コラム/百葉箱

小日向白朗の謎(第4回)

上海で謀略戦、敗戦で台湾から日本へ

ジャーナリスト 池田 知隆

満州馬賊を壊滅させた小日向白朗(中国名尚旭東、小白竜として知られる)は、天津、上海でテロ組織との激しい謀略戦を展開していく。その活躍ぶりを著書『日本人馬賊王』の「あとがき」で端的にこう書き記している。

「私はこの満州馬賊の仁侠精神を抱いて、その後も華北に於ては、国民党の暗殺団、藍衣社のテロルと闘い、また上海では重慶政府のテロ団と死闘してこれを粛清したし、さらにまた、日本の軍閥、憲兵と結託して上海市民間に殺戮をほしいままにした汪兆銘配下のテロ結社七十六号団を膺懲して、だかつ(3傍点)のように嫌われていたその首魁の李士群と呉世宝を葬らしめたし、また青幇(ちいぱん)の杜月生(ママ、笙)を上海から去らしめ、つづいてその強豪張嘯林を暗殺し、その大御所黄金栄らの蠢動を沈黙せしめた」

白朗と最初の妻杉坂ミヨと(昭和9年ころ、
 新潟県三条市の小日向家で)

満州の原野から都会の闇に潜り、白朗は生死の境をくぐりぬけていく。地下組織での謀略工作の成果を豪語しているが、そのひとつひとつ裏付けていくのは困難な作業だ。ひとまず、白朗が語った「事実談」として書かれた『馬賊戦記』(朽木寒三著)をもとに白朗の軌跡を辿っていく。

青幇幹部として謀略戦に

時代を少しさかのぼり、盧溝橋事件以前の天津での活動に触れておく。白朗率いる「東北抗日義勇軍」が満州の地を追われたあと、白朗はいったん長春に戻り、日本軍の一特務機関員として力を発揮していく。1934(昭和9)年秋、関東軍憲兵指令官として長春に赴任した東条英機少将(太平洋戦争開戦時の首相)と懇意になり、白朗は民情調査班の班長の役割を担うことになる。

まず関東軍が特務機関を置く天津に向かった。天津は、列国の権益が混然と入り混じり、治外法権の租界が置かれ、さまざまなテロ集団は潜伏場所に事欠かなかった。白朗の主な使命は国民党テロ組織、藍衣社との対決だった。イタリアのファシスト”黒シャツ党”にならってテロリストたちが藍色の上着をまとっていたことから藍衣社と称していた一種の血盟団である。

川島芳子

翌1935(昭和10)年、白朗は中日親善組織「普安協会」を設立し、総理になる。民衆の生活に安心立命の平和をもたらそうとの願いを込めた命名だ。桃園街に置かれた普安協会本部に居座った白朗は、「東洋のマタハリ」「男装の麗人」といわれ、清朝の再興を掲げ、日本軍と協力して情報活動を行った川島芳子(注1)とも親交を結んだ。傍目には、あたかも「一対の恋人の如く」見えたともいう。 

そして青幇の世界に深く潜入した。元々は、中国に広がる大運河の水運業ギルドだったが、時代が変わるに連れて中国の暗黒面を代表する秘密結社になった。天津に限らず、中国ではどんな政治工作も軍事的謀略も、さらに革命運動も青幇を味方につけずにはうまく進展しないといわれるほどの大きな地下勢力だ。その盟約は絶対で、もし約束を破れば、その者を公然と殺すことができた。

満州馬賊の総司令という経歴をふりかざした白朗は、青幇の長幼の序を示す第22代「通」(漢字の一字をとり、入門時の序列を指す。上から3級目の高位で、1級は「学」、2級は「悟」という)となる。国民党の蒋介石、中国軍人の何応欽、上海マフィアの黄金栄と同じ”格”を有することができたという。すると、天津にいる青幇が大挙して集まり、「青卍の会員章(バッジ)」30万個用意したところ、約1万個不足した、と白朗は自慢気に語っている。

青幇が最大の資金源としていたのはアヘンで、一時は中国全土の取引を支配した。当時の中国で有名なアヘンの産地は、綏遠地方。その「綏遠アヘン」は天津の工場で加工され、天津は世界中の麻薬の中心地でもあった。やがて天津青幇の首領株となった白朗に麻薬シンジゲートの管理を任されることになった。

