特集●戦後70年が問うもの Ⅰ

リベラルの源泉・石橋湛山の言説

哲学喪失の今、戦争責任を考える

ジャーナリスト・<井出孫六と「石橋湛山」を読む会> 北岡 和義

「我々日本人は、もう一度深海魚のように深く哲学しなければと思う」

いわき在住のアーチスト、峰丘が311で被災した直後、絵筆を手にしたときの一文である。30年も前、メキシコのチャパラ湖畔で出会った。カラベラ(骸骨)とスイカを強烈な原色で描くユニークな作風で、最近は好んで深海魚にフォーカスしている。モチーフは生と死。

家を、街を、平安な生活を、破壊され奪われた福島の人々が未だ原発事故の収拾不能に怯え、日常の安寧を奪われているのに首都圏の人々は2020年東京オリンピックの夢に浮かれている。

安倍政権は景気浮揚こそ取り組まねばならない喫緊の課題と強調し、民衆から税を絞り上げるために消費税を10%に引き上げる。

震災復興はどうした。原発除染はどうした。

今、生きる意味を問い直そうという峰丘の呼びかけは哲学的だが、そう言えば今の日本人に「哲学」とは死語となってしまったようだ。

ぼくが留守にした30年近い歳月が日本人を呆けさせてしまったのか。無思想、哲学喪失の日本人が激増している。金儲けが優先順位ナンバーワン。政治家もジャーナリストもそうした社会状況に哲学を語ることがない。

“今浦島”の日本観察

濃緑の森が眼下に見える。野菜畑やゴルフ場に晩夏の残照が照り返している。機はぐんぐん高度を下げていく。巨体が滑走路に着地した時、ふう~っと安堵の気分に満たされた。

2006年8月、長い、長い、本当に長かったアメリカ探索の旅から故国へ生還できた。1979年9月に渡米して以来、実に26年と11か月が過ぎ去った。ぼくは65歳になっていた。

六本木、汐留、品川、大崎、日本橋…林立するガラスの高層ビル群が江戸の面影を消し去り、カリフォルニアのような軽薄な街になってしまったなあ東京よ、という“今浦島”の砂を噛むような思いである。

確かに日本は驚くべき変貌を遂げた。首都圏に人口が集中し地方の過疎化が進行した。農山村、漁村は若者流出で老人の町となり高齢率が高まった。全国で少子高齢化が急ピッチで進行しつつある。

インターネットの時代、携帯電話、とりわけスマホが情報通信環境を革命的に変えた。チュニジアのジャスミン革命もエジプトの政変もリビアのカダフィ政権の崩壊も…そして「イスラム国」のテロリストの日本人ジャーナリスト殺害もインターネットの時代だからこそ起きた事件ではないかと考えている。

恐らくインターネットは21世紀の新しい文明を生み出すに違いない。今、世界各地で起きている混乱はその予兆なのかもしれない。

日本の政治家たちがずいぶん若返った。ぼくが知っている国会議員は数えるほどしかいない。それだけ活気があるかと思えば、どうもそうではないようだ。うちわが配られ、それが公選法違反ではないかと追及され、法務大臣が辞職した。

「うちわでない。討議資料です」、「うちわかと言われれば、うちわの形をしている」という質疑には思わず嗤ってしまった。でも嗤えないウソのような幼稚化した政治の現実である。

今国会では予算委員会の質疑、質問者の発言中に総理大臣がヤジを飛ばして予算委員長に注意されるという場面もあった。憲政史になかった軽薄な総理大臣だ。

経歴詐称やニセメール事件、愛人問題、献金疑惑など政治家のスキャンダルが絶えない。幼稚化、幼児化する政治。それを報道する側のメディアの酷薄な状況、新聞、テレビ、雑誌ともメジャーなジャーナリズムの劣化が目立つ。

読売、産経に代表される新聞が権力に擦り寄り、権力批判の言説が希薄となり、極右的ジャーナリズムが勢いづいている。テレビは視聴率競争に疲弊し、製作費を安く上げるためか、どの局もスタジオでのおしゃべり生番組のオンパレード。それにグルメ、旅、ペットなどをテーマにした番組で占められ、社会の底辺をえぐるドキュメンタリーが減り、風前の灯火となっていた。多くの硬派雑誌が姿を消し、漫画やスポーツ、オタク的趣味の雑誌が隆盛を誇っている。『朝日ジャーナル』や『現代』『宝石』など軒並み廃刊に追い込まれた。渡米前、ぼくの主舞台だった『中央公論』は読売資本に買収され、昔の面影はない。

