特集●問われる民主主義と労働

仮面の日常における連帯と変革の可能性

座談会―氷河期世代・ゆとり世代と語ったリアルな日常

東西冷戦構造の崩壊期に生を受け、東日本大震災の混乱を新社会人として経験した「氷河期世代」や「ゆとり世代」も、今や30代~40代の働き盛りの年齢となった。社会人経験10年を経た現在、彼ら彼女らは今何を考え、いかに社会と向き合おうとしているのか。

近年急激に進みつつある大学教育現場の劣化を嘆く編集委員に対して、彼ら彼女らが示した原因は意外なところにあった。また、新たな時代の新たな人間関係を模索する姿に正直戸惑いを隠せなかったが、具体的に語られた各自の活動や経験は、既存の労働運動との連続性と新たな連帯への可能性を示すものであったといえる。(編集部)

【参加者】

①YANO:36歳、大学卒。3人の子供の父親。システムエンジニア。中小企業の課長補佐。

②ユリ:30歳。大学卒。中学校の特別支援学級の教員。

③SW:31歳。大学卒。現在、就職活動中。

④ITO:40歳。大学卒。3人の子供の母親。会社員(営業職)。

⑤あずき:30歳。大学院卒。会社員(事務職)。

⑥HAMA:37歳。大学卒。3人の子供の母親。

1.講義を聞かない大学生と「自己肯定感」

ユリ:(今話題に挙がった最近の学生が講義を聞かないということについて)私も大学に入学した1年目そんな感じでした…。高校の途中から全然勉強しなくなって、教室にいるだけだったんですけど。高校卒業時は、とにかく大学に行って平和的に実家を出るというのが自分にとっての最優先課題でした。

でも、大学に入って、必要な授業を取るうちに色々なことを学んで、中途半端な関わり方は出来ないなと思えるテーマに出会って、講義もちゃんと聴いたり、自分で学ぼうと思うようになりました。

だからすごくモチベーションの低い大学生活のスタートでしたけれども、終わってみたら、そういう人やテーマとの「出会い」のおかげで濃い時間を過ごせたかなと思います。「何を学んだか」ってこととは、ずれてしまうかもしれないですけど。

あと、アイヌについて卒論で取り組んで、ひとつのことに深く関わるときの感覚というか、自分が学んだのと同じだけの「簡単に言えなさ」があるという感覚は持ちました。「素人でもわかる」という言い回しがあるけど、素人には分からないんだ、素人が思いつくようなことは専門分野では検討し尽くされているんだろうな、素人目には分からないんだろうなということを想像するようになりました。他の分野を尊重するというか。

YANO:私は学生時代は哲学専攻だったんですが、何を勉強していいか分からずとにかく本を読んでいました。大学の先生からは「人文学の人間は就職なんかできないし、するべきじゃないんだ」みたいなことを言われて、ぼーっとしていました。

その結果、就活は失敗して一時期はヒモみたいな感じになって、このまま主夫になってもいいかなと思っていたんですけど、なかなか一人の稼ぎでは厳しくて私も働かないとなと思うようになって。そして応募して受かった会社に入って、悪い感じじゃなかったのでいいかなと思って、今その会社で12年くらい働いています。

SW:大学については他に行きたい大学があって落ちてしまいました。自分が通った大学には見学にも行ってなかったので、モチベーションがものすごく低くて何を学べばいいんだろうと思いながら入ってしまいました。やりたいこともないし、親のお金で入ってしまった負い目もあって、誰とも群れずにほとんど一人で過ごしていました。今思うと、恵まれた環境での悩みだったと思います。

その後、自分の好きな授業に出ることで、知識だけじゃなくて生き方を学べるような気がして大学生活を受け入れることが出来たと思います。そして、大学でやりたいことが見つかってそれが今に活きていると思います。具体的にはホームレス問題なのですが、 NPO の手伝いやインターンに行って。やっと大学を卒業する時に、自分がやりたいことって社会福祉学なんだと気がつきながらも、一般就職してしまいました。その気づきに会えたというのが学生時代の経験なのかなと。

