コラム/緊急発信

新型コロナ対策 国難招きよせる安倍

グローバリズムと感染症―問われるリーダーの質/「非常事態」「戒厳令」への野望が潜む

大阪市立大学共生社会研究会 水野 博達

またも「国難」演出! 安倍のデタラメな危機管理

安倍政権の新型コロナウイルス感染症対策の特異さは、第1に、その無責任さと独善性であり、第2に、自らの政治的危機乗り切りのための「国難」演出というペテン性であり、第3に、感染症対策を利用して超法規的な「国家非常事態(法)」への道を開く改憲への強欲さである。

無責任さと独善性を象徴しているのは、2月27日の突然の「全国一斉休校」の要請である。この要請は、官房長官や側近の関係閣僚とも協議もなく、コロナ対策の専門委員等との相談・検討もなしに行われた。なぜこんな暴挙に出たのか。動機は、二つが推測できる。

① 「桜を見る会」や、「検事長検察官の定年延長」等で、安倍自身が追い込まれていた。ことに「桜」関連の問題は、公職選挙法違反の容疑が濃厚で、公金の流用・私物化で公務員規律の違反にもなる。言い逃れできない崖縁まで追い込まれていた。

② ウイルス対策での失政である。クルーズ船の防疫対策の失敗は、初動対応の不在と無責任さを暴露している。

「ウイルスを上陸させない」と船内に乗員・乗客を閉じ込めることだけを指示し、船内の乗員・乗客の健康・安全・人権を配慮した施策の責任は放置された。船内のでたらめな対応は、週刊誌などでも詳しく報道されている。この無責任・無能ぶりによる集団感染は、国際的批判の的となった。

感染症対策を誤らせた要因は、二つある。一つは、官邸が、4月の中国・習主席訪日実現とオリンピック開催に向けた国際的信用へのこだわりである。二つには、「国立感染症研究所」が、新型コロナウイルスPCR検査業務とそこで得られる情報の独占を狙ったことである。この二つが、PCR検査態勢を整えることを遅らせた。政府内の二つの邪な思惑が招いたことは、PCR検査対象者の規制・制限による「感染者数」を少なく見せようとしている、とする政府情報への疑惑・不信を広げるとともに、検査から多くのケースが排除されることで「どこに感染者がいるかわからい」という不安を拡大させ、市民生活の混乱を引き起こすことになった。

以上のような自らが招いた政治的失態から逃れる手立てが、26日の「スポーツ,文化イベント開催の自粛」要請につづく、27日の「全国一斉休校」の要請であった。コロナウイルスによる国民の生命・健康の危機を大袈裟に喧伝できる政策手段によって、自らに向けられた批判の嵐を鎮圧する「国難」演出劇である。これは、第2のペテン的な狙いである。こんな策謀が許されるがはずはない。

独断の「全国一斉休校」、効果は疑問

「全国一斉休校」が、感染症対策として有効かどうか。今、ようやく言われ始めたが、このコロナウイルスへの感染症対策としても使える「新型インフルエンザ等対策特別措置法」が2012年5月に公布されていた。病原性等が強いおそれがある場合には、有識者会議などからの意見を受けて、「外出自粛、催物の開催の制限要請など」の処置を含めた「緊急事態宣言」を発出すること等の「対策行動計画」が策定されている。

安倍は、「今回のコロナウイルスは、病原が明確なので、この法は使えない。法改正が必要」と、この法律を使わなかった理由を述べている。これは、事実と異なる後附けの言い逃れである。

これまでの政府の動きには、部分的にはこの「対策行動計画」を下敷きにしていたことが読みとれるが、肝心な点を踏み外している。幾つか挙げると、体制整備と緊急事態発生の際の措置において、「一つの対策に偏重した準備は大きなリスク。発生の段階や状況の変化に応じて柔軟に対応することが重要」と法は述べている。安倍がやったことは、これと真逆な対応である。「権利に制限が加えられるときであっても、当該制限は必要最小限とすること」等を定めているが、こうした対応のためには、有識者・専門家の意見や地方の意見を聞いた上で責務を果たすことが大切であるが、そうはなっていない。

すでに感染は外国からではなく、国内で市中感染の段階に移っていた。この段階になれば、日本社会が経験してきたインフルエンザ対策の経験と教訓を活かすことが重要だと筆者は考える。