アヘンの元締めになるや、白朗は原料班、加工班、薬剤班、国内供給班に自分の息のかかった配下を幹部にすえた。輸送ルートを維持するには、白朗のような配下や兵を持つ人物でないとつとまらない。『馬賊戦記』では特に「アヘン大行進」という章を設け、白朗はアヘンの売買について得意気に語っている。だが、アヘンに深くかかわるなかで白朗自身もアヘンの中毒にもなり、苦しむことになる。

白朗の天津時代の活動を裏付ける記録は少ないが、ネットで検索してみると、次のような文書が古書業界に出回っていた。

普安協会総本部が刊行した『 [極秘] 共産党遊撃隊』と題した文書だ。これは、ソ連コミンテルン本部から 「中国ソビエート政府」 宛に送られたものの翻訳で、天津の普安協会責任者、尚旭東(小日向白朗)が序文で 「本書は日本の国家的見地から責任ある人又は所のみ送付してある、従って外部には寸毫も漏れていない、送付を受けた先方に於ても極秘の御取扱を乞ふ次第である」と記している。A4変判、156P、孔版刷で、ちなみに価格は55000円。「普安協会全体高級職員歓送前任総理尚旭東先生記念撮影 民国25年(昭和11年)5月6日」 というキャプションの写真(白朗は2列目中央の背広姿)が一枚付されていた。  

日本の陸軍には皇道派と統制派の2派閥があり、白朗を支持していたのは皇道派で、統制派からは忌避されていた。その統制派の情報機関である茂川機関(茂川秀和少佐)がアヘンの密売を手がけ、拡大していくなかで、白朗は天津から追放される。白朗は再び日本に一時帰国することになるが、この写真はその送別会のときのものとみられる。

上海でテロの謀略戦を展開

盧溝橋事件のあと、白朗は中国に呼び戻され、戦火が拡大した華北の地で「興亜挺進軍」結成し、集結した馬賊を破滅させたことは前回記した。その後、白朗が上海の暗黒街に姿を現したのは1940(昭和15)年の初めのこと。「魔都」といわれた大都市・上海では、東西の文化、人種、利益、欲望が混然と渦を巻いていた。共同租界、フランス租界など外国人居留地が市内の広大な面積をしめ、各国の外交戦が繰り広げられ、スパイ団、テロ団が暗躍し、公然たる無法、暴力が横行していた。

国民党のテロ工作団、藍衣社に対抗する組織として、日本軍の隠然たる保護を受けて南京新政府を守るための「ジェスフィールド76号」(通称「76号」注2)がうごめいていた。上海の街に巣くう謀略組織やテロ組織は、実に複雑で、さまざまな顔を見せ、敵は味方、味方は敵となり、敵の敵はしばしば味方となった。その中でも「76号」は、戦乱を避けて上海に逃げ込んでいる中国人の大金持ちや資本家など上流階層の人々を脅し上げ、暴利を貪っていた。

なにかの会談のときの白朗(右から2人目)
     仲間の手にピストルが握られている

そこで日本軍は、上海憲兵隊とは別に「76号」に対抗し、制圧する機関の必要性を感じていた。土肥原賢二中将からの上海潜入の誘いをいったん断ったものの、奉天特務機関(三浦敏事少将)の強い依頼を受けて白朗は、その地下工作を引き受ける。金家坊という町の99号に拠点を構え、「金家坊99号」(尚公館)と称し、「杜月笙を上海から去らしめ、続いてその強豪張嘯林を暗殺し、その大御所黄金栄らの蠢動を沈黙せしめた」という血で血を洗う殺戮の日々を過ごしていく。

その白朗のもとに、上海に住む若い大学生だった李同が国民党政府の密命を受けたスパイとして潜入し、尚公館で働いていた。初対面のときの白朗について李同は「当時40歳前後の年齢で、普通の体格ではあるが、ぴりっとした顔つき、威厳なめつきがたいへん印象的で、非常にインパクトがある方というイメージ」と回想している。李同がふと垣間見た白朗の名刺には「登部隊上海藤機関嘱託」とあった。「彼のこの本当の身分は当時中国側のすべての人間、彼の秘書とボディガードを含めて、知っている人はだれひとりもいなかった」という。(注3)