あとは大学時代に社会人団体のエイサーに入ったことで学んだことがあって。それまでは学力や世間体ばかり気にしていたのですが、エイサーのコミュニティにいた時に「そのままの自分でいいんだよ、自分は何も頑張らなくても、何かに評価されなくても、ここにいるだけでこのままでいいんだ、それでいいんだ」って思えるようになったということが凄く衝撃的な出来事でした。それが今の自己肯定感に繋がった。自分も意見を発信していいんだと思ったり、いろいろな所に飛び込んで行ったりという活動に繋がった。大学時代の中で一番大きい体験だった。

編集部:自己肯定感の低さという点では、今の学生の方がさらに低いような気もしますが。

SW:自分の同年代に対しても自己肯定感の低さについてはとても感じます。あと、みんなと同じにしないといけない同調圧力が生き辛さに繋がっているのではないかと感じます。

みんな黒いスーツを着て、大学で学んだマニュアル通りに就職活動をしていました。ある時、上の世代から「どうしてあなた達は皆同じ黒い服を着て就職活動しているの。私達の時代はもっとスーツとかバラバラだったけど」言われたけれど、学校の就職活動指導の時に黒いスーツを着るのがマナーと言われていたので、受かることに直結すると思っていました。実際に、ある就職説明会で真っ赤なシャツを着た他国籍の子がいたのですが、説明会中にも関わらず、経営者がその子に対して同調を押し付けたり、他国批判を行っている酷い説明会も経験しました。

ただ、同調を強いられていると感じる時もあるし、同調を強いられていないと感じる時もあります。そこに同世代ならではの特徴もあると思います。友達と話している中で、自然とセクシャルマイノリティーの話に繋がったり、色々な考えに対して受容的な機会が多くなったと感じられる時もあります。新しい視点を自然に受け入れられていると思えるのも私たちの世代なのかなと。全部が全部、同調している訳ではないのかなと思います。

2.大学生の劣化と経済界の憂鬱

編集部:AO入試などのいわゆる推薦入試枠が拡大する中で、大学生の学力低下が急激に進んでいるように感じます。勉強しなくても推薦で大学に入学できるし、入ってからも勉強しなくても卒業できてしまう。一方で、そのような状況に対して、大学や教育関係者だけではなく、雇う側の経済界からも危機感が示される現状があります。

あずき:「勉強しなくても推薦でどこかの大学に入れてしまうし、今の学生は勉強しない」というお話で、それに対して経団連が危機感を持っているということですが、私からすると経団連がちゃんと大学での成績を評価すればいいんじゃないの?と思います。

新卒で就職したら就職先に大学の成績証明を出すと思いますが、例えば最低限の成績で卒業していたとしても、採用側はあまり気にしない。経団連自身が大学生の学力をそんなに重視していないように感じられます。私自身は、大学で学んだことは人間関係というよりも「授業を受けていてとても楽しかった(勉強は楽しいものだと感じられた)」ということだと思っています。

ただ、私は一斉授業の講義が苦手で、90分ずっと話を聞いているのがすごく辛かったんです。でも大学院に入ってからはひたすらゼミ形式の授業を受けていました。当時学んだ専門性が現在の私に直接活かされているわけではありませんが、大学院で学んだおかげで「人の話を受け身で聞かない」という習慣が身についたのかなと思います。

SW:今の話を聞いて共通点なのかなと思うのですが、私は高校卒業後すぐに大学に進学しました。しかし、北欧では19歳だから大学に行くということではなくて、社会人経験を一度積んでから自分に何が必要か、もう一度学びたいと思ったタイミングで大学に進学するという国もあるということを知りました。

