コラム/若者と希望

自民・立憲・共産=“保守”勢力の衝撃

革新勢力に革新を求めるための問題提起

大学非常勤講師 須永 守

1.「保守勢力の後退と革新勢力の躍進」!? ある若者の思考

昨年10月31日に投開票がおこなわれた衆議院議員選挙において、およそ2年におよぶ新型コロナ対策への根強い批判がある中にもかかわらず、自民党はやや議席を減らしたものの単独で絶対安定多数を確保する結果となり、政権与党である自民・公明両党でも議席減はわずかにとどまる形となった。その一方で、立憲民主党と共産党によって進められた野党共闘は、与野党「一騎打ち」の選挙区では一定の成果を挙げたものの、大勢としては不発に終わったといわざるを得ず、立憲民主党は公示前議席を下回る結果となった。それに対し、日本維新の会が公示前の4倍近い議席を獲得して第3党に躍進した事実は、政権運営に対する批判の受け皿が奈辺にあったのかを象徴する結果として注目されたことは記憶に新しい。

正直なところ、日本維新の会の大幅な躍進が、政権運営に対する批判の受け皿となった故なのか、過剰とねつ造に終始した反野党共闘キャンペーンの成果によるものなのかは定かではないが、少なくとも民意として示された選挙結果について、首都圏の大学で政治思想史の講義を受講する学生にコメントを求めたところ、衝撃的な回答が返ってきたのである。

ある学生は、選挙結果は概ね自身の予想した通りであったとして、以下のような分析を示したのである。

二大保守政党の自民党と立憲民主党が共に議席数を減らし、同じく旧態依然とした共産党も議席を減らす結果となった。それに対して、革新勢力である日本維新の会が大幅に議席を伸ばしたことは、変化を求める有権者の意向が反映された選挙結果といえる。日本維新の会の今後の更なる飛躍に期待したい。

後期授業が始まって間もないコメントとはいえ、政治思想史を学ぼうとする大学生の保守・革新認識としては驚きを禁じ得なかったが、本人の現状分析においては自民党と立憲民主党が二大保守政党として認識されるだけではなく、共産党までもが保守勢力の補完勢力として位置づけられていたのである。その一方で、日本維新の会の躍進が既得権益を打破する革新勢力の台頭として歓迎され、今後の革新勢力の更なる勢力拡大が待望されているのであった。

幾ばくかの無力感に苛まれながらも、あくまで一学生の極めて個性的な見解であろうと自分自身を納得させながら、あらためて上記コメントに対する意見を他の学生に募ってみた。すると、少なからぬ学生が上記コメントに対する賛同の意見を示したばかりでなく、現代政治の閉塞感に対する批判や、その打開策としての強権政治を容認する憲法改正の必要性にまで言及したコメントが寄せられ、私の淡い期待は完全に打ち砕かれることになってしまったのである。

ただ、新たに寄せられたコメントの中に、自民党や立憲民主党、そして共産党を保守勢力として位置づける彼らなりの理由が示されていたのは大いなる収穫であったといえる。自民党や立憲民主党、共産党を保守勢力として一括りにする根拠として示されたのは、様々な政策をめぐって繰り返される予定調和を感じさせる議論のあり方であった。

自民党・立憲民主党そして共産党は、様々な政策について議論する際に細部の違いばかりを強調し、明確な対抗案を示すことができない点において同類だと思います。選挙前にテレビで主要政党による議論を聞いていても、その時々に注目される時事的な問題について場当たり的な改良策を示すばかりで、根本的な解決策を示そうとはしていないように感じました。しかも、お互いに上げ足取りに終始して、結局政権獲得のためだけのパフォーマンスにしか思えませんでした。その意味では、与党・野党は関係なく、主要政党は政権をめぐる惰性と馴れ合いに安穏としている保守勢力であると思います。

具体的な政策論の中身を無視したかなり強引な印象論の感は否めないが、自民党のみならず立憲民主党や共産党までをも保守勢力とみなす論理の一例として、無視することのできない内容なのではないだろうか。つまり、与党と野党が一つの政策をめぐって議論する場合、野党はよほど劇的な対案や政策転換の提案がない限り、その場しのぎのパフォーマンスとして等閑視されるばかりでなく、大差のない選択肢として見なされるならば、継続性と安定性の面から与党側に大きな分があることは明らかであろう。そして何より、与党と野党の主要政党が共に保守勢力として同一視されてしまうとするならば、今後の国政選挙における「政権選択」の緊張感や高揚感は、当事者たちの思惑とは裏腹に、完全に失われてしまうといっても過言ではないだろう。

