論壇

社会運動としての春闘

春闘60年─総括の一視点

前連合総研副所長 龍井 葉二

1.連合における春闘改革

私が当事者の一人として春闘に関与するのは、総評本部から連合に移ってからのことであり、ごく限られている。

最初は中小労働対策局において、次に総合労働局において、そして最後に非正規労働センターにおいて。とはいえ足かけで約20年。春闘60年の歴史のほぼ三分の一に相当するわけで、春闘改革を思うように進められなかった責任の重さを痛感せざるを得ない。

連合春闘は、産別自決として始まった。

それは、労働戦線統一がナショナルセンター(NC)間の統一というよりは、民間有力単産のNCの枠を越えた集まりから開始されたことと深く関係している。NCに加盟するニーズは、産別によって異なり、賃金などの労働条件決定について、ほぼ自前でできる民間大手産別はNCに政策要求実現の役割を求め、その権利が保証されていない官公労組は政治や選挙での役割を求め、その体制が弱い中小関連の産別は支援や指導を求める。

民間大手労組を中心に発足した連合は、労働条件決定に関しては産別の責任と連合の調整、政策要求実現に関しては連合の責任、という役割分担となったのである。しかし、これは発足時点の原則であり、実際には徐々に変化していく。

例えば、95年の中小共闘センターの設置と中小労組の妥結基準、地域ミニマムの設定。02年、トヨタベアゼロの危機に際しての「ミニマム運動課題」の設定と「底上げ」への転換(当時、一部の産別から連合の春闘からの事実上の撤退が主張されたことに対する「共闘」の堅持)、さらに05年大会の運動方針(中小・パート労働者に最大限の視点、地域に顔の見える運動)を受けたパート共闘の展開、07年の非正規労働センターの設置とその後の非正規春闘の展開など。

こうして連合春闘はおよそ20年を経て、「方針上」は、「産別自決」から「すべての労働者」を対象としたものへと変貌していったといえる。

2.「祭り」としての春闘

春闘は祭りである。祭りとは非日常だ。日々の日常の営みとはまったく異なる光景がたち現れる。

第一は、労働組合と経営の関係。日常の労使協議とは異なり、労組が要求を提出し、組合員からのスト権委譲を背景に団体交渉に臨む。交渉が行き詰まればストライキも辞さない、という鍔迫り合いの交渉だ。

第二は、労働組合執行部と組合員の関係。組合員たちの切実な声を要求書にし、交渉経過をその都度報告し、最後は妥結について組合員たちの承認を求める。場合によっては否決されるかも知れない。これまた真剣勝負だ。

第三は、他の労働組合との関係。春闘は単なる時期合わせではない、共闘だ。互いに支援し支援され、立ちはだかるカベを連帯行動で突破していく。交渉結果を波及させる。全労働者に波及させる。その結果として、春闘は、個別企業の枠を越えて、賃金の上げ幅の社会的波及メカニズムとして機能してきた。

祭りは祭りでも、全組合員が参加して労働者の力と影響力を見せつけると同時に、すべての労働者に影響を及ぼし、すべての労働者から注目し期待される、国民的、社会的な一大イベントなのである。

3.「市場外」と「市場内」の争い

かつて祭りは春とは限らなかったし、そもそも労働問題そのものがまつりごとだった。 なぜか。それは、働くという営みが、他人に傭われ、他人のために労務を提供するという行為に転化し、つまり労働が商品になるということが、本来的に不自然で、無理なことだからだ。

資本主義社会の出現は、いわゆる「二重の意味で自由な労働者」の出現が不可欠とされるわけだが、その労働者は、見ず知らずの人の指揮命令に従って働き、外在的な規律に服するという、それまで存在しなかったタイプの人間の登場を意味していた。

それは同時に、社会的あるいは国家的統合の基盤を形成するものであり、この規律に従えない/従わない者は、貧困に陥るだけでなく、社会統合にとって危険な存在にならざるを得ない。こうして、労働問題は同時に社会問題であり、政治問題であった。多くの下層民衆は、貧民、細民、あるいは浮浪者などに区分けされ、治安対策や社会事業の対象とされていった。