私自身の経験からも、社会を知ってから勉強する選択も良いのかもしれないと思っています。企業に就職するためだけの資格や学歴に違和感というか、「大卒だから、この企業を受けることができます」というのはおかしいのではないかなと。勉強はなんのためにするのかなと。

ユリ:しかし、経団連も大学も「客観的な評価」なんてできる訳ないと思います。「あらゆる能力を」「誰にでも客観的に分かるように」評価するなんてできる訳ないし。できる訳ないのに、「客観的評価に基づいた」「良い人材を」集めようとしているから無理というか。

今度、高校入試に英語のスピーキング、リスニングのテストが導入されるんですが、同じ英語といっても使用国によって発音が違う部分もあるし、聴覚的な障害があったり、聴覚情報処理が苦手な子はどうするんだろうと思います。じゃあ、聴覚情報の補助をするために視覚情報を充実させたとしても、視覚情報処理が苦手な子もいる。じゃあ両方苦手な子はどうしようか、一定の障害をもっている子には配慮するとしてもどの程度の障害を支援の基準とするか、基準のグレーゾーンの子はどうなるのか…となっていくと、絶対に(客観的な平等は)無理だよなぁと思う。

そこに必死になって、膨大な労力を割いて皆が疲弊していくよりは、もっと素朴な方向に戻ればいいのにと思う。人との付き合いの中で、自分の進路を見つけたり学びたいことを見つけたりできる社会になればいいのになぁ…と私は思います。

編集部:今の大学の多くが就職予備校化しているという現実があります。学びの場ではなく、単なる就職のための準備期間としか考えていない学生さんが少なくない。そして、大学の側も少子化の中での生き残りをかけて就職率アップに躍起になっています。その意味では、学生側だけの問題でもないのかなと思います。

3.ありのままの自分と「化けの皮」

編集部:社会人となった現在の自身の状況から、今後の社会をどのように展望しますか。

ユリ:最近10年先も分からない状況なので、先のことをあまり考えないようになっています…。(公務員で)とりあえず安定した仕事に就いているので、甘えがあるのかもしれませんが。

最近12年ぶりに演劇をやったのですが、その際に雨のBGMが欲しいとするじゃないですか。12年前だったら図書館とかあちこち回って CD借りて探していたのが、今はネットでいくらでも手に入る。著作権を気にしなければ、ネットで無料音源がいくらでも手に入るし、お金さえ払えば何でも手に入る。

関わっている中学生達にしてもスマホができてから生まれた世代だから、全く感覚が違う。「スマホがない時って YouTube は何を使って見てたんですか?」って真面目に聞かれる。(変化が激しい社会で)10年前の事が全く想像できない人たちがすでに若者として生活していると思うと、自分の将来のことなんて想像もできないから、とりあえず今やりたいことから順にやっていくしかないな、というような気持ちでいます。

昔はきっと、物理的な「いる場所」が「会える人」のすべてだったけれども、今はネットを通じて、趣味や気の合う人を探せるようになっている。出会いが偶然のものじゃなくて、自分から見つけられるものになってきたから、そういう意味では今いる場所をおろそかにする人が増えているのかもしれない。

YANO:昔よりも化けの皮がかぶりやすくなってきましたよね。

一同:

ユリ:かぶってても別な場所でさらけだせばいいから、かぶり続けられる。

あずき:化けの皮をかぶることは悪いことなのでしょうか?

YANO&ユリ:何も悪くない。

あずき:そういう感じです!

YANO:昔は、自分のイメージがひとつだったので表現しないと自分の居場所がないという感覚だったのかなと。だから、何かを表現しようとすると、今いる場所との軋轢がどうしても生まれたんじゃないかなと。

編集部:演じている場と素顔でいる場は分けているということ?

