連載●池明観日記─第18回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

≫永井荷風の文学≪

永井荷風の作品を読み続けている。日本文学は主人公を大きな人物として美化することを避けてきたのではなかろうか。永井は芸者をよく描いたのだが、それは転落した人間像であり、よくそこに通う男たちはみな退廃ともいわれる人々であった。性関係で汚れた場面であり、そのほとんどが、淫らであるといえる世界であった。人間を矮小化しながらもともと人間とはこのような狂的世界を生きて行くはしたなき存在であると説得しようと努めているようである。

これが『源氏物語』以来、日本の文学世界に伝統として流れているような気がしてならない。近代に到っては天皇のみが神格化され、一般人は死してこそ仏だといわれてきたではないか。人間を英雄化することはリアリズムではなく虚偽であると考えてきたのではかろうか。そのような描写には淫らだという感じを受けるよりはもの悲しさを感じる。日本における「あわれ」(哀れ)とはそのようなものではなかったかと思われる。そこには生の悲壮さなどあるはずがないであろう。人間を巨人化するよりは矮小化した文学といおうか。身動きのできない階級的武士社会において、諦念の下で、それでも息をしながら生き残ろうとした町人文学だという感じがしてならない。折口信夫はそこで「隠者文学」といったのではなかろうか。永井はまさにそのような文学的伝統に忠実であっただろう。あるいはそのような文学を楽しんだといおうか。

伝統的な社会において日本は人々を制度でしばったとすれば、朝鮮は思想とりわけ朱子学的思想と倫理でしばったといえよう。このような社会がともに近代に至って崩壊するようになってきたといえるのではなかろうか。朝鮮王朝の朱子学の下における身分社会と日本の武士社会の下における身分社会がみな崩壊に瀕してくる社会的葛藤――ほんとうに多難な時代ではなかったか。そこには日本による朝鮮の植民地化という武士社会の一時的勝利があった。しかしそれは世界史的に崩壊せざるをえなかった。こうした韓国と日本の歴史的葛藤はいつまで続くのであろうか。フランスとドイツのように手を握りあうのはいつになったら可能になるのか。何よりも東北アジアにおけるナショナリズムの伝統がだんだんと色褪せてこなければならないのにと考える。(2012年11月29日)

 

歴史意識における空間と時間という問題をこの頃しきりに考える。広大な地域であればとりわけそのようなことを考えざるをえない。6・25の時、全羅道出身の大学の同期にあったら、これからは左翼の時代になるだろうと、その戦乱の時代を統一前夜であると考えているのに当惑せざるをえなかったことが忘れられない。その時私は一兵卒として38年式小銃を肩にしていたが、彼は軍隊にも行かないで悠々自適していた。その後彼はその時を忘れたかのように韓国政府の下で要職についた。彼は北から越南してきた私とは歴史的経験を異にしているのだから仕方のないことだと思わざるをえなかった。

このような意識の断絶が世代間にも起きているのをわれわれはながめている。朴正煕の時代をこの頃多くの老人たちが支持するかと思うと、そのような若い人がいるという奇異な現象がある。そこで私は年表的に時間に従って歴史を記述することに疑問をおぼえるようになる。そのように異なった歴史意識または現実に対する意識を前にしてわれわれは仕方なく多数を選ぶことに満足して葛藤を避けるほかに道はないと思うのではなかろうか。それが民主主義というものであろうか。(2012年11月30日)

 

永井荷風全集を読み続けている。どうして永井はこんなにも芸者を描き、娼婦を描こうとしたのであろうか。人間は矮小化され家族は崩壊状態である。いま読んでいる『浮沈』においても藤木と清島さだ子もそのような唾棄すべき人間像として描かれているのではないか。さだ子にはあわれみを感じる。田所という弁護士は裏では私娼街の商人ではないか。倫理の不在であり、弄ばれる女の群像ともいうべきかもしれない。荷風は、このように日本の社会を転落した姿に異化しなければならなかったのだろうか。

島崎藤村の『夜明け前』のような大作品にも英雄的主人公は欠けていたような気がする。彼らの文学は人間矮小化の文学であるが、それは日本の社会が与える圧力から来たのではないだろうかという気がしてならない。天皇または殿様以外には自主的な人間など存在しえないという社会から来たのではなかろうか。実際はそのような人間も操作を受けなければならなかったし、自主的人間像など虚像でしかなかったような気がする。これが日本人の哲学であり、人生観であった。そこでは無常に流れるほかはなく、無常感によって諦めたのであろうか。彼らの無常感はそのような彼らの現実的生活から発したもののように思われてならない。そこに日本における川辺風景的な自然主義的世態小説があったのではなかろうか。

