特集●コロナ下 露呈する菅の強権政治

細部には悪魔も潜んでいる

政治と科学の問題でパンデミックが明らかにしたこと

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

新型コロナウィルス感染症が世界中に蔓延し始めてから十か月ほどが経過した。一月中ころまでは、中国武漢市がかなり深刻な事態になっていることは伝えられていたものの、世界的にはまだどこか他人事のような雰囲気が漂っていた。

日本も例外ではなく、オリンピックや習近平訪日への政治的配慮が優先され、感染症への対応は後手を踏み続け、そのことがますます対応の混乱を助長するという悪循環に陥っていった。

マスクは何処に

二月、三月になると感染の拡大に慌てて、緊急事態宣言を出し、給付金や補助金の支給などその場しのぎの対策を次々に発表した。その場当り対応の最たるものが全世帯に布製マスク二枚を配布するという方針であった。

アベノマスクと揶揄されることになった側用人的官僚と総理大臣の決断による愚策が、466億円という巨費を投じて実施されることになったが、それが厳しく批判され、嘲笑されたにもかかわらず、とにもかくにも実施されたのにはそれなりの訳があった。二月から三月にかけては、感染が一挙に増大し、医療現場では感染防御用のマスク・防護服・フェースシールドなどの不足が深刻になり、一般家庭用のマスクも薬局・ドラッグストアの店頭から消えるという事態になった。そういう状況の中で、マスクは医療活動から市民生活までを貫く、感染防止対策の最重要戦略物資として象徴的意味を持つことになった。

とにかくマスクをなんとかすることが、感染防御上必須の条件であるかのような意識が広がった。大きさや材質に多少問題があっても、官僚や総理大臣の言い草が気に入らなくても、一応マスク確保の努力がされている様子は見えたから、辛うじて責任問題にまでは深刻化しなかったとみてよいであろう。

マスクは、アベノマスク問題が一段落してからも、依然として感染防御問題にかかわる象徴的意味を担わされ続けている。一つは、グローバル化した世界の構造的弱点を示すものとして、もう一つは、文化的・政治的価値観を表現する象徴物として。

感染が急速に拡大するに伴って、日本のみならず世界各国では感染防御用のマスク・防護服、検査用キットや試薬、人工呼吸器・エクモ等の不足は深刻化し、医療崩壊の状況を端的に示すものとして連日マスコミで報道された。マスクや防護服などは、コスト削減のため人件費の安い途上国に生産拠点を移し、在庫も可能な限り減らされていた。

その上交通運輸体系も機能不全に陥り、各国による医療物資の取り合いが始まり、グローバルなサプライチェーンはずたずたに引き裂かれ、パンデミックは医療問題から社会的・政治的問題へと深刻の度を加えていった。これは、明らかに効率とコスト削減による利益の極大化を追求するグローバル経済の「行き過ぎ」の結果だと考えられた。

このマスクの供給不足の問題には、いくつかの解決策が考えられた。短期的には、国際市場で金に糸目を付けずに、買い付けに走ること、長期的にはマスクの国内生産を復活させ自給体制を整えること、つまりマスクについて自国中心主義を貫くという方策が一つ。マスク(医療用資材の象徴としての)についてグローバルな生産・流通を維持し、供給に関する国際協調体制を構築し、人類規模で不足の解消を図ることが、もう一つの解決策として想定された。

この二つの方策は、自国第一主義と国際協調主義という極端な立場を想定しているが、現実にはこの両極の中間に様々なバリエーションがあり、各国はそれぞれの状況に応じて対応していったのであろう。

日本の報道を見る限りでは、マスクの供給には問題が無いように見える。ドラッグストアの店頭にはマスク不足を告げる張り紙はないし、スーパーなどの商品棚にもマスクが十分並べられている。デザイン性の高いマスクが注目されることがあっても、不足の心配は完全に解消されたかのようである。

