特集●米中覇権戦争の行方

グローバリゼーションと労働運動(下)

世界的な労働運動の退潮、危機の実相と再生への道

東京大学名誉教授 田端 博邦

はじめに

1 労働組合の組織率と労働協約適用率

  (1)組織率の動向

  (2)協約適用率の動向

  (3)国・地域の特性(以上前号掲載)

2 労働組合は再生しうるか?(以下本号)

3 組織率減少の構造的要因

4 長期の歴史的変化

むすび

2 労働組合は再生しうるか?

前章の最後で少しヨーロッパの事情に立ち入りすぎたので、もう一度全体的な見取り図を描き直しておこう。

OECD諸国の範囲で世界の状況を見ると、ヨーロッパの組織率は低下したとはいえなおヨーロッパ以外のアングロ・サクソン諸国や日本、韓国などと比べれば高い水準にある。アメリカ、日本などの相対的にネオリベラルな志向の強い国では労働組合の組織率が低いだけでなく(とくにオーストラリア、ニュージーランドの80年代から今日までの間の組織率の低下幅は32ポイント、40ポイントと非常に大きく、減少率はそれぞれ65%、67%に達する注1)、協約適用率もヨーロッパと対照的に相当低い水準に低下してしまっている。

80%前後の協約適用率をもつ国はヨーロッパ以外には存在しないのである。単純化して言えば、OECDのなかでヨーロッパ圏(とくに大陸ヨーロッパ)と非ヨーロッパ圏とのあいだには大きな差があり、ヨーロッパ圏はネオリベラルのアメリカを中心とする力に引っ張られてネオリベラル化する過程にあるということになるであろう。

他方、歴史的に見ると、サッチャー政権が成立した1979年を画期として1980年あるいは1985年などが組織率や適用率の屈折点となっている。サッチャー以前には、組織率、適用率ともに高めに安定し(アメリカは例外で50年代半ばに組織率のピークを迎える)、70年代から80年代半ばまではインフレーションのもとで賃金闘争が激化し、組織率も伸びる傾向にあった(ただし、労使関係の「黄金時代」とされるのは通常50年代から1975年までのあいだである。石油危機後は労使、政府の間の調和的関係はもはや失われたと見られているからである)。

組織率の低下については、産業構造の変化(製造業の衰退)、高学歴化などの要因が語られるのが通常であるが、おそらく1980=85年の明確な屈折は、こうした長期的漸進的な現象によってだけでは説明しえないであろう。サッチャー“革命”による、労使関係、市場と国家に関するパラダイムの転換(ネオ・リベラリズムの体制の成立)は、決定的に重要な意味をもっていたのである。

ところで、労働組合自身はこうした組織率の低下に対して無策のままであったわけではない。組織率低下の傾向が明白になる80年代後半からは組織化の新たな取組みが模索されるようになる。1988年にはアメリカのAFL-CIAが組織化研修所(Organizing Institute)を設立し、組織者の本格的な養成に踏み出した。この例に触発されてイギリスのTUCは組織化学院(Organising Academy)を設立し、いずれも今日まで活動を続けている。

さらに、こうした試みは日本にも影響を与えただけでなく、今日では国際労組連合(ITUC)のITUC-Global Organising Academyの開設にまで至っている。労働組合は組織率の低下に抗して、全力を上げて組織化に取り組もうとしてきたのである。また、今日の欧州労連(ETUC)の組織化活動を見ると、とくに非正規雇用やプラットフォーム労働者(あるいはより広く独立労働者)などの組織化に重点を置いている。

しかし、このような取組みにもかかわらず組織率の低下傾向自体には明確な歯止めがかけられない状況が続いている。これは、組織率の低下が、組織化活動だけによっては解決しえないより根本的な問題に起因していることを意味している。

3 組織率減少の構造的要因

通常、労働組合組織率の低下の原因として挙げられるのは、産業構造・就業構造の変化(製造業の縮小、サービス経済化)、パート、派遣、有期などの非正規雇用の増加、雇用労働者の高学歴化など(の要因)である。いわば、かつての労働運動の中心的な担い手であったブルー・カラー男性労働者の割合が減少し、組織化の難しいサービス業や非正規雇用の労働者、あるいは専門性が高く個人主義的な傾向の強い高学歴ホワイト・カラーが増えたと言われるのである。

