論壇

現代の若者は保守化しているのか?

「今時の若者」は「今時の中高年」を映す鏡

河合塾講師 川本 和彦

先日、新幹線に乗った時耳にした、後ろに座っていた老夫婦の会話。

「ねえ、やっぱりダイスケは会社辞めないほうが良かったんじゃないの」。
「昨日さあ、何で福神漬け買ったんだ」。

……会話が全然かみ合っておりませぬ。よく夫婦でいられるなあと思ったが、長年連れ添った同世代でもこういうことがあるのだ。まして私と年齢差が大きい若者を理解し、これを説明するのはかなり無謀なことであるのだが、予備校で若者と接している経験から感じること、思うことを少しばかり述べてみたい。

「保守化」を語る前に

「現代の若者は保守化しているのか?」という問いに対する答えはソーゴー的・フカン的に見て「イエス」である(もちろん例外はある)。ただし、この問いは2つの点で不完全である。

①「現代」の若者は保守化しているのか?

では「現代」ではない、昔の若者は保守的でなかったのだろうか。そして「昔」とはいつのことなのか。まさか安土桃山時代のことではあるまい。ま、ここでは一応、全共闘世代からバブル世代が若者であった「昭和時代」の後半を対象としておこう。

②現代の「若者」は保守化しているのか?

では「若者」ではない、現代の中高年、後期高齢者は保守化していないのか?「自分たちは保守ではない。革新的だ」というのは、思い込みに過ぎないのかもしれませんぜ。

本稿では①・②について検討を加えた上で、若者の保守化とされる現状と背景について述べていきたい。

世代全員が同じではない――①への回答

今、あなたが読んでいるこの媒体の執筆者・編集者は概ね大卒のホワイトカラーであるだろうし、読者であるあなた自身も、ほぼそうであろう。はばかりながら、私もそうだ。

当然ながら私たちは、同世代のすべてを知っているわけではない。義務教育の公立小中学校まではともかく、高校や専門学校、大学などの進学、そして就職によって、同世代であっても分断されていく。

確かに昔の若者はデモに参加するとか、選挙で野党へ投票するとかいうことが多かった(とあなたは感じている)かもしれない。ただ、高度成長期の大学進学率は10%強であり、現在の約55%とは大きな開きがある。学生運動が盛んな時代、大学生でない若者は案外保守的であったのかもしれない。

安倍晋三の祖父にあたるA級戦犯は、「国会議事堂の周辺にはデモ隊が大勢来るが、神宮球場にもたくさんの観客が入っている」とか何とか言っていた。左翼・リベラルの皆さんは昔も今も後者、「神宮球場の観客」を意図的に無視しているのではないだろうか。

年配者もまた然り――②への解答

各種選挙における投票の出口調査を見ると、確かに若年層は自民党への投票が比較的多い。とはいえ、若年層は投票率が低いのも事実である。大政党が有利となる小選挙区制や野党勢力の分裂ということを差し引いても、安倍長期政権を支えてきたのは、まじめに投票する中高年層でもあったのだ。

「# Me Too」のような女性の行動を揶揄する中高年、選択的夫婦別姓や同姓婚を認めるべきだという主張に嫌悪感を示すジジババは、掃いて捨てるほどいるではないか。若者がそういう世代の延長線上にいることを、忘れるべきではない。

以上の前提を踏まえて、若者の保守化について考える。

保守化を単純に定義すれば、「現状維持を望む」「変革を求めない」ということだろうし、前近代的・封建的だった過去を懐かしむ心情も含まれるだろう。

不健全なナショナリズムという面も、無視することはできない。

ここでは、若者と接していて特に感じることを2点述べたい。

「下からの」上から目線――現象(1)

私が教える科目は、「政治・経済」「倫理」「現代社会」である。

授業で「実質賃金が下がり続けているのは、先進国では日本くらいなものだ」という話をする。そうすると「賃金を上げると、企業の利益が減って困るんじゃないですか」と言いに来る生徒がいる。別の授業で「生活保護を受ける資格があるのに、役所の窓口で追い返される人がたくさんいる」という話をすると、

「生活保護って、税金の無駄じゃないですか」と言う生徒もいる。税金を払ってもいないくせに!

