コラム/百葉箱

小日向白朗の謎(第2回)

満州の”国定忠治”か”ロレンス”か

ジャーナリスト 池田 知隆

大正末から昭和初期にかけて満州大陸で活躍した日本人馬賊王、小日向白朗。激動の戦乱の世をどう生き、どんな人脈を築いたのか。それに触れずして小日向白朗の戦後史は語れない。仁侠の精神で民衆の命を守り、「満州の国定忠治」といわれるような民衆に愛された義賊だったのだろうか。さらには馬賊を率いながら最終的には馬賊を壊滅させ、「アラビアのロレンス」以上に日本軍に貢献したともいわれる。その波乱万丈に生きた小日向白朗の軌跡をたどる。

満州馬賊に加わる大陸浪人たち

ある満州馬賊の光景

清朝末期、満州の大平原を縦横に疾駆した日本人馬賊。いまでは歴史の裏側にすっかり埋もれ、忘れられてしまっている。だが、そこに目を注いでみると、「大陸雄飛」を夢見た明治の日本人のすさまじいエネルギーに圧倒させられる。内地では、立身出世の余地がなくなり、満蒙ならば何か大きなことを起こせるという野心。明治維新以来の富国強兵の思潮に押され、アジアを支配しようという侵略的野望は民衆のレベルまで息づいていた。ごく一部の人びとにはアジアの自立に向けた願いもあったようだが、おおむね日本の大陸進出によってアジア人を欧米人から解放できるという過信に満ちていた。

辺見勇彦

そのような気運に乗じて大陸に渡った日本人の中でも特に荒っぽい男たちが馬賊集団に身を投じた。馬賊になった日本人は持ち前の腕と度胸で頭角を現し、満州、蒙古、ロシアの様々な武装集団を翻弄していく。その活躍ぶりで特に知られているのが辺見勇彦、薄益三、伊達順之助や小日向白朗の面々だ。(『馬賊頭目列伝』渡辺龍策著、秀英書房)

その日本人馬賊の草分けで、馬賊名「江崙波(こうりんぱ)」を名乗った辺見勇彦。西南戦争の際、薩軍で抜群の武勇を誇った辺見十郎太の子で、父十郎太が西郷隆盛とともに城山で最後の籠城をしているときに生まれた。薩摩閥の陸軍高官の書生を経て中国語書籍出版社の社員として上海へ。

日露戦争を機に現地の日本軍特務機関に出入りするようになり、満州各地で動き回る馬賊を組織する任務を担った。最初から特務機関の工作員として馬賊になった。その辺見の側近だったのが大陸浪人の薄益三。自前の馬賊集団を旗揚げし、甥の薄守次(馬賊名・白龍)とともに満蒙独立運動に加わり、「天鬼将軍」の名で恐れられた。

薄益三

伊達順之助

檀一雄の小説「夕日と拳銃」のモデル、伊達順之助は最も知られた馬賊だ。かつての仙台藩・宇和島藩主の伊達家の直系として生まれ、父は男爵位で貴族院議員。馬賊名「張宗援」を名乗り、軍閥・張作霖傘下の東北軍少将となる。満州事変後は満州国少将に収まり、終戦後に国民党政府によって銃殺刑に処せられる。

馬賊版「太閤記」の出世物語

小日向白朗

彼らとは異なり、小日向白朗は馬賊集団の下働きからのし上がり、大頭目となった唯一の存在で、満州の民衆に英雄視されたという。1900(明治33)年1月30日生まれ。20世紀とともに年齢を重ねているのでその歴史と人生をたどりやすい。新潟県三条市出身で、中国大陸に渡ったのは1916(大正5)年、16歳のとき。大陸雄飛のロマンにかられてのことだった。

そのころの中国では、辛亥革命(1911年)で清朝が滅亡し、直後に成立した中華民国政府で孫文に代わった臨時大総統・袁世凱が「日本の対中二十一か条要求」を受諾(1915年)していた。日本側は旅順・大連の租借の期限延長や南満州鉄道(満鉄)経営権の期限延長など膨大な利権を獲得し、すでに満蒙は帝国日本のフロンティアに化していた。

前回記したように、白朗が馬賊に襲われたのは1919(大正8)年春、満19歳のとき。渡満後に転がりこんだ北京日本大使館武官府で、青年将校たちに柔剣道や拳銃の撃ち方を学び、「軍事探偵”をやってみないか」とおだてられて意気揚々と外蒙古・ウランバートルに向かった矢先のことだ。中国人の父と日本人の母の間に生まれた日中混血児「邵日祥(シャオリイシャン)」を名乗っての旅だった。

