連載●シリーズ「抗う人」⑱

ユネスコの世界記憶遺産登録を果した南京虐殺記念館前館長~朱成山

ジャーナリスト 西村 秀樹

日中戦争の最中、1937年12月13日、当時の中国の首都南京が陥落直後、いわゆる南京事件が起きた。およそ6週間にわたって虐殺された人数をめぐって、30万人を主張する中国に対し、日本の右翼勢力は「まぼろし」と虐殺を否定する。中国では南京に建設された記念館は、歴史認識のシンボルとなった。その立役者朱成山前館長が来日、各地で講演した。(文中・敬称略)

真珠湾攻撃の日、京都で

2016年12月8日、真珠湾攻撃から75年目に当たる日。京都で南京虐殺を考える集会が開かれた。講師は朱成山。中国・南京にある虐殺記念館の前の館長だ。

朱成山南京虐殺記念館前館長(昨年12月8日京都の集会で。筆者写す)

京都駅へ迎えに行った。朱成山は前日、岡山での講演を終え、翌朝、新幹線で移動してきた。90年代から2000年代、わたしは毎年のように南京を訪れたので、久しぶりにもかかわらず朱成山はわたしの顔を見つけて懐かしそうな笑顔を見せた。この2か月前の10月わたしが9年ぶりに南京の記念館を訪問した際も、新たな仕事で北京に住居を移した朱さんに電話したばかりだ。大きな旅行鞄を手に、早速タクシーで宿舎のホテルに向かう。昼ごはんは何がいいかと尋ねると「ラーメンがいい」という。日本のラーメンは中華料理の麺とはまったく別の食べ物で、中国人の間でも日本のラーメンは評判が高いという。京都の繁華街、新京極にあるラーメン屋を見つけ、豚骨ラーメンを注文した。

新京極では道ゆく和服姿の若い女性にカメラを向け、ちょっとお茶目な面を垣間見せた。四条から五条まで鴨川の河川敷を散歩し冬の京都を満喫した。

朱成山は12月2日来日、熊本から始まり最後の東京まで日本各地11か所で講演というタイトなスケジュール。京都集会では、事件発生からまもなく80年を迎える南京虐殺をめぐり、「私はいかにして南京虐殺記念館の館長になったか」と個人史を通して、日中の歴史認識の課題について熱っぽく講演した。

23年間、南京の記念館の館長

朱成山は2015年12月に職を辞するまで、23年もの長い間、南京の記念館館長を勤めた。記念館の正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遭遇同胞紀念館」という。侵華日軍とは中国を侵略した日本軍の意味。日本の敗戦から40年を迎えた1985年8月15日に開館した。つまり、日本の敗戦直後あるいは中華人民共和国建国当時から存在したのではなく、いわゆる教科書問題で、日本政府が歴史認識でアジアの人びとに不信の念を抱かせた結果、誕生した経過がある。歴史認識の問題は1980年代以降の現代史であることがわかる。

朱成山は、1954年7月、江蘇省の省都南京で生まれた。朱成山は人生をこう振り返る。「ふりかえれば、私の人生はすこぶる単純であったと思います。3つの段階に分かれています。一つは軍務についた時期、それは1970年に入隊し、1990年に除隊するまでの20年間で、部隊では宣伝教育活動を担っていました。二つ目は、南京市共産党委員会で宣伝部の仕事に就いた時期です。わずか2年程度でした。三つ目が1992年5月にはじまり2015年12月の退職に至るまでの23年7か月におよぶ南京大虐殺記念館の仕事です。それは歴史と平和を擁護する活動です」と、総括している。

そうなんだ、北京などの官僚出身や大学の研究者とかではない朱成山が23年間、南京の記念館の館長を勤めたんだと知った。わたしが南京の記念館を訪問したのは1990年代の半ば。東(あずま)史郎裁判の支援のためだった。東史郎のことは後で詳しく述べるが、朱成山が南京記念館で活動を始めた時期と、東史郎の名誉毀損裁判がスタートした時期が重なり、互いに密接に関係し寄り添っていたことを今回改めて識った。

南京記念館勤務は偶然

朱成山は記念館の三代目の館長。なぜ南京記念館に勤務することになったのか? こうした素朴な質問に対し、朱成山は次のように説明した。

「1992年はじめ、記念館の指導部が交代しました。当時、私は南京市委員会の宣伝部に勤めていました。ここが南京記念館を所轄しています。南京の記念館を刷新するため、私は派遣されたのです。正直にいうと、派遣されたのは“たまたまの偶然”だったのです。私にしてみれば、唐突感すらありました。