あずき:SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス、FacebookやTwitterなど)でもアカウント(ID)を使い分けるんですよね。趣味アカウントとか、友達と繋がるアカウントとか。自分の興味によって使い分けていて、その方が使いやすいからそうしているんだろうなと感じています。

編集部:演じていると本当の人間関係ができないんじゃないかと。恋愛などできないのではないかと思うのですが。さらに、演じることってエネルギー使うというか、かなりしんどい気がします。

YANO:ちゃんと読んでいないのですが、平野啓一郎という小説家が少し前に提唱していた概念で「分人」というのがあって、個別の人間として統一された像をもつのではなく、仮面ごとに自分を分ければいいというようなものなのですが、別にその仮面も演じているわけではなくて、その都度その都度本当なんだという感じで。

逆に今は総体をあまり意識する必要がなくなったのかなと思います。本当の自分はどれかではなくて、どれも本当の自分ということです。

あずき:誰でも場面場面で自分の顔を使い分けるのが心地いい一方で、本当の「ありのまま」の自分でいる芸能人や有名人が好かれる時代でもあると感じています。例えば、氷川きよしも「今までずっと仮面をかぶっていたけれどもようやく自分らしく生きられるようになって解放された」ということを言っていて、それが世の中に関心を持たれているんですよね――自分の本当の自分をさらけ出すっていうのが。

ユリ:憧れの対象ですよね。「ありのまま」っていうことがやり辛い時代だから、逆にそれが輝くというか。2019年紅白歌合戦の(氷川さんの出番の)最後でレインボーフラッグを振っているけど、(LGBTQの象徴として)そういうふうに見ている人もいれば、そうじゃない人もいて。職場の人との会話だと、わざわざそういう視点で話をしなくてもいいかっていう落差がある。

4.仮面の使い分けで形成される人間関係

編集部:「顔を使い分ける」ということが、どのような人間関係の社会を作っていくのだろうかと思うのですが。お互いの信頼関係や人間関係をどのように形成していくのか。

某女子大学の講義で労働基準法、労使協定、就業規則という話をするのですが、以前「バイト先で、学生バイト全員に声をかけて、全員で店長の所へ行った。その前に就業規則を調べて、交渉の結果、アルバイト全員で有給をもらえるようになった」という報告をしてもらいました。私は教師をやっていて一番嬉しい瞬間でした。現代の若者たちにもそういう人間関係が存在しているのか、求めようとしているのかということが嬉しかった。

逆に、若者たちがそういう人間関係を求めようとしていないから、労働組合が弱くなっているのかなとも思います。

ユリ:私の場合、労働組合に入りたくても入れてくれないというか…。誰が入ってるのかわからないし、入れて欲しいと言っても「わかった今度ね!」と言われたままで。年配の同僚の時間感覚の「今度」が、半年くらい先だったり(苦笑)

編集部:労働組合もしかり、何かを一緒にやろうとする前提条件として信頼関係が必要だと思うのですが、顔を使い分けるという社会の中でそれが出来るのかなという疑問があります。

ユリ:でも逆に、目的が一致すれば、他のことについて受け入れられない要素があったとしても、そもそも知らないから気にせずできるんじゃないかな。

SW:逆もあるのかなという思いがあって。今日この場所だからこそ私は話せることがあると思う。ここでは受け入れてもらえるから話したいなと思う。外に出たら批判されることも、私はここの繋がりがあるから安心だと思う。そう思えることが顔の使い分けだと思うんです。

職場で部落差別問題の話をしたら喧嘩になりました。あなたは被差別部落の出身だから興味があって勉強したいんでしょとも言われた。どう思ってもらっても構いませんと返しましたが理解されないことは悲しいと感じました。

YANO:私としては、先ほど話に出た平野啓一郎の「分人」のように、人間の本質みたいなものがあるという風には考えていなくて、仮面の総体が本質なんじゃないかなと。

奥に何か隠れているとかそこに本質があるとか思っている人は、今の若者には少ないんじゃないかなと思います。

編集部:そのところは全く同感で、一人一人の本質っていうのは全くなくて。昔の言葉で言えば、「人間っていうのは社会的諸関係の総和だ」という言い方をしていた。何回かしか会ったことのない希薄な関係だったとしても、それも一つの関係ではありますよね。そういう社会的諸関係の総和が僕であって。だから、関係の密度は違うわけだけれども、Yさんに対して演じているつもりは全然ないし、Kさんに対して演じているつもりも全然ない。

