特集●問われる民主主義と労働

アイデンティティの世紀としての21世紀

日独討議―西欧キリスト教世界と象徴天皇制の歴史的文脈と21世紀の政治的役割を問う

倫理学・神学博士 アレキサンダー・ゲルラッハ

上智大学教授 サーラ・スヴェン

神奈川大学名誉教授 橘川 俊忠

筑波大学名誉教授 千本 秀樹

日本女子大学名誉教授 住沢 博紀

1.問題提起:アイデンティティの世紀?

住沢今回、上智大学教授のサーラ・スヴェンさん(日本近現代史、フリードリヒ・エーベルト財団東京代表)の紹介で、ドイツ、アメリカで、評論家、ジャーナリスト、デジタル雑誌編集者など、多岐に渡り活躍されているアレキサンダー・ゲルラッハ博士(Alexander Gerlach マインツ大学で博士号、トルコ系ドイツ人)と、『現代の理論』編集委員会の橘川俊忠(日本政治思想史)、千本秀樹(現代史学)、住沢博紀(ヨーロッパ現代政治)の5人での討議を企画しました。

ゲルラッハさんは「ニューヨーク・タイムズ」にも寄稿され、また台湾やトルコなど、キリスト教世界以外にも長期滞在の経験があり、世界の様々な地域での「宗教と政治」についても熟知されています。今回は、3つの論文を事前にいただきましたが、『アイデンティティの時代』(2017.6.1)をテーマとして設定しました。

左からゲルラッハさん、千本さん、住沢さん、橘川さん
                  =ドイツ文化センターでサーラさん写す

グローバル化の深化により、国家も、共同社会も、慣れ親しんだ生活世界も解体や変容の危機に直面する21世紀の現在、一人一人が逆に自らのアイデンティティを求める動きや運動が世界各地にみられます。しかしその場合、繊細な現代人の自分探しから、自らの帰属する場を求める小グループの活動、さらには宗教や民族、国家など、集団的かつ伝統的なアイデンティティへの復帰を求める運動まで、幅広く存在します。さらには、コスモポリタン的な、アイデンティティを不要とするグローバル・エリートも誕生しています。

サーラ・スヴェンさん

20世紀が階級、民族、共産主義、ファシズムなど集団的なイデオロギーの時代であるとすれば、21世紀は個人主義的なアイデンティの時代という事になります。しかしそこで集団的なアイデンティティを求めるなら、国家、民族、宗教など、20世紀や19世紀に先祖返りすることになります。その帰結は、現在、世界の各地で頻発する、宗教やナショナリズムをめぐる紛争や移民・難民の排除、最後にはテロにまで至ります。

ゲルラッハさんは、宗教は現代では信仰の問題ではなく、政治的問題であるといわれています。今回は、「西欧キリスト教世界」と「象徴天皇制」を切り口に、21世紀のヨーロッパ社会と日本社会のアイデンティティ論の歴史的文脈と問題点について議論したいと思います。

2.現代のヨーロッパ社会とキリスト教世界

ゲルラッハ私にとって宗教とは、人々が共に生きることについての物語であると思っています。宗教のこうした社会学的アプローチでは、宗教のナラティブなあり方(語り継がれること)が問題となります。この点で宗教は、私の解釈では公共的な役割があります。そこから共同体や国家などが成立してくるわけですが、こうした制度的なものは、宗教の信仰上(精神的)の問題とは区別されるべきです。

これをヨーロッパのキリスト教を例に説明します。最近、アメリカのピュー研究所が、ヨーロッパのキリスト教について調査しました。10人のうち9人までが洗礼を受けており、10人中7人がキリスト教の価値観が自分に影響を与えているといい、10人中2人が、いつも教会のミサに行きます。したがってヨーロッパのキリスト教というのは、信仰や宗教的教義をめぐる問題ではなく、倫理観をめぐる問題です。

