特集 ●歴史の分岐点か2022年

占領の継続と再生産

「復帰」50年の、脱力的かなしさからでも

沖縄大学教授 宮城 公子

復帰前の風景

「復帰」の数年前、学校で映画「橋のない川」をみせられた。多くの友人たちは、意味がわからん、と口々に不平を言っていた。差別がいけないという常識は子どもにもあったが、映画で扱われるいわゆる県外の「部落」差別は沖縄にはほぼないし(離島抑圧の歴史やそれにまとわりつく差別的意識はあったとしても)、ぴんとこない感があったのは当然だろう。沖縄では「部落」ということばはせいぜい親や自分の出身地程度の意味しか持たない。だがそれは奇妙な発想に結びついていった。大人たちが「復帰」を学校やテレビなどで熱く唱えている現状に対し、数人の子が、あ、でも、あんな差別のある「本土」には「復帰」しない方がいいはずよー、と言い出したのだ。

瀬長亀次郎は1967年に「美しい祖国日本をとりもどす」と、日本復帰への思いを日記に記したそうだが(webronza.asahi.com>politics>articles)、私は友人たちに共感した。それ以前に県外の小学校の子と「文通」するという企画があり、私が最初に受け取った手紙に、「沖縄の子は、日本のお金を使えないというのでかわいそうだから1円玉を同封します」と書いてきたことに不快を感じた経験があったからかもしれない。一方で、フェンスで沖縄の民間地から隔てられた瀟洒な「外人(米人)住宅」に近づいては、米国人の子を挑発しフェンスの外に出させて殴り合うという蛮行をたびたびやらかす男子たちに眉をひそめながら、何だか愉快であったりもした。

米軍基地から遠い地域で育ってはいたが、同世代ほどの子まで(当時知らなかったが実際は生後数か月の赤ちゃんまで)米軍人にレイプされたり殺傷されるなどのニュースは見聞きしていた。戦後生まれの日本人全員が「属領に生まれた属領の子たち」だと内田樹は言ったが(『街場の憂国論』・晶文社・2013)、私たちは子どもなりに属領の末端での心のくすぶりを抱えていたのかもしれない。その心情は、70年暮れの「コザ騒動」を起こした大人たちに連なるものでもあったのだろう。米軍人の犯罪が、旧日米行政協定(’52)から60年に地位協定になったものにより、安保体制の下、復帰後も日本の裁判を免れ続けていくことなどは知る由もなかった。

沖縄に、名護に、刺さるもの

戦後日米体制を三重構造ととらえ、国民向けには、サンフランシスコ講和条約>安保条約>地位協定という力の秩序の順で示されがちな戦後体制が、実は逆に講和条約<安保条約<地位協定として作動したと、考察する寺崎太郎(元吉田茂内閣の外務次官ながら吉田の対米追従姿勢と衝突し辞任)の指摘に着目した前泊は、そのことが、県外と異なり戦後米軍基地が拡大の一途をたどった沖縄において、さまざまな隘路を行政や人々に強いた根源だとする(前泊博盛・『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』・創元社・2019)。

これまでに同様の指摘はあるものの、旧安保条約と緊密にリンクしながら、米軍の日本における基地使用のほぼ無限大の権限享受をうたうこの傲岸な協定が、狭い土地に膨大な規模の米軍基地の置かれる沖縄でほぼ猛威をふるいながら、離れた「本土」からそれが可視化されてこない。ここ10年ほどはむしろ、国内のSNSやネットテレビ等で、基地がある「おかげ」で交付金や補助金をもらっておいて不平やわがままを言うな的バッシングや、また地元からは、いくら基地反対しても踏みにじられるなら(実際アンポと言えば思考停止になる日本の行政の「おかげ」でそうなっている)、賛成して目の前の生活を少し楽にしたい、との声があがってきた。

2018年と今回の名護市長選では、国と県との基地をめぐるこれからの行方を見守るとし、二期目をめざした候補が、辺野古への米軍基地建設への賛否を再度封印した。2010~18年まで基地反対だった市政には渡さなかった米軍再編交付金が、2018年から子育や教育支援等にあてられたことを「実績」として掲げた前市長が今回も勝った。

しかし一方で、2010年ごろまでには、1998~2010年の賛成派の市長二人のもとでもたらされた再編交付金その他の北部振興事業では、公共事業に中心的に投入された土建政治型の政策が制度疲労を見せ、県外の大企業に利益が大きく還流し、その間の市民の所得は逆に減少、地元建設業のいくつかが倒産していたとされる(朝日新聞 2010.1.15.)。

