コラム/深層

失敗の本質は何か―経済か、政治か、思想か

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル著)を読んで想う

市民セクター政策機構理事 宮崎 徹

日本はもとより先進諸国に広がる社会的分断。それが日々進行しているのに打開策が見当たらないという閉塞感が深まっている。経済活動のグローバル化で市場競争が世界的規模で強まり、この波にうまく乗っているグループとそうではないグループとの間で格差が生まれた。それは国家間で、同時にそれぞれの国内で起きている。

こうした経済的要因が社会的分断の基底にあることはたしかだが、その解決への道を妨げているのは、実は思想や価値観の大きな変容ではないか。平たくいえば、人々の物事の考え方が市場主義的な発想に取り込まれていることだ。経済活動を市場化が覆いつくすと同時に、それと相即的に、あるいは相互促進的に考え方も市場主義的となる。

市場主義的な思想は、機会の平等を謳い文句、あるいは免罪符に、自己責任と能力主義問題に行き着く。初発の条件を等しくすれば、あとは努力だ、やればできる、という形で課題と解決方法を個人化していく。それは、問題を抱えた人だけに支援は限るという福祉節約論を導き、さらには社会全体が経済的能率、生産性をあげることに血道をあげることになる。競争条件は同じだといわれて、そこで敗者とされた人々の感情の行き場はどうなるか。そして、世の中はバラバラな個人の単なる集積体、悪くすれば弱肉強食の様相を呈するに至る。

1.何が問題か――統治の思想と方法をめぐって

最近刊行された世界的な「超人気哲学教授」、マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は、能力主義の問題を中心に現状の困難に真正面から取り組んでいる。以下、彼の整理と分析を手がかりに市場主義化の蔓延が思想的に、ひいては政治的にどんな問題を引き起こしているのか確認していこう。

まず、各国における経済的格差の拡大と政治的分断から生じてきたポピュリスト的な動きの背景についてみておこう。この点についてサンデルが強調しているのは、従来の政治家が「世界中の政治をかき乱している不満についてほとんど理解していないという事実」である。つまり、ポピュリストの抗議のなかに人種差別的な偏見だけを見たり、経済的な苦情にすぎないと考えるのは間違いだという。膨れあがりつつある人々の不満は、経済的なものだけではなく、「道徳的・文化的なもの」でもあり、「社会的敬意」にかかわっているのだ。

サンデルは、本稿の後段で触れるように、経済のグローバル化のなかで「労働の尊厳をむしばみ、多くの人が見下され、力を奪われていると感じるような状況を作り出した政治