私は以前、こうした種類の仕事に就いた経験はなく、南京大虐殺の歴史研究に関して基礎的な知識すらなかったのです。ほとんど一からの出発でした」。

ちょっとびっくりするような返答であった。

ただし、ここからが朱成山が南京生まれということなのだろう、父親や祖父からオーラルヒストリー(口述伝承)で南京虐殺について聞かされ、幼心に祖父の話を心に強く刻んでいた。

「1937年当時、祖父は南京の新街口にある銀行で働いていました。大日本帝国陸軍が南京に上海方面から攻めてきたので、故郷である南京郊外の六合県に疎開していました。長江(揚子江)の北に位置する疎開先の六合県でも、長江に長い間、無数の死体が浮かんでいるのを直接目撃したし、銀行に復職した時期でも、まだ多くの死体が漂流していたのを目撃した」と朱成山に話した。これが、朱成山にとって南京大虐殺について最初の記憶だ。

南京虐殺について学問的な専門知識を持っていなかった朱成山は、職場から帰宅すると関連書籍を片っ端から読みくだし、さらには南京大学の高興祖教授など、歴史研究の第一人者に教えを乞い、知識を急速に増やしていった。

翌年(1993年)、朱成山は三代目の館長に就任する。

東史郎裁判に出会う

記念館前の筆者(昨年10月)

朱成山が南京記念館の館長に就任した1993年、日本で一つの裁判が始まった。東史郎裁判という。

この裁判を説明する。東史郎は、京都第16師団(師団司令部は、現在の龍谷大学の深草キャンパス)福知山歩兵20連隊の兵士だった。東は1937年、南京の攻略戦に従軍し、中山門という南京の正面ゲートでの攻防戦に従事した。それから50年後の1987 年、一人の新聞記者が丹後半島にある東の自宅を訪ねた。南京戦の実相についてインタビューをするためだ。

新聞記者の名前は、下里正樹という。下里は1981年作家の森村誠一名義で出版された『悪魔の飽食』の「コーワーカー」(森村の表現。共同作業者の意)であり、日本共産党の中央機関紙「赤旗」の記者だ(のちに共産党を除名される)。

京都は共産党の支持母体が強く、各地の女性団体が丹後半島で長年、中国戦線で従軍した元兵士から聞き書きを続けた結果、東史郎が南京陥落戦について証言できることを突き止め、そうしたルートをたどって下里が東の自宅を訪れた。

下里は東の証言を「赤旗」に掲載、さらに東の日記を青木書店から『わが南京プラトーン』というタイトルで出版した。

その出版から5年経った1993年4月、東史郎の所属する分隊長(13人で構成)が、名誉毀損で裁判を起こした。被告は、東史郎、下里正樹、青木書店の三者。

訴状によると、東史郎の著作の中に、陥落から8日後(1937年12月21日)、残敵掃討戦の最中、南京の中心部に位置する当時の最高法院(最高裁判所)の向かいにある沼の付近で、分隊長が中国人の青年を発見し、なぶり殺しにしたとの記述がある。その記述はウソであり、分隊長の名誉を毀損するという内容だ。

殺した方法というのが、青年をボコボコに殴り、小便をかけ、郵便袋に入れて、その郵便袋に手榴弾をくくりつけ、郵便袋ごと沼に放り込み、爆殺したという記述だ(郵便袋事件という)。

著作には分隊長の本名こそ書いてないが、分隊長が南京事件から50年と5年経った段階で名誉毀損裁判が始まった。裁判の一大争点は南京大虐殺があったのか、なかったのか。歴史を巡る裁判だ。原告の分隊長の背後で、「南京大虐殺はまぼろしだ」という歴史修正主義者がサポートしていた。原告の弁護士は、新しい歴史教科書をつくる会の副会長、櫻井よし子が理事長をつとめる国家基本問題研究所の副理事長である。原告側からの書面は歴史的かな遣いを使用する。

経過を簡単に説明すると、3年後(96年4月)東京地裁で東は敗訴。

関西で東史郎をサポートする市民団体がスタートしたのは、この二審から。東は弁護士を変更した。そのサポートする市民団体「東史郎さんの南京裁判を支える会」に、わたしも参加した。

この時期、ソ連邦はゴルバチョフ大統領の時代、1989年ベルリンの壁は崩壊し、1991年ソ連邦は解体。ソ連とアメリカの冷戦は終わり、日本でも55年体制が崩れ日本新党の細川護煕(もりひろ)が非自民・非共産のシステムで初めての総理大臣に選ばれた。その細川総理は「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識しています」と発言(1993年8月10日)。大きく舵を切った。