他方で、労働力の商品化が比較的順調に進んだ領域では、使用者の指揮命令への対価として賃金が支払われるという雇用関係が定着し、そこでの労使のやりとりの焦点も、労働の対価としての賃金の多寡に移っていくようになる。つまり、雇用労働者としての地位が安定してくるにつれて、労働市場の存在を前提にした上で、その市場の枠内の取引関係が主な舞台となっていくのである。

労働組合の一般的説明とされるウェッブ夫妻の「賃金労働者の労働条件の維持・向上のための恒常的な組織」という定義は、この市場内取引を説明したものといっていいだろう(なお、ここでの「賃金」労働者という記述は、『労働組合運動の歴史』の初版のもので、D・H・コールの批判を受けて第二版で削除される)。

このように、労働運動には、労働の商品化そのものをめぐる抗争と、労働市場内の取引をめぐる交渉という、二つの側面が宿っているのである。

4.「市場内」に徹する60年代

戦後直後、インフレの進行で賃金が物価上昇に追いつかず、労働者たちは年に何回も賃上げを要求した。春闘ならぬ春夏秋闘である。それと同時に、祭りはまつりごとと一体のものとして展開された。

当然のことながら、敗戦で焦土と化した日本では、賃金要求もさることながら、食うために工場の生産管理を自ら行ったり、職場での生産秩序に関与したりする一方、占領下での独立や平和、労働者としての権利確立を求める闘いが、まさしく国民運動として展開されていた。

労働組合の労働条件改善の闘いが、春の祭りとして定着していくのは1955年以降のことだが、このまつりごとと一体のものとして展開されるという性格は引き継がれていった。

転機を迎えるのは1960年である。この年は「安保・三池」の年として知られているが、1月に労働者同志会は「日本的労働組合主義」という方針を打ち出す。

端的にいえば、労働組合は労働条件の維持・向上という「ほんらいの」役割に徹し、政治課題については政党・選挙を通じて実現するという方針である。つまり、経済闘争と政治闘争を明確に区分けするというものであり、春闘は労働の対価をめぐる交渉に限定されていくことになったのである。

安保条約の延長を期に登場した池田内閣は「所得倍増計画」を掲げたこととも重なり、労働運動は労働市場内の枠組みのなかで「大幅賃上げ」を要求し、獲得していく。他方、総評以外の民間労組においても、生産性向上や生産協力に対する見返りとしての賃上げという考え方が定着し、企業別の労働組合の強化へと連動していく。

投資の拡大と賃金の引き上げが消費増大と経済成長をもたらすという好循環サイクルに組み込まれたものとして、春闘は定着していった。さらに、1964年の太田・池田会談によって、官公労働者の賃上げもまた民間労働者の賃上げに準拠することになり、春闘という祭りは、まさしく国民的イベントとして展開されていったのである。

さらに、政策実現は政治、選挙を通じて、という考え方は同盟・民社ブロックにおいても共有され、さらに70年代になると、民間大手労組のNCを越えた枠組み(民間賃闘連絡会議と政策推進労組会議)も新たに作られていくことになる。

5.「国民春闘」から「民間先行統一」へ

経済と賃上げの好循環メカニズムは、1973年の第1次オイル・ショックで大きな壁にぶつかり、春闘という祭りにも転機が訪れる。

第一には、政府による所得政策である。インフレ対策として、日経連による大幅賃上げの行方研究会の発足や、労働組合側からの経済整合性論など、賃上げの行方は大きな焦点に浮上するが、ここで政府が乗り出してきたことは、それまで経済闘争として繰り広げられてきた春闘が、政治問題に転化したことを意味していた(ただし、この所得政策は、一方的な賃上げ抑制策であって、それに伴う物価抑制策や生活安定策を欠いたものだった)。

第二に、総評は75年から「国民春闘」を掲げるようになる。総評はすでに生活闘争という考え方を打ち出していたが、具体的な運動として展開されるのはこの時期からであり、その後の地域ストにも連動していく。ここで示されたのは、大企業や官公部門の正社員を中心とする組合員だけでなく、広く国民的な視点に立った運動の展開であり、「弱者救済」との批判もあったが、社会運動としての広がりを持つものであった。まつりごととしての春闘の展開である。

他方で、ロッキード事件で田中元首相が逮捕された際、日経連の桜田元専務理事の、「日本はかつてない政治危機に直面しても、企業における労使安定帯によって乗り越えられる」との発言に象徴されるように、企業内労使関係は社会秩序の基盤として位置づけられ、強化されていった。