学界、言論界の権威だった岩波書店の『世界』は部数激減で青息吐息だ。

21世紀の日本人は哲学や倫理を喪失しただけではない。社会正義もどこかに置き忘れてしまったかのような知的世界だ。

異端か正当か、湛山の言説

「異端の言説」とは石橋湛山の評伝につけられた書名である。伝記作家・小島直記による湛山論だが、東洋新報社がこの書を復刊した時、『気概の人』と改題した。軍国主義が勢力を持ち始めた大正から昭和期にかけて湛山の言説は「異端」に映じた。今、読み返してみると彼の言説こそ正当であり、日本の近代、どこで間違ったのか、よく理解できる。

敗戦から70年、2015年は苛酷な戦争を体験した戦争世代が証言できるラストチャンスとなる。誰が戦争を始めたのか。何のための戦争だったのか。犠牲者アジアの人々2,000万人、日本人(軍人+非戦闘員)310万人。その責任はだれが取ったのか。

戦後生まれが日本人の8割を超え、戦争を知らない世代が圧倒的となってきた時代をぼくらは生きている。戦争の実相を伝えたいと紛争地域に入り込んだジャーナリストを捕らえ、政権への見せしめに殺害するという、不条理としか言いようのない時代をぼくらは生きている。

その不条理な世界を見通せない政権が「積極的平和主義」という耳触りの良い言葉と逆の軍事優先政策を進めている。実に危うい時代をぼくらは生きている。

ぼく自身もそうだが、多くの言論人は昨今の日本のメディア状況に絶望的虚しさを感じている。

昨年、NHK会長に就任した籾井勝人の本音発言と朝日バッシングは権力のメディアに対する直接、間接介入でありながらその危機的状況に対抗しようとする新聞人や放送人はごく少数となってしまった。言論の不自由状況を現場の記者、ディレクターらはどう認識し、報道に携わって行くだろうか。

怖いのはそうしたメディア状況に悪乗りして、頑迷右翼が活気づいていることだ。書店に並ぶ罵詈雑言としか思えない表現の雑誌が売れている。

NHKの籾井会長問題を論じた時、ぼくは「ミケランジェロの嘘に倣え」と書いた。(『放送レポート』2014年7月号)新聞記者が記事を書き、テレビのディレクターがドキュメンタリーを制作する。その際、問題の取り上げ方が「公正」か「偏向」かは、いくら議論しても結論は出ない。

映像作家の森達也(明治大学特任教授)がフランスの週刊風刺新聞「シャブリ・エブド」を襲撃したイスラム過激派のテロに対して各国首脳がデモ行進に参加したニュースについて書いている。

<各国首脳たちはデモの最前列を歩いてなどいなかった。(略)首脳たちは通りを封鎖した一角で腕を組んでいた。後にいるのは市民ではなく、数十人の私服のSPや政府関係者だ。つまり首脳たちはデモを率いていない。ただしメディアが嘘をついたわけではない。首脳たちがデモの最前列で歩いたとは伝えていない。記事を読んだ僕たちが勝手にそう思い込んだだけだ>(朝日新聞2015年1月29日「オピニオン」) そして森は書く。

<同じ事件や現象を伝えながら朝日新聞と産経新聞ではなぜこれほど論調が違うのか。どちらか嘘をついているのかと。どちらも嘘ではない。視点が違うだけなのだ>

視点の違いを森は「メディア各社の個性」と書いているが、ぼくはその視点の違いの多様性を大事にしたい。安倍政権はそこのところが我慢できないで「(自分の)公正」をNHKや朝日に強要する。

報道における公正

報道と言う難解なプロフェッショナルの仕事に無知な人は単純に「公正であれ。偏向するな」と紋切り型の注文を付けてくる。放送法の建前だけしか語れない単細胞的経営者が安倍官邸により、NHK会長室に送り込まれた。

籾井会長の国会答弁はあまりにも酷い。放送法の建前以外、一切を語らず答弁になっていない。公共放送局の長として「公正」を語る能力に欠けるのではないか。それで報道における「公正」が保たれるのか。

安倍政権は「公共放送」という建前をもって権力批判を封じ込めようとする。報道における「公正」という言葉は一見、もっともらしいように映るが、実は権力が「公正」と言う言葉を発する時、それはジャーナリズムの現場に対する威圧的な言語暴力と化すのである。

