コラム/時々断想

現代のアリーナ(闘技場)と化したSNS

「パンとサーカス」は変態しつつ生き延びる

頑童 山人

ポイント化された現代の「パン」

古代ローマの独裁者達は、ローマ市民にパン=食料とサーカス=見世物を提供することによって自らの専制支配を維持したという。それ以来、市民の批判精神を曇らせ、問題を市民の意識から隠蔽する独裁者の政治手法を「パンとサーカス」と言うようになった。

もちろん、パンとサーカスの具体的中身は時代によって変化してきた。古代ローマでは、それは、征服地から収奪してきた戦利品・食糧の分配であり、闘技場での戦車競走や剣闘士の血みどろの戦いなどであった。人々は、戦争利得のおこぼれにあずかり、闘技場で繰り広げられるスペクタクルショーに興奮し、市民としての義務を忘れ、独裁者の統治をただ受け入れるか、あるいは独裁者がスペクタクルの主人公でもあるかの如く賛同の喝采を送る。

現代においては、ゴーツーのような割引クーポンや行政への協力に付与されるポイント、そうした形でパンが配られる。いささかいじましく、ちょっとしたお得感を与えるだけのものではあるが、それがいろいろな形で繰り返されると、それなりに「パン」としての効果を発揮する。一番儲けているはずの、クーポンやポイントを管理・運用するIT関連企業の姿が見えにくいのも行政や政治家には都合がいい。

陳腐化したサーカスとしてのオリンピック

それはともかく、「サーカス」の方はどうだろうか。オリンピックが、その代表的イベントであることはいうでもないが、最近はその効能も薄れてきているような感が強い。あまりにも巨大化し、常套手段化してしまったために、容易にその意図が読み取られ、魔法としての魅力が失せてしまったようだ。コロナパンデミック下という不運もあったにせよ、オリンピックで勢力回復を狙った政権が、オリンピック・パラリンピックの終了と共に崩壊したのは、そのことの端的な現れであろう。

それでも「サーカス」は、これからもオリンピックやサッカー、ラグビーなどのワールドカップのような巨大スポーツイベントを中心に展開されていくであろう。また、これに似たEスポーツやXゲームといった新種のイベントも登場してくるだろう。しかし、「サーカス」の舞台は、どうやらまったく別の世界にも出現し始めてきた。SNSというごく最近になって構築された情報空間がそれである。

バトルフィールドと化した情報空間

SNSは、誰でも、自由に、不特定多数の人々に向かって情報発信できる極めて便利な情報ツールである。その特性は、時に大きな政治的変動をもたらすほどの力もある。しかし、その力は、人々のスキャンダルやセンセーションを求める高尚とは言いかねる心情を刺激して、真っ当な批判精神を麻痺させかねない危険性も潜めている。

最近も、元首相と元知事という知名度において引けを取らない人物間の批判の応酬が話題になっているようだが、まさにそういう危険性を示している。この両者のやりあいは、ローマの闘技場で闘う剣闘士の戦いと違って武器は言葉であるが、彼らのキャリア、鋭い舌鋒、高い攻撃性は、たしかに耳目をそばだたせるものがある。それぞれにフォロワーという応援団がつき、古い情報も引っ張り出され、ブーメランだなんだのと応酬は周辺に拡大し、論評を加えた学者先生も批判炎上の憂目にあう。

これは、もう論争・ディスカッションというようなものではない。もはやバトルと評するしかなさそうである。バトルであれば、勝ち負けにこだわり、戦い方に注目が集まり、はやし立てる応援にも力が入るというものだ。一般に、こういうバトルは、自己顕示欲・承認欲求が強く、バトル好きで攻撃的で、暇を持て余し気味で、いつも注目されたがっているタイプの人が引き起こし勝ちだが、そういう人はフォロワーの数を気にし、場合によっては、批判であれ何であれ、とにかく反応があれば安心するという依存症的傾向に陥らないかと心配になる。フォロワーというバトル・見世物の見物人も、拍手喝采の快感に酔いしれて、本当の問題を見失っていないか、時には反省することも必要だろう。

バトルを増幅する者の罪

いずれにしても、闘技場と化したSNSの情報空間は、敵味方という二分法に基づく安易な共感・同意あるいは反感・敵意の非論理的感情的反応の世界に人々の意識を引きずり込む危険性を持っている。「パンとサーカス」が独裁者の統治手段としての愚民化政策であるとするならば、現代のIT技術の提供する情報空間で展開されている様々な現象の中に、その政策の現代版を見出す作業が必要となるだろう。

クーポンやポイントの背後に特定のIT企業がいるように、SNSの情報空間は巨大なIT産業が提供するプラットホーム上で構築されている。これはたしかに政治家や国家機関が提供しているものではないが、SNS上のバトルが、インターネットのまとめサイトやマスコミを通じて増幅されてくると、その影響は、際限なく増大し、社会の気風とでもいうべきものを変化させる。その気風の変化が、新自由主義的価値観を蔓延させることになるとすれば、いったい誰を利することになるのか、ここはじっくりと考えなければなるまい。

がんどう・さんじん

本誌編集委員

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