75年の「スト権スト」の挫折と、76春闘におけるJCの同時同額決着は、労働運動におけるリード役の交代を告げるものとなり、冒頭でも触れた「民間先行」労働戦線統一の動きが形成されていくことになる。

6. 政策と企業行動の変質

連合結成後の春闘改革については先に触れたとおりだが、連合方針が「すべての労働者」を視野に入れるに至るには重要な転換点がある。それは、2000 年代に入ってからの格差と貧困の拡大である。とくに特徴的なのは、それが02~07年の景気拡大、企業業績増大の下で進行したことであった。

その第一の要因は、規制緩和・撤廃を柱とする政策転換であり、製造分野における労働者派遣の解禁は、すでに1998年以降に進んでいた正社員の非正規雇用代替に拍車をかけることになった。

第二の要因は、企業行動の変化である。これは、金融主導経済の下での長期経営→短期経営、従業員利益→株主利益、人事・労務→財務への転換として要約できるものであった。

これは、日経連の「新時代の日本的経営」(95年)で示された枠組みをも越える転換であり、その日経連自体が経団連への吸収合併を余儀なくされた。

人事・労務→財務の転換の下で、利益と賃金の関係を示す
  a)売上げ-経費-人件費=利益
という公式は、
  b)売上げ-経費-利益=人件費
という公式にとって替わり、株主利益と役員報酬が急速に増大する一方で、賃金(従業員報酬)は停滞、もしくは減少するという異常な「歪み」が生じた。

また、企業は90年代半ば以降、金融機関から融資を受けてでも投資を拡大し、そこから利益を得るという経営から、投資を控えて貯蓄として貯め込むという経営に転じてしまい、企業の内部留保が200兆円を越えるという、これまた異常な事態となっている。

a)は、必要な労働力を確保した結果として利益が生まれるのに対して、b)は、利益を確保した結果として人件費、つまり労働力の質と量が決まることになり、雇用の非正規化だけでなく働き方全体に影響を及ぼす。それが格差と貧困の正体だといえる。

7.政治統合・社会基盤の危機

こうして労働問題、とくに非正規雇用問題がまつりごとの焦点として浮上する。小泉内閣を引き継いだ安倍(第1次)内閣は政策の方向転換を余儀なくされ、「再チャレンジ」を前面に掲げる。当時の自民党労働部会の後藤田部会長は、「非正規雇用問題について、民主党や連合に代わって自民党が代弁する」と豪語し、最低賃金法やパート労働法の改正に着手する。この背景にあったのは、格差と貧困の問題が単に経済的な問題ではなく国民統合にも関わる政治的・社会的な問題だとする、強い危機感である。

その予感は的中し、その後の参院選で自民党は敗北。リーマン・ショック後の経済危機、雇用危機のなかで、政権の座を失うことになる。これは決して自民党の自滅ではなく、また単に格差と貧困が深刻化したからだけではない。非正規雇用労働者たちが、自ら当事者として、声を上げ、行動に立ち上がったこと、「反貧困」を旗印とした幅広い社会運動が広がったことが大きな原動力となっていた。日比谷公園で実施された「年越し派遣村」はその象徴の一つだが、労働団体や市民団体、NPOによるこうした動きは全国各地で展開されていた。

そうした光景が、「1%対99%」というピケティ流の経済格差を物語っていたことは紛れもない事実だが、ここで問題になっていたのは、社会的排除や「居場所」の欠如という問題であり、社会基盤の再構築なしには解決できない課題として捉える必要がある。

8.問われる「要求型」への再転換

以上のように、春闘は、祭りとまつりごとの二つの側面を持っており、市場の内と外の攻防を繰り返しながら展開されてきた。それは、1945年、60年、75年、2000年、08年といった節目を経て、現在は基本的には08年後の局面、つまり格差と貧困の更なる広がりの下でのまつりごととしての局面が続いているといっていい。