「どうせ死ぬのなら、とことんやってやる」。命と引き換えに馬賊・楊青山の下働きとなった白朗は、さまざまな戦闘で死に場所を求めて動き回り、次々と手柄を立てていく。楊青山が戦死するや一気に頭目に推挙される。義侠心からの殺人や逃亡劇を繰り返した果てに馬賊や道教の聖地、千山無量観に逃げ込み、3年間、座禅を組み、拳法の修業を重ねた。

小柄で色白の男前を意味する「小白臉(シャオパイレン)」と呼ばれていた白朗は、中国民衆のために生きようという姿勢を見込まれ、無量観を統治する大長老、葛月譚から「尚旭東」という名を与えられる。破魔の銃「小白竜」も授かって馬賊の大頭目となる。そのスリルと迫力に満ちた活躍ぶりは『馬賊戦記』(朽木寒三著)のなかで白朗の「事実談」として描かれ、それはまるで馬賊版『太閤記』ともいえる。豊臣秀吉が戦国の世に「日吉丸」から「藤吉郎」、「秀吉」と名を変え、天下を制覇していく姿は、白朗の大頭目への歩みと重なって見えてくる。

仁侠の精神と国定忠治

小日向の書「義気千秋」「徐暴安良」

そんな馬賊の大頭目として白朗を支えたのは仁侠の精神だった。

中国各地には、略奪・暴行・破壊をする「土匪」という土着の盗賊集団がいたが、馬賊は農民の民間自衛組織といわれる。もとは土匪であっても、自分たちの住む地域では略奪を行わず、むしろ農民を守る自衛組織で、盗賊的な行為はもっぱらその地区(縄張り)の外であたっていた。移民の往来が激しく、未開の土地が広がる満州原野では政府の力も及びにくい。農民たちも官憲や政府軍に治安維持を期待せず、それどころか官憲による横領、搾取が横行していた。農民にとって官憲もまた抑圧的な存在であり、馬賊に治安の維持を頼っていた。

白朗は「仁は人をたすけ、侠は、命をすてて人をたすけること」という仁侠の心を忘れず、「義気千秋」「除暴安良」をモットーに馬賊内での掟を保った。いわば義賊として生きることを自らの誇りにした。

義賊といえば、日本では国定忠治、西洋ではロビン・フッドがすぐに思い浮かぶ。土地の権力者から無法者とされながらも、常に貧しき者と虐げられている者の味方であり、豊かな者から奪って貧者に分け与える。自衛と正当な場合以外は殺人を犯さず、腐敗しきった権力者に代わって正し、民衆から愛される者たちだ。

国定忠治の肖像画(画・田崎草雲)

日本の大陸浪人たちの間で白朗は「満州の国定忠治」と称されていたようだが、義侠心を大切にし、暴力を排して良民を助ける心を支えにしていた点では忠治と似ていなくもない。忠治は、上州から信州一帯で博徒として活動し、「盗区」として地域を実質的に支配していた。強きを挫き、弱きを助け、義理人情に厚く、自分なりの正義に忠実だった。賭博で得たお金で貧窮に苦しむ人々を援助し、農業用水として使用して川を守り、農民から慕われた。侠客としての忠治は、農民にとってヒーローとして映り、そして幕府にとっては不遜な存在になっていく。

張作霖

だが、「赤城の山も今宵限りか」の名セリフを残し、幕府によって捕まり、処刑された忠治とは違い、白朗は日本軍の軍事探偵”という初心を忘れてはいなかった。白朗が渡満後、坂西利八郎(大佐)の知己を得て公館に寝泊まりしていたとき、山中峯太郎原作『敵中横断三百里』(少年倶楽部文庫)の主人公のモデル、建川美次や土肥原賢二、板垣征四郎ら後の日本の戦争責任を負う将校たちに可愛がられたことはすでに述べた。長く馬賊暮らしをするなかで満州の農民たちの窮状に接し、深く共感しながらも、白朗には日本陸軍機関員としての使命感が息づいていた。

「尚旭東」という名の馬賊の大頭目となった白朗は、大満州主義を唱える東北軍閥・張作霖に請われ、その軍に身を投じていく。数々の軍功を重ねて中将となり、張作霖の息子、張学良とも義兄弟の仲になる。白朗が大陸に渡って10年後の大正末期のことだ。

奉天城占領失敗で満州追放

昭和に入ると時代の波は激しくうねり、中国大陸での戦乱が深まっていく。国民党のトップで、国民革命軍総司令官でもあった蒋介石が1927年(昭和2)年に上海で反共クーデターを起こし、共産党を徹底的に弾圧。その勢いで南京に国民政府を構え、北伐として軍閥・張作霖を攻め立てていく。

張学良

翌1928(昭和3)年6月、日本軍が張作霖を列車ごとに爆殺した。これに怒った張学良が抗日戦に立ち上がって国民政府に合流し、本拠地とする奉天城(現在の瀋陽)をはじめとした満州各地に国民党旗(青天白日旗)を掲げていく。東北軍閥を率いる張学良と国民政府の合流に白朗は目を剥いた。張作霖軍の少将となっていたが、中国と日本軍のどちらにつくのか、その態度を迫られ、張学良に反旗をひるがえす。奉天城襲撃を計画したのは1929(昭和4)年2月、白朗が29歳を迎えたときだ。 