しかし、マスクの問題は本当に解消されたのだろうか。どこでどのように生産され、どのように流通網が組織され、どこにどれくらい備蓄されているのか、はよくわからない。正確な情報はどこかにあるのかもしれないが、その情報は容易なことでは把握できない。あれほど大騒ぎしたマスク問題への関心は急速に失われている。医療用マスクN95の不足を危惧する医療関係者の声が伝えられることもあるが、GOTOキャンペーンの騒音に圧倒されてほとんど聞こえない。こんなことで、次の感染拡大の波がやってきた時に対応できるのか不安は消えない。

そんな不安は、その時々の緊急措置でなんとかなるのかもしれないという根拠不明の楽観によって無視されているのかもしれない。しかし、マスク問題に象徴されていた生産と流通のグローバル化が引き起こしている問題への関心もどこかへ消えてしまったとすれば、大きな問題である。パンデミックを経験して、コロナ後の世界をどう構想するか、というような長期的かつ根本的問題への取り組みも影を潜めてしまえば、今度はワクチンの開発と供給についての国際協調体制の構築という課題も放棄され、製薬会社と特定国家の利益確保競争だけが現出することにしかならないであろう。

マスクは科学的合理性の問題である

マスクについては、先に指摘したように、マスクの効用や着用の奨励あるいは強制ということが、政治的・文化的対立を引き起こすというもう一つの問題があった。日本では、効用・効果をめぐる議論はあったが、その着用が全社会的規模で政治的・文化的対立を引き起こすほど深刻な問題は起こっていないと言ってよいであろう。

たしかに、日本でも、マスクの着用の仕方をめぐって電車やバスの中で暴力沙汰が発生したというニュースが無いわけではなかった。また、ほんの少数の人々によるマスク着用拒否を掲げる示威行動が企てられたこともあった。さらに、マスク着用の普及率の高さを過剰な同調行動として批判する議論も提起された。しかし、それは、戦争中の隣組の相互監視を想起させる「自粛警察」的活動への批判であって、マスク着用それ自体に対する批判とは異なる議論であった。むしろ、マスク着用それ自体は、自分が感染しているかもしれないという事態を想定して、他人にうつさないためのエチケットであるという感覚でとらえられている点では問題とされてはいない。

それに対して、ヨーロッパやアメリカでは、マスクの着用そのものがまったく異なる文脈で問題にされている。そこでは、マスクの着用が感染拡大防止に効果があるかどうかではなく、それが文化的・社会的・政治的理由から着用拒否の風潮が醸成されるという事態が生まれているのである。マスクで顔を隠すのはマナー違反だ、マスクをするのはウイルスを過剰に恐れる臆病者の証拠だ、マスクの着用奨励は、経済活動を委縮させる効果しかもたらさない、そしてマスクの着用の強制は自由の侵害であり絶対に許容できない等々、実に多様な反対論が唱えられた。

日本ではマスクを着用しない者に対して、何故着用しないのかという無言の同調圧力がかかっているといわれるが、欧米では着用する者に対して、臆病者とか自由を尊重しろというような同調圧力がかかっていると言ってよいかもしれない。

こうしたマスクの着用をめぐる問題が必要以上に焦点化される背景には、政治家による、それも独裁者あるいは独裁的傾向の強い政治家による科学的に根拠のないマスク着用拒否の言動が原因の一つになっていることもあるが、マスクの感染防止効果についての科学的解明が遅れていたことにも原因があった。

日本でも、感染拡大の初期段階では、マスクの効果はそれほど大きくないという議論がなされていた。咳エチケットとして、手ではなく腕で口周辺を覆う方法が推奨されるというようなこともあった。日本だけではなく、世界中でマスクの評価は動揺し続けていた。WHOも何度もその見解を変えているほどであった。

マスクの効果についての実証的な研究も行われ、WHOも明確にマスク着用を推奨するようになったのは、流行が始まってから相当の時間が経過してからであった。日本でも、スーパーコンピューター富岳の試験運用が始まって、感染の最大の原因である飛沫の拡散具合が可視化され、その飛沫感染防止のために何が有効であるかについての実験結果が発表されるようになって、マスクの感染防止効果が定量化され、実際に感染防止に有用であることが証明されたことになった。