太平洋戦争開戦前の秘密交渉

「上海の国民党特務機関を通して蒋介石政権中枢と直接接触せよ」

ある日、白朗は日本軍部から極秘の指示を受ける。日中の戦いが泥沼化する一方、英米との開戦気運が高まっていくなかで、日本軍は重慶の蒋介石政権への投降勧告を強く働きかけようとしていたのだ。

それは二つのルートで使って行われ、一つは駐ハワイの日本外交官と重慶側のハワイ駐在外交官を結ぶルートで、もう一つが白朗ルートである。現地の上海憲兵隊の厳しい監視の目をそらしながらの秘密工作だった。

戴笠

白朗が交渉相手のキーマンとしてにらんだのは藍衣社の総帥、戴笠(注4)。蒋介石から右腕としてもっとも信頼され、上海では杜月笙らと連携し、秘密工作や撹乱工作などを仕掛けていた。

その藍衣社と対決する白朗の心には、「最も激しく戦うべき相手なのに、むしろ敵味方をこえた友情のようなものが生まれた」と朽木はいう。「76号」の横暴さと比較し、藍衣社にある純粋さを認めていた。「最前線で戦う藍衣社の戦士らの徹底ぶり、潔さ、純粋さに、同じ戦士としての好感をもったとしても不思議ではない。これもまた一つの”戦場心理”なのである」と朽木は説明している。

白朗が策略を凝らした交渉打診の連絡をうけ、蒋介石は戴笠に指示を出した。

「一日も早く安徽省南山経由で上海に入り、尚旭東(小日向白朗)との折衝を開始せよ」

戴笠と白朗は、金門飯店の最上階「金頂の間」で対面し、蒋介石に投降を呼びかける日本側の条件に付いて細部にわたって議論を交わした。午後3時から始まった会議は8時間を経過し、時計の針が11時を回ったとき、ガードマンの野中進一郎(前回登場)が「日本の憲兵隊に取り囲まれている」と飛び込んできた。戴笠は、老婆に扮してかろうじて脱出に成功した。

この秘密交渉を日本の憲兵隊司令部に連絡した「76号」。日本と重慶政府が手を結ぶことになれば、南京政府(汪兆銘)は一夜にして崩壊しかねず、必死でつぶそうとした。白朗は、すぐに「梅機関」第2代の機関長、影佐禎昭(注5)に報告し、戴笠捕捉を停止させた。日本国摂政親王から蒋介石総統に宛てた信書、白朗と戴笠の「会議内容要録原文」を託された戴笠は、スイス航空の定期便ラングーン経由で重慶に帰った。(後で紹介する『小白竜伝奇』から)

尚公館内には戴笠のための交際室が設けられていた。李同は、そもそも自分にスパイの密命を発していたのが戴笠であることを後で知るが、白朗はすでにそのことを知っていた。諜報戦とは、互いにだまされながらだまし合う戦いでもある。憲兵隊に取り囲まれた戴笠の逃亡劇のてん末について李同ははっきりと記憶していた。

しかし、まもなく真珠湾奇襲によって太平洋戦争が開戦した。もっとも、蒋介石にしてみれば、その信書や会議内容に何の期待もしていなかったかもしれない。白朗らの必死の試みは水泡と化し、歴史の闇に埋もれた。

その後も上海では南京政府下のテロ機関「76号」が日本軍の力を背景に白昼、武装して暴れまわり、各国警察も指をくわえて見ている始末だった。それと対決する白朗の「金家坊79号」もまた、拳銃を振り回して日ごと夜ごと数百人の部下を繰り出した。全市を2分する暗黒勢力となったが、やがて白朗の「99号」が「76号」を圧倒し、南京政権の大物たちも日本軍の憲兵隊の工作で次々と殺されていく。軍は対藍衣社、対76号との戦闘が終わるや、白朗の追放を考え出した。