そしてなにより、子育てや子どもの教育支援は、米軍基地など受け入れなくとも行政の責務であるのは言うまでもない。前々回から今回(2014~2022)まで、市長選での着目点は?というアンケートで、14年で高かった基地移設と、低かった地域振興の描く線グラフが、時系列的結果としてバッテン(✕)を描くようになり、クロスする個所が2018年、2014年と2022年で逆転、となっていることに胸が痛い(朝日 2022.1.28.)。

また、若者たちの間で、基地反対ゆえに、自分たちの経済的苦境があるという発言は、以前勤務していた名護の大学で学生から実際に聞いたことがある。それでも名護市民は、基地建設についてはなお今、反対54%、賛成24%でもあるのだ、ということがますます切ない。あえて「客観的」なコメントとして、「フルスペックの現行案のままでは、完成の確たる見通しも立たず、かといって政治的理由から変更を加えることもできないという『筋の悪い』巨大プロジェクトの典型例への道を歩んでいるようにも見える」という視点は確認しておきたい(沖縄タイムス 2022.1.27.)。

「ストーキング」

市民投票や県民投票、県議会や国政選挙などで、辺野古について幾度もノーを絞り出してきた沖縄へ、その直後から埋め立てや工事再開に着手したり、工事や必要文書の県への搬入を深夜や早朝に行ったりと、まるで米軍基地の建設ならどんな恥ずべき児戯的行為をもいとわない日本の国の行政。それについて、知人で名護在住、シュワブ基地の前で土曜に静かに一家でキャンドルをかかげることで抗議している女性が、こうした執拗な対米へのおもねりと住民への執拗でなりふり構わない基地押しつけの継続を、「もうストーカーよーねー」と言った。私は笑いかけて一瞬凍った。実際ここまでの日本政府の、この狭隘な地域への、ノーと言い続ける名護への継続的な恫喝や、言うことをきけば小遣いをやるといった姿勢は、ほとんど性暴力的支配の構造と酷似する。

戦中戦後から現在まで、米軍人や軍属による陰惨な性暴力や殺傷は後を絶たないことは周知のことだ。それに対する処置が、前述した、軍人を守る協定や条約で手厚く配慮されていることも。軍隊が攻撃、戦闘、殺傷の訓練の延長線上に、特にいまだ第二次大戦の「戦利品」的沖縄がある。日本人初の元米海兵隊員高梨公利は、アメリカは「抑止力」より戦争を仕掛け、破壊した後に直す(復興事業で、巨大企業に利益が生まれる)、また、不平等で差別的な日米協定が沖縄=戦利品意識の軍人優位の意識を強固にさせていると言う(沖縄タイムス 2010.6.1.)。加えて特に女性を自らの恣意的所有物として性的にも「占領」可能であると思考していくことを許容する、軍隊に内在する構造的差別がこれまでも指摘され続けている。それが米国>日本>沖縄の支配構造に連なる基盤となっている。

ただ、「ストーカー」ということばは、実際のレイプその他の性暴力や関連する殺傷事件の具体例とは違う。前述の彼女は、基地建設にまつわる構造の比喩として使った。本来ならストーキングは、自分の「愛」を受け入れない相手そのものに対し、暴力をもってその行き場のないゆがんだ愛を強要する行為だ。ただたとえば、B=日本がA=米国を愛する(愛さなければ生きていけない)と先験的に思いあまるばかり、自分BのAへの愛情表現を拒む、ストーキングの「非」支持者のようなC=沖縄の存在を圧殺する、その際Aへの過剰な思いは、Cへの暴力行使で終わるのみで、淫靡にソフトメッセージ化されるという状況にかんがみれば、日本政府は沖縄へのストーカー的アクターだとみなし得るだろう。

実際にストーキングする加害者には、それなりの治療プログラムが必要だとされるが、Aが戦後ずっと米政府であるなら、Cからの働きかけは限りなく難度が高い。そして、Aを愛さねばならぬBには倒錯的、思考停止的、自己批判なしの自己受け渡し言動(主体の放棄)が生まれ、Cへの攻撃がひたすら続かざるをえない。司法で裁くことのできない、あるいは裁くことを阻まれるCへの抑圧的状況は継続する。米軍基地の爆音訴訟などで司法が沖縄の訴えを退けてきた「第三者(=米軍)行為論」はBの分厚い、そして実際の一ストーカーなどよりはるかに権限のある思考停止と自己受け渡しを如実に露呈している。

