コラム/深層

慰安婦問題日韓合意はどこへいくのか

書面無き「つかみ金」解決の不毛

本誌編集委員 黒田 貴史

韓国の朴槿恵大統領が弾劾によって失職直前かと思ってみていたら、日韓関係がとんでもない迷走をはじめた。

2015年暮れに合意した「慰安婦問題の最終合意」(以下、合意)をめぐって、釜山の日本領事館前にも新たに慰安婦を象徴する「少女像」が市民団体の手によって設置され、それを合意違反だとした日本政府の対抗措置によって大使を一時帰国させるという事態にまで進んでしまった。

日本の主なテレビ、新聞などは、韓国の合意違反は明らかで今回の対抗措置はやむをえなかったというものが中心だ。せいぜいリベラルといわれる論調の新聞などが、韓国に合意違反はあっても日本もつられて強硬に出すぎるべきではなく根気よく説得しろ、というところだろう。

そもそもかたくなといえるほどに日本の首脳との会談を拒んでいた韓国の朴槿恵大統領が、どうしてとつぜん合意に乗ったのか。このときにも問題になっている霊媒師が関与していたのだろうか。国家間の合意といいながら、書面化されたものがなく、すべて口約束というのも不可解だ。書面化できない影の合意があるのではないかと疑うのは当然だろう。

合意に至る過程で(あるいは裏で)、どのような話しあいがあったのかを明らかにするための取材、あるいは明らかにしろという論調が主要なメディアから出てこないのが不可解としかいいようがない。まずは、その点を押さえておくべきではないか。

そのうえで、とりあえず合意の内容を、整理すると以下のようになるだろう。

1 慰安婦問題は、日本軍の関与の元に行われたことを日本政府が認めて責任を負っていることを確認した。

2 日本政府の総理大臣は心からのお詫びと反省を表明する。

3 被害者を支援する財団を韓国政府が設立し、日本政府はその資金を政府予算から拠出し、協力して被害者の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行う。

4 この事業が実施されることによって、両政府とも慰安婦問題の最終的不可逆的解決とする。

5 日本大使館前の少女像に対して、韓国政府は関連団体と協議のうえ、適切に解決するよう努力する。

6 両政府は、今後、国連などで非難・批判を控える。

安倍首相は、今年1月8日のNHKのインタビューで、3の資金10億円を日本政府は出したのだから、「韓国政府に誠意を示してもらわねば」と答えている。この局面だけをとらえれば、日本政府は合意にしたがって10億円を拠出したにもかかわらず、5の適切な解決どころではなく、新たに釜山領事館前に「少女像」をつくってしまったのはおかしい、ということになるのだろう。

しかし、もう少しさかのぼって考える必要はないのか。韓国が設立した財団が、元慰安婦の被害者に安倍首相の謝罪の手紙を求めたところ、昨年(2016年)10月3日の衆議院予算委員会で、安倍首相は「手紙を出すことは、毛頭考えてない」と答弁した。この答弁を聞いて、韓国の人びとが1、2の合意に反すると考えても不思議はない。3のお金だけを出して、4以降の成果だけを得ようとしているとみえるのではないか。日本政府は、手紙を出すことは合意にはないといっているようだが、そもそも文書にされていない合意に「○○は合意にない」といっても、「ない」ことの証明になるのだろうか。それとも表に出せない話があるのか?

過去の言動からして、「慰安婦問題に日本軍が関与した」「慰安婦を強制的に連れだした」とは毛頭考えていないだろう安倍首相が、合意にある日本政府の総理大臣による心からのお詫びと反省をかたちとして表すことができるのかを試されたとみるべきだろう。

そもそも合意が成立したときに、韓国政府は、被害者の意向を確認することもなく突きすすんだために、被害者や支援団体からの反対の声は強かった。合意を生かしたければ、両政府は、「協力して被害者の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのため」のていねいな事業展開と説得が必要だったのではないか。

韓国のある被害者と連絡をとりあっている友人の話では、被害者の元に「和解・癒やし財団」からの直接の連絡は届いていないという。被害者は韓国政府にも置き去りにされていると思っても不思議はない。釜山にも「少女像」が設置されたというのは、ただ日本政府に対する怒りというだけではなく、背景には韓国政府に対する不満もあるのではないか。

日本では野党の政治家まで韓国はゴールポストを次々に動かしてしまうと批判する向きがあるが、そもそもゴールポストを動かしたのは誰だろうか。少なくとも河野洋平官房長官の「河野談話」(1993年)で日本軍(国家)の関与を認めたものを、「売春で商行為だった」「強制連行などなかった」とゴールポストを次々に動かしたのは、安倍首相につらなるグループの政治家たちではなかったのか。今回の合意はねじれてしまったゴールポストをせいぜい元に戻しただけではないのか。しかも、本当に元に戻したのか、韓国の政府も国民も日本政府を疑心暗鬼でみているだろう。日本政府が10億払ったから、これで終わりだといわんばかりの姿は、つかみ金で被害者を黙らせようとすると思われても不思議ではない、「被害者の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やし」を尊重しているとは思われないだろう。

アメリカは第2次大戦中の日系人強制収容について、1980年代に実施した補償にあたって、補償法の立法(生存者に補償金の支給)、国を代表する謝罪、強制収容の歴史を教育でとりあげるための予算措置などを行った。立法にあたっては、被害者を議会に招いて公聴会を開いている。この公聴会が被害者の名誉回復と受けとめられているという。同時に以後の教育の資料としても残された。こうして謝罪と補償、被害者の名誉回復、今後の歴史の教訓とする事業を総合的に実施した。

安倍首相は、日米の同盟関係には熱心でアメリカの金魚のうんこのようにふるまっているが、アメリカが日系人の補償にあたって行ったこういうところも学んではどうだろうか。

慰安婦被害者のなかの生存者40人のあまりのうち30人以上が「和解・癒やし財団」からの現金支給を受けているという(先の直接連絡が届いていないという話からすると、どういうかたちで受けとっているのだろうか)。韓国には、10億円を返して合意を破棄して、再交渉するという政治家もいるが、すでに受けとったとされている被害者に返金させるのだろうか。双方の政治家がもっと真摯に被害者の声を直接聞いて、被害者が本当に望んでいる方向で解決の道を探ってはどうか。

しかし、ここまで書いて、韓国の政治家(近く大統領選挙が行われ新しいリーダーが決まるだろう)はともかく、日本の政治家にそれが望めるのか、暗澹とした気分になる。「知的道徳的ヘゲモニー」をもったリーダーとはかけ離れた政治家たちが幼稚な発言をくり返すばかり……。およそ「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」(憲法前文)とは思えない。たしかに恥ずかしい。憲法がではなく、政治家が。

くろだ・たかし

フリーランス編集者。歴史、人文科学、教育関連書籍の編集を30年近く続けている。最近は音楽関連の書籍の編集も手がける。著書など出版企画の相談にも応じます。

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