白朗は「私の仁侠の精神の発露はかえって、日本の軍、官、憲兵らの怖れるところとなり、上海日本側諸機関の私への圧迫となった」(『日本人馬賊王』)と語っているが、要するに“御用済み”となって上海を後にする。1944(昭和19)年1月のことだ。

敗戦で「日本人」として釈放

上海を去った白朗は、無錫の竜海寺、常州の天寧寺、鎮江の金山寺を回った。アヘンをやめるための修行でもあったともいう。

それから1年半後の1945(昭和20)年8月15日、敗戦の日を迎える。

『日本人馬賊王』によると、全国的な“漢奸(売国奴)狩”が行われ、天寧寺で多くの僧侶に混じって潜伏していたとき、共産軍の劉少白(のちに山西省人民政府委員などを務める政治家)と起居をともにした。劉少白から共産軍に投じるように薦められたが、白朗が過去の経歴を怖れて躊躇しているうちに同年10月、国府軍に捕らえられた。

翌1946(昭和21)年秋、南京刑務所に移される。そこで銃殺刑となる酒井隆(香港攻略作戦を実行)、谷寿夫(南京攻略作戦に参加)の両中将らと同囚となった。参考人として北京から来ていた川島芳子(1948年3月処刑)とも一緒になった。白朗がいよいよ死を覚悟していたときに、「中国民衆の減刑嘆願運動が起り二十通にも上る減刑嘆願状が、各界から政府に呈出され、無罪放免となって釈放された。中国仁侠精神の御蔭である」というのである。

ところが、『馬賊戦記』によると、釈放の事情はまったく異なる。白朗は「減刑嘆願を拒否し、日本人であると訴えて、無罪になった」と語っているのだ。つまり、こういうことだ。

白朗は、国民党の軍事裁判で次々に処刑される“漢奸”の中国人たちを見ていて、急に気が変わった。それまでどうでもよかったのに、「尚旭東」という中国人ではなく、「小日向白朗」という日本人に戻って死にたくなった。ただちに”申弁書”を書き、看守に差し出した。

「実は私は日本人です。中国人ではない私が“漢奸”として処刑されるのは不合理だから、初めから調べ直して下さい」

という趣旨だった。

裁判のさなか、一編の映画を見せられた。暗幕を張られた即席の映写室で映画『小白竜』が上映された。画面の中には「東北抗日義勇軍」も登場し、かつての盟友たちの顔が現れた。日本生まれの中国人・小白竜は、父とめぐり合いたさに日本から満州に来て、馬賊の群れに身を投じて勇士として名をあげていくストーリーだ。

「あれ(小白竜)はおまえだろう」という裁判官に、

「冗談じゃない、私は、あんな英雄でも、勇士でもない。小日向白朗という日本人商人です。東北の材木屋でした」と白朗は、抗弁した。

白朗が潜んでいた蘇州の村の住民たちは「緑林(馬賊のこと)の英雄・小白竜は民衆のために戦った勇士だから、どうか刑を減じて命を助けてください」と約2000人の署名を添えて助命嘆願書を出していた。国民党政府幹部、何応欽将軍からも「情状を汲んでやり、温情をもって遇してもらいたい」との手紙が裁判長に届いていたという。

それらもすべて白朗は否認し、「小白竜(尚旭東)ではなく、日本人である」と主張した。救命や温情では、困る。死一等を減じられても、戦犯としてとらわれたら何にもならない。あくまでも無罪釈放になりなかった。そして1948(昭和23)年12月17日、最後の法廷で日本人としての釈放を勝ち得た。

村に戻った白朗の前を共産軍が通り、上海もたちまち陥落して、中国全土を席捲した。白朗は、共産軍の法廷で再び裁判のやり直しとなったら、生死はもとより、いつ日本に帰れるか分からず、やがて上海にいた配下たちの間を渡り歩いていく。

1949(昭和24)年旧暦8月13日(『日本人馬賊王』では同年10月、旧暦9月15日になっている)、上海脱出を決行。白朗はあらかじめ前歯を全部抜き、口もとがしぼんだ老人の顔にしていた。粗末な支那木綿の服におわん帽子をかぶり、半白髪の頭髪を乱した老漁夫の姿に扮して、共産軍の監視兵の間を潜り抜け、漁船に乗り込み、台湾に逃げた。30年に及ぶ大陸生活との別れのときだ。