その計画はこうだった。日本の大陸浪人を含む配下の馬賊約2000人を率いて奉天城に急襲をかける。不意をつけば、奉天城内の張学良の兵8000人を制圧できると考えた。市民の装いをさせた部下に3000丁の拳銃を持たせ城内に潜入させる一方、別部隊が発電所を爆破し、公共の建物に火を放ち、一気に勝負をつけようという策略だった。

奉天城の外観

壮大にして豪胆な作戦だが、この計画は決行直前に漏れる。出陣の前祝金を渡された若い男が鼓楼で痛飲し、自慢たらしく計画を漏らし、領事館警察に通報されたのだ。それを察知した白朗は警察に自首し、日本人の大陸浪人13人とともに逮捕された。調べに対し、白朗はこう語っている。

「奉天城を抗日運動の温床地とすることは看過できない。まず張学良に一撃を加え、同時に腰抜け外交を続ける日本政府に警鐘を鳴らすためだ」

白朗の行動に日本政府は驚嘆した。張作霖爆殺後の日本をめぐる世界の目は厳しく、国際世論に計り知れない悪影響を与えかねないからだ。だが、そのときの日本側の混乱ぶりはお粗末を極めた。

奉天総領事の林久次郎は「民間の1日本人にこのような大それたことをされ、国家外交などあってなきがごとし。騒擾罪を適用して厳罰に処すべし」と主張し、内務省、外務省、陸軍省に重罰論で対処するように働きかけたが、それがかえって対支那強硬論者たちの反発を呼んだ。

緒方竹虎

東京朝日新聞の緒方竹虎は、小日向白朗を「憂国の士」ともちあげ、「奉天城制圧を試みざるを得なかったのはひとえに幣原喜重郎の軟弱外交への不満にある」と論じた。右翼の巨頭・頭山満は陸軍省に直接乗り込んで叫んだ。「騒擾罪を適用して小日向白朗を殺してしまうことは絶対に許されない、今後あのような有為の青年がふたたび生まれてくると思うか!」

さらには吉林特務機関長・林大八が奉天領事館に訪れ、館内の奉安殿で総領事にいきなり鉄拳を食らわせてこう言ったそうだ。

「貴公は小日向白朗を騒擾罪で処刑したがっているらしいが、あのような志操溢れた好青年を死なせるようでは日本の将来はどうなるのか? それが気掛かりで奉天で途中下車し、いま陛下の御真影の御前で貴公に一撃を与えた、以後こころせよ」

頭山満

この大佐は、山中峯太郎の小説『大陸非常線』で昭和10年代の少年たちのアイドルにもなったという人物だ。これを機に関東軍内部からも小日向白朗擁護論が日増しに強くなった。結局、総領事が獲得できたのは小日向白朗に対して「3年間の大陸渡航禁止」という総領事命令だけだった。無謀な奉天城占領を計画した白朗を頭山満や特務機関はどうして守ろうとしたのか。そこには白朗に寄せる日本の右翼の強い意思が露呈されている。

その年の3月、白朗は満州追放され、日本の下関に着く。

満州事変後に東北抗日義勇軍の総司令に

余談になるが、白朗は日本に滞在中、頭山満や緒方竹虎の庇護下で遊んで暮らした。麻雀が日本で普及し始めたころで、発足したばかりの「日本麻雀連盟」の作家、菊池寛や久米正雄らと親しくなった。菊池らの麻雀は中国伝来でなくアメリカ経由で伝わってきたもので、英語の参考書で遊び方を覚えていた。そんななかで本場ルールの精通者として白朗は珍重され、全国大会で2年連続1位になった。真剣勝負で生きてきた勝負のカンと呼吸をフルに発揮させたようだ。

1931(昭和6)年9月、満州事変が勃発。満州各地で日本軍が占領していくニュースを聞くたびに、討伐されていく馬賊の仲間たちが戦死し、傷ついていく姿が白朗の目に浮かんだ。満州国が建国した翌32(昭和7)年春、白朗は密かに満州に渡る。馬賊の頭目たちが集まった千山の会議に出向くと、大長老、葛月譚に日本軍との対応を迫られた。

「おまえは日本を母の国とし、中国を父の国とする身の上だが、おまえの真の祖国は日本か、中国か」

日本軍によって馬賊が日本軍によって次々と討伐される状況を憂いた白朗は、日本軍との戦いを避けることを主張し、大演説をぶった。

「まず蒋介石とは手を切る。日本軍の新満州建設論は、彼らの言うように建国後の完全な独立自治が保証されるなら、張(張作霖、張学良)軍閥の独裁時代より良い。まず、日本軍と義勇軍との血戦を終らせ、王道楽土の満州の実現に一歩でも進みたい」

