしても、これは、これほどの経済力のある国家としては現代史上稀有なことで、これこそ誇っていいことではないか」と答えたのを記憶している。その老紳士は、そういう考え方もあるのかと納得してくれたようで、後日食事に招待していただいた。

小さく個人的ではあるがブラジルでの体験は、筆者にとって日本とは何か、日本人とは何かを再考するきっかけをあたえてくれた。考えてみれば、筆者も「移民の子」であった。筆者の父は、戦前に軍属として中国に渡り、後に河北墾業という日中合弁会社に勤めた移民であり、戦後日本に引き揚げた。筆者は、その次男として敗戦直後に北京で生まれた。そんなこともあって、「移民」の問題はどこか自分と繋がるような感覚があった。それがブラジルでの体験によって増幅されたのかもしれない。

踏みにじられた移民達の思い

それはともかく、ブラジルの移民については、もう一つ忘れられないことがある。今では忘れられたニュース映画の一コマである。といっても、筆者が実際に映画館で見たわけではない。講談社が戦後五十周年記念として出した『昭和ニッポン 一億二千万人の映像』というDVD集の第4巻1951~1952「日本独立と血のメーデー事件」に収録されている映像のことである。

その映像は、「勝ち組16家族114人引き揚げ」というタイトルが付けられたニュース映画で、1956年5月30日に横浜港に上陸したブラジルから引き揚げてきた移民の一行を撮影したものである。その映像には「日本の敗戦を信じない」というキャプションと、「この人達は、終戦後5年も経っているのにまだ日本の勝利を信じている」という当時の音声そのままの解説が付けられていた。その音声は、いかにも無知蒙昧な引き揚げ者をさげすんでいるように聞こえた。

たしかに、ブラジルには日本の敗戦を信じず、戦後になっても敗戦を受け入れた日系人を「負け組」と呼び、抗争を繰り返した歴史があった。戦前の皇国主義教育を受け、必勝の信念を持ち続け、敗戦の事実を受け入れようとしなかった人達がいたのは事実である。しかし、そういう人達が、どうして生み出されたのかを考えてみると、そこには無理からぬ事情もあったことを否定することはできない。

ブラジルは、第二次世界大戦においては連合国側に立って参戦していた。したがって、日本は敵国であり、日系の移民は敵国人という扱いになり、日本の公使館も閉鎖され、外交官も退去を迫られた。公使をはじめ、日本政府の職員は真珠湾攻撃後まもなく全員が引き揚げてしまった。国策で送り込まれた移民に対しては何らの措置もとられることもなく、放置された。日本語を話すことも禁じられ、集まることもできず、日系移民は日本との間の情報手段も一切奪われてしまったのである。孤立し、抑圧される状況の中で日本の必勝を信じて祖国からの救援を待つ以外にどんな手立てもなかったといっても過言ではなかったであろう。そういう状況から「勝ち組」は生まれた。

しかし、ニュース映画のナレーションにはそういう事情の説明は一切なかった。この時帰国したブラジル移民16家族114人のその後については全く不明だが、もし、その映像を見ていたとしたら、自分達の思いが無残に踏みにじられたと感じたであろうことは想像に難くない。

また、国家が移民の思いを踏みにじる行為は、ブラジルにとどまるものではなかった。敗戦間際の満州移民の場合は、さらに残酷な事態が発生した。ソ連軍の侵攻によって、満州(現在の中国東北地方)は大混乱に陥り、満州国も関東軍もあっという間に崩壊し、軍人、官僚・満鉄幹部らは我先に逃げ出し、国策で送り込まれた移民は無防備のままに苦しい逃避行を余儀なくされた。それが、どれほど悲惨なものであったかはよく知られている通りである。その悲惨な事態も、日米開戦と同時に三十万近くにのぼる日系移民を置き去りにして、日本の在外公館の役人たちがサッサと引き揚げてしまった事実を考えれば十分予測できたことかもしれない。少なくとも問題の根は繋がっているのである。

利用された移民問題

そもそも日本は明治維新以後、1970年代初頭まで、何故移民を海外に送り出し続けてきたのか、その問題を解明することがなければ「繋がっている問題の根」は見えてこない。日本が明治維新以後、南北アメリカ、中国大陸、フィリピン、南洋諸島など海外に送り出した移民の総数は百数十万(これには日本が植民地支配した朝鮮や台湾からの移民は含まれない)にのぼるという。そして、その移民の多くは国策として送り出された移民であった。

そうした国策を採用した根拠は、幕末から明治期に一部の知識人が唱えた「海外雄飛論」という誇大妄想的議論は置くとして、人口過剰という認識が下敷きにあったといってよいであろう。実際、日本の人口は、江戸時代には約三千万人で推移していたが、明治維新以後急激に増大し、1920年代末には六千万を越えた。この急激な人口増加が、マルサス主義的な人口過剰論となり、海外移民を政策的に推進させる背景となった。

財閥支配と地主制に起因する国内市場の狭隘さが、人口過剰という現象を生み出す根本原因であることを隠蔽し、帝国主義政策を推進しようとする勢力が、国策による海外移民政策を推進したのである。

移民の募集にあたっては、甘い夢のような未来が待っているというような虚偽宣伝が行われ、現実の厳しさは覆い隠され、移住以後はほとんど面倒を見ないという実態も少なからずあった。満州移民に至っては、敗戦間近の1945年8月まで移民が送り込まれ、言語を絶する惨状が現出したということは覚えておかなければならない事実であろう。