YANO:社会的諸関係という意味でいうと、社会との諸関係で社会に位置付けられているというよりは、社会との関係自体はあってもそれぞれ関係が切り離されて相互にはつながっていないのが現代の状況なのかなと思います。

ユリ:確かに。見えないですよね、SNSだと。誰と誰がつながっているか。でも、諸関係があるっていうことは変わらない。

あずき:自分の Twitter の話で恐縮なのですが、今メインで使っているアカウントと趣味のアカウントで分けていた事があったんです。使い分けていた方が便利だし、共通の趣味を持った人と繋がれることが多かったと思います。でも、だんだんとそれが面倒くさくなってしまい、今は使い分けなくなりました。使い分けはエネルギーを使うことだったのかなと思います。

編集部:SNS をやっていると世界は広がるんですか?それとも狭まるんですか?

あずき:私は広がったと思います。私は即答します。使い分けた方が”広く浅く”という意味で人間関係の広がりは増えると思います。でも、使い分けない場合でも、その相手を通じて知らない世界を知ることができるし、使い分けないほうが関係性は深まるとは思います。

5.「空気を読んで」連帯する可能性

YANO:まるごと他人を受け止めるっていうのが面倒になっているのかなと思います。

日本特有だったりもするが、ミュージシャンの政治発言が嫌われるというのもその人の総体を受け入れるのが苦手になっているからなのかなと思います。

SW:お互いの意見を受容する力があれば、違う意見を聞いてみたいとなると思う。その余裕がみんなないのかなと思う。意見を言ったら変な人に思わるからやっぱりいわないってならないような雰囲気になれたらいいなと思う。みんないろんな意見あったらいいのに。優しく受け止めてくれる余裕があったらいいのに。

編集部:人を丸ごと受け止めることが苦手になってきているというは大事な指摘だと思います。

授業でも学生さんに空気を読むことは大事だよと伝える。ただ、空気を読むとはどういうことかというと、自分の主張をどういう風にすれば相手にわかってもらえるかということが空気を読むということなんだと。一般的に使われている空気を読んで発言を控えるということとは全く逆の意味だと。どういう表現をしたら相手にどの程度伝わるだろうか、その人の受け止める能力や知識をふまえて伝える努力をすることが空気を読むということ。

その努力をしたくないというか、相手のことを知りたいというより知るのが面倒というような雰囲気に現在なってきていると思います。人間と人間のつながりが弱体化してきている。つながろうとする意欲が減退してる。

YANO:意欲というかそれに価値を見出せないんだと思います。

あずき:職場の人とそんな親しい関係になりたくないじゃないですか。私は今いる会社が嫌いだからそう思うだけかもしれないけど。

ユリ:先ほどの話で「アルバイトの学生が、自分で仲間を集めて労働者としての権利を勝ち取った」というのはすごくいい話だと思うのですが…。

私の趣味関係の友達が仕事辛くてずっと辞めたいって言っていて、趣味の繋がりの人達がアドバイスしたりして、晴れて休職を勝ち取ったんです。ただ、その人はずっと職場の人にも相談していたのですが、「辞めないほうがいいよ」「辞めてどうするの」と言われて病んでしまって。彼女にとっては、趣味のつながりが人生を取り戻すことに繋がったのだと思います。

編集部:それは結局のところ、職場の環境を変えたいと思えなくなってきているということでしょうか。変える努力よりも辞める選択をしてしまう。それが「政治なんて面倒だし自分とは関係ない」という若者の風潮の背景にあるように思えます。

