特集●問われる民主主義と労働

それでも構造改革か?

日本経済30年史から見えてきたもの

暮らしと経済研究室 山家 悠紀夫

昨年秋「日本経済30年史」(岩波新書)を上梓した。1990年前後から2019年までの日本経済の歩みを辿ったものである。 世界史で見ると、1990年前後は大きな画期となる年々であった。89年ベルリンの壁崩壊、90年 東西ドイツの統合、91年ソ連邦の解体、等等。資本主義経済が世界を覆い、グローバル化が急速に進展する時代が始まった。経済政策で見ると新自由主義が我が世の春を謳歌する時代となった。社会主義化の恐れ、革命の恐れがなくなったと見た多くの国の政府が、原始資本主義的政策、むき出しの資本主義的政策を採り始めたのである。                     

日本について見ると、90年代初めはバブル破裂の年であった。90年株価バブルが破裂、91年には地価バブルが破裂し、株価、地価ともに大幅に低下し、景気は後退局面へと移行した。以降、「失われた10年」「20年」と呼ばれる長期停滞へと、日本経済が陥っていく時代であった。そうした下で、経済政策についてみると、「構造改革政策」(日本版新自由主義政策)が後に見るが繰り返し実施された時代であった。

この30年の日本経済、三つの特徴

90年以降の日本経済を通してみると、 三つの特徴がある。

図.1 景気動向指数(一致指数)の推移

一つは景気の長期停滞である。この間の景気変動の推移、そして月単位で見た経済活動の水準は図1に見る通りである。何度かの景気変動があるが、印象的なのはバブル最盛期(90年10月)の経済活動の水準を、以降一度も超えることなく今日に至っていることである。この間の経済を長期停滞とみるゆえんである。

図.2 名目GDPの推移(1990~2018年)

なお日本経済の規模という点で国内総生産(名目 GDP) の動きを見ると(図2)、90年から97年にかけては増加傾向にあるが、97年をピークに07年までは横ばい傾向に陥っている。その後、リーマンショック(09年)で減少した後、やや持ち直してはいるが、19年の水準はなお554兆円であり、97年(534兆円)比 3.8%増に留まっている。この間、消費税が5%から10%(19年)に上げられており、それによる物価上昇があったことを考慮に入れると、(97年以降のことではあるが)実質ではこちらも長期停滞の状況にある。

図.3 企業の経常利益の推移(1990~2018年)

二つ目の特徴は、経済が停滞しているにもかかわらず、企業収益が著しく増えていることである。法人企業の年間経常利益についてみると(図3)90年度の38兆円が17年度の83兆円に(18年度も83兆円)、この間2.2倍に膨らんでいる。とりわけ、リーマン・ショックで落ち込んで以降の(近年の)増加ぶりは著しく、18年度はボトム(09年度、32兆円)に比べ2.6倍となっている。

図.4 給与所得者の1人当たりの
    平均給与の推移

三つ目の特徴は働く人の給与が減少していることである。民間で「一年間通して働いた人」の一人平均の年給額で見ると、90年に425万円であったものが17年は432万円、18年は441万円であり、30年間で3.8%しか増えていない(図4)。先に見た名目 GDP の動きと同じく、97年が給与額のピークとなっており(467万円)、それと比べると18年は5.6%の減少である。こうした一人平均給与の減少の背景にあるのは低賃金の非正規雇用者の増加であり、雇用者全体に占めるその比率の上昇である。ちなみに90年の非正規雇用の数は881万人、比率は20%であったものが、18年には2120万人、38%へと増加しているのである。

構造改革とは何であるか

以下,この30年の日本の経済政策の中心であった「構造改革政策」に焦点を当てて観察を進めていこう。

まず、「構造改革」ないし「構造改革政策」とは何かということである。

四つの側面からこれを捉えることができる。

第一は、バブルが破裂した後の景気の悪い状態から日本経済を救い出すために、さらには日本経済を本格的に復活させる(すなわち再生させる)ために必要という「名目」で採られた政策である、という側面である。