しかし、これらの現象のみから組織率低下の傾向を十分に説明しうるであろうか。例えば、先に述べたように、世界の組織率の低下傾向は、1980年あるいは1985年を画期として始まった。この時期から労働組合の組織率はほぼ一貫して直線的に進行してきたのである。先に挙げた要因は、おそらくもっとなだらかに進行するので、組織率の示すような直線的な屈折を説明しきれないであろう。雇用・就業構造の変化が重大なものであることは否定しえないが、組織率の低下をよりよく理解するためには、この時期に、政治構造や社会意識の変化を含む社会全体の大きな構造変化あるいは転換が生じ、それによって、労働組合にとって有利な環境が失われ、むしろ不利な環境が広がるようになったと考えるべきであろう。

4 長期の歴史的変化

金融史を専門とするバリー・アイケングリーンは、次のように述べている。「第1次世界大戦前には資本規制(capital control注2)は存在せず、国際資本移動は高い水準に達していた。戦間期には、このシステムは崩壊し、資本規制が広範に採用され国際資本移動は大きく減少した。第2次世界大戦後の30年間に規制が徐々に弱められ、国際資本移動は少しずつ回復した。20世紀の第4四半期[1975-2000年]はふたたび高い資本移動の時代となった。しかも、その資本移動の規模はある意味で1913年以前よりも大きい」注3。つまり、第1次世界大戦前には高い資本移動の時代があり、第1次世界大戦時から1975年ころまでは国際資本移動が制限され、国民経済が各国内で循環する時代があり、1975=80年頃から今日の「グローバリゼーション」と呼ばれる高い資本移動の時代が訪れたということになる。注4

通説的解釈では、資本規制の廃止や緩和は資本移動の量的増大によるとされている。しかし、アイケングリーンは政治的条件が重要だと言う。焦点として取り上げられているのは、通貨価値の維持(そのための利子率引上げ)と国内政策(とくに完全雇用政策)との政策的対立である。彼の議論を少し紹介しよう。

第1次世界大戦前の古典的自由主義の時代には、政府は通貨の下落を防止するために利子率の引上げに躊躇しなかったと彼は言う。それは、利子率引上げがもたらす国内の不況と失業増の可能性に反対する労働組合や労働政党が弱かったためである。いわば、通貨当局は通貨価値維持のためのフリーハンドをもっていたのである。しかし、第1次世界大戦後には、労働組合や労働政党の力が強くなったために、安易に利上げを行うことはできなくなる。通貨当局にとってのいわば「民主主義の桎梏」である。「民主主義」の成長は、政府をして「完全雇用」を政策目標として掲げさせることになる。

ブレトン・ウッズ体制のもとでは、戦後復興と完全雇用のための国内政策に必要な限りは資本規制を容認するとされたために、失業と引き換えに通貨価値を守るという純金融的な判断は過去のものとなった。言うまでもなく資本規制は、雇用のための景気政策としての利下げが資本流出につながる経路を遮断しうるということを意味する注5

ではそのような資本規制がほとんど姿を消した今日の時代ではどのようになるのか。アイケングリーンは実は、あまり的確な答えを与えていない。民主主義と固定相場制とは両立しえないが、変動相場制はベストではないが実行可能であると言うだけである注6

そこで、この問いについてはあと回しにして、アイケングリーンの歴史区分について一言述べておきたい。(1)19世紀から第1次世界大戦前、(2)第1次世界大戦から第2次世界大戦までの戦時と戦間期、(3)戦後1945年から1975年または1980年まで、(4)1975年または1980年以降今日まで、という区分に対応して、国際資本移動の水準はU 字型を示すが、他方それは、トマ・ピケティの分析した所得分配の不平等度のU字型とほぼ一致する。さらに、本稿のテーマである労働運動や労働政党の力はこれらのU字型と対称の山型をなす。

労働法の歴史を概観すると、19世紀の古典的自由主義の時代は、団結禁止法から団結の放任の時代で、20世紀に入って、イギリスの争議行為の民事免責立法、戦間期にドイツ、フランスの労働協約法、アメリカのワグナー法などによって集団的労働法の骨格が形成され、戦後は、団体交渉を中心とする労使関係が経済システムの中心に座ることになる。そして、1979年のサッチャー政権成立以降、とくにアングロ・サクソン圏で労働組合や労働協約に不利な立法や政策が展開され、全世界的にも労働法の規制緩和が常態となり、労働組合の組織率は低下傾向に入る。