そこで『馬賊戦記』は終わる。

「歴史の歯車に翻弄され、栄光と悲惨な終末を迎える男の一大叙事詩!」と紹介され、読者をして血肉湧き躍らせるこの小日向白朗の一代記。だが、その中に上海で共に暮らし、中国に残してきた妻子のことは一切触れられてはいない。

「竹」機関長として謀略戦に

中国大陸を去った白朗は、台湾経由で1950(昭和25)年に帰国する。それから32年後の1982(昭和57)歳に死去した。さらにその10年後、中国に残されていた遺児、小日向明朗(昭和16年10月生、中国名張明樺)が墓参のために来日。明朗は家族とともにその7年後、日本に永住帰国する。

明朗は、母であり、白朗の妻である張孟声の記憶などをもとに回想録『馬賊王小白竜父子二代―ある残留孤児の絶筆秘録』を執筆している。「戦犯小日向白朗を逃亡させた中国人家族」として張孟声、明朗の母子は、悲惨に満ちた戦後生活を強いられていく。その回想録を読めば、白朗の別の顔が浮かび、『馬賊戦記』の内容と異なる部分も少なくない。

上海の宴席で。右から3人目が白朗。隣が妻の張孟声、
  一人置いて隣の子が長男明朗

『馬賊戦記』では、上海を去った昭和19年1月から敗戦を迎える昭和20年8月までの間、無錫周辺の寺を回っていると記されている。だが、明朗の回想録に収められた「小白竜伝奇」の章では、白朗は上海を去った後、日本の支那派遣軍総司令部が置かれていた徐州に向かっている。

太平洋上の戦局が苛烈さを増し、大陸での日本軍も徐々に窮地に陥っていた。戦争の長期化によって日本軍内部でえん戦気分が広がり、戦意をいかに安定させるかが緊急の課題になっていた。この難問を解決するために、日本軍の最高司令部は、元々設置していた「梅、蘭、松」の三つの特務機関に加え、「竹」という機関を設置し、この「竹」機関の初代機関長に白朗が就いた。

「竹」機関は、設立が遅かったため、その存在はあまり知られていない。最高司令部はまず、他の三つの特務機関に属する隠密の特務人員に対して、全員「竹」機関の管轄に入るように命じた。白朗が「東北抗日義勇軍」を率いたときの盟友や、国民党と中国共産党の内部を知る人物などを白朗の下に統合しようと考えた。万一、敗戦に至ったとき、大陸に潜伏する地下部隊を迅速に組織しようというのである。

白朗と同郷の新潟県出身、木戸義平・憲兵大尉の日誌によると、木戸は1944(昭和19)年11月10日、白朗と北京で会っている。上海時代の木戸は「梅」機関の一員で、汪兆銘南京政府の北支弁事処顧問部長として赴任していた。黒づくめの衣服をまとった白朗は「ロシアの朝鮮侵入に備え、配下の馬賊を投入したい」と来訪の目的を告げ、木戸が「もう終戦処理が始まっています」と答えると、「これを役立ててくれ」と言い、北京紙幣30万元の束を詰め込んだ柳行李を残して去ったという。

さらに翌1945(昭和20)年3月初旬、突然姿をみせた白朗に木戸は極秘情報を伝えた。

「米軍は対日戦を8月1日から20日までの間に終結する、と決定した」

2月末、重慶政府戦区長官部の情報参謀から入手したばかりの暗号文だ。白朗は、木戸に口止めした。情報が漏れれば、軍内で粛清されないからだ。

その後、木戸は南京の憲兵隊総司令部への復帰の辞令がでる。5月15日の日誌に「(中国人の部下たちに)速やかに重慶側に走るか共産側に工作し、身の安全を図るように訴え、解散す」と書き記した。

白朗と別れたあと、木戸はなぜか異動の連続だった。6月に本土に戻り、長野、新潟、横須賀と転々とした。

「死んではならぬ。生き抜いて日本に帰り、両親に元気な姿を見せよ。自分が大陸で果てたとき、すまないが実家に顔をだしてくれ」

そういって白朗は木戸に別れを告げたという。(関浩三『日本軍の金塊―馬賊王・小日向白朗の戦後秘録』)