なお、ここであえて「名目」という表現を使ったのは、「構造が悪いので構造改革をしなければならない」という論のほとんどが、どういう構造がどう悪いのか、その悪さが日本経済のパフォーマンスの悪さとどうつながっているのか、などという関連についての論証を欠いているからである。単純に構造の悪さ=日本経済のパフォーマンスの悪さ、と決めつけているのである(政府もそうである)。「構造改革政策」は日本経済を良くするという名目で採られた政策というほかないわけである。

第二は、英国のサッチャー首相や米国のレーガン大統領が1980年代に実施した政策にならっての、新自由主義経済政策=「小さな政府」と「規制緩和」とを二つの大きな柱とする政策である、という側面である。とりわけサッチャー政権の採った政策と、日本の「構造改革政策」との類似性は強いが、ここで着目しておくべき重要な点がある。英米両国が80年代に新自由主義経済政策を採用したについては、①80年代初めの第2次石油危機を契機として発生したインフレの抑制に両国ともに苦労しており、それを抑制するために、とりわけその一因であった賃金上昇を抑制するための政策の必要性が高くなっていた ②両国ともに長らく最先進の資本主義経済国であったが、第二次大戦後の日本、ドイツなどの後発資本主義国の追い上げのもとで貿易収支が赤字化するなど、国際競争力の強化が課題となっていた、という事情があった、ということである。

一方、90年代以降の日本経済にあっては、①経済の基調はインフレではなくデフレであり、②貿易収支は世界一、二を争う黒字国であり、一国全体としてみれば、競争力が弱いことではなく強すぎる国であることが問題とされる国であった、という事情があった。

デフレの国でインフレ抑制策を取ったら、また国際競争力が強すぎる国で国際競争力強化策を採ったら結果はどうなるか―答えは自ずから明らかである。すなわちデフレの深刻化と国際収支の黒字の拡大(その結果としての円高)ということである。

事実、「構造改革」後(まだ半ばであるが)の日本は、前者(デフレ)の深刻化に悩まされているし、今もそうである。後者についても(現状は、第二次以降の安倍内閣が採用している極端な金融緩和策によって進行が抑えられているが)為替相場は円高基調の展開が続いている。

第三は、財界の要請に応える政策である、という側面である。

1996年1月、久方ぶりの自民党単独の内閣である第二次橋本内閣の発足(96年11月)に先駆けて、経団連は「魅力ある日本―創造への責任」と題する「経団連ビジョン2020」(通称「豊田ビジョン」)を発表した。日本経済の活力を取り戻すためには「規制を撤廃しなければならない」「小さな政府にすべきだ」などというのがそこでの主張である。それをそのままに受け入れたのが「構造改革政策」であった。

またこのビジョン公表後の96年12月、経団連は「財政民主主義の確立と納税に値する国家を目指して」と題する「財政構造改革に向けた提言」を発表している。第二次橋本内閣の「六つの改革」のうちの第一「財政構造改革」の実行を後押しする提言であった。

この例に見るように「構造改革政策」とはお互い財界の主張と時に後になり先になりしながら一体となって進めた政策であった。

第四は、米国の要請に応える政策であるという側面である。

第二次世界大戦終了後の日米経済関係は大きく見ると、①米国による日本経済の保護・育成の時代(1945年~60年頃)から、日米蜜月の時代(60年代)③日米競合の時代(70年代以降)へと変化した。第③の時代の最初の段階で米国が問題にしたのは繊維、自動車など個別商品の対米輸出の急増であったが、それが次第に日本の商品の多くが米国市場でシェアを高めているにもかかわらず、米国商品の日本市場でのシェアは高まらないでいる―これは日本市場の構造(流通機構のあり方や政府規制のあり方など)に問題がある、という方向に米国政府の主張が移ってきた。「日米通商摩擦」から「日米構造摩擦」へと時代が変化したのが90年代であった。

そこで89年から米国が提案し開始されたのが「日米構造協議」である。94年以降は、米国から毎年「年次改革要望書」が日本政府に提出されるようになった。その「要望書」を受けて日本政府は「構造改革」を実施した、ということである。

独禁法の改正(持株会社の解禁)、大店法の廃止、建築基準法の改正、労働者派遣法の改正、郵政民営化、商法の改正(三角合併制度の導入)等等。「構造改革政策」とは、米国政府の要請に応じる政策であると言うゆえんである。