一方で、こうしたリベラルな発言に反発する形で歴史修正主義者の発言も噴出した。細川護煕総理の後を継いだ羽田孜内閣の法務大臣永野茂門が「私はあの直後に南京に行っている。南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言し、わずか11日で法務大臣を辞任した(94年4月)。

このように大東亜戦争肯定派とリベラルな侵略戦争反省派との歴史認識をめぐる対立は深まり、南京虐殺があったのか、まぼろしか、歴史的な事件の正否を争点にした東史郎裁判の比重は大きくなっていった。

爆発物を使った再現実験を実施

名誉毀損裁判の一番の争点は、東の郵便袋事件の記述の真実性だった。支える会では、弁護士と相談の結果、再現実験に取り組んだ。当時の中華民国の郵便袋のサイズを測定し、大人を入れることが可能かどうか。復元した郵便袋に弁護士を実験台にして再現実験をしたら、容易に収納できた。最後の難問は、手榴弾をくくりつけて人間の入った郵便袋を沼に放り込んだ時、沼のほとりの日本兵は手榴弾の爆破で危険性があるのかどうか。

日本国内では爆発物取締罰則という名前の法律によって、民間人が手榴弾を使った実験をすることは簡単にはできないから、壁にぶち当たった。

市民で構成する支える会は、あれこれ思い悩んだ末、とにかく、南京記念館の朱成山館長に相談しようということを決めた。朱成山が自ら三代目館長になった時期と、東裁判開始の時期がほとんど重なる。

朱成山にしても、日本国内で右翼勢力から執拗な攻撃を受けている歴史の証言者をほっておくわけにも行かなかったのであろう。中国国内で多くの関係部署と相談した結果、中国人民解放軍の協力を得ることに成功した。もちろん、実施費用は支える会が負担し、ついに中国の南京市で、手榴弾を使った再現実験を行うことになった。

わたしを含む支える会のメンバーや弁護士が南京に赴き、手榴弾事件を行った。こうしたことは朝鮮戦争当時、北海道警の警察官射殺事件・白鳥事件の弾丸を中国国内で腐食実験して以来の歴史的な実験となった。

「1、2、3」

掛け声とともに、手榴弾をくくりつけた郵便袋を沼に投げ入れる。

「ボン」と鈍い音がする。

これを繰り返すこと数回。実験の結果、手榴弾の破片は水圧で飛び散らず、沼のほとりにいる人物にまで破片は届かず、何の危険性もないことが裏付けられた。つまり、原告の分隊長側の弁護士の「危険だから、郵便袋事件のようなことはできない」との主張は全くデタラメであるとの主張を説得力持って退けられたのだ。わたしはビデオ係を担当した。すべてはビデオに収録し裁判所に証拠として提出した。

それにもかかわらず、東京高裁(1998年12月)、さらに最高裁(2000年1月)と東史郎の主張は認められず、東敗訴が確定した。

まったく政治的な判決だと、弁護団は考えた。こうして朱成山にとっても、東裁判は記憶に残る出来事となった。2006年東が亡くなったとき、朱成山はわざわざ南京から丹後半島での葬儀に駆けつけたほどだ。

朱成山館長の戦略

朱成山が館長になって始めたことは、南京記念館の戦略的方針を立てたことだ。一つは慰霊行事の実施、二つ目は研究の組織化、三つめに独自の調査、四つめに記念館のリニューアルだった。

館長就任して翌年の93年8月、広島と長崎を訪れた朱成山は、そこで、慰霊の式典を目の当たりにする。「私はそこで非常に大きな啓発を受けました」という。

8月6日の広島、そして8月9日の長崎と、首相、衆参両院の議長、各政党の代表らが原爆犠牲者に対する慰霊活動に参加する姿を朱成山は直接見て、中国ではそうした慰霊行為がないことに気づく。南京に戻り、朱成山はさっそく問題提起をする。当時は、中国側にもこうした慰霊行事は「日中両国関係に影響を与える敏感な問題に抵触する」と腰が引けていた。

「私は積極的に江蘇省と南京市の対外部門に働きかけ」た。その結果、初回のその年の12月13日には、参加人数こそ600人に過ぎなかったが、防空警報を鳴らしたため、多くの市民の関心をよんだ。

6年後には旧満州、東北地区の瀋陽でも同様に防空警報を鳴らす慰霊活動がスタート。

こうした動きは、やがて2014年全国人民代表大会(日本の国会に相当)が南京戦の陥落日を国家行事として追悼行事を行うことを決定し、その年12月13日「南京大虐殺被害者国家追悼日」と国家行事にまで発展した。