それだけではないが、これでマスクの効用に関する議論は、ほぼ終結し、着用に反対あるいは消極的だった勢力も不承不承ながらマスク着用の方向に転換し始めてきたようである。といっても、テレビ報道を見る限りでは、国によってマスクの着用率については大きな差があるようで、日本が90パーセントを越えるほどなのに対して、法的に強制措置をとっているにもかかわらず欧米では依然としてそれほど高くないように見える。

法律による強制が妥当かどうかは大いに議論の余地のある問題であるが、感染防止の観点からは着用者が増えるのは悪いことではない。しかし、これまでの経過を見ると、ここまで来るのに何故こんなに時間がかかったのかという疑問が湧く。マスクの着用先進国といってもよいような日本でも、議論が定まるまで半年以上かかった。

今のマスク関連の情報を見ても、スーパーコンピューター富岳の優秀さの宣伝のためにキャンペーンでもしているのではないかという印象すらある。実際に公開されている映像を見ると、果たしてこれは世界一の性能を誇るコンピューターでしかできない実験だったのかという疑問をおさえることができない。

それはともかく、マスクをめぐって、その生産・供給から効用、対立の発生など様々な問題が噴出したが、それらの問題を発生させた基礎には、感染症対策とマスクの問題をデータと科学的分析の問題としてとらえるという意識が希薄だったことがあった。意識が希薄だったというのは、政治家だけではなく、医療関係の研究者も、まして一般市民も含めてのことで、病気の全体像がみえない状況では仕方のないことだったかもしれないが、きちんとした議論がなされない間の犠牲はあまりにも多すぎた。マスクだけを取れば小さな問題かもしれないが、その細部をよく観察するとそこにはとんでもない悪魔が隠れていたということかもしれない。

「専門家」の功罪

ところで、感染症対策に責任をもって当たるべき医療関係の科学者も政治家も、マスクがどれほど重要な問題であるかということを自覚していなかったのは何故かということについてはさらに検討が必要であろう。世界的にはサーズやマーズあるいは新型インフルエンザの世界的流行の問題があり、感染症によるパンデミックの危険性についてはすでに多くの研究者から警鐘が鳴らされていたにもかかわらず、どうしてこんなことになってしまったのか、まだ正確かつ詳細な分析をなしうる段階ではないが、いくつかの問題点は見えているので、その限りで検討しておこう。

まず、流行の初期段階では、新型コロナウィルスによる肺炎が重症化し死に至る場合もあることは知られていたが、その感染力の強さや症状の経過等について不明な点も多く、インフルエンザとの類似性の指摘に引きずられがちであったこと、重症化するのは高齢者や慢性的疾患を抱えている者の場合で、健康状態が良ければそれほど心配する必要はないとされていたこと、テレビ報道等で個別的に「専門家」の発言が紹介されることはあったが、公的機関の組織的な検討や見解の表明が遅れたこと、そのため、インターネット上では真偽取り混ぜた様々な情報が飛び交い、安心を誘うような情報が多く拡散する事態が見られた。

世界的レベルでの情報においても混乱が見られた。WHOの見解も必ずしも一定せず、パンデミックの認定や宣言も遅れ気味であった。マスクについてもWHOがその効果を認め使用を推奨するようになったのは最近のことである。

そこにどういう政治的要因が働いていたかは今のところ不明とするしかないが、日本においてはもう少しはっきりと政治的要因を指摘することができる。オリンピックの開催と習近平国家主席の訪日をめぐる問題である。この問題が、新型コロナウィルス感染症対策についての決断を遅らせる役割を果たしていたことは否定できない。そして、それは特定の政治家の責任を問うだけでは済まない全社会的に検討されるべき問題でもあった。

こうしてざっと振り返ってみるだけでも、初期段階の新型コロナウィルス感染症対策を遅らせる要因が、複雑多岐にわたって存在していたことが思い出させられるが、「専門家」と政治家あるいは政治と科学の関係という点に絞ってもう少し検討してみよう。