2.正規雇用=既得権益という“闇”に潜む維新の陥穽

それにしても、与野党を問わず主要政党の政策議論の進め方が予定調和的であり、もはや差異を見出すことが困難であるとの印象についてはわからなくもないが、その中においてなぜ日本維新の会は革新勢力として認識されることになったのであろうか。少なくとも、私自身が選挙前に報道番組で拝聴した日本維新の会代表の主張は、他の与野党出演者のいわゆる予定調和的な議論と特段異なるものではなかったし、強いて印象に残った部分を挙げるとするならば、偏執的なまでの野党共闘批判であった。その意味では、誤解を恐れずにいうならば、同じ穴の狢(むじな)でしかなかったといわざるを得ない。

それにもかかわらず、日本維新の会が革新勢力として認識される理由はどこにあるのだろうか。その疑問を解く鍵が、選挙結果に対するコメントに結びつけて、自分自身の就職活動における苦労と不満を吐露した以下のコメントから見出せるのではないだろうか。

自分は特定の支持政党はないが、日本維新の会の公約には期待している。なぜなら橋下徹代表の頃から、公約として「既得権益の打破」を掲げ続けているからだ。(中略) 私自身、現在就職活動をおこなっているが、その中で感じることは現在の日本社会にも至る所に既得権益が存在しているということだ。社会全体で非正規雇用が拡大しているにもかかわらず、正規雇用で採用された人たちは自分の既得権を守ることばかり考えている。労働組合も正規雇用者の既得権益を守るばかりではなく、採用枠を拡大するために既得権を見直す動きも進めるべきではないだろうか。終身雇用制度の全てを否定するわけではないが、そのせいで新卒の採用枠が狭められたり、非正規の賃金アップができなかったりすることもあると思う。

日本維新の会が革新勢力として他党と一線を画してみなされる理由の一つに、「既得権益の打破」という公約を大々的に掲げていた点にあったことを読みとることができる。それより何より愕然としたのが、打破されるべき既得権益の一つとして正規雇用の労働者が挙げられている点であった。正規雇用や終身雇用を問題視し、柔軟な労働力としての非正規枠拡大を願うその主張は、かつて金融・経済担当大臣を歴任し、今や某大手人材派遣会社の会長におさまる大学名誉教授の発言を彷彿とさせるものがあるが、この主張が今まさに就職活動の真っ只中にある大学生から発せられたものであることが深刻である。

おそらく多くの人々にとって想像以上の長期に及んだコロナ禍の閉塞感の中で、主要政党間で交わされる政策議論の応酬に希望を見出せず、その内容の如何に関わらず旧態依然とした保守勢力として一括りにしてしまう。その反動ともいうべきか、政策の実現性や副作用が吟味されることもないままに、それまでの議論を無視した唐突な提案や、美辞麗句にまみれたワンフレーズ・キャッチコピーばかりが注目を集め、果ては革新勢力として幅をきかせるようになる。

その革新勢力に既得権益の打破を期待する心情の背景には、権力や富を独占する得体の知れない既得権益の闇だけではなく、もはや安定した収入の約束された何気ない日常生活でさえも、自分自身にとっては縁遠く、ある意味で不当なものと感じられるような過酷な現実が存在しているのではないだろうか。そのように考えれば、一見突飛なものに感じられた学生によるコメントの数々も、その現実を映し出す鏡として、真摯に向き合う必要があるように思われてならない。

しかし、残念ながら残された時間は決して長くはない。本稿を執筆中に目にした記事(御田寺圭「「正社員を引きずり下ろしたい」”みんなで豊かになる”物語を失った日本の末路」)では、「平等に貧しくなろう」が説得力をもつ社会の到来について紹介されており、本稿との共通性と状況の深刻さに背筋の凍る思いがした。もはや避けて通ることのできない喫緊の課題として、今後も継続的な議論と発信を続けていきたい。

すなが・まもる

1976年生まれ。日本近・現代史研究者、大学非常勤講師。7歳になる一児の父。

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