「尚旭東として釈放」

白朗が逮捕され、釈放されるまでの行動について『小白竜伝奇』に次のような興味深いことが書かれている。

岡村寧次

地下部隊を指揮することを承諾した白朗は妻張孟声の故郷、無錫に潜伏し、8月15日の終戦を告げるニュースを知る。無線機一台を備え、無錫西郊外の名刹「福成寺」に身を隠していたが、まもなく国民軍に捕まった。南京の国防部戦犯管理所で白朗は、囚房にいた岡村寧次大将(注6)など当時の支那派遣軍の将官級戦犯たちと出会った。彼らは中国の前途、特に国民党政権が共産党にとって代わられることを憂慮し、蒋介石軍のためにいろいろと対応策を研究していた。最終的に系統だった「軍事建議上申書」をつくりあげ、白朗もそれに参画した。

共産党側が国民党に対して反攻作戦を展開し、中国内戦の形勢は一挙に逆転していく。中国における未来の利益を意識する日本と、共産党打倒を目指す蒋介石政権の利害が一致。白朗率いる地下組織は、蒋介石や何応欽ら国民党首脳の容認するところとなった。こうして白朗は、岡村寧次大将親筆の証明書を携えて釈放され、その証明書には「尚旭東は日本人に非ず」とあった。

つまり、日本人ではなく、国民党を支援する地下組織を率いる元馬賊王として釈放されたというのである。『日本人馬賊王』では「中国民衆の仁侠精神の御蔭」とあり、『馬賊戦記』では「白朗は“漢奸”ではなく、日本人として釈放」と白朗が語り、ここでは「地下組織を率いて国民党軍に協力し、共産軍と戦うために」とある。釈放の理由が二転三転しているが、いったいどれが本当のことなのだろうか。

釈放された後、白朗は無錫で小学校教師をしていた張孟声、明朗との親子3人の静かな暮らしをしていく。中国の大地が共産党政権に覆われていき、地下組織を掌握していた彼は、中国共産党にいかに対処するか、悩んだ。情報も収集できなくなり、日本へ帰国した仲間とも連絡がとれず、国民党の軍人、家族も洪水のように台湾へと脱出していく。中国で活動していく指針を見失った白朗は、張孟声にこう告げる。

「俺の祖国は日本だ。俺の手中にある地下勢力のすべてを日本にささげるのだ。いままさに大災難の祖国日本にささげなければならない」

「上海に行く、そして日本に帰る方法を探す」

やがて上海で海賊を水先案内人に小さな木造船で台湾に密航を図った。大陸を離れたのは11月5日。『馬賊戦記』や『日本人馬賊王』で書かれた日よりも脱出時期は遅い。白朗は、見送りにきた妻にこう誓った。

「いったんは日本に帰る、そして将来のことは中国でやる。ましてや中国には最愛の妻と跡継ぎの息子がいるじゃないか」  

このとき以後、白朗の中国での最後の10年間、日夜付き添った張孟声は辛酸な日々を耐え、明朗を育てながら白朗との再会を中国で待った。もとより白朗もまた再会を祈念していただろう。しかし、中国の土を踏みたくても踏めない。中国に残した妻子のことを白朗は帰国後、語ろうとはしなかった。

それから約半世紀経た1998年、80歳になろうかという妻張孟声は初めて日本の地を踏んだ。白朗が他界して16年もの歳月が流れており、張孟声は東京八王子市高尾山にある白朗の墓前に静かに花を添えた。

日本軍国主義の“影法師“

白朗のことを「大ぶろしきのほら吹き」とか「主義も理想も節操もない人殺し」といい、何をやっても「あいつは軍の手先、軍の威光を傘に着る大陸ゴロ」としか見ない日本人もいる。しかし、白朗にはそう単純に切り捨てられない複雑な要素が少なくない。朽木は、白朗といわゆる大陸浪人との違いをあげて弁護する。