昨年の総選挙で、安倍自民党は全メディアに対し選挙報道に「公正でありたい」との文書を発信したという。これは明らかに報道の現場に対する政治介入であり、権力による威嚇ではないか。

報道の現場がどう反応したかどうかは知らない。投票率は戦後最低で、選挙結果が自民党の圧勝だったことは周知の事実である。

しかし権力が恣意的に不法行為を行う時、もっとも警戒するのは民衆からの批判であり、その世論をリードするのがメディアである。従って権力はメディアを必死に抱き込もうとする誘惑に勝てない。

1931(昭和6)年の満州事変で、それが顕著となった。日本軍の謀略だった南満州鉄道(満鉄)の爆破は「暴戻なる中国人」がやったとメディアは非難、自衛のため軍を動かしたという関東軍の説明を支持した。しかし線路爆破の下手人は日本軍人だった。

当時のメディアは紙面で軍の武力発動を煽った。敢然と批判したのは経済ジャーナリスト、石橋湛山だった。

権力のメディア介入を断固、拒絶する勇気がメディア人の重要な資質だと思う。

<井出孫六と「石橋湛山」読む会>

昨年9月、ぼくは友人とともに<井出孫六と「石橋湛山」を読む会>を立ち上げた。明治期の権力と民衆の抵抗に光を当てたのが井出孫六であり、彼の作品はいぶし銀のような重厚な光沢を放つ。

第72回直木賞受賞作品となった『アトラス伝説』は画家でありながら陸軍参謀本部地図課長を命じられた川上冬崖の生涯を描いた作品だが、陸軍内の権力闘争に巻き込まれ、熱海で謎の憤死を遂げた冬崖の無念に共感している。井出の代表作『秩父困民党群像』や満洲難民の実相『中国残留邦人~置き去られた六十余年』(第13回大佛次郎賞受賞)など時代の底辺で声を上げた民衆の抵抗と歴史の悲惨を綴ってきた。

2月13日、ことしの例会第一回に半藤一利を講師に招聘した。半藤が書いた『たたかう石橋湛山』は満洲事変から日中戦争に突入してゆく軍部の宣伝役に堕落した新聞各紙に対し、一人軍部の武力発動を批判し変節することのなかった湛山の言説を書いた書である。

半藤は「ぼくは保守と言われてきたが、最近は左翼だと批判されている」と苦笑いで、昭和史を歪曲する歴史見直し論者を皮肉った。

*  *  *

ここで本稿は一挙に40数年前に遡る。

1969年12月の総選挙で日本社会党は大敗、92議席に激減した。この選挙で北海道一区(当時は中選挙区)から若い弁護士が当選した。“社会党の飛車”と言われた横路節雄政審会長の突然の死で、長男の孝弘が実父の地盤を受け継ぎ出馬した。

横路に乞われて国会へ行った時、万年野党の社会党に人材は薄かった。3年余で国会を去りジャーナリズムに戻った。フリー・ジャーナリストとして原稿を書き、講演して歩いた。粕谷一希が編集長だった『中央公論』でノンフィクション・ルポを書きまくった。

日本の革新勢力は色褪せ衰退しつつあった。横浜市長だった飛鳥田一雄の人物論を上梓した時、社会党は政権政党になれない、いずれ消滅する、との確信を抱いた。

1979年、日本を出ようと思った。ジャーナリストとして海外に活路を求めていた。この年9月太平洋を越えアメリカめざした。カリフォルニア州ロサンゼルスに住みはじめると多くの友人知人がやってきた。旧知の井出孫六もその一人だった。

渡米の帰途、LAに立ち寄ってくれたのである。米墨国境の町・サンディエゴに案内した。それ以来、会いたいと思いながらLA在では井出と顔を合わす機会はなかった。

911の後、「潮時か…」

ぼくは1985年9月からLAで小さな日本語テレビ局を立ち上げ、ニュース番組を制作、放送を始めた。英語ができない人のために日本語でニュースを解説するマイナーなジャーナリズムである。

プラザ合意が急激なドル安・円高時代を招来した。対米投資が一大ブームとなり、集中豪雨的にジャパン・マネーがアメリカのビルやゴルフ場、ホテルなどを買い漁った。LAダウンタウンの高層ビルの65%に日の丸が上がった。