嘉手納基地に由来する爆音訴訟の第一次提訴は1982年からであり、今年4次が提訴されたが、変化は生じるか危惧される。ストーカーBが成熟し愛する相手に論理的に対峙する兆しは、現実のストーカー加害者同様ほぼ見られない。Aが現実には空洞化し、付随的なはずのCの被害のみが拡大する。

地位協定であれ何であれ、日本政府が巨大な米軍基地を受け入れ続け、また多分米国の軍備品を「爆買い」し続けること(特にパンデミックで軍事費をコロナ対策に回した韓国とも異なり)、何かとその理由を「二転三転」させてきたその理由は、「真の理由」ではないと白井は言う。「ただひとつの真実の結論に決して達しないための駄弁」であり、その結論とは、「実に単純なことであり、日本は独立国ではなく、そうありたいという意思すら持っておらず、かつそのような現状を否認している、という事実」だとする。戦前の「国体」たる天皇が、敗戦と人間化を経て米という国体への「代替可能性」を帯びさせられていったとする彼の論は、沖縄から戦後を考える場合、奇妙なほど合点がいく。さらにそれは、「自分が奴隷であることを否認する奴隷」であり、前述した沖縄バッシングは、「ことさらにフェイク・ニュースを流布しているという意識もない」「自分の奴隷の世界観に合わせて世界を解釈した時の『現実』そのもの」だとする(白井聡・『国体論 菊と星条旗』・集英社・2018)。「愛国」を、フェイクニュースを通じて「覚醒」した自分の生きる「ドラマ」として「楽しむ」と発言する「女性」たちの倒錯的言説も散見される中(内藤千珠子・『愛国的無関心 「見えない他者」と物語の暴力』・新曜社・2015)、ヘイトの拡散はむしろ「皇道」だと白井は言う。

また、国会で安保関連の論議をただした議員に「讀賣新聞を読め」と返答した安倍晋三などの、近年の安保推進派の言説の劣化と暴力性は、強まりこそすれ、弱まらず肥大している。冒頭で述べた「橋のない川」において、ある衝撃的なシーンとして記憶しているのは、主人公?のいわゆる「穢多」部落の少年に、笑顔を浮かべ近づいてきた非部落の少女が、手を握っていいかとたずね、好意もどきを期待したかのような表情の彼に向かって、穢多の人は手が冷たいっていうから確かめたかった、と言うところだ。被差別者の属性を、差別者が、ジェンダー的擬装とともに傷つけるというできごとが、地位協定、安保、米国隷従、愛国、ヘイトスピーチ、ストーキングなどの病んだ心性構造から沖縄を侵食することばの群れに酷似しているようでならない。

ゆがめる力

故翁長雄志元知事は、「沖縄の保守と本土の保守の論理は違うということか」という問いに応えて言う。「ちがいますね。本土は、日米安保が大切、日米同盟が大切。それで『尖閣を中国から守るのに、沖縄がオスプレイを配備させない』と言う。沖縄にすべて押しつけておいて、一人前の顔をするなと言いたい。これはもうイデオロギーではなく、民族の問題じゃないかな。元知事の西銘順治さんが、沖縄の心はと問われ、『ヤマトンチュ(本土の人)になりたくて、なり切れない心』と言ったんだけれど、ぼくは分かった。ヤマトンチュになろうとしても、本土が寄せ付けないんだ」「寄せ付けないのに、自分たちの枠から外れると『中国のスパイだ』とかレッテルを貼る。民主党の前原誠司さんに聞かれたよ。『独立する気持ちはあるんですか』と。ぼくは、なでしこジャパンが優勝した時、あなたよりよっぽど涙を流したと話しました。戦後67年間、いじめられながらも『本家』を思ってきた。なのに基地はいやだといっても、能面みたいな顔で押しつけてくる。他ではありえないでしょう。日本の47分の1として認めないんだったら、日本というくびきから外してちょうだいという気持ちだよね」(朝日新聞デジタル2012.11.24.)。