YANO:コミュニティに所属することを忌避する感覚はわかるなと思います。

人種とか国とか会社とか共同体とか、そこに所属することで社会とのつながりを持つみたいな意識は今は薄いのかなと。

コミュニティに所属しなくてもやっていけるようにするために分担をうまく使うというのが今のやり方なのかなと。社会を良くするという意識をその中で持つというのは難しいのかなと思います。

総合的な社会が無くなっても生きていけるように、いろいろな仮面を使い分けながら生きているのが現状です。

ITO:確かに今の若者達は所属自体を求めていないのかもしれないなって。所属しなくても今生きているから大丈夫と、のほほんとした感じで生きているように感じます。

ただ、どこにも所属せずに自由な所にいてもいいというような価値観が、少しずつ「なし崩し」的に広がっていけば、会社で決められた場所に行って決められた時間に仕事を始めるという現状も変わっていくのではと期待しているのですが。満員電車がなくなるとか(笑)

ユリ:「社会を変えていったり、自分の居場所をみんなで良くしていこうという思いがないのか」って言われて、その通りだと思うから反省しました。ただ、今のITOさんの話を聞いて、変えようという意志じゃなくて、これからは「なし崩し」的に世の中が変わっていくのかなと期待します。

ジェンダーに関する認識も、ライフワークバランスに関しても、LGBTQへの眼差しも、最近になってどんどん変わってきていますし。

編集部:最近の変化というわけでもないと思いますが…。

6.「身近な人を幸せにする」努力から社会変革へ

YANO:個人的には、社会は意志によってよくなるのかということは考えています。

意志を持った個人が社会を良くしていこうという動きが、活動とか運動とかの原点だと思うのですが、例えばダイバーシティ(多様性社会)とかは社会の要請だと思うので。それでしか変わってはいかないんじゃないかなと。

そういうものが必要とされればそういう風になっていくのかなと。それだけでいいのかという気持ちもあるのですが。

編集部:社会を良くしようという意欲や関心が弱まってきている理由として、国家を含めて集団に所属している、したいという気持ちが薄れているからなのではないか思いますがいかがでしょうか。コミュニティ意識が希薄になっているからこそ、コミュニティを変えようという意識が生まれないのではないでしょうか。

例えば、うちの会社ひどいなと思ったらすぐ辞める選択になってしまう。昔だったら交渉して改善させていたと思います。

ユリ:でも、会社を変える(転職する)方が、すぐに生活が良くなるからなぁ…。

あずき:例えばですが、アニメなんかの表現を見ると、90年代のある作品では「逃げちゃだめだ」という言葉が象徴的に使われましたが、最近の作品だと「生きるために逃げるのは全然ありだよ」という言葉が出てくることがあるんですよね。

自分の置かれた環境を変えるのではなく、自分から環境を変えることが肯定されているのかなと思います。会社に関していえば、転職する人が増えているというのは事実だと思います。

編集部:それは「就職する前にちゃんと考えずに就職した」ということが多いのでは?

あずき:それはちょっとひどいことを言われたと思います。新卒採用のときにはそんなことまで考えられない人が多いと思います。

編集部:就職じゃなくて就社という言い方が1990年代からいわれ始めました。自分がどんな仕事をしたいかは考えない。有名な会社に入りたい。職種・業種は関係なく大企業に入りたい。2010年代になってもそういう傾向が強い状況は変わっていないのでしょうか。

YANO:私自身の業界では大企業の方がホワイト率は高いですし、それが合理的な選択なんだと思いますよ。

SW:私もリーマンショックの後の就職活動で一つ上の先輩が内定取り消しになっていた時期でした。30社受けて2社しか合格しなくて。一方の企業をネットで調べてみたら社内評判がとても悪いみたいなので辞退してもう一方の会社に就職しました。すると、8時半から午前0時過ぎまで働いて、夜中も休日も携帯応対あり。土日も出勤するという超ブラック企業で、時給換算したら290円。1年で辞めました。だから、入りたいという会社を選べなかったです。