こうして見てくると、「構造改革政策」とは、①何よりも財界の要応に応える政策であり、②同時に米国の要望に応える政策でもあった、③そして、英米にならっての新自由主義経済政策であったと要約していいかと思われる。さらに言えば、とはいえ、こうしたことは日本政府としてさすがに公言できないので、④日本経済を再生させるために必要な政策であると言葉を飾ったのが正解のようである。

構造改革を実施した橋本、小泉、安倍の三内閣

「構造改革政策」実施の歴史を簡単にまとめておこう。

バブル破裂後の6年間(90年~96年)は日本経済危機意識醸成の時代

バブル破裂後の6年間は、「構造改革政策」実施前の時代であったが、日本経済に対する危機意識が高まり、「構造改革が必要」との考えが日本の経済社会に広まった時代であった。

まずバブル破裂後の長期の景気後退があった(91年3月~93年10月)。下降期間32ヶ月という期間の長さにおいて(実質的に戦後最長)またその落ち込み幅の大きさにおいても極めて大きいという、厳しい景気後退であった(図1)。しかも、この間、財政政策の面では何度か大型の景気対策が打たれ、金融政策の面でも、公定歩合が、当時としては史上最低水準(2.5%)にまで引き下げられた。にもかかわらず、景気は容易に回復しなかった。

そうした中で、これだけ長期に渡って景気が回復しないのは、日本経済の「構造」が時代遅れになっているからである、「構造を変えない限り、日本経済は回復しない」という主張が登場し、多くの論者が、そしてマスコミも広く「構造改革」の必要性を主張するようになる。その極め付きは、政府の「経済白書(96年版)」の「総論」にある以下の文章である。

「戦後50年を超えた日本経済は、現在歴史的な構造調整期にある。…はっきりしていることは、これまでの経済構造、経済システム、経済政策の体系にギア・チェンジをしなければならないということである。これまでの経済社会の構造やシステムにしがみついていては、日本経済に前途はない。…」

財政赤字が大きな問題とされ、財政構造を改革の必要性が強調され始めたのもこの時代である。95年1月には、当時の村山内閣(自民、社会、さきがけの三党連立)の武村正義大蔵大臣が「財政危機宣言」を発し、(大臣辞任後の)中央公論96年7月号に「このままでは国が滅ぶ―私の財政再建論」を寄稿する、また蔵相の諮問機関である財政制度審議会に設置された特別委員会(委員長石弘光一橋大教授)の「中間報告・財政構造改革を考える―明るい未来を子供たちに―」が公表されたりもした。

橋本内閣(96~98年)「六つの改革」

こうした流れの中で登場したのが(第二次)橋本内閣である。94年6月に発足した村山内閣は、96年3月に村山首相が辞任して(第一次)橋本内閣となっていたが、96年10月の総選挙で社民、さきがけの二党が大敗して内閣を離れ(閣外協力に)第二次橋本内閣が登場、久しぶりの自民党単独内閣であった。

その橋本首相が、97年1月、「施政方針演説」で打ち出したのが「財政構造改革」「教育改革」「社会保障構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「行政改革」の「六つの改革」である。

この「六つの改革」のうち経済に直接関わるものについて見ていくと、①財政構造改革では、2003年度までに、国及び地方を合わせての財政赤字の対 GDP 比率を3%以下とし、公的債務残高の対 GDP が上昇しない財政体質を実現することを目標に、歳出全般について聖域なく見直しを行うこと、②社会保障制度改革では、医療、年金、福祉等を通じて給付と負担の均衡が取れ(た)社会保障制度の確立を図ること、③経済構造改革では、新規産業の創出に資するよう、資金、人材、技術等の面で環境整備を行うことなど、④金融システム改革では、わが国の金融市場がニューヨーク、ロンドン並みの国際市場となって再生することを目指し、金融行政の転換等を図ること、などをうたっている。

小泉内閣とその後継三内閣(01~09年)「構造改革なくして日本経済の再生はない」

後に記すように、橋本内閣の「六つの改革」は大失敗に終わるが、その退陣(98年7月)から3年ほどあけて登場したのが小泉内閣(01年4月)である。以降、自民党総裁の任期が切れて退任する06年9月まで、「構造改革なくして日本経済の再生はない」と呼号する小泉首相のの下、政府は様々な「構造改革政策」を実施していく。