ヨーロッパに住むイスラム教徒についても似たような調査があり、ここでもモスクにいつも通う人は20%とされています。したがってヨーロッパに住むイスラム移民の第3世代の若者では、重要なことは信仰や教義をめぐる問題ではなく、どのように生き、どのようにヨーロッパ社会を習得してゆくかが議論の重要なテーマです。世界を見ても同じことがいえ、イスラムの教義が問題になっているのではなく、その世俗世界でのありかたです。このように、宗教としてのイスラム教は、政治課題ではありません。

2~3年前、ドイツの週刊誌『ツアイト』がキリストの「復活」についてのドイツ人のアンケート調査をしました(「信仰告白」という記事タイトル)。「復活」が、霊的な意味だけではなく、肉体的な復活も含めて、信じるかどうかという設問です。ドイツ人の30%がそれを信じていると回答しました。

ドイツでは宗教に関して3つのブロックがあり、カソリック、プロテスタント、それに旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)地域の「神を信じない人々」、つまり共産党国家により強制された無神論です。

先ほど、霊的な信仰の問題が出されましたから、まずプロテスタントのミリューから話をすると、私は文化的プロテスタントという概念―回答では70%がそうした何らかの形でキリスト教と結びついていると思う人々で、本当は90%ほどがそうだと思いますが―で語ることができる人々がいます。この始まりの時期を明確にするのは難しいのですが、19世紀にはこの概念があり、ユダヤ教徒も多くの著名人などがキリスト教に改宗しました。全員がプロテスタントです。それは文化的プロテスタンティズムであって、信仰の問題ではなかったのです。

今日ではカソリックの地域でも10%程度です。一般論として言うと、信仰という精神的な意味でのキリスト教は、西側世界において減少しており、アメリカ合衆国においても同じです。

こうした状況の中で問題点を確認すると、例えばアメリカでは宗教が政治的な急進主義に取り込まれているわけですが、敬虔なキリスト教徒が少なくなっているので、これに反対する人がいなくなっています。ヒトラーの第3帝国の時代では、敬虔なキリスト教徒は第3帝国には反対しました。

ヨーロッパではキリスト教会も難民を支援しようと訴えていますが、右翼過激派は、「難民はイスラム教徒なので救う必要がない」と主張しています。このように、いくつかの争点となる領域で、宗教組織としてのキリスト教会と、宗教の名のもと政治的に利用されるキリスト教との間で、対立が生じています。ポーランド、ハンガリー、そして一部ドイツにもそうしたことが起こっています。

橘川今、イギリスのEU離脱が報じられているが、そのことはEUというアイデンティティができておらず、ナショナルなレベルで考えるということが再度、強くなりつつあるのではと思います。日本から見ると、ヨーロッパとは、プロテスタントとかカソリックとかあるにせよ、キリスト教ということが、文化なり、伝統なり、日常生活の中で大きな規定要因であると捉えてきました。

先ほどの話だと、宗教的なドグマや信仰としてのキリスト教はかなり衰退してきているということなので、すると現在では、キリスト教は、倫理なり、習慣や伝統的文化としてなおもヨーロッパ世界に根付いているのか、ヨーロッパのアイデンティティを形成することができるのか、それともそうではないのか、ゲルラッハさんの見解ではどうでしょうか。

ゲルラッハ非常にいい質問で、すでにエラスムス(1466-1536)の時代から、キリスト者の立場から、宗教上の一致に立つ普遍的なヨーロッパという理念が唱えられていましたが、その後の宗教改革により現実のものとはなりませんでした。キリスト者は互いに殺し合いをすべきではないという教義も、宗教対立の渦中では、そして後にはナショナリズム・民族主義の台頭の中で、殺し合いに至りました。しかし同時にこの過程で、キリスト教の世俗化も進行し、キリスト者にとっても、信仰問題よりも政治的、世俗的な課題が中心となりました。