インフルエンザへの感染対応では、感染の広がる地域や職業・年齢等には差異があり、こうした実態を分析し、発生の段階や状況の変化に応じて地域ごと、学校ごと等に柔軟に対応する措置が取られて来た。全校休校という所もあったが、それはレアケースで、全校的な行事等の中止や、生徒、学生への健康管理指導の徹底をベースに学級閉鎖などは、クラス単位の状況把握の下で、保護者や地域社会の合意や協力を得て実施されてきた。この経験を土台に、柔軟な対応策が検討されるべきであった。

今回の新型コロナウイルスは、高齢者や妊婦、糖尿病や高血圧、呼吸器系疾患等のある人が重症化しやすく、子供への感染と重病化はまれであることが報告されている。注意すべきは、密閉された場所で長時間複数人が滞在することである。このようなウイルスの特性からして、全国一斉休校は、有効であるとは言い難い。

都会では、15歳以上の人のほとんどが、毎日、公共交通機関を利用する。生産活動と社会的活動を一律に停止できないとするなら、人の<移動>と<密集>による感染をどう防ぐか、という点に対策の焦点を当てねばならない。公共交通機関を利用することは、閉鎖された空間に多数者が「同居」することになる。だから、イベントなどで人が密閉した場所に密集することを避けることと共に、時差出勤、時差通学の要請を企業や学校に強く求めることで、一斉に休校にすればよいというものではない。

満員電車で通勤する者は、そこで拾ったウイルスを家庭に持ち帰ることになる。むしろ、家庭が「ウイルスの培養器」になる可能性もある。とりわけ生活困窮家庭の狭い居住空間や学童保育所にはその危険性が大きい。

こう見れば、政府が真っ先にしなければならいことは、世間をあっと言わせる奇策ではなく、状況に応じた感染症に対するきめ細かい対策指針をまず立てることであり、医療支援体制の整備、とりわけ早期にPCR検査で感染者を判別し、それ以上感染を拡大させない社会システムの整備である。そのための正確な情報提供による不安解消と合理的な対感染症行動の規範を形成することであった。だが、政府の対応は、後手、後手に回り、地域の保健・医療体制と連携できる体制を整備せず、むしろ、感染の疑いのある住民を必要な医療支援のネットワークから排除することになっている。そのツケを生活困難層にしわ寄せする無責任な全国一斉休校のパフォーマンスである。

全国一斉休校は、社会の底辺から混乱と不安を組織している。一日も早く撤回し、地方ごと、地域ごと、さらには、学校ごとに自主的・能動的で柔軟な感染症対策を取れる支援体制の整備である。

「非常事態」宣言へ安倍の野望

安倍は、すでに制定されている法令を上手く使うことをしていない。

既存の「国民生活安定緊急措置法」があるが、3月9日になって「マスクの転売禁止や医療機関に必要な資材を届ける」と言い始めた。社会不安によってもたらされるマスクや消毒薬、トイレットペーパーなどの生活用品や医療機器・物資の確保するために、この国民生活安定緊急措置法による措置は、もっと早期に行うべきであった。

安倍は、独断で行った「全国一斉休校」の要請が招いた社会の混乱を予備費2600~2700億円をつぎ込んで、休校によって損失を被る人へ正規・非正規を問わず補償をすると大見え切った。

しかし、損失をこんな額で賄うことは、とてもできない。非正規労働者や自営業者等生活困難層にしわ寄せすることは火を見るより明らかだ。こうした各方面からの批判をかわすため、3月10日、支援策第2弾として4308億円の予算をつぎ込んで、休業フリーランスの補償や中小企業への無利子融資などの救済策を打つと言い始めた。全国一斉休校によって自ら招いた社会的混乱に対して、大金をばらまいて抑え込むことでリーダーシップをとっているつもりなのであろうか。

なぜ安倍は、既成の法令を無視してきたのか。それは、安倍政権の国会無視と合い通じている。新型インフルエンザ等対策特別措置法は、民主党政権で制定されたこともあるが、既成の法を適応すれば、内閣の施策は、当然、法令に拘束される。安倍は、国会審議を経て制定された法律よりも自らの行政権限を上に置き、法令解釈も勝手に変え、やりたい放題を押し通して来た。