これらのU字型と山型とが対応するのは、偶然ではない。アイケングリーンが指摘するように、国際資本移動について、民主主義の制度や労働組合、労働政党の力との関連性があるとするなら、これに所得分配の長期的変化を加えた(趨勢とともに、)3者は相互に緊密に結びついているのである。この長期の変化の中から読み取ることができるのは、自由市場の力が強い時期には労働運動が弱く、労働運動が強い時期には自由市場の力が弱まるということである。

ではこのような両者の相反的関係はなぜ生じるのか。もっとも単純な理由は、労働組合や労働運動は、本来的に、自由市場の論理(厳密には個人主義的な自由市場の原理)に抵抗し、これを修正してきたということに求めることができる。ただ、どの時期においても、自由市場があらゆるところになくなったわけではまったくないし、修正される場合にも、根本的な自由の原理がすべて否定されたわけではないということは言うまでもない。市場経済の原理を前提にして、労働者の自由や権利、健康や生活を守るためにさまざまな制度を施す、その限りにおいて自由市場の原理は修正される、というのがこれまでの資本主義の歴史であった。

1980年代以降の新自由主義とは、そのような資本主義的原理の修正がある意味で頂点に達した「黄金時代」の資本規制と内需を中心とする好循環の一国ケインズ主義的資本主義のあり方を構造的に破壊することを意味する。労働運動の80年代以降の苦境は、まさに、そのような経済社会の根本的なあり方の変化を背景としている。

(この最後の点は、先に保留した問いと関連している。資本移動がほぼ全面的に自由化された今日の段階において、民主主義や労働組合・労働政党は、まさに自由市場の原理が回復し、拡張することによって後退を余儀なくされているのである。しかし、このような原因と結果を結びつける媒介項はより綿密に考えられなければならない。)

むすび

冒頭に紹介したように、『雇用アウトルック2017』は「グローバリゼーション・バックラッシュ」に対する対策を検討しようとしたものである。人びとの反発、バックラッシュには現実的な理由がある、OECDにも責任があり、それは「現在の政策が包摂的(inclusive)成長を促進することに失敗したことに起因している」注7と前書きは記している。さらに、要約は、OECDはこれまでグローバリゼーションの良い面ばかりを強調しすぎてきた、これまでのOECDの経済政策上のスタンスは再検討されなければならないと言う注8。OECDの路線転換を示すものとして注目すべきものと言える注9

では、『雇用アウトルック』は、そうしたバックラッシュに関連するグローバリゼーションそのものについては、どのように分析しているのか。「技術とグローバリゼーションは、どのように労働市場を変えているか」と題する第3章では、労働市場の2極化と脱工業化の問題が取り上げられている注10。2極化による低賃金層の拡大が人びとの不満の根源になっているという認識があるといってよいであろう。しかし、労働組合の組織率や団体交渉に関する第4章では、グローバリゼーション等の問題は一般的なかたちで取り上げられているにすぎない。重要な箇所なので引用しておこう。

「すべてのOECD諸国において、労働者と使用者は、自らの利益と関心事についての意見を表明し、また雇用条件に関して交渉するために団結することができる。しかしながら、1980年代以来、この集団的な利益代表と交渉の手続きは、一連の重大な挑戦にさらされてきた。それは、とくに技術的および組織的な変化、グローバリゼーション、製造業の後退、新たな形の仕事、そして人口の高齢化に由来するものであり、団体交渉の効果に厳しい試練を課すものであった。さらに、OECDのいくつかの国では、政策改革が団体交渉制度の機能と射程範囲に影響を与えてきた。」注11

「技術的および組織的な変化、製造業と公共部門の後退、そしてさらに柔軟な契約形態の急速な広がり、またいくつかの国における政策改革が、… ほとんどのOECD加盟国における著しい労働組合組織率の減少の主な要因である。」注12

前の引用が団体交渉に関するもので、後のものが組織率に関するものであるが、挙げられている挑戦の要因に若干のズレがあることに注意されたい。公共部門では一般に組織率が高いこと、有期雇用などの非正規雇用では組織率が低いことはこの報告書でも明らかにされている。これらが後者に付け加えられているのはそのためである。また、両方に挙げられている政策改革とは、労働協約の法的効力を否定したニュージーランドの極端な改革から開放条項の可能性を認めたドイツの協約法改正までさまざまであるが、いずれも労働協約の機能を形骸化する新自由主義的規制緩和としての性質をもつものである。