第二次大戦後、欧州の統合が唱えられ、現在に至るEUにまで発展しましたが、それは、キリスト者という欧州の普遍的な理念があったから成立したのではなく、独仏の和解など国家間の協働など、世俗的なさまざまな成功を積み重ねることにより実現してきました。キリスト教という欧州の普遍的な宗教や、それに基づく文化や倫理などが欧州のアイデンティティといわれますが、それが欧州統合の主要な原動力であったのではありません。

3.ナショナリズムとアイデンティティ―戦後ドイツと日本

住沢その関連で、戦後ドイツと戦後日本の問題を論じたいと思います。戦後ドイツ(旧西ドイツ)が欧州統合を進めた背景には、戦争とナチスを生み出した、ドイツのナショナリズムを克服するという目的がありました。他方で、日本も敗戦直後にはナショナリズムは否定され、世界に開かれた平和国家として再興することを、たとえば日本国憲法により宣言しました。両国とも、アイデンティティを国家宗教やナショナリズムではなく、経済的成功や欧州統合、とりわけ西側の盟主であるアメリカとの協調に求めました。

ところが21世紀の現在では、アメリカやイギリスなど、アングロサクソン諸国が、むき出しの「自国第一主義」、ナショナル・アイデンティティを前面に掲げる時代になってきています。このなかで、ドイツや日本はどうなるのでしょうか。ドイツには確実ではないにせよ、なおもEUという新しいアイデンティが残されていますが、日本の場合は、「経済大国」や「平和国家」が空疎な理念になり、アイデンティティの空白が生まれています。

またイギリスでは、Brexit かPro EUかという二大陣営への分裂、アメリカではトランプ支持を誓う共和党支持者と、トランプ批判のリベラル民主党の対立が、もはや二つのアメリカという段階にまで深刻化していると報じられています。

ゲルラッハアメリカのアイデンティでいえば、コスモポリタンなアメリカ像と、孤立主義に立つアメリカという、二つのアメリカ像が、そもそも植民地時代から、ナラティブな歴史としては存在していました。白人による白人のためのアメリカ、これは今トランプが代弁していますが、オバマは難民を受け入れる開かれたアメリカを代表していました。

アイデンティティとはこうした分裂した、流動的なものであり、それはアメリカだけではなく、ドイツを含めてヨーロッパにもあります。20~30年前から、こうしてアイデンティティを自明なものとしではなく、社会学的に考察することが、世界的に研究者のテーマとなっています。

橘川ヨーロッパでも、1970年代、80年代には大きな地域としてのヨーロッパという理念の一方で、スペインのカタロニアのように地域での独立を求める運動も生じ、この意味でも、国家のアイデンティティとは、大きくなったり、縮んだり、どのレベルで統合を求めるかで異なってくるのでは。つまり一国のアイデンティとは、一つではなく、さまざまに存在しています。

日本の場合には、日本人というアイデンティティは、むしろ第二次大戦後に議論されるようになり、戦前は、日本は国民国家ではなく、大日本帝国であったので、朝鮮人もおれば、台湾人もおり、帝国臣民としてすべての人々を包摂していました。

戦後は、そうした人々を切り離し、日本の本土にいる人のみを日本人ということになりました。そこで初めて、日本人は同質性を持つ単一民族であるという、ナラティブが強化されることになりました。ヨーロッパではナショナルなアイデンティをめぐる議論は弱くなりましたが、日本では逆に、アイデンティが「単一の同質的な日本」というナショナルなレベルを前提にして、強く意識されるようになったという問題があります。

ゲルラッハ日本の戦後の話は、植民地の独立を認め、フランス人による第5共和政を宣言した、ドゴールに似ている印象をもちます。1945年以後、立憲主義のもとでは、性別や地域やカソリック・プロテスタントなどの宗教に関係なく、すべてフランス人、あるいはドイツ人として市民権を有する国民として承認され、こうした憲法の基本権にたつ国民という新しい時代を迎えました。