李光洙(イ・グァンス)の啓蒙的小説、たとえば『無情』においては妓生(キーセン)ヨンチェもヒロイン化されたのではないか。永井の小説のようなものは韓国においては見られないような気がするが、このような点でも比較文学的考察が必要であり、それは日韓両国の社会の比較に連なってくるだろう。

永井の全集第八巻にある『つゆのあとさき』という作品には「君江のやうな、生まれながらにして女子の羞恥と貞操の観念とを欠いてゐる女」ということばが出ているが、これが永井がさがし出しては描こうとした女人像ではなかったかと思われる。それとともに松崎という法学博士で高官である人物がちょっと顔を出す。

彼は瀆職事件にひっかかるのであるが、「歳月は功罪ともに此の忘却の中に葬り去ってしまふ。是こそ誠に夢のやうだと言はなければなるまい」と書いてある。松崎は「世間に対すると共にまた自分の生涯に対しても同じやうに半ば慷慨し半ば冷嘲したいやうな沈痛な心持になる」。「人間の世は過去も将来もなく唯その日その日の苦楽が存するばかりで、毀誉褒貶も共に深く意とするには及ばないやうな気がしてくる」。だから60歳になっても病気もなく「二十の女給」とともに気がねすることなく楽しむことができ、「其の幸福は遥かに王侯に優る所があるだろうと」笑いとばすことができるというのであった。諦念といおうか、このような心で仏教も軽く追求できたのかもしれない。矮小化された人生というのが日本的な生き方であるといえるのだろうか。それは影の中の人生であり、あわれ(哀れ)ともいうべきものかもしれない。これは武士社会という堅固な社会がおしつける個人意識であるとはいえないだろうか。それがリアリティであり、現代社会が与えてくれる人間の自己意識でもあると思えるのだが。

『浮沈』という作品は戦争中に書かれたものであるが、1946年1月以後になってようやく全文が発表されたといわれ、その後半の部分は戦後に書いたという。ここには永井荷風のその時代に対する意識がしみこんでいるといっていいのではなかろうか。波乱に満ちた人生を生きてきた女給・清島さだ子は貴族出身の越智との同棲生活から正常の結婚生活に進みハッピー・エンディングに終わる。身分の高い男がバーの身分の低い女給とともに家庭をなし、貴族の男は古い住宅を売り払ってアパートに移るというのが新しい時代を指し示すことになるであろう。越智は病いで入院していたが、退院してこの作品の最後に出てくる彼の日記をつぎのように結んだ。

「彼女は過去の時代の人の持ってゐたものを今も猶失はず持ってゐる。この点に於て彼女も私と同じく世の落伍者たることを免れない。さだ子が過去の世の美徳をなくさぬかぎり二人の関係はこの後とも波瀾なく平和につゞいて行くであらう。私はそれを願ってゐる」。

これが戦争前から戦争後へと続いていく作家の意識であるといえようか。いわば戦争前をそのように暗く描いたにもかかわらず、そこに日本的な良さ美しきものが宿っていたと考える。そしてさだ子はそれほどいじめられたのにもかかわらず美しいものを保ってきたというのである。

「何か急に用でもある時、ふいと駆寄ったりする挙動にも、それは軽々しいと云ふよりは、いつまでも子供らしい無邪気な性質の為すところのやうに、人をして直に惻隠と愛燐の情とをさそひ出させる魅力があった」。

『あめりか物語』であれほどアメリカを賛美し、『ふらんす物語』では帰国の船の上では目ざす祖国を「長い船路の果てに横はる恐ろしい島嶼」と称えながら身悶えしていた若き日の永井は実は日本を愛してやまない作家であった。このような姿は永井個人を超えてどこでにも見ることのできる日本人像というものであろう。そして過ぎ去ったあの日々、あれほど日本を暗く描いていた批判的な作家が敗戦後は昔を振り返ってはその日々にこめられていた美しさを思い出して、自分はそこにとどまって「落伍者」になる道を選びたいといった。このように『浮沈』という作品は戦争前と後をつなぐきずなといえるであろう。(2012年12月5日)

 

永井荷風の作品は戦後においても別に変わりがなかったといわねばなるまい。全集第10巻に収められている『秋の女』(1947年)という作品には珍しくも「無謀な戦争を企て、忽ち敗れた国の女性」ということばが出てくる。この作品にはこういう一節もある。