その主な政策は「不良債権処理の促進」(政府言うところの「後ろ向きの構造改革」)であり、「官から民へ」「小さな政府」の実現であり(郵政民営化、公務員定数の削減、社会保障支出の抑制など)大規模な「規制緩和」、(労働者派遣事業の製造業への拡大、「構造改革特区」の制定など)である(「前向きの構造改革」)。

なお、小泉内閣退陣後、自民・公明両党による内閣は、安倍内閣、福田内閣、麻生内閣と続いたが、安倍内閣時の07年7月の参議院選挙で政府与党が惨敗したことがあり、これら後継三内閣は、ほとんど「構造改革政策」を実施できずに終わった。

安倍内閣「三本目の矢・成長戦略」

レームダック政権であった小泉後継三内閣の時代、そのあと政権についた民主党政権の時代での中断を経て、三度「構造改革政策」が登場するのは、12年末に誕生した第二次以降の安倍内閣においてである。

安倍内閣は「アベノミクス」なる「三本の矢」政策を開始したが、その「第三の矢、民間投資を喚起する成長戦略」なるものが他ならぬ「構造改革政策」である。法人税減税、国家戦略特区制度の創設、「働き方改革」(実態は「働かせ方改革」、労働規制の緩和)等等。日本を「世界で一番企業が活動しやすい国」にしたいという目標のもと今もなお「改革」は進行中である。

大失敗しても蘇る「構造改革政策」

この30年を振り返ってみると、三つの「構造改革政策」のうち、橋本内閣、小泉内閣とその後継三内閣の「構造改革政策」は二つとも大失敗に終わっている。また第2次以降の安倍内閣のそれも失敗に終わろうとしている。

すなわち、まず橋本内閣。その「改革」政策は、98年、99年の二年続けてのマイナス成長を招き、また、北海道拓殖銀行、長期信用銀行、債権信用銀行といった大銀行の経営破綻を招くなどした。「六つの改革」とりわけ「財政構造改革」そして「金融システム改革」が裏目に出てのことである。結果、98年7月の参院選において自民党は大敗、橋本首相は辞任した。

日本経済の一大事とも言うべきこの状況を救ったのは、橋本内閣の後を継いだ小渕内閣であったが、その政策は橋本内閣とは(すなわち「構造改革政策」とは)真逆の政策を採ることによってであった。財政赤字の拡大をいとわず公共投資を拡大させる、金融システム改革の趣旨を無視して金融機関への巨額の公的資金を投入する、などをしてである。

次に、小泉改革とその後継三内閣。その政策の破綻は、リーマン・ショック(08年9月)を受けての急激な景気の落ち込み、その下での「派遣村」の誕生に代表されるような社会の惨状となって現れた。前者(景気の落ち込みは小泉「構造改革」の下で日本経済が国内需要不振、輸出だよりの経済となっていたことの結果であるし、後者(派遣村)は、派遣労働の規制緩和が行き過ぎたことの結果である。そして、このこともあり、09年8月の総選挙で自民党は大敗、「国民生活が第一」と主張した民主党(ほか二党)に政権の座を譲ることとなった。

さらに安倍内閣である。「日本経済の再生」「政権獲得後十年間の実質成長率、年平均2%を実現する」と掲げた公約はもはや100%実現不可能な状況にあるし(13~19年の七年間の平均実質成長率は1.0%)足下の景気は後退局面に寸前、もしくはすでに後退局面入りと判断してもおかしくない状況にある(図1)。

過去二回の大失敗の際は、それでも数年の時をおいて「構造改革政策」は蘇った。バブル破裂後の「日本経済は構造改革が必要」との刷り込みが、それだけ強かったということであろうが、さて今後はどうであろうか。

構造改革がもたらしたもの―日本経済の長期停滞

96年末近くの第二次橋本内閣の誕生から現在まで23年、その23年から民主党中心の内閣が政権を担当した三年と少々を除けば、およそ20年間、日本は「構造改革政策」の実施を掲げた政権の下にあったことになる。その間に何が起こったか?