日本のことは詳しく知りませんが、日本でも憲法で同じように日本国民の基本権が承認されているとすれば、ドイツと同じかと思います。つまり1945年以後の、国民としての基本権による規定により、新しい時代が始まったと私は思います。

サーラただ一つコメントすれば、日本国憲法では「国民としての権利」と、国民が明記されていますが、ドイツ基本法では、第1条で、人間の尊厳とあり、ドイツ国民と限定していません。日本でも、裁判では、外国人も憲法で保障された基本権を享受できますが、すべてが日本国民への基本権と同じというわけではありません。

先ほどから、日本は戦後の方がむしろ日本人という限定されたアイデンティティや権利が強調されるようになったということで、現在は、増加する外国人の権利をどのように考えるかと議論され始めていますが、憲法を改正するなら、まさにこの部分の議論が大事だと思います。もちろん日本でも、外国人の権利が侵害される場合に、訴訟を通して、この普遍的な権利が承認される場合もあります。しかしそれはあくまで判決による個別事例であって、憲法と立法によって制度的に確立しているわけではありません。

千本私は、日本国憲法が外国人に対して差別的であるという見解です。Peopleをどう訳すかという問題や、様々な解釈があったことは事実ですが、現実には憲法に明記された(日本)国民という概念が大事であって、日本国民の要件を満たす人々への権利保障です。

4.国家とアイデンティティ-天皇制を例に

住沢少し話が本来の課題からずれてきましたので、また国家、アイデンティティ、宗教の問題に戻りたいとおもいます。

千本ここで長くなりますが、日本における国家と宗教とアイデンティティの問題ですが、私は、過去、現在、未来を分けて考えたいと思います。過去でいうと奈良時代など古代国家では仏教が支配していましたが、民衆の間に仏教のアイデンティティが完全に浸透していたわけではありません。

江戸時代には、支配の論理は儒教ですが、民衆を支配するためには仏教を使いました。檀家制度などです。徳川幕府はかなり統一政権なのですが、統治機構としては統一国家ではなく、封建制ですので、民衆もまだ日本人というアイデンティティはありませんでした。

江戸時代では、仏教より下に神道が位置付けられていましたが、明治維新ではそれを逆転させて、神道を国家宗教化しようとしました。しかし明治政府はそれに失敗して、国家神道が生まれたと私は思っているのですが、多くの日本の研究者は、神道が国家宗教になったといっています。

そのため私はブックレットでは、国家神道は政治体制であると書きました(千本他『「伝統・文化」のタネあかし』アドバンテージサーバー、2008年)。しかし祭政一致なので、国家神道は政治体制ではあるが、宗教国家であり天皇は神とされました。天皇は神であると、明治憲法には書かれており、政府も宣言しています。この体制を表立って批判することは難しく、したがってどの程度の「帝国臣民」が天皇を神であると信じていたかはわかりません。信じていた人と信じているふりをしていた人を合わせると、90何%とかになるかと思います。それを信仰というのかどうかが一つ、問題となります。

戦後、国家神道は廃止され、象徴天皇制に日本がなったのですが、特に平成の明仁天皇の時代には、日本人の90%あるいはそれ以上の人が、象徴天皇を自分の意志で承認しているといわれます。その意味では、戦前よりも戦後の方が、天皇制はより強く機能しているといえます。

戦前には多くの日本人が、天皇を神と信じていた、あるいは信じているふりをしていたことと、戦後の多くの日本人が象徴天皇制を承認していることとの間には連続性があり、私はこれが日本の国家、宗教、アイデンティティの問題であると思っています。

日本の保守派や右翼は、日本人としての誇りを持てと言います。全国水平社は、「エタであることを誇り得る」といいましたが、この二つの「誇りを持て」ということは、同じ意味なのか異なるのか今日は議論しません。他方で社会学者の上野千鶴子さんは、アイデンティティはいらない、解体すべしといっています。