馬賊たちにとって血戦の終息はやはり大きな魅力であった。義勇軍は、中国の完全な独立をめざす民衆の欲求の芽生えでもあったが、明確な理想や主義に支えられたものではなかった。彼らは単純に「日本軍が殺しにくるからこっちも日本軍を殺す」という要素が主で、あとはまだ五里霧中だった。その会議の模様を詳細に記している『馬賊戦記』の作者、朽木寒三は馬賊の置かれた状況をそのように指摘し、白朗は日本軍の仲介役を引き受け、義勇軍の総司令に推された。

ちなみにここに一つの興味深い話がある。現在の中国国歌『中華民国義勇軍行進曲』のもとは、『東北抗日義勇軍行進曲』であり、中の歌詞も曲もそのままであるという。歌詞は田漢、作曲は聶耳(じょうじ)。中国国民党に逮捕された田漢が抗日映画の主題歌として獄中から密かに送った歌詞に合わせて、日本在留中の聶耳が作曲した。聶耳は1935(昭和10)年7月、神奈川県の湘南海岸で友人と遊泳中に水死、23歳の若さだった。その後の日中の戦火が拡大するにつれ、この行進曲は中国全土に広まり、現在の国歌にまでなった。その義勇軍の勇士たちが選んだ総司令は実は日本人・小日向白朗だった。運命のいたずらというほかない。

英国少女救出で国際的な名声も

その年の9月、白朗が国際的に名声を高める事件が起きた。英国人の18歳の少女が、営口(現遼寧省、遼東半島西北部の都市)のゴルフ場で、山賊の人質として拉致されたのだ。少女は、父親が大病院の経営者で、英国人貴族の婚約者でもあった。英国で重大ニュースとして伝えられ、英王室の機関紙 『メリー・テレグラフ』は1万ポンドの懸賞金を出すまでに発展していた。

営口事件で救出された少女を囲んで。右から4人目が白朗

当時、満州における日本軍の関与や責任が世界から追及され、松岡洋右外相が国際連盟の会議に行くまでの間に少女を解放させることが日本政府にとっても緊急の課題になっていた。英国公使から「救出工作できるのはあなたしかいない」と依頼された白朗は敵陣へ乗り込む。持ち前の度胸と山賊の損得勘定をめぐる心理を読み取り、取引に成功し、流血の事態もなく少女を救出した。白朗32歳の大手柄で、英国公使から「あなたはアラビアのロレンスより偉い人だ」と称賛されたという。

アラビアのロレンスとは、言うまでもなく、第一次世界大戦で、中東地域を支配していたオスマン帝国に対するアラブ人の反乱を支援した情報将校、トーマス・エドワード・ロレンス(1888~1935)のことである。その活躍を描いた有名な映画『アラビアのロレンス』を見て、十代だった私も心を躍らせたものだ。

映画「アラビアのロレンス」から

なるほど、そう言えば白朗もまたロレンスに似ているところもある。不可能を可能に変える大胆な発想と行動力。馬賊2000人を率いて奉天城占領計画を立てるところなど、ロレンスのアカバ攻略戦を思い起こさせる。前面は海で大砲を備えて防御は万全。背後は一面の気の遠くなるほど死の砂漠が広がり、攻略が不可能に近い要塞都市アカバ。それをロレンスはたった50騎のラクダ部隊で攻略した。

アラビアの衣装を身にまとい、アラビアの民の信頼を勝ち得ながらも、結果的にロレンスはヨーロッパの大国のエゴに翻弄されていく。このロレンスの英雄的な行動は、西欧社会では「アラブ諸国の独立に尽力した人物」と受け止められたものの、アラブ側からは「ロレンスは一貫してアラブ側を利用し、イギリスの国益のために動いた」と批判され、その評価は分かれている。

満州馬賊を率いたあと、最終的に馬賊を壊滅させていく白朗。その行動は「アラビアのロレンス」より偉いどころか、ロレンス以上に日本軍に貢献したといえる。

(次号に続く)

参考文献

・『馬賊』渡辺龍策著、中公新書、1964

・『馬賊で見る「満洲」』澁谷由里著、講談社選書メチエ、2004

・『馬賊頭目列伝』渡辺龍策著、秀英書房、1983

・『馬賊戦記上・下』朽木寒三著、番町書房、1975

・『日本軍の金塊―馬賊王・小日向白朗の戦後秘録』関浩三著、学研、2013

・『キメラー満洲国の肖像(増補版)』山室信一著、中公新書、2004

・『満州国演義(全9巻)』船戸与一、新潮社、2007~

いけだ・ともたか

一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著に『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

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