「わたくしは振袖をきて琴も三味線もひき、茶を立て花をいけたりする姿ばかりが伝統の美を保持するものとは考えへてゐません。それは日本刀をさしてゐさへすれば武士の面目は失はれないと思つたやうな誤解と変りがないでせう。女性の日本的伝統美のゆかしさと懐しさとはその形ではなくしてその情操に、因るものです。物の哀を知るに鋭く、あきらめを悟るに浅からぬことではありませんか」。

「日本刀をぶらさげて賄収に日も足らざる有様をなしたが為に、戦は見事に敗れたのではありませんか。公衆に見せる目的に重きを置かずして、猶花を愛し、金銭に目がくらまずに刀を磨くが如き風習は、いつの間にかわれわれの世の中からは消えてしまったのです」。

荷風はこのように日本の敗北を眺めたのであった。戦争に追い立てたのは日本の伝統の帰結であるとは見ようとはしないで、それを日本の伝統的社会に対する背反と見たのであった。武士社会とは何か。武を本質とし、武による勝利を最高の価値としたというのではないか。

もちろんそこにはその戦争がもたらした人類史的悲劇、アジアの致命的な痛みを見る目はなかったといわねばなるまい。どう考えても日本の文学には人間の平準化または人間像の格下げとでもいおうか、そういう傾向が広がっていたような気がしてならない。それは彼らの社会が武士社会であったということと関係するのではなかろうか。日本文学の自然主義的傾向というのはそこにありえたと考えたくなる。(2012年12月8日)

 

荷風のいくつかの小説を読み終えて起こってきた連想が続いている。日本文学においては一般的に個人の英雄化はしないのではなかろうか。実はそれでリアリスティックというのではなかろうか。荷風はそれを受けついで芸者と彼女たちと楽しむお客との関係を描いた。それは一夫一妻の世界ではなく、戯れを求めるという世界であった。日本人は基本的に男女関係とはそのようなものであり、世の中には個人が英雄化される関係などはないのだと考えたのかもしれない。愛が永遠なロマンであるなどは考えられない。あったとすれば情死のような場合であったのだろうか。そのような庶民的世界に現れる哀歓とは儒教倫理とは関係がなく、かえって儒教倫理によって隠蔽されがちな関係であったであろう。個人の英雄化とは虚構的なものであり、そのために荷風はそれをできるならば解体しようとしたと考えられる。

日本ではそのような考えから死ねば仏といったように、生の極限、生の解体において英雄化して神社に祭って崇めようとしたといおうか。現実は誰も脱英雄化されるべき厳しい世界があると考えたのであろう。日本的なリアリズムであると思わざるをえない。天皇を神とした人間崇拝は虚構化され儀式化された例外の場合であるというべきではなかろうか。天皇はこの世の秩序の中で崇拝を装うべき例外的存在であった。荷風の小説が儒教倫理からほど遠い町人の世界に集中したのは日本が伝えてきたこのような人間疎外、人間矮小化の伝統を小説化したのではなかろうかと考える。彼はここに執着しているかのようにそのような小説をくり返した。

それがまさに日本における町人文学の流れであったのではないかと思われる。実際そこではかなり幅広い自由即ち息抜きが許されたのではなかろうか。このような意味において日本の近世の作家たちは武士社会の身分志向性から離れてかなり自由な境地を保つことができたといえるであろう。しかし彼らの自由は武士社会の過酷な現実からの逃避であり、それに抵抗したものではなかった。彼らはいつでも支配体制の命令があれば体制に動員されざるをえなかった。特に近代になって明治時代以降においてはその体制は一元化されざるをえなかった。荷風の文学とはこのような文学伝統を受けついで近代日本の中で苦悩した代表的文学といえるのではなかろうかと思われる。(2012年12月11日)

 

池明観さん逝去

本誌に連載中の「池明観日記―終末に向けての政治ノート」の筆者、池明観さんが本年1月1日、韓国京畿道南楊州市の病院で死去された(97歳)。池さん本当に長い間ご苦労様でした。今はゆっくりとお休みください。

本誌本号の特集欄に、本誌編集委員の黒田貴史による追悼文を掲載しています。なお「池明観日記」は、生前の池明観さんから託されたもので引き続き本誌での掲載を続けます。現代の理論編集委員会

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)。

 2022年1月1日、死去。

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