こうした沖縄の自己意識の桎梏を再生産させ続けながら、安倍元首相は、2012年あたりから「積極的平和」という用語を歪曲的文脈で多発するようになった。元来ガルトゥングの平和学では、周知のとおり、直接物理的な暴力や侵略や戦争がないだけの状態を「消極的平和」とし、さらに踏みこんで間接的な支配、抑圧、搾取、貧困等政治的経済的構造から生み出されるものが取り除かれた状態を、「積極的平和」とする。しかし安倍の場合それは、米の世界戦略に従って海外での軍事行動も辞さないという、日本の安保体制の「改善」「変更」であり、用語を都合よく解釈し、政権を推進するものとして使用されている(「AERA」2016.6.27.)。それを拒むもの、自衛隊や米軍の共同使用も展望できる辺野古の基地への対抗言説は排除、抑圧するという、ガルトゥングのそれとは対極的なものである。

さらに2016年に高江の米軍ヘリパッド建設反対活動中の人に向かって、大阪から派遣され警備についていた男性が「この土人が」「ボケ」、と言ったことに対し、ガルトゥングは、民主主義より植民地主義的言動だと県紙に危惧を表明している。大阪の行政からの謝罪はなかった。

イメージで不可視化されるもの

翁長の言う「能面みたいな顔」でマジョリティの「米」「日本」の規範や欲動を沖縄に被せつつ、その暴力性を極力ソフト・パワー化的に隠蔽する試みの歴史も、復帰後次第に顕著になってきた。70年代後半から2000年代、JAL、ANA挙げての沖縄キャンペーンのキャッチフレーズは、「トロピカル」を前面に打ち出した。「シンデレラサマー」「夏ガール、海ガール、恋ガール、夢ガール」「情熱視線」などのJAL、「トースト娘ができあがる」「プリンプリン、プリンセス」「情熱の、夏マドンナ」のANAどちらからも、「癒し」とともにやや怪しい沖縄の女性ジェンダー化も感じるが、状況は「土着の文化と消費社会の文化が相互浸透し、溶解してきた」と言える(沖縄タイムス 2003.1.1.)。

2000年のNHKドラマ「ちゅらさん」、2002年の美ら海水族館開館や首里城再建完了、また芸能やスポーツなどの沖縄出身者の進出もあいまって、明るく元気な楽園的癒しの島の喧伝が溢れ始めたことについて、しかし田中は言う。「沖縄はそこにおいて他者の視線の先にある〈鏡〉の役割を負わされており、そこに映し出される像は他者の〈自画像〉でしかない」と。さらに2001年に初めて県内で基地容認派が反対派を上回った背後の文脈に、1999年の沖縄サミット開催決定、新平和祈念資料館の展示物改竄(日本軍の残忍さを希釈するような展示)、県議会での普天間基地県内移設決定決議という「舞台装置」が準備され、沖縄が「祝祭的空間」に同化していく中で、実在し続ける沖縄の様々な矛盾や暴力の構図が「忘却」されていくとした(田中康博・『風景の裂け目沖縄、占領の今』・せりか書房・2010)。

そのような風景は、コロナで一時的に勢いを削がれているものの、多分に継続中である。沖縄大好きという沖縄の学生は多いが、ここで「反復帰」コンセプトを想起する必要もあるかもしれない。『半国家の凶区』(現代評論社・1971)で強烈な反復帰論を展開した新川明は、沖縄のバンドモンゴル800の上江洲と、演劇人の津波との対談で、沖縄ナショナリズムによってではなく、組みこまれる国家に対し、沖縄の植民地的状況を踏まえグローバルな反植民地の視座を据えることが、反復帰の思想の根底だと話す。上江洲は、日本がアジアから離れようとしている感があるとし、沖縄はアジア諸国と独自の交流ができる気がすると言う。自分は「沖縄を好きすぎて嫌いでもある」という感覚がある、と。沖縄のイメージ化を内在させた自分が期待されることに応じたくない、という抗いだろうと感じる。津波は、多分に日本政府からの補助金や交付金についてだろうが「仕送りはいつか止まる。いずれ就職しないといけない」時期に沖縄が来ていると指摘し、新川と50歳近く年の離れた二人との間の鼎談は、思った以上にかみ合うものになっていることが興味深い。(沖縄タイムス 2012.1.29)

また、国内外から少しずつではあるが、多様なとまではいえなくとも、構造へのノーは見られてきてはいる。2014年初頭には、米国を中心に海外から、103人の署名が、辺野古の基地建設反対として寄せられた(沖縄タイムス 2014.1.30.)。前述のガルトゥングを始め、マイケル・ムーア、N・チョムスキー、J・ユンカーマン、オリバー・ストーン、ナオミ・クライン、シンシア・エンローその他、国際的にも知られた研究者や映画監督、作家、元米軍高官など、個人的には意外なほどだった。ストーン監督は沖縄で講演まで行っていた(2013.8.14)。