戦争末期にあれだけ悲惨な現実を突き付けられたにもかかわらず、移民政策は戦後も継続された。その背景には、またしても人口過剰論があった。1950年の『文藝春秋』誌上で行われた金森徳次郎・嘉治真三・長与善郎・鈴木文史朗の座談会で、こんな発言があった。「こんなに人口がどんどん殖えていったら、生活水準が下がらざるを得ない。十年経つと人口一億になるんですよ」とか「自然にこのまま人口を増していって日本人が仕合せになるかどうか。十年後に一億になってしまえば、二進も三進もできなくなってしまう」というのである。ここで直接移民の問題を論じているわけではないが、戦後在外日本人の帰還が進み、荒廃した国土で職も確保できない状況が続いて、政府も「過剰人口問題」の解決策として海外移民の再開に向けて動き出していたのは、紛れもない事実である。

実際、帰還した移民に「祖国」は決して優しくはなかった。国内の寒冷地や高地に開拓移民として送り込まれ、再び過酷な開拓事業に取り組まなければならなかった者も少なくなかった。また、戦後、海外移民事業が再開されると、それに再び応募して再度海外渡航した「元移民」もいた。

こうした人口過剰論が誤っていたことは、戦後の事実(国内市場の拡大と雇用の増大による過剰人口の解消)によって証明されたといってよいだろうが、移民に関するイメージの問題は残った。移民は、貧困・窮乏というような否定的な観念と結び付けられ、一種の賭けのようにみなされることが少なくなかったのである。送り出す方は、「口減らし」に似た感覚で、いくばくの罪悪感を持ち、他方成功者が出れば僻みを伴う羨望の眼差しを向けるという不幸な関係が生じたのではないか。だから、戦争の結果であれ、無一物で帰還した移民に対する目にも、「勝ち組」に対するような侮蔑の色がにじむことを抑えられなかったのではないか。そういう移民に対するイメージはおそらく一朝一夕には変えられないであろう。

また、「人口過剰論」に基づく移民政策は、国家や民族の生存というようなナショナリスティックな観念と結び付けられると、受け入れを拒否したり、制限したりしている外国への攻撃的態度を強めることにもなる。1924年に制定された、アメリカ合州国の「排日移民法」をめぐる日米関係の悪化の際に見られた事態がその典型である。

実は、「排日移民法」といわれるものは、日本側の俗称であり、「アメリカ連邦移民・帰化法の一部改正」(1924年移民法)というのが合州国での正式の呼称であり、日本人だけを対象にした法律ではなかった。排除されたのは、白人以外の全人種であり、中国人に対してはそれ以前から「中国人排斥法」が制定されており、非白人で例外扱いされていた日本人も排除の対象に含まれることになったというのが実状であった。

詳しい説明は省くが、その改正は、合州国の白人中心主義、第一次世界大戦後のモンロー主義がその背景にあり、人種差別的対応であることは間違いないが、それをことさら「排日移民法」と呼び、反米世論を盛り上げようとしたのは日本政府及び当時のマスコミであったことも認めなければならない。そして、この時醸成された日本国民の反米感情が、後の日米開戦への下地となった、あるいは日米開戦やむなしという世論形成に繋がったといっても過言ではない。

移民問題は、このように送り出し国でも受け入れ国でも、排外主義的ナショナリズムの宣伝に利用される危険性を常にはらんでいる。そうした宣伝合戦の中で、常に危険を背負わされ、情勢の変化に翻弄され続けてきたのは移民として他国に渡った人々である。そして、歴史の示すところによれば、その危険は、戦争という事態の中で、言語を絶する過酷な体験となって現実化した。

移民の歴史から学ぶべきこと

ところで、日本は、昨年末、「出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律」を国会での十分な議論を経ず、強行採決によって成立させた。これによって、日本はこれまで以上の多数の外国人労働者を受け入れることが可能となった。政府は、この改正によって受け入れることになった外国人労働者は「移民」ではないと強弁しているが、実質的に移民の受け入れに大きく舵を切ったと見られている。トランプ大統領の合州国や少なからぬヨーロッパ諸国が移民・難民排斥に動いている時に、それに逆行するかのような動きである。これは、日本が他国人に対して開放的になったということかというと、決してそうではない。

今度の改正は、人口減に伴う労働力不足を補うためであって、受け入れは出稼ぎ型労働者に限定しようという意図が見え見えである。難民については依然として厳しい制限を維持したままであり、外国人労働者についても家族の帯同を許可せず、定住許可や帰化の条件もほとんど緩められてはいない。外国人労働者に対する非人道的扱いを改めるための措置は、なんら具体的に示されないまま、受け入れの拡大だけが先行的に決定された。

かつて人口過剰を理由に、海外移民を推進し、海外に行ってしまえば自己責任とばかりに移民の保護を放棄してきた国が、今度は人口減少による労働力不足のために他国人を呼び込もうという国になった。その国の政治家・官僚・企業経営者達には、人間は口減らしの対象か、単なる労働力としか見えないのであろう。自国からの移民に対して政治的に利用することはしても、なんら保護の手段を講じようとしなかった国が、他国からの移民にたいして人間として正当な扱いをするようには到底思えない

移民の歴史から学ぶべきことがあるとすれば、それは自国であれ、他国であれ移民の一人一人に対して人間として正当な扱いを保障すること以外にはありえない。そういう方向への第一歩は、まず移民の歴史を知ること、そして貧困や窮乏に結びつけられた移民についてのマイナスイメージを払拭することから始まるのではなかろうか。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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