こう見れば、全国一斉休校の号令は、私権を大幅に制限できる「非常事態」宣言への観測気球の性格を持つ。新型インフルエンザ等対策特別措置法を改正して「非常事態」宣言を狙っているが、それは、超法規的な「国家非常事態(法)」と「国家総動員体制」へ道を開くことになる。

非常事態宣言の下では、政府の施策への批判のための言論や集会が、禁圧され、「安倍のお友達」による国費の無駄使いも行われることは十分予測される。立憲民主党などの改正案への合意は、安倍によって作り出された「国難」劇に惑わされ、安倍のコロナ対策の第3番目~改憲への野望を軽視した結果である。

3月9日、安倍は「歴史的緊急事態における公文書管理」を指示すると述べている。安倍政権の公文書の改竄、廃棄、開示拒否の前歴から、政府の新型コロナ対策が、歴史の検証に耐え得る公正・公平な公文書として管理されるとは考えにくい。安倍は、自分が国の危機に立ち向かってリーダーシップを発揮した政治家として歴史的公文書に残すことを望んでいるのであろう。茶番である。

歴史の検証に耐え得る公文書となるためには、少なくとも、1月5日のWHO声明発表以降の経過から、つまり、初動対応が遅れてきた状況などの経過もきちんと記録されなければならない。

新型感染症の流行が問う現代社会

人類は、人の移動の広がりにともなって、感染症の流行を何度も経験してきた。免疫のない所に新しい病原体が侵入するからである。

今日の新自由主義は、国際的分業のサプライチェーンにより各国の経済を緊密に結び付け、国境を人・モノ・金・情報が自由に越える。今回の新型肺炎の震源地が、人口約14億人でサプライチェーンの大きな位置を占める中国であったことにより、世界経済に及ぼす影響は巨大なものになった。3月9日の世界的な株価急落は、その象徴であろう。

国連の機関・WHOは、これまで世界の経験と情報を蓄積してきた。しかし、2009年の新型インフルエンザの流行に対するWHOの迷走が各国の対策を混乱させた。今回も、中国の政治的な位置を慮ったのか、WHOは人々の往来や経済活動を停止するまでの措置は不要と言い続けてきた。 

日本の安倍政権の対応を見ると、1月5日のWHO声明発表の10日後の15日に、危機管理センターに「情報連絡室」を設置し、新型コロナウイルスの「対策本部」設置は、25日後の1月30日である。1月23日の武漢市閉鎖が発表されてから、9日後に「湖北省に滞在した外国人の入国を拒否」(中国の他地域から入国は止めていない)を打ち出し、2月16日に、やっと第1回専門家会議を開催した。

台湾の素早い、的確な対応と比較して、安倍政権の対応は、天と地の違いがある。3月9日の毎日新聞は、今回の感染症対策では政府の「司令塔」が不在であったと報道しているが、今なお、全体を調整する司令塔が見えない。事前の準備や調整がないまま、安倍の独断専行の「対策」が打ち上げられている。

コロナウイルス問題は、グローバリズムの時代の社会のあり方、政治の在り方を改めて問うていることを最後に見ておきたい。

人びとの日常の営みが否応なく世界と繋がっている今日、とりわけ近隣諸国との友好的な協力関係が求められる。しかし、3月9日の新しい入国規制が、隣国・韓国との事前協議なしに打ち出された。極めて不適切で、対立と排外主義を煽る結果となっている。

さらにまた、新自由主義による国際的分業の在り方とは異なる地球環境を考えた「地産・地消」の生産と消費の在り方や、分節化・多様化・多元化した市民社会の成熟に対応した国の画一的・独裁的ではない柔らかな政治のリーダーシップの在り方も改めて考えてみる必要が生まれている。(2020年3月12日 記)

みずの・ひろみち

名古屋市出身。関西学院大学文学部退学、労組書記、団体職員、フリーランスのルポライター、部落解放同盟矢田支部書記などを経験しその後、社会福祉法人の設立にかかわり、特別養護老人ホームの施設長など福祉事業に従事。また、大阪市立大学大学院創造都市研究科を1期生として修了。2009年4月同大学院特任准教授。2019年3月退職。大阪の小規模福祉施設や中国南京市の高齢者福祉事業との連携・交流事業を推進。また、2012年に「橋下現象」研究会を仲間と立ち上げた。著書に『介護保険と階層化・格差化する高齢者─人は生きてきたようにしか死ねないのか』(明石書店)。

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