テレビの仕事は順調だった。1984年のロス疑惑騒動とLAオリンピックがきっかけで、フジテレビやTBSの契約レポーターとなりマイクで語りかけた。

1989年1月7日、昭和天皇の逝去で改元、「平成」が幕開けた。この年6月4日、北京で天安門事件が起きた。民主化を要求した学生のデモに対し、人民解放軍が発砲、多数の死傷者を出した。人民の軍隊が人民を殺傷したのである。

中国共産党に抱いた大いなる疑問、毛沢東の文化大革命とともに批判的な気持ちが湧きあがるのを抑えることができない。

11月10日にはベルリンの壁が崩壊した。翌年10月東西ドイツは無血統一した。

平成新時代は世界激動の年と重なりあい、その潮流は東欧の民主化、冷戦の終結、ソ連消滅と言う現代史を描いてゆく。現在、収拾不能となりつつあるウクライナの混乱もこうした動きと無縁ではない。

日本ではバブル経済が崩壊し、海外の日本企業は縮小、撤退を繰り返す。1990年代は文字通り“Lost 90s”、失われた90年代となった。経済活動は低迷し、ぼくのビジネスを直撃した。

番組のスポンサーは激減し慢性赤字が続いた。湾岸戦争が勃発、LAで大規模な暴動が発生、日本人留学生が殺され、ノースリッジで大地震が発生した。

“危険なLA”というイメージが暗い影を落とし観光客も激減した。経営は苦しく資金繰りも叶わない。

2001年9月11日、同時多発テロの発生でニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センターのツインビルが一瞬にして崩れ去った。アメリカは報復としてアフガンに武力侵攻し、イスラム原理主義のタリバン政権を倒した。さらにイラクへ侵攻し独裁者サダム・フセインを捕え殺した。

しかし…敵の姿が見えないテロとの戦いにアメリカは次第に疲れていく。

制作した番組は1000本を越えた。日本を出て26年余の歳月が経とうとしていた。

「潮時か…」という言葉が脳裏をかすめた。故国・日本へ帰ろう。後継者を指名し番組を託した。帰国準備に日米を往還、2006年8月、ようやく帰国できた。こうしてアメリカという国の探索の旅は終わった。

ラッキーなことに帰国直後、日本大学で教員のポストを提示された。もともと子供のころから教員志望だったぼくは、喜んで学生と向き合う教壇に立った。

奉安殿物語と二つの久米事件

井出孫六の評論集『男の背中~転形期の思想と行動』(平原社刊)。ある時、ベッド脇の書棚にあったこの書が目に留まり読み始めた。「奉安殿物語 内村鑑三と二つの久米事件」という小論に注目した。

1871(明治4)年、岩倉具視視察団の随行レポート『米欧回覧実記』を書いたのが久米邦武、そこまではぼくも知っていた。佐賀藩士の俊秀・久米邦武には随行記を書くという任務のほかもう一つのミッションがあった。

久米は米欧の宗教状況の調査を命じられていた。そして久米は気づく。日本の神社は「宗教ではない」と。久米は「神道は祭天の古俗」という論文を書く。それが「神社を侮蔑、天皇を冒涜する暴説」と神道者たちが激昂、刃を懐に論文の撤回を迫る筆禍事件となって久米は東大教授を追われた。

もう一つの久米事件。久米由太郎は井出の郷里、信州の上田女学校の校長だったが、1898(明治31)年3月、火事で校舎が灰燼に帰した。この校舎は明治天皇が北陸巡行時の行在所として建てられた由緒ある建物だった。奉安殿とご真影、勅語を焼失した責任を取り久米は自害した。作家・久米正雄の実父である。

明治期を舞台にした二つの久米事件を読み進むにつれて、日本の近代国家の黎明期を理解するヒントが語られて興味深い。

歴史は面白い展開を見せる。司馬史観の典型と言われる『坂の上の雲』。二人の軍人兄弟の活躍を縦糸に正岡子規との交友を横軸に、日清・日露の戦役を肯定的に描く歴史小説である。坂の雲を見上げ、近代国家の建設と言う急峻を駆け上がる青春群像を通して、輝く明治という時代の賛歌のごとく書いた。

既述した川上冬崖の生涯を描いた『アトラス伝説』も読み直した。

川上冬崖の自裁は明治期に台頭した軍権力が確立してゆく経過の犠牲者としてとらえた。井出の作品は21世紀に入って13年経つ今も日本の近代国家の成立過程を考える上で貴重な示唆を与えてくれる。