南京大虐殺研究の組織化

朱成山は記念館に赴任当時を振り返ってこう言う。

「いかにして“素人”から“専門家”になるのか。博物館のことも、専門的な歴史事象も知らないところから抜け出すには、何よりもより深い学習とより多くの蓄積が必要でした」と。

1995年、記念館に付属する形で「南京大虐殺史研究会」がスタートする。こんなこともあったと言う。それは、日本の右翼勢力からの攻撃に対する反論だった。

日本の右翼は「記念館の遺骨は文化大革命の被害者の遺骨だ」となんくせをつけた(『大東亜戦争の総括』)。朱成山は腹わたが煮え返るようだったと振り返る。

「まったくのデタラメぶりに私は激怒しました。が、デタラメに対する最善の処方は事実を突きつけるしかありません」と。しかし、不備も認める。「遺骨の発掘当時にはこちらの経験不足もあり、科学的検証を怠っていました。その不備が日本の右翼勢力に口実を与えてしまったことも事実です」

で何をしたかと言うと、

「展示した遺骨を発掘した人を訪ね、新しい被害者の遺骨を発掘できる場所はないのかと質問しました。その結果、当時の遺骨の陳列室北側の芝生付近なら可能性があると返答を得て、その場所で発掘を開始したところ、すぐに4体の折り重なった遺骨を発見しました。メディアと上層部に報告、国家文物局から特別許可をもらいました。南京市博物館考古学チームに発掘を依頼、また南京市公安法医学センターの監察医や公証人にも現場に来てもらい、慎重に2年間かけて発掘と科学的考証を進めました」と経過を説明した。

つまり、日本の右翼からのデタラメだとの批判を正面から受け止め、新しい証拠を発掘かつ科学的な裏付けをきちんと進めていったというのだ。

また、南京虐殺から60年に当たる1997年には、南京市教育局とともに、大学生、高校生、中学生14700人を動員し、人口500万人の南京市で70歳以上の高齢者を対象とした徹底的な聞き書き調査を実施した。

朱成山が南京の記念館館長に就任した当時、南京記念館が所有する文物は100件ほどであったが、朱成山が館長を退いた23年後には証言者のオーラルヒストリー(関連証言)1.7万件を含む合計17万件余りに達する。

ユネスコの世界記憶遺産に

南京陥落戦から70年にあたる2007年、記念館は従来の3倍の大きさにリニューアル、入場人員は、北京の故宮博物館(かつての王宮)に次ぐ、中国第二の博物館に成長する。

次に朱成山が目指したのはユネスコ(国連教育科学文化機構)の世界記憶遺産への登録であった。ナチスドイツによるユダヤ人絶滅作戦の象徴、アウシュビッツ強制収用所(ポーランド)の世界文化遺産への登録が1972年、広島の原爆ドームの世界遺産登録が1996年、そうした先例に比べると、南京は取り組みが遅れていた。

「南京大虐殺は長きにわたって世界に置き去りにされてきました。これはまったく公平なことではありません」と、朱成山はいう。

「中国、ソ連、米国、英国、フランスなど11か国は、1946年1月19日、東京に極東国際軍事法廷(いわゆる東京裁判)を設置しました。この法廷が下した南京大虐殺の審理に関する判決は次のように述べています。南京占領後6週間に日本軍が南京と南京周辺で虐殺した市民と捕虜は20万人以上に達したと。また、日本政府は1951年に調印したサンフランシスコ講和条約の中で、極東国際軍事法廷、その他外国で開かれた軍事法廷の判決を受け入れると表明しています」と。

2009年1月、朱成山は「侵華日軍南京虐殺に関連する案件5セット」の世界記憶遺産への登録をめざし、まず南京市人民代表大会に提案、さらに中国国内での選考をへて、さらに5セットから11セットに資料を増やした。朱成山は、アラブ首長国連邦の首都アブダビに出張し、ユネスコの審査を受けた。その結果、2015年10月9日、世界記憶遺産への登録が決定したとの知らせをパリで受け取る。

登録されたのは、日本軍が南京を陥落した当時、南京市内にいたアメリカ人宣教師ジョン・マギー牧師が撮影した16ミリフィルムや、マギー牧師がアメリカに持ち出した写真を掲載した写真雑誌『ライフ』1938年5月号の10枚のスチール写真などだ。

ユネスコ分担金問題に飛び火

ユネスコが南京大虐殺の関連資料を世界記憶遺産に登録したことは、日本国内の「南京大虐殺まぼろし派」を刺激した。自民党の国会議員は、日本政府はユネスコの分担金の支払いをストップすべきだという筋違いの論を主張した。そうしたゴリ押しの圧力を受けて、日本政府は2016年分の支払いを保留する措置をとった。