しかし私はアイデンティティには異なる二つの意味があると思います。一つは、日本人であるとか、どの会社に所属しているかなどの集団的なアイデンティティです。しかしもう一つ、個としての、私個人のアイデンティティ、自分はどういう風に育ってきたか、どのような友人を持ち、どのような本を読み、自分はどういう人間になろうとしたか、という個としてのアイデンティティです。

私は個としてのアイデンティティは承認するといったのですが、最近の日本では、個人としてそれを確立しようとする動きが弱くなり、自分は象徴天皇制の下での日本人であるという、集団的なアイデンティを求める人が増えてきているのではと危惧しています。例えば若い世代では、同調圧力といいますが、目立ちたくないということが強くあり、そうすると象徴天皇制支持が90%以上あるなら、それが現在の日本の集団的アイデンティティ、ナショナルなアイデンティに行き着く恐れもあります。

サーラ天皇制の問題とは別に、ナショナル・アイデンティティを求めることは、すでに日本では現実ではないですか。

住沢そこに保守側の一つの矛盾があり、彼らの求めるナショナル・アイデンティティにとって、占領軍司令部による押し付け憲法とされる日本国憲法は目障りな存在です。しかし彼らが象徴ではなく日本の元首としたい天皇は、日本国憲法に忠実な、その意味では、戦後デモクラシーに忠実な天皇として行動しました。平成の明仁天皇も、その子の令和の徳仁天皇も象徴天皇制のありかたを模索し、継続しています。天皇家はある意味、戦後デモクラシーへの保守改憲派に対する防波堤のような役割を果たしています。

他方で、日本国憲法を戦後デモクラシーの制度的基盤であると考える護憲派は、日本のナショナル・アイデンティティ形成に批判的ですから、ナショナル・アイデンティティと日本国憲法は分断されており、むしろ9条の戦争放棄・非軍事化条項を、ユニバーサルな価値として追求しています。

こうした状況で、もし日本でも本格的にナショナル・アイデンティティを求めるポピュリズム運動が生じれば、保守派もリベラル派も議論する枠組みを持っておらず、混乱状態に陥るのではと危惧します。

5.グローバル視点からの新しいアイデンティティへ

橘川今、宗教とか国家とかアイデンティティの問題は、枠ぐみの問題と、一人一人の話という、異なる視点で議論されました。これがどのように交錯するかということですが、例えば第一次世界大戦前は、あるいはロシア革命が起こる前は、労働者階級というアイデンティティがあり、国境を超えるものとして考えられました。ところが第一次世界大戦が起こると、労働者の階級意識は、ナショナル性、国民国家のナショナリズムに負けてしまいました。

また第一次世界大戦後は、ウイルソンの提起もありますが、民族自決権という形で議論され、帝国の時代と異なり、民族国家がそれぞれ自立した主権国家となる時代を迎えました。

第二次世界大戦が終わって、今度は何が出てきたかというと、私の認識では、世界人権宣言とか、さらには「女性への差別撤廃条約」(1979年)とか「子どもの権利条約」(1989年)とか、グローバルな基準が国内法に優先されるべきであるという流れになりました。国民国家の枠組みを超えて、それぞれの個人の人権を保障する仕組みがテーマとなりました。最近の出来事では、「#MeToo」運動もそうです。これは女性というアイデンティティに基づく運動です。つまりアイデンティティをめぐる問題は、このように再構成を求められる時代になっていると私は思っています。

これを国家について敷衍すれば、地域主義なり自治という考えに至ります。これまでの国民国家から独立を求める運動もありますが、こうしたことも自治という考え、つまり一人一人のアイデンティティをどのように現代の時点で構成してゆくのか、何が可能なのか、こうした視点で考えないといけないかと思います。

宗教についても、こうした集団的なアイデンティティをもとに議論しますと、いろいろな紛争は永遠に解決しない、あるいはうまくいかないということになります。だからこうした集団的なアイデンティティはひとまず背景に退かせて、個人の、しかも人間としての普遍性を前提としたアイデンティティに転換して考えていけばと思います。