だが一方でそうした「リベラル」な人々が現在米国内や外国で、人種差別また憎悪の是非、経済格差、貧困、自己実現感のなさ、性差別などで分断された社会で生き、かつての良心的リベラル思想では立ち行かない状況にもある。外部からの支援ととらえるより、むしろ類似の構造問題の共有、分有として応答し続けたい。

さらに沖縄全体に米軍事基地、随伴する自衛隊基地が、現実に最近宮古、八重山まではりめぐらされ、イメージ操作では「嫌韓」「嫌中」の醸成からエスカレートし、敵視までが通常の言動の中に拡がり、背後にはそれをいかにもポジティブに「敵地攻撃能力」という武張ったネーミングの肯定に誘導していこうとする政府がある。それに対しては沖縄のイメージ形成の可否に対する以上の執拗な追及が不可欠になるだろう。

根源を記憶する

沖縄をめぐる基本的には米国の継続的暴政と、それをそうとは明示せず必死にその路線に倒錯的愛をもって執着しようとする、政権における「境界性人格障害」さえ想起させる米国からの「見捨てられ不安」とも映る病的な心理を井上達夫が指摘したことは(香山リカと共著『トランプ症候群』・ぷねうま舎・2017)、かつて私も県紙論稿に引用した。これは前述した、比喩としてのストーカー心理に呼応する。

一方で現実には、すり替えられて対象化された被ストーカーの沖縄の実際の被害の重層化も止まらない。在沖米軍基地の運用の、現在でも地位協定によってなし崩しにされ、世界におけるトップをなす基地運営費用の、米軍の娯楽施設から軍雇用従事者の人件費までの提供は、米国の経済事情が顕在的に弱体化し、70年代の後半から、「思いやり予算」として膨らみが経常化し、これも「思いやり」という情的な名称を糊塗して「同盟強靭化予算」などと虚しくもいさましい言い替えのもと、ほぼ増加奉納予定だ。

とりとめのない文章しか書けない自分への嫌悪はつきまとい続ける。中学校以来、所与の沖縄の状況へのフォビア的、意識的無自覚と、それに伴う漠然とした不安などを、ことばで同世代の友人たちや家族などと共有したことはあまりなかった。市民活動とされるものには、1997年の名護市民投票に関わる体験が初めてという体たらくだった自分を情けなく思う。しかしさらにもっと、「市民」「県民」という視点から日本や米国の腐食し続ける軍事構造、産官学のアンポ村の矛盾を問う声を上げられない人々、さらに経済的社会心理的に周到にしかけられてきている沖縄イメージをほぼ無邪気に自分に同定できる人、居心地の悪いモンパチの上江洲のような人々が混在しているのだろう。

内と外で沖縄が語られ生きられる。ただ、沖縄以上に国内外で過酷なポストコロニアルな苦境と争闘している、せざるをえない人々の実在と、そんな人々との共闘が、たとえば私の姪の娘やその子どもに、あなたがなにもしなかったからこういう沖縄しかないのか、と難詰されないためにも、極小の、あきらめない言葉をつむぐしかないというかなしみを手放さないだけが手立てなのかと、復帰の頃中学生だった私は思うだけというのが、50年後の私の現時点だ。

よく引用されるものではあるが、「沖縄は日本でないので、日本は米国の沖縄占領に反対しないだろう」と米記者に言い放ったマッカーサーや、「沖縄占領は米国の利益であり、日本を保護」することになると述べた昭和天皇(どちらも1947年)の、人種分離や家父長的疑似保護の態度や、少数派排斥的な言語パフォーマンスの暴力の発動を忘却しないようにしなければ。その果てに、今の沖縄、特にその中のさらに限定的一地域でしかない名護の人々に、そうした発言を75年後も手を変え品を変え容認させようとしている、鵺のような主体者日本への、痛苦といきどおりを記憶し続けること。

みやぎ・きみこ

東京大・ブラウン大修士。日本近代文学・比較文学・ジェンダー研究、翻訳など。共著Southern Exposure: Modern Japanese Literature from Okinawa(沖縄近代文学アンソロジー)、『継続する植民地主義 ジェンダー/民族/人種/階級』『沖縄の占領と日本の復興 植民地はいかに継続したか』『沖縄文学選』他。現在沖縄大学教授。

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