しかし、2016年末、日本政府はユネスコの分担金38億円を結局は支払った。理由として

「分担率2位の日本が拠出を停止すれば、3位の中国の存在感が増すという懸念もある。日本が登録を目指す世界文化・自然遺産などの他の審査にも影響が及びかねない」(2016.12.22)と悔しさが滲み出た記事を産経新聞は掲載した。

結局のところ、「南京大虐殺まぼろし派」の主張は日本国内では勢いを増しているように見えるかもしれない。が、アウシュビッツや広島ドーム同様に続いて、南京虐殺の資料をユネスコが世界記憶遺産に登録した。何が歴史の真実なのか、世界の大勢は決した。「まぼろし派」の主張はまったく受け入れられず、決着がついた。

昭和天皇の弟・三笠宮も虐殺を認めていた

2016年10月、昭和天皇の弟・三笠宮が亡くなった。時事通信は三笠宮の訃報を次のように伝えた(2016.10.27)。

――陸軍大学校を卒業した1941年12月、太平洋戦争が始まった、意気盛んな青年将校だった三笠宮さまに、戦争に対する決定的な疑問を抱かせたのは、支那派遣軍総司令部参謀として赴いた戦地の中国・南京で見聞きした日本軍の残虐行為だった。1944年1月、三笠宮さまが陸軍を批判した文書は50年後に見つかった。「支那事変に対する日本人としての内省」と題し、「現在日本人、特に軍人に欠如しているのは内省と謙譲」と述べ、軍部に猛省を迫った。

日本軍の残虐行為をテーマにした映画を日本国内に持ち帰り、昭和天皇に見せたこともあった。「聖戦という大義名分が事実と懸け離れたものであった」「聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるのはただ和平のみとなった」。著書に付した「わが思い出の記」で当時の苦悩を吐露している。――

日本の現職総理の南京訪問実現を

2016年12月27日(現地時間、日本時間は翌28日)、日本の安倍総理はアメリカのオバマ大統領とともに、日米開戦の地、ハワイ真珠湾を訪問し、戦没者に慰霊した。

広島を訪れたオバマ大統領との外交上のバーターとも、安倍は「真珠湾に行けば、日米の『戦後』は終わったことになる」と語ったとも朝日新聞は伝えている(2016.12.25)。

しかし本当にそうなのだろうか。「先の大戦」で日米間の太平洋戦争はその一部にすぎない。日中戦争やアジア侵略でいかに多くの戦死者、市民の犠牲者が出たか、いまさら言うまでもなかろう。

安倍の真珠湾訪問を前に、映画監督のオリバーストーンら日米の知識人が安倍に質問状を提出した。「あなたは、真珠湾攻撃で亡くなった約2400人の米国人の『慰霊』のために訪問すると言うことです。それなら、中国や朝鮮半島、他のアジア太平洋諸国、他の連合国における数千万人にも上る戦争被害者の『慰霊』にも行く予定はありますか」と。

南京虐殺記念館の前館長、朱成山によれば、日本の総理経験者で南京の記念館を訪れたのは、村山富市、海部俊樹、鳩山由紀夫の3人、他にも自民党の幹事長をつとめた野中広務ら自民党を含む多くの政治家が足を運んでいる。

日本の現職総理が南京の虐殺記念館を訪れる日はいつか来るのであろうか。日本政府は国際連合の安全保障委員会の常任理事国入りを目標としているが、アジア民衆との和解は不可欠だ。現職総理の南京訪問は避けて通れないハードルではないだろうか。

南京をめぐる問題は過去の問題ではない。21世紀、日本と世界を考える上で、避けがたい問題であることを朱成山の日本訪問は教えた。

朱成山は、12月8日、京都での集会を次のように結んだ。

「歴史を直視しなければ、正面から未来と向き合うことはできない。中国を侵略した日本軍の犯罪行為を覆い隠そうとする日本の一部の勢力は、しっかりと反省し、厳粛かつ客観的な態度で歴史を認めるべきだ。これは中日両国の長期的な平和と発展にとって有益だ」

にしむら・ひでき

ジャーナリスト。1975年慶應義塾大学経済学部卒業、毎日放送入社。現在、近畿大学人権問題研究所客員教授、同志社大、立命館大非常勤講師。日本ペンクラブ理事・平和委員会副委員長。著書に『北朝鮮抑留』(岩波現代文庫)、『大阪で闘った朝鮮戦争』(岩波書店)

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