「彼ら(大陸浪人)出て行って、中国で何かやる。そしてまずいことがおこると日本のがわへ逃げてくる」が、白朗は、全く逆だったのである。「白朗は、中国のがわから日本に接近し、まずくなると中国のがわへ逃げるのが常であった。彼は、日本軍の威光など傘に着る必要は少しもなかったし、それどころか、日本軍の方が彼に頼ったのである」 

だがしかし、やはり白朗が大きな事件を起こすたびに日本に戻り、軍の特務機関に呼ばれて中国大陸に戻っていったことは事実だ。奉天城事件や天津でのアヘン取引で追放されたあともそうだった。中国民衆だけではなく、日本軍の最深部に食い込んだ特務機関の一工作員といったほうが正確だろう。

上海以降、白朗の近くにいた李同は、白朗の体のなかには「日本武士の国家に対する忠誠心と中国侠客の政府に対する反抗心理が絡み合い、時に調和したり、時に矛盾となったりして、彼の非常に複雑な社会活動の背景となっていた」という。李同は、自分の妻の友人だった張孟声を白朗に紹介し、白朗夫婦の縁を取り持っただけでなく、中国に残された張孟声、明朗母子の苦難の日々を見守った。中国人の目からの白朗の一生は「特定の歴史環境の中国で名を残した多数の日本浪人の中でも、最も輝かしいものだ」とも述懐している。

約40年にわたる大陸生活について白朗は「日本軍国主義の運命の蔭に躍った一つの影法師に似たもの」と記しているが、はたして“影法師”といってすますことができるのだろうか。長期にわたって取材し、『馬賊戦記』をまとめた朽木にして「尚旭東の半生は多くの点で神秘のまま」であり、「彼自身が語らなければ永久に分からないという”部分”が余りにも多い」と語っている。次回から謎となっている白朗の戦後を追っていく(続く)。

註1 川島 芳子(かわしま よしこ、1907年~1948年)清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。本名は愛新覺羅顯(あいしんかくら けんし)。粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり、満蒙独立運動と連携して挙兵、諜報工作を行っていた。中華民国政府によって漢奸として銃殺刑となった。

注2 ジェスフィールド76号 上海で日本軍によって設立された対重慶特務工作機関。汪兆銘政権が樹立されると、正式な政府機関となり、国民党中央委員会特務委員会特工総部と称した。テロリストを次々と粛清し、重慶側工作員に恐れられた。映画『ラスト、コーション』(原題: 色・戒、2007年公開、アン・リー監督、第64回ヴェネツィア国際映画祭にて金獅子賞と金オゼッラ賞(撮影賞)を受賞)でも描かれた。

注3 回想録「中華大地を馳駆した“小白竜”-尚旭東(日本名:小日向白朗)の歴史における功罪及び抱負-」(李同、1993年3月5日、広西省柳州にて)

注4 戴笠(たい・りゅう、1897年~1946年) 中華民国の政治家・軍人。中国共産党や国民党左派への監視・調査活動に取り組み、全国20か所に特務組織を作り、親日派の軍人・政治家や、共産党・民主党派の活動家を監視・弾圧・暗殺する秘密工作を展開していく。1946年3月17日、青島から南京へ飛行機で向かう途中、南京市上空で墜落し、死亡した。享年50(満48歳)。蒋介石は、「戴笠が生きていたら、台湾に撤退せずにすんだのに。」とのちに述べたといわれる。

注5 影佐禎昭(かげさ・さだあき、1893年~1948年) 陸軍中将。中国国民党親日派の汪兆銘に協力し汪政権樹立を計画し、「梅機関」(影佐機関)工作を進めた。汪政府の軍事最高顧問に就任し、南京政府の操縦と重慶政府の攪乱工作を続けた。娘は谷垣専一元文部大臣に嫁ぐ。谷垣禎一(第24代自由民主党総裁、第47代党幹事長)は孫。名前の一字は、影佐の名からとった。

注6 岡村寧次(おかむら・やすじ、1884年~1966年) 支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任。支那派遣軍が国民政府陸空軍総司令の何応欽大将に対し降伏調印し、南京軍事法廷で岡村を無罪となった。1949年1月に帰国するまでは蒋介石により最高顧問格となり、現地で敗戦処理に従事した。

 〇参考文献などは、連載終了後にまとめて掲載します。

いけだ・ともたか

一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著に『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

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