しかし、ここ数年の間に、マスコミの春闘記事が社会面から経済面に移ってきていることにも表れているように、社会問題から経済問題にシフトしてきている。

それだけではない、春闘という祭りもまた変化しつつあるようだ。

しばらく要求を提出していなかったので要求書の作り方がわからない組合。組合員の実態と関係なく産別方針の要求を引き写すだけの組合。労使協議と団体交渉の区別がわからなくなっている組合。交渉結果を地方連合会に報告するのを渋る組合。ストなど設定したら仕事が他社に行ってしまうと真剣に考えている組合…。これらは実際に耳にした話である。これでは、祭りはすっかり日常化してしまい、伝統行事として引き継がれていないことになる。

連合は、民主党政権時代に、その行動理念を「要求型から協議型へ」と切り替えた。たとえ支持する政党が政権の座にあったとしても、少なくとも「要求プラス協議型」とすべきだったろう。だが残念なことに、この「要求型から協議型へ」のシフトは、職場の活動を含めて労働運動の全体を覆ってしまったように思えてならない。

2015春闘は、さまざまな意味で節目の春闘と位置づけられているが、賃上げ結果もさることながら、春闘を非日常の「祭り」として復活できるかどうか、「協議型から要求型へ」と再転換できるかどうか、そして、市場内の交渉から社会運動としての「まつりごと」へと展開できるかどうか、それが問われている。

9.「中小・地域・非正規」の争奪戦

連合において、02~03年に「共闘」を堅持しつつ、「引き上げから底上げへ」の方針を掲げた背景には、1)輸出産業を中心とした民間大手の賃金がこの先もずっと上がり続けていくことはないだろう、2)民間大手から中堅・中小へと妥結結果が波及していくことも難しいだろう、という基本的な認識があった。

そのことは、小泉構造改革の下での地域の疲弊や非正規雇用の拡大でより鮮明となり、日本の経済社会は、①輸出産業を中心とする大手民間企業セクターと、②中小・地場産業を中心とするセクターに二分され、③多くの非正規雇用労働者が双方のセクターにまたがって増殖するもう一つのセクターを形作る、という姿になったといえる。

これまでは、労働者数では少数派でも労働組合に占める比率が高い①のセクターが賃金引き上げの相場形成役となり、②や③のセクターにも波及してきたわけだが、②や③のセクターの課題は、波及の結果としてではなく、独自に取り出して全体の課題としなければならない、それが「底上げ」であり「非正規春闘」の提起であった。

それは、何よりも当事者たちが自ら行動に立ち上がるということが出発点であり、これは全労働者の統一要求というよりは「部分共闘」にならざるを得ない。春闘改革で追求してきた中小共闘、地場共闘、パート共闘、非正規共闘などは、まさしくその具体化に他ならない。

だが、これらの組合の交渉だけで「自決」できるわけではない。中小、地場の経営者相手に格差是正を要求しても、その財源は極めて限られ、そもそも大手の取引先によって単価が抑制されている。

したがって、①のセクターと②、③のセクターの間の配分の歪みを是正し、②と③の底上げを図ること、これこそが、国(や自治体)の政策、労働組合のNCに求められていることなのだ。

先に触れた第1次安倍内閣から麻生内閣に至る自民党政権は、不十分とはいえこの領域の対応を余儀なくされた。当時の政労使会議は「底上げ円卓会議」と命名され、最賃の引き上げと地域経済対策がセットで論議された。第2次安倍内閣の賃金引き上げメッセージとは大きく異なるといっていいだろう。言い換えれば、あの自民党から民主党への政権交代は、③の運動が先鞭をつけ、②のセクターが自民党から離反することによって起きたといっていい。

第1次安倍内閣は、③を代弁するといって自壊していったが、今の状況においても②や③を代弁し得ているわけではない。では、労働組合が、あるいはそれと連携するグループが「自民に代わって代弁」できているのか。「まつりごと」としての春闘に問われているのは、まさしくこの課題なのである。

その際、第4のセクターたる、パブリックセクター(自治労など)の労働組合が、「企業別」組合・本工組合としての枠を越えて、「すべての労働者」の視点に立った社会運動を展開できるかどうか、もまた厳しく問われている。

当然のことだが、春闘の将来は、もっぱら労働組合の意志にかかっているのである。

たつい・ようじ

1949年、東京生まれ。東京経済大卒。総評本部を経て1989年か連合本部へ。中小労働対策局部長、総合労働局長、総合政策局長、総合男女平等局長、非正規労働センター長などを歴任し、2009年より連合総研副所長。2014年末に退職。

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