ゲルラッハもちろんアイデンティティは多層構造を持っています。アイデンティティの話をするなら、現実にあるのは、家族の中とか、地方での方言とか、食事の習慣とか、人々が直接に体験することです。それ以外のあらゆるアイデンティティとはすべて抽象的なものです。人々の多くが話すのはその村々の方言であり、自国の言語とはテレビなどで話される、抽象的なものです。

宗教、とりわけキリスト教を考えても、同じことです。教会の牧師は、キリスト教は世界中に存在しているといいますが、私たちは誰も、この「キリスト教」を見た人はいません。それも抽象的なものです。これらは、ポジティブな意味での抽象的なアイデンティティです。

他方で、ネガティブな意味でのアイデンティティがあります。外国人への敵意は、外国人が最も少ない、あるいは住んでいない地域で生じています。こうしたことすべてがアイデンティティに統合されるので、都市に住んでいれば、コスモポリタンなアイデンティティが生まれます。トランプ支持者やイギリスのEU離脱を支持する人々は、人口密度が比較的低い地域であり、逆に大都市ではこうした支持者は少なくなっています。

現在では、人々の多数は都市に住んでおり、したがって、コスモポリタン的なナラティブは、ますます重要な意味を持つようになっています。したがってポピュリストの最大の敵は都市です。聖書の中でも、腐敗したバビロンとして描かれています。おそらく聖書の成立にかかわった人々も、都市の日常生活をよく知らなくて、ネガティブな印象を抱いていたと思われます。

こうして、今日では、アイデンティティの議論をすると、都市と地方という二つの大きなブロックがあります。イギリスの著述家、デヴィッド・グッドハートは、その著作の中で、人間を、anywheres (どこにでも住める人)とsomewheres(一つの特定地域に住む人)に分類しています。前者は、高学歴で、職を求めていろいろな都市を移住する人々であり、後者は、地方に住み、そこから出ないで家族生活や地域のつながりを持つ人々です。アメリカでいえば、東部海岸と西部海岸の都市に住む人々はそれ以外と全く異なる価値観を持っており、ドイツでいえば、大都市に住む人々は選挙行動において、地方の人々とは異なります。

文化的な担い手はもちろん都市におり、劇場や美術など都市に属します。都市は経済的にも成功のチャンスが高く、したがってポピュリストは、優越する都市をやり玉にあげることで、somewhereの人々の支持を得ることに成功しています。ロンドンのシティーに対して不満な感情を表現したいために、自らの利益を顧みない場合すらあります。

どちらにしても、私は、共感こそが、すべての倫理の根底にあるものであり、それこそが都市と地方の違いを越えて両者を架橋するものであると考えています。

編集者注―David Goodhart (イギリスのジャーナリスト、”The Road to Somewhere” (2017)によると、 英国人の50%は特定の共同体、地域と接点を持っており(somewhere)、中間層があり、さらに残りの20~25%は、anywhere で高学歴をもつリベラルな都市住人であり、後者は政策決定に過剰な影響力がある。移民がイギリス福祉国家に与える負の影響を指摘し、移民の減少と統合を訴える。

住沢この議論に対して私に質問があります。都市と農村という二項対立に対して、グローバルに見ると、ポピュリストとリベラルの対立だけではなく、中国の共産党独裁という国の制度が、経済的な成功をおさめることにより、権威主義的体制が、自由民主主義体制への挑戦者として登場してきています

もちろん、中国も沿岸部の工業化が進んだ大都市と、周辺部分という図式が当てはまりますが、外の世界に対しては、新しい覇権国家として統合性を持って登場してきています。1989年の天安門事件以後の民主化の挫折を見ると、上海や深センで多くのグローバル企業が発展したとしても、またまさに多くのanywhereの人々が生まれたとしても、次の20年、30年で、この体制が変わるとは考えられません。