日本が誤ったのは昭和初期ではなく、明治の時代、軍国主義の萌芽と天皇の神格化が始まり、次第に巨大権力化したのだと井出は『男の背中』で書いている。

蒙を啓かれる思い。ぼくは急に井出孫六に会いたくなった。30数年ぶりに武蔵野の地に井出を訪ねた。井出の案内で駅近くの喫茶店に潜り込む。

取り出した石橋湛山全集

と、井出が唐突にカバンから取り出した本が箱に収まった石橋湛山全集だった。

「いま、読み直しているのだが、石橋湛山は実に重要だと思う。彼の主張に学ぶべきものがある。生きているうちに全部読んでみたいのだが…」と井出が言った。

唐突に「読書会をやりませんか」と書生のようなことを言う。井出孫六、83歳。ぼくはちょっと驚いた。でもその提案に魅かれた。

井出と読む石橋湛山。面白い。即座に言った。やりましょう、と。

自衛隊の銃口が火を噴くことのなかった日本は敗戦後69年間を平和に生きてきた。ぼくはボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)に『敗北を抱きしめて』を書いたジョン・ダワー教授を訪ねたことがある。

<日本人は「敗北を抱きしめて生きてきた」と先生は書かれたが、ぼくらは「平和も抱きしめて」生きてきたのです>と言った。ダワー教授は大きく頷いた。このインタビューは『潮』誌2004年2月号に「『暴力の連鎖』を断ち切るために」という見出しで掲載された。

     *  *  *

安倍総理は8月15日に敗戦70周年を迎え、首相談話を出すという。

あの、戦争。「大東亜戦争」と名付けた戦争は誰が始めたのか。

2012年12月の総選挙で圧勝した安倍自民党は、特定機密保護法の強行採決、総理自らの靖国神社参拝、教育基本法の改悪、武器輸出禁止原則の緩和…そしてついに2014年7月1日集団的自衛権の憲法解釈の見直しを閣議で決定した。憲法解釈を閣議で決めるとは、立憲主義の否定であり、まさに法治国家の禁じ手破りである。

憲法9条の平和条項をなし崩し的に無化させようという安倍政治に国民は戸惑っている。否、怒っている。

原発再稼働への並々ならぬ意欲。明らかに現政権は「平和日本の69年」を否定し去ろうとしている。それが安倍首相が言い出した「戦後レジームからの脱却」の真意なのだ。

当然のように中国、韓国、アジアの反日気運に油を注ぐ。両国関係は極端に冷え切った。

石井四郎の犯罪

ぼくは2014年6月29日、友人のジャーナリストとハルビンへ旅した。7月4日、旧満洲、中国東北地方、ロシア国境に近い佳木斯(ジャムス)から北京へ飛ぶ機内で、フライト・アテンダントから受け取った新聞を広げると一面トップで、中国の習近平・総書記と朴槿惠韓国大統領の反日連帯合意を報じていた。

「対日報復」という言葉が脳裏をよぎる。

ハルビン郊外、平房にある「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」は旧関東軍防疫給水部の施設を復元、日本軍の残酷な生体実験の現場として保存、公開している。

金成民館長と会い話を聞いた。現在、世界遺産に申請するため復元を急いでいるという。ここで細菌爆弾が作られ、生きた人間を使って実験した。ロシア人、中国人、韓国人、満洲人の捕虜たちを「マルタ」と呼び、医師たちが凄惨な人体の生体実験をした。1945年8月9日、長崎に二つ目の原爆が投下された日の未明、突如、ソ連が参戦、戦車が旧満洲へなだれ込んだ。

関東軍は証拠隠滅のため捕虜全員を殺害、この巨大な軍事施設を爆破して逃げた。だがあまりにも広大でしかも頑丈に作られた施設だったため、多くが当時のまま残っている。通称、石井部隊はアメリカが細菌研究の資料が欲しくて隊長・石井四郎軍医中将を刑事免責し戦犯に問わなかった。

石井四郎の犯罪はGHQ、マッカーサーによって不問とされた。

それを中国は今、国際世論の場に持ち出そうとしている。ナチのユダヤ人ホロコースト、アメリカの原子爆弾投下、そして日本軍による731部隊の生体実験。おそらく第二次世界大戦下、もっとも残酷で凄惨、悪魔的犯罪の現場を人類の負の資産として永遠に残そうという。