日本で、新型コロナウィルス感染症が大変な問題になりそうだという感覚が浸透し始めたのは、マスコミ各社が中国武漢の様子を伝え始め、在中日本人の帰国が問題になり始めた一月二十日頃からで、クルーズ船ダイヤモンドプリンセスが横浜に入港してから一気に危機感が高まった。その頃はテレビ番組で「専門家」が登場し始めていたが、まだ本格的には「専門家」の姿は見えていなかった。

政府の動きは遅く、曲がりなりにも「専門家会議」が、二月十四日に設置された。しかし、それは、政府の言い分によれば「政策の決定・了解を行わない機関」(これが議事録も残さないことの根拠として主張された)という極めて曖昧な位置づけしか与えられておらず、メンバーも国立感染症研究所の所長を長とし、厚生労働省に関係の深い感染症の専門家に偏った専門家によって構成されていた。

政府内部で設置された新型コロナウィルス感染症対策本部は総理大臣を長とする政府内の連絡調整機関であり、専門家を含むものではないので、医療現場や自治体レベルを含めた専門的かつ総合的に感染症対策を検討する組織は無いに等しいと言わざるをえない状態であった。

このような状況では、「専門家」はそれぞれ自分の関心や限られた専門分野での知見に基づいて、マスコミ、インターネット等で自由に発言・発信することになる。まともな研究者であれば、学会や大学など専門の研究機関からの有形・無形のチェックを想定し、責任ある発言・発信を心掛けるものであるが、そのようなチェックを想定しない「専門家」の自由な発言・発信は話題性を追った無責任なものになる場合も少なくない。現在のメディア世界では、専門外の評論家・コメンテーターと称する人々が、話題性だけの誤った情報を、意図的とは言えないかもしれないが、増幅してしまうということも起こる。

感染症対策が、病原体及び症状の解明・治療法・特効薬・ワクチン等の病気としての感染症についての問題だけではなく、予防法から蔓延による社会的・経済的影響、市民生活の規制を含む法的・政治的対応など極めて広範な問題領域にわたっていることを認識するならば、二月十四日に発足した専門家会議は、設置が遅すぎただけではなく、陣容としても脆弱極まりないものと言わざるをえない。

感染症の危険性の認識に欠けていた政府は、自分達の政策決定に専門的立場からお墨付きを与えてくれる程度の役割しか期待していなかったのかもしれない。しかし、事態は、想像をはるかに超えて深刻化した。トランプほどではないにしろ「コロナは夏には消える」というような楽観は吹き飛んでしまった。

問題の広がりと深刻さに直面して、政府は専門家会議の改編に取り掛かり、七月三日に経済学者や自治体、メディア関係者を新たに加えた分科会(正式には新型インフルエンザ等対策有識者会議新型コロナウィルス感染症対策分科会という)を設置した。しかし、その性格は、依然として諮問機関的であり、陣容も充実したとは言い難いのが現実である。

必要なのは、感染症にかかわるすべての情報を収集・分析し、調査や研究を方向づけ、医療体制の問題点を抉り出し、短期的・長期的対策を立案・提案し、確かな情報を発信し、社会的信頼関係を醸成し、関連諸機関の連携を確立し、まさに感染症対策のために各分野の専門家を連結させる司令塔としての役割を担いうる組織なのである。

研究者は、ある意味では真面目なものほど自分の関心と専門分野にこだわる。そして、その範囲内での「業績」を目標とする。分かりやすく言えば、マスクの感染予防上の効果というようなテーマより、死亡率の低さと遺伝的要因の解明とか、ウイルス変異過程の研究とか、ワクチンの開発というようなテーマの方が選ばれる。

マスクの研究ではノーベル賞の可能性はまったくない。しかし、それが、感染防止に有効であることを確かなデータを根拠として説得的に提示できれば、マスクに関する無駄なイデオロギー論争に終止符を打ち、多くの人命を救うことになるのである。だからこそ、研究者に研究の方向性を検討させる役割をになう存在が必要なのである。

専門家会議や分科会に集められた研究者・専門家の能力や資質を問題にしているのではない。問題なのはシステムだからである。政府や政府の所管する研究所は、感染症に関して世界中で発表・発信されている論文を収集・分析しているのであろうか。日本国内に限ってもどこでどのような調査・研究がなされているか把握しているのか。感染症の全国的現状の正確なデータ化はどうなっているのか。自治体ごとに異なるネット環境であったり、手書き書類による集計作業であったりということが今でもあるのか。最低限のシステムですら構築されていないという状態をいつまでつづけるのか。