こういう生徒は、概ね学力が低い。従って失礼ながら、将来は大企業の正社員や高級官僚になる可能性も、現時点ではかなり低い。それがあたかも自分が大企業の経営者のような「勝ち組」(これは古い言い方だな。今なら「上級国民」)になったかのような物言いをするケースが、21世紀以降に目立つ。

「反対」に反対する――現象(2)

これはむしろ学力が高い生徒に多く見られるのだが、例えば「野党の人って、どうして自民党の邪魔ばかりするんですか」「マスコミは自民党の悪口ばかりですよね」という声を聞く。読売新聞・産経新聞はマスコミに入らないらしいね。

テレビの露出度は、どうしても上級国民が多い。報じる大手メディアの正社員も同類だから当然の帰結ではあるが、自民党総裁選の報道に比べて、野党第1党代表選は何と扱いが小さかったことか。自民党幹事長の放言と、非正社員シングルマザーの悲鳴が、同じ扱いを受けることはない。

若者(に限らないが)は、露出度が高いだけで「何かよくわからんけど、この人たち頑張ってる」と思うらしい。従って、これに対する批判者は「頑張ってる人たちを邪魔する、まじウザい、むかつく存在」に見えるということなる。

次に、このような状況の背景について考えてみたい。

個性を求められて没個性化する――現象(1)の背景

とにもかくにも、現代は個性を求められる時代である。学生は就職活動で必須のエントリーシートに、自己分析の結果として見えてくる自分の個性を書かなくてはならない。

子どもに対する親の要求も、昔とは変化してきている。昔はひどかったのでございますよ。「人並みに」「世間様に迷惑をかけないように」などと言うのは良心的であって、「いい学校、いい会社に入りなさい」「あんたのためを思って言ってるんだから」と言う親が、今よりは断然多かった。これに対する反発もあってか、「好きなことをして生きていけばいいよ」「(進学・就職について)自分の個性を生かしなさい」という親が、確実に増えている。

実は「個性を生かして生きろ」というのは、かなり無責任である。個性と才能は違うはずだが、目に見える、自覚できる個性というとどうしても「個性=才能」と思っても不思議ではない。しかし、将棋の藤井君やサッカーの久保君ではない多くの若者は自己分析をしようとしまいと、自分に特別な才能はない、つまり個性はないと認める方向に追い込まれてしまう。

若者としては、そのことを認めるのが嫌なんだな。「オンリーワンの自分には何もない」ということは、とてもではないが許容できることではない。そうなれば若者に限らず、「日本に生まれて日本で生きている自分」くらいしか誇るもの、自分が拠り所とするものはないだろう。自己肯定感が低い若者を、メディアが巧みに誘導している面もある。その日本の経済を、政治を動かしているように見える自民党を支持するのは、必然であろう。そしてこの類の誇りは、「日本人でない人々」を必死になって差別することで、辛うじて維持できるレベルのものでしかない。

コミュニケーションというものへの誤解――現象(2)の背景

個性と同様、とにもかくにもコミュニケーション能力を求められる時代である。ゼミを持つ大学教員の話では、ゼミ員多数と少しでも異なる意見を述べる学生は、1年に1人か2人しかいないそうだ。そういう学生には「空気を読めない奴」というレッテルが貼られる。まして周囲と180度異なる意見を述べる学生は、3年に1人いるかいないかだという。このような学生にはコミュニケーション障害、略してコミュ障というレッテル、いや刻印がなされる。こういうレッテルや刻印がラインを通じて瞬時に広まるのが、現代の恐ろしいところである。

ヤスパースの実存的交わりや、ハーバーマスの対話的理性などという高尚な話をするまでもなく、本来のコミュニケーション能力とは、「とりあえず仲良しの空気」を共有することとは無関係なはずだ。けれども多数派、少なくとも国会の議席を見れば自民党は文句なしに多数派だが、その多数派を批判する野党やメディアは、若者的にはコミュ障でしかない。新幹線車内にいた老夫婦のように、ダイスケと福神漬けですれ違っているほうが、まだマシなのかも。