ゲルラッハ中国にデモクラシーがないことは自明のことです。アメリカ・ヨーロッパなど自由主義諸国と中国との、技術的覇権競争をめぐるシステム間の争いは、以下の点に整理できます。

自由社会ではテクノロジーの発展は、イノベーションをめぐる議論よりも先行します。その後に政治も含めた議論になります。グーテンベルクの印刷術の発明により、出版革命がおこり、その後の宗教改革に結びつきました。世界大戦は、のちにEUのような新しいヨーロッパの誕生にいたります。しかし誰もイノベーションの力を疑うことはできません。技術的イノベーションに対する、政治領域もふくめた様々な規制は、その後に生じます。

中国は、そうした展開を望んでいません。規制官庁はそのテクノロジーの中国人へ影響をあらかじめ考慮し、先ず仕組みを国家が設定します。AIの技術や高度な管理社会を実現しても、それは政治があらかじめ目的を設定し、その中でシステムに都合の良いものだけを発展させることになります。こうしたシステムは機能しません。なぜなら新しい商品の価値は人々が自由に判断するものであり、中国規制官庁はパラノイア的な不安をいつも抱えています。

さきに述べた、ポピュリストのコスモポリタン的な都市に、地方を対置する手法も、結局は都市のコスモポリタニズムに勝つことはできません。これからますます都市の人口も増え、人間の活動も都市が中心となって発展します。この意味では中国も例外ではなく、いつかは自由で世界に開かれた都市が地方に勝つことになります。

住沢私はその見解に賛同できません。中国の経済・技術発展に関する専門セミナーに何度か参加したことがありますが、例えば今、問題となっているファーウエイの中枢部をヒアリング調査してきた方の講演があり、そこでは専門家の自由社会があるそうです。

(編集者注)―近藤大介『ファーウエイと米中5G戦争』(講談社+α新書 2019)、大西康雄(ジェトロ・アジア研究所上席研究員)『習近平「新時代」の中国』(アジ研選書 2019)。

かつてソ連の時代でも、技術的テクノクラートが、集権的な国家を改革する可能性について論じられましたが、すべて失敗しました。当時は閉鎖経済であり、せいぜい5か年計画など、中期的な計画経済でした。しかし中国のグローバル経済拡張やテクノロジー政策は、一帯一路戦略のようにリアルであり、ソ連の国営企業と中国のグローバル企業は本質的に異なります。また中国はマルクス・レーニン主義のイデオロギー以外にも、20年、50年先を見据えた文明論を携えています。

ゲルラッハさんの主張する、ポピュリズムに対する、サイエンスに立脚するグローバル・エリートや都市の勝利は、例えば、ユヴァル・ハラリのいう「グローバル帝国」の時代を想起させます。ハラリの言う、認知革命(言語・神話・宗教・国家など虚構による集合力)から農業革命を経て、近代の科学革命の行き着くところに、まさにanywhere のグローバル・エリートによるグローバル帝国という未来像になるのでしょうか。(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』河出書房新社 2016) 

ただ、中国のアイデンティティと中国が世界に広めようとする新しいアイデンティティが何であるかはまだわかりません。西欧世界のanywhereの人々と、中国のanywhereの人々が、共通の価値観を持ち、グローバルな帝国のために協働するのでしょうか。それとも西欧と異なる価値観なのでしょうか。さらにその場合、somewhere の人々はどうなるのでしょうか。

最後に、橘川さんと千本さんに総括的なまとめをお聞きしたかったのですが、今回は、「ゲルラッハさんに聞く」ということが主要なテーマでした。それで橘川さんに関しては、『現代の理論』にほぼ常時掲載されている「君は日本を知っているか」、千本さんに関しては、『現代の理論』第19号、「元号で私の時間を支配されたくない-いよいよ強化される国民統合の手段―象徴天皇制」を参照にしてください。

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