こういう基礎的なレベルの問題の解決に政治家を期待することはできない。政治家は問題の所在すら理解していないからである。その意味では研究者は、政治家に対して、常に問題を突きつける存在でなければならないのである。

科学を軽視する政治の罪

科学と政治の関係について、一般的に考えてみると、政治の世界と科学の世界には多くの相違があるが、その中でも大きいのが時間の問題であることに気付く。政治の時間は短く、科学の時間は長い。民主制では権力の座には原則として任期がある。政治はその任期を単位として評価を受ける。だから政治家はその任期中に成果を挙げることに力を注ぐ。科学は、真理という永遠に追究すべき課題に取り組むから、本来時間の制限はない。

その意味で、政治の世界の論理を科学の世界に持ち込むことは科学の破壊以外の何物でもない。もちろん、科学の世界にまったく時間の観念は必要ないというわけではない。できるかぎり早く結論を求められる場合もある。いうまでもなく、医療に関わる領域はその典型例であろう。しかし、その場合でも十分な検証のための時間が求められるという点では政治の世界の論理とは異なる。

ところが、現代では、政治と科学の距離は極めて近接することになった。人間の生命・生活を支える生産・流通を中心とした経済・社会活動は科学研究の成果に大きく依存し、政治はその成果の利用を不可欠の権力基盤とするようになった。また、科学の世界は、研究の大規模化・複雑化によって膨大な研究資源(資金・人材)を必要とするようになった。それらの資源の調達には政治の世界の力が求められる。

こうして、政治と科学は強力に引き合うことになる。また、大衆が参加する政治も、複雑化・精緻化した科学も、個人や少数の集団ではコントロールできない巨大な力を持つようになった。この両者が無条件に結合した場合、それを生み出した人間に甚大な被害を与える可能性が生じる。

ヒトラーが原子爆弾を手に入れた状態を想像してみよ。その危険性がどれほどのものか理解できるだろう。近代社会が、科学の発展に伴う形で「学問の自由」や「大学の自治」の原理の定着に努めてきたのは、そうした危険を回避するための人類史的レベルの知恵というべきであろう。特に、政治は短い時間の中で成果を求めるために、判断を誤りやすい。政治家が失敗の責任を逃れるために、「判断は後世にまつ」などというが、それは、実は判断の誤りやすさを自ら認めているようなものなのである。だから、「学問の自由」は主要に政治からの学問世界への介入を厳しく排除するために主張されてきたのである。

ところが、現代世界では、この原則が次第に危機にさらされてきている。フェークニュースを連発し、人々の暴力的行動を挑発し、科学を無視する人物が世界最強国家の大統領になり、選挙で明白な結果を突き付けられてもその座に固執して退陣しようとしない。ウォッカでコロナを克服するという人物が大統領再任を主張して暴力的に反対派を弾圧する。

新型コロナウィルス感染症によるパンデミック下で、科学を否定するか、科学を支配下に置こうとする権力が台頭しているのである。そして、その共通の言い分は、「経済活動の再開」が必要だということである。その経済活動とは、被雇用者・各種小商店主等の収入を確保するためという名目を押し立てているが、その本質は大企業の利益、権力再生産のための資金を生み出すための活動である。そのためには、多少の犠牲はやむをえないというわけである。

科学を軽視し、学問の自由を侵そうとする政治は、格差社会の矛盾を拡大し、弱者に過重な犠牲を押し付け、強者の利益を増大させようとしている。感染防止より経済活動の活発化を優先させる方向に舵をきった菅政権は、日本学術会議会員の任命拒否問題で、その性格の一端を現した。新型コロナウィルス感染症パンデミックの下で「学問の自由」の侵害が何をもたらすことになるのか。トランプ政権下のアメリカ合州国の轍だけは踏みたくないならば、市民も研究者も、正念場に立たされているという自覚が求められているのではないだろうか。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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