しかし、OECDの報告書はこれ以上にグローバリゼーションの内容についての分析を行っていない。その意味では、きわめて不十分な分析にとどまっているといえるであろう。グローバリゼーションについては、企業経営や労使関係により直接的に影響を与える市場競争の激化、生産体制のグローバル化といった動的な面が重要である。さらに、より重要なことは、経済活動の単位が、一般的に、国民経済の単位からグローバルな市場の単位に変化したことによって、企業あるいは資本のメンタリティ、行動様式に大きな変化が生じ、企業経営が雇用の維持よりも利益の獲得を重視する経営に転換したことである。そのために、高い失業率は先進諸国の通弊となり、当然の結果として、労働組合の団体交渉力は低下した。

労働組合の組織率が高く安定していた戦後から70年代半ばまでの時代はいわば、一国ケインズ主義的な国民経済が基本的な構造をなしていた。そこでは、高賃金と高利潤の「好循環」が成立し、労働組合は経済組織の不可欠の柱の一つをなしていたのである。その後長い過渡期を経て姿をあらわしたグローバリゼーションとは、そのようなケインズ主義的国民経済の終焉を意味するものにほかならない。また、国際資本移動の活発化による金融資本主義的構造の形成と併進した新自由主義の市場中心のイデオロギーは、各国政府・地域の政策をシフトさせ、経営者の労使関係観を変化させ、さらには世論のそれをも変えてきたのである。

労働組合は、そのような職場や産業、社会における環境の変化のなかで、活動の場を制約され、労働者に対する吸引力をも失ってきた。そのようなグローバリゼーションの展開は、労働運動の後退をもたらした決定的な、もっとも重要な要因であるといえるのである。

そのようなグローバリゼーションの展開を直接可能とした重要な要因は、戦後のブレトン・ウッズ体制のもとで国民経済的循環を確保してきた資本規制が取り払われ(資本の自由化)、資本の国際移動が自由になったことである。それが先進諸国で広範に可能になったのは、時期的には、アイケングリーンの議論に関連して述べたように、1980年代の全体のことである。それは、政治的には新自由主義が広まり、労働組合の組織率が傾向的低下に入る時期と一致している。

注1 前出のクラウチ(Transfer,2017, p.48)から計算。

注2 資本の国境を超える移動(国際資本移動)の規制。通常は為替管理と訳されていると思われるが、ここでは直訳で「資本規制」とした。

注3 Barry Eichengreen, Globalizing Capital, 2d ed. 2008, p.1.

注4 「1980年代に国際資本移動は非常に急速に伸びた」、「その一つの理由は、多くの国が資本移動に対する規制を解除または緩和したことである」とするのは、Peter B. Kenen, The International Economy, 3d ed. 1994, P.393. ほかに、ILO, A Fair Globalization (2004)によれば、ブレトン・ウッズ体制のもとで「世界は国ごとに分離した市場からなっていた」、「これ[資本収支の自由化]は、先進国では1980年代初期になってやっと始まった」(Ibid., p.27)

注5 Eichengreen, op.cit., pp.1-3.

注6 Ibid., p.232.

注7 OECD, op.cit., Editorial, p.9.

注8 Ibid., Executive Summary, p.17

注9 この路線転換をよく示すのは、2018年のOECD雇用戦略(Good Jobs for All in a Changing World of Work: OECD Jobs Strategy, 2018)である。1994年の最初の雇用戦略は、失業対策として労働市場の柔軟化をもっぱら追求するネオリベラルな戦略であったといってよいが、2006年版でやや修正され、この版では雇用の質と非正規雇用対策などの包摂的政策に重点が置かれている。

注10 ただし、グローバリゼーションは脱工業化には若干貿易の拡大が寄与しているが、2極化についての影響は定かでないとしている。

注11 Ibid., p.126.

注12 Ibid., p.133

たばた・ひろくに

1943年生まれ。早稲田大学法学研究科博士課程単位取得退学。同年東京大学社会科学研究所助手、助教授を経て90年教授。現名誉教授。専門は労働法。比較労使関係法、比較福祉国家論など。著書に、『グローバリゼーションと労働世界の変容』(旬報社)、『幸せになる資本主義』(朝日新聞出版)など。

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