最も顕著なことは、日本経済は景気が良くなっても(その結果として企業が儲かるようになっても)賃金が上がらない構造に変化したということである。

図.5 景気回復局面における企業収益と賃金の推移

その構造変化の状況を鮮やかに図示してくれたのが、07年版「経済財政白書」(内閣府)であり、12年版「労働経済白書」(厚生労働省)である。どちらも似た図であるので、ここでは新しい方の「労働経済白書」を引こう(図5)。

図5は景気が回復する過程で、企業利益がどう変化したか、また、賃金がどう変化したかを、四半期毎の動きで見た図である。景気が良くなる直前の期(景気のタニ)を100とし、横軸に企業利益の動き、縦軸に賃金の動きをとった図である。80年代半ばから00年代にかけては、景気回復期が5回あったが、それぞれの回復期について、回復の始めから終わりまでを一本の線で示したこの図を見ると、明確に二つのグループに分かれている。

一つは、線が斜め右上に伸びているグループ、つまり、景気の回復とともに企業利益が膨らみ、賃金も上がったというグループである。86年からと94年からの景気回復期がそのグループに入っている。あと一つは、線が右横(しかもやや右下)に伸びているグループ、つまり景気の回復とともに企業利益は伸びているが賃金は上がっていない(どころか、若干下がっている)グループである。98年から、02年から、09年からの景気回復期である。

この図から何が言えるか。97年の「構造改革政策」の開始とそれのもたらした不況を境に、景気が良くなれば賃金が上がるという(ごく当たり前の)経済構造から、景気が良くなり(企業が儲かるようになっても)賃金が上がらないという(極めて異常な)経済構造へと日本経済が変化した、ということである。

この変化が何によってもたらされたのか。もちろん「経済財政白書」も「労働経済白書」も、政府の白書であるから、それについては書いていない。起こっていることの紹介だけで、「なぜ」の分析はされていない。しかしその原因は、この間の「構造改革政策」によるところ大であるとみていいだろう。

労働の面についてみれば、派遣労働という企業にとっては安くて使い勝手の良い労働力を使用できるという規制緩和があった。企業経営の面についてみると、企業間競争の激化があり、その競争に勝ち残るためにはより多くの収益を上げ、より多くの内部留保を蓄えておく必要性が増した、等である。

こうして日本経済は景気が良くなっても賃金が上がらない構造となり、結果として購買力、(民間消費)が増えない構造となり、さらにその当然の結果として、経済の成長力のきわめて弱い、長期停滞の続く経済になっている、ということである。

やんべ・ゆきお

1940年,愛媛県生まれ。神戸大学経済学部卒業。1964年第一銀行に入行。1991年第一勧業銀行調査部長、1994年第一勧銀総合研究所専務理事。2001年神戸大学大学院経済学研究科教授などを歴任。現在、「暮らしと経済研究室」主宰。著書に、『偽りの危機本物の危機』(東洋経済新報社)、『「構造改革」という幻想――経済危機からどう脱出するか』(岩波書店),『景気とは何だろうか』(岩波新書),『アベノミクスと暮らしのゆくえ』(岩波ブックレット)ほか多数。

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 目 次
はじめに
Ⅰ 一九九〇年代以降の日本経済を概観する
 第一章 三〇年間で日本経済や暮らしはどう変わったか
Ⅱ 三〇年間の変化を追っていく
 第二章 バブルの発生から,膨張,破裂まで(一九八五~九〇年)
 第三章 バブル破裂後の七年間(一九九〇~九七年)
 第四章 橋本「構造改革」政策の実施とその破綻(一九九七~二〇〇〇年)
 第五章 小泉内閣の誕生と本格的「構造改革」政策の実施(二〇〇一~〇九年)
 第六章 「構造改革」とは何であったか(第四章~第五章への補論)
 第七章 民主党政権の誕生とその自壊(二〇〇九~一二年)
 第八章 アベノミクス,超金融緩和と三度目の「構造改革」(二〇一三~一九年)
Ⅲ 日本財政をどう捉えるか
 第九章 日本は世界一の金余り国――ギリシアにはならない(第三章~第八章への補論)
おわりに

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『日本経済30年史-バブルからアベノミクスまで』(山家悠紀夫著 岩波新書 2019/10 990円)
~豊富なデータで,90年以降の景気動向を検証.時の政権による「改革」は日本経済をどう変質させたのか~

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