コラム/ある視角

「孤食」という問題?

相模女子大学名誉教授 河上 睦子

人が生きるために不可欠の「食」のあり方・事象は、時代や社会と一体であり、社会をうつす鏡でもあります。現代日本では、ほとんどの人が飢えることもなく食を楽しむことができる「豊食」にあるといえますが(それでも近年、食料不足による死者が年間50名以上だと報告されています)、じつはこの豊食は、同時に飽食・崩食でもあるということができます。有害な食品添加物・農薬残留・O-157・BSEなどの食の安全性にかかわる問題、原発事故による食物の放射能汚染、遺伝子組み換え作物の不安、膨大な食糧廃棄物や食品ロス、食の生産・消費をめぐる「北と南」の格差など、現代の食の世界が抱えている問題は、もはや応急措置的な対応は不可能です(これらはグローバル資本主義がうみだす問題だからです)。そこから食は「終焉」にむかっているともいわれたりしています。このような食の現代思想的な問題については、拙著(『いま、なぜ食の思想か―豊食・飽食・崩食の時代』社会評論社、2015)を参照いただければと思います。

ところでこの豊食の日本では、近年「孤食」ということが社会問題化されています。「孤食」とは一人で食事をとることをさしますが、これには地域差や年代差があり、子ども、わかもの、高齢者などがとくに問題があるといわれています。子どもの孤食は子どもの心身発達にかかわる「食育」問題として、たとえば好きなものばかり食べ栄養がかたよったり肥満の原因となり、健康や身体の成長に影響する、また家族のコミュニケーションが欠如することで社会性や協調性の育成がなされなくなる、寂しさからイライラしたり情緒不安定になり心の病気を誘発しやすいなどの弊害があるといわれたりしています。わかものの場合は友人や仲間とのコミュニケーション不全や社会性・協調性欠如の問題として、高齢者の場合は単身高齢者の介護ケアやQOLの問題などとして論議されています。

ここから孤食は、個人の栄養・健康面や心身面にも影響をあたえる「否定的な」食事形態としてとらえられるだけでなく、家庭・家族のあり方の問題、教育の問題、医療や介護の問題、人間関係や仕事関係にも影響する社会的な問題として、その対応策(「食育運動」)が必要であるといわれるようになりました。

それゆえにか、ウィキペディアなどの辞書では、「孤食とは一人で食事を取ることである。特に食事の際に孤独を感じてしまう『寂しい食事』のことである」と否定的に説明されています。でもこの説明はいかがなものでしょうか。ここには孤食は「孤独の寂しい食事」という「主観的な」価値づけが入っています。たしかに子どもの孤食についてはそうしたことがいえても、その場合も子どもの保育状態、通塾、親の事情など多様な理由があります。また近年子どもの貧困率16%(2012)にみられるような経済状況もあり、食(育)の領域を超える問題が多いように思います。他方わかものや単身高齢者の孤食者のなかには、家族や集団がもつ圧迫感や煩わしさよりも、食事の「自由」を尊重するべく孤食を好んで選択する人もいます。また家族一緒の食事でもそれぞれが自分好みの違った食事をとる「個食」や、家族が同じ食卓についても各自が携帯やスマホをみながら対話なしに食事する風景もおおくみられます。事象は表面だけみて批判しても、ことの本質はみえてきません。

「孤食」にはそれぞれの家庭の事情や経済状態が大きく関係しています。また社会的背景として、戦後の日本の家族のあり方の変化(核家族化)や労働賃金問題(単身赴任や長時間労働や非正規労働の増加など)、家事分担のジェンダー差、社会環境や個人のライフスタイルの多様化もあり、それらは調理の「技術化」(冷蔵庫・レンジなどの電化機器の発達)や「外部化」(調理済み食品・料理による中食や外食産業の発達)などにも関係しています。こうしたこと抜きに、孤食を単に食育問題、食生活をめぐる個人倫理の問題、家庭の問題として否定的に語ることはできません。にもかかわらず孤食は人間の食事(栄養・食事・食生活)のあり方として「よくない」と否定的にみたて、食育基本法や食生活指針などをとおして、「共食」を基本とする「食育」の推奨が声高に叫ばれているように思います。なかでも家庭内での「共食」の意義を、母親や女性に向けて発信している風潮(「母の手作り料理の推奨」)が気がかりです。

ところで孤食と対照的に推奨される「共食」とはどういうことなのでしょうか。共食とは、一人で食べるのではなく、家族や友人、職場の人や地域の人などだれかと共に食事をすることで、食事の本来のあり方といわれています。これは、起源的には直会(なおらい)という宗教儀礼に由来するもので、人間集団が共同飲食することで、集団の一体化をはかり、その絆・連帯・共同性を強化する役割をもつものです。それゆえ共食は、既存の集団組織などが危機的事態におちいったときに、食をとおして、分散する諸個人を再び集団に帰属させ「絆」を形成しその組織を再興させるという機能をもつといえます。第二次大戦後の「家族団欒の食事」や3.11後の「和食文化」の継承なども、その例といえるでしょう。今日の共食による「国民的食育運動」にも、孤食や個食を通じてあらわになる個人主義化の波を、再び家族・地域・国家に結束させようという「意図」が隠れているようにも思います。しかしそうした運動は、裏面ではその共食集団に属しない人を排除し差別していくという面をもっていることも確認しておく必要があります。その意味で共食は、社会集団維持のイデオロギー機能ももっているといえます。

もちろん他者とともに楽しく食事することをとおして、人と人とのつながりやコミュニケーションを深め、他者への共感や共助を知ることは、人間らしい食事のあり方として望まれることでしょう。でも人の食行動は、味覚の本質がそうであるように、もともと個人的かつ共同的なものです。それゆえに「孤食」と「共食」とが共存できるような「自由」で「楽しい」食事のあり方をもとめたいものです。

かわかみ・むつこ

相模女子大学名誉教授、現大妻女子大学等非常勤講師。総合人間学会理事。主要な研究テーマは、フォイエルバッハ哲学、食の哲学思想、西洋女性思想史。著書に『いま、なぜ食の思想か―豊食・飽食・崩食の時代』社会評論社。『フォイエルバッハと現代』御茶の水書房。『宗教批判と身体論』御茶の水書房など。

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