それにしても個性とコミュニケーション能力と、両方求められる若者は気の毒だ。

より低次元のお話

しかしながらこれまで述べてきたこと自体が、上から目線という気もする。と言うよりも、「上だけ(見た)目線」かもしれない。

若年層の自民党支持も、その内実は確固たるものではない。もっと低次元のものである可能性がある。

予備校で生徒から出てくる質問には、しばしば絶句させられる。「右翼と左翼はどう違うんですか」なんてのは、ハイレベルな質問です。「自民党と衆議院はどう違うんですか」といった質問を毎年受ける(しかもある程度、学力が高い生徒から)。これって「野球とオリンピックはどう違うんですか」てなものではないか!

こういう若者が投票所の比例代表選挙コーナーで「政党名を書いてください」と言われれば、知っている政党は自民党しかないのだから「自民党」と書くでしょうよ。

ということは野党が、左翼・リベラルが自民党以上の魅力を示して知名度を上げれば、支持と不支持はあっけなくひっくり返るかもしれない。そして、これが最大の難関である。言い換えればそれができないことが、若者を保守化させている最大の原因なのだ。この駄文を読んでいるあなたが、彼ら彼女らを右方向へ追いやっているのかもしれないよ。

左翼・リベラルの問題点あるいは構造的欠陥

貧困なる感性――映画といえば社会派のドキュメンタリーか、せいぜい岩波ホールで上映するような途上国の映画しか見ない左翼がいる。くだらないからと言ってテレビを見ない、見ても報道ステーションだけ、みたいなリベラルもお見受けする。

私もそういう映画や報道番組は、かなり見る。けれども同時に、例えば映画「スター・ウォーズ」にわくわくする感性、テレビドラマ「私の家政夫ナギサさん」にほっこりする感性も必要なのではないか。こういう感性がなく、従ってこういう話題で会話ができない左翼・リベラルこそコミュ障である。

音楽だと音楽性、例えばメロディーの美しさに感動するのではなく、平和を訴えたからジョン・レノンが好きだとか、ベトナム戦争の反戦歌を歌ったからボブ・ディランを評価する、という左翼・リベラルもまた同罪。あいみょんの「裸の心」を聴いて切ない(:_;)とは思わないのか。それ以前に、あいみょんを知らないか。知らないだろうな。

右翼の単なる裏返し――生まれる前のことに詳しくはないが、戦前この国には国防婦人会なるオバ様団体があって、パーマネント(これは古いな)の乙女(もっと古いな)を「この非常時に!」といじめていたそうな。このオバ様たちは、自分たちを正しいと信じて疑わなかっただろう。

左翼・リベラルにもそういうところがあるように思う。私はデモというものが、どうにも苦手だ。市民マラソンランナーなので、歩くより走る方が性に合う。いや、そういうことじゃなくて、「安保法制フンサーイ」「原発ハンターイ」と絶叫している人が、怖い。この人は自分の正しさを少しも疑っていないなと感じる。

正しいと信じて行動することを否定はしない。でもそこに1%でも、いや、0.001%でも疑い、自問自答があってもいいのではないだろうか。原発ができたおかげで、出稼ぎに行かなくても暮らしていけるようになったという福島県・飯坂温泉の旅館経営者が、「原発反対なんて気楽に言えて、都会の人はいいね」と言うとき、どう応えるのだろうか。無視しそうな気がする。

反対意見の持ち主を全否定するのであれば、ネトウヨと同次元である。相手はなぜそういう意見を持つに至ったかまで思いをはせるべきであると、これは自戒をこめて言いたい。

いつの時代も年配者は、「いまどきの若者は…」とぼやいていたらしい。それをみっともないとは思わない。若者はある意味、自分たちを写す鏡である。鏡を真摯に見つめることは、必要だと思う。

その前に、自民党と衆議院の違いを教えなくてはならないのだが…。

かわもと・かずひこ

1964年生まれ。明治大学政経学部卒業。日本経済新聞記者を経て現在、河合塾公民科講師。著書に『川本政治・経済講義の実況中継』(語学春秋社)など。

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