ユリ:私の場合は、まず有名な会社や人気のある業種から入っていきましたが、そこから自分なりに取捨選択していった。でも、企業の方も情報戦だから、良いことばっかり紹介されていて。ちょうどその頃ゼミが始まって勉強が面白くなってきたので、調べるのに時間使って消耗する就職活動より、やったらやっただけ成果が出る公務員試験の勉強したほうがいいかなと思って。でも行政法を勉強しているときにすごく嫌になって…。気がついたら、教員採用試験の勉強をしていました。

編集部:現在自分のいる環境を良くしようと努力するのではなく、良い環境の会社を探してそこに移るという発想をしてしまうのは、社会全体として良くなっていくという期待が持てないからなのでしょうか。

例えば、自分のためだけではなく同僚や後輩たちのためにも、現在の環境をより悪くしないように防衛するという意味で頑張ることはできないでしょうか。

YANO:個人的な会社への働きかけではあるのですが、頑張ってる部下の給料をあげてもらいたいと上と交渉したり、後輩に有給休暇を使わせたり、労働環境とか労働条件とかを少しずつでも良くしようとはしてきました。それができるようになったのは10年以上今の会社に勤めて、次第に言える立場になってきたからということもあるとは思うんですけど。

ユリ:本当はそれを誰でも言えないといけないよね。そのために労働組合があるんだから。

YANO:私としては身近な人を幸せにしたいだけで。

編集部:それは労働組合と変わらないと思いますよ。

YANO:自分の権利に無自覚だということは、特に若い社員と接していて感じることで。

有給休暇の制度さえも知らない子もいたりします。そういう事を教えてあげなくてはいけなくて。我々は働いてあげてるんだから、みたいなことをずっと言いながら労働者の権利ってものがあるということを教えています。

高卒とか中退した子とかも来たりする会社なので、何も知らない子も多いです。身近な改善としてはそういうことをやっています。

編集部:場所を変えて良い会社に入れればそれはそれでいいかもしれませんが、自分がいなくなった代わりに雇われた人が不幸になることも考えられる。自分は幸せになれたかもしれないけれども、別な人を不幸にしたんだというところまでは想像しますか。

SW:それは考えたことあります。私が最初に入社した会社はベンチャー企業で、これから制度を整えながらやっていくぞという会社でした。現在はある程度大きくなっているので制度や体制も変わっているのではないかと思うのですが。自分が働いていた時期は具合が悪くなって気力も奪われて退職しました。

取引先の人と話していた際に、「息子が新卒としてあなたの会社を今受けているんだよね。実際どうなの?会社内。」と聞かれて、やめた方が良いですよって言いたいと思ったけど取引先だし何も言えなかった。口には出せなかったけど取引先へ送るメールをあえて午前0時に送って、これだけ働いてるよという無言のメッセージを送るのがその時は精一杯でした。やたらと自己責任って言葉が強調される時期だったので、全て仕方がないと諦めていた。

さらに、営業部だと同期も先輩もみんな会社のために頑張ろうねとお互いを励まし合います。だけど、結局数字は個人成績。辞める時に同期に伝えたところ「私も辞めたいけど辞められない。あなたは辞めるのね」と言われました。

あずき:体調を崩して会社を辞めざるを得なかった友人知人を何人も見てきているので…。「コミュニティを変えられなかったでしょ」とか「変えようと思わなかったでしょ」と切られてしまうのはちょっと…。

編集部:それを責めているわけではないですよ。やはり、それぞれが置かれた苦しい状況を、なかなか一人では解決できないのだから仲間を作らないとねと思います。信頼でき助け合える仲間作りの大切さですね。以前なら労働組合がそれなりの役割を果たしたのですが、今は組織率も低く、弱い。本誌本号は労働問題に多くの紙面を割いています。今日は長時間ありがとうございました。別の機会にさらに深めたいと思います。

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