従軍慰安婦問題とは次元が異なる、身の毛もよだつ悪魔的行為でありながら石井四郎、内藤良一ら人体実験に手を染めた医師らは帰国し、一切の責任は問われなかった。

その事実経過はニューヨーク在住のジャーナリスト、青木冨貴子の『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』や常石敬一著『医学者たちの組織犯罪』、森村誠一著『悪魔の飽食』、吉村昭著『細菌』、吉永春子著『七三一追撃・そのとき幹部達は…』に詳しい。

不問とされ闇に葬り去られた731部隊、石井四郎たちは捕虜に対して何をしたのか。

日蓮と“ボーイズ・ビー・アンビシャス”

石橋湛山を読まないか、という井出孫六の提案に全面同意、<井出孫六と「石橋湛山」を読む会>を2014年10月3日スタートさせた。

周知のとおり湛山ゆかりの甲府には「平和ミュージアム石橋湛山記念館」がある。この記念館を訪ね、浅川保理事長に会った。こじんまりした記念館だが、市民運動でカンパを集め、民力だけで建てたそうだ。1階には甲府空襲の実相を写真や遺物で見せ、2階に湛山関連の展示がある。

湛山自ら揮毫した「Boys be Ambitious!」の横軸が目を惹きつける。オリジナルは湛山の母校・山梨県立甲府第一高校の校長室に掲げられている。

「平和・民権・自由主義を貫いた言論人」という標語も納得する。

日本の軍国主義が列強の帝国主義的進出を真似て一等国をめざした大正期、「大国主義の幻想」を書き、台湾、朝鮮、満洲の放棄を主張した言論人。8月15日、敗戦の日、打ちひしがれる日本人に「これで日本は前途洋々」と明るく説いた湛山。

戦後、社会党から国会出馬を勧められた湛山が「社会主義はどうも…」と断る場面が印象に残る。

そう。
石橋湛山はリベラリズムの申し子、あの「Boys be Ambitious!」の精神、ウイリアム・クラーク博士の愛弟子、札幌農学校一期生・大島正健(甲府中校長)に強く影響を受けた。

石橋湛山はアメリカのリベラリズムを受け継ぎ、生涯を貫いた言論人であり、政治家であった。同時に日蓮宗の僧でもあり、日蓮の教えにも強く惹かれている。

石橋湛山の言説は決して「異端」でなかったことを歴史が証明している。

2014年9月25日は石橋湛山生誕130年。

地元住民有志で「石橋湛山先生顕彰碑設置実行委員会」が組織され、湛山が10歳まで学んだ富士川町の増穂小学校校庭に胸像を、また湛山の実父、杉田日布が住職を務めた昌福寺に顕彰の石碑を建て、9月12日除幕式が行われた。まさにリベラリズムの源泉と言えよう。

2015年8月15日 安倍首相は「敗戦70周年談話」を出すという。

「戦後70年首相談話に関する有識者会議」座長に西室泰三が指名された。西室はロサンゼルス郊外、オレンジカウンティの東芝アメリカの副会長だった。帰国後、東芝社長となり、民営化後の日本郵政社長となった。政権に近い経済人である。

安倍は国会で「村山談話は大筋で引き継ぐ」と述べながら「国策を誤り」「植民地支配と侵略によって」「アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与え」「痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明」の部分を削除するのではないか、と懸念されている。

これはまさに歴史認識の問題であり、中国や韓国がもっとも問題としている箇所である。

「あの、先の戦争」について、とりわけ戦争責任があいまいのまま70年が経過した今、ぼくらが歴史を検証するラストチャンスであろう。

従軍慰安婦問題も靖国神社の閣僚参拝もそして…731部隊の非道の戦争犯罪も…。村山談話をめぐる歴史認識については他日、詳しく検証したい。

きたおか・かずよし

1941年岐阜県生まれ。1964年 南山大学卒。読売新聞記者。1970年 衆議院議員・横路孝弘秘書。74年フリー・ジャーナリスト。1979年渡米。邦字紙編集部長、85年 日本語TVニュース番組、制作、放送。2006年 日本大学国際関係学部非常勤講師、08年特任教授。14年日大退職。著書『べらんめえ委員長─飛鳥田一雄の大いなる賭け』『13人目の目撃者』『政治家の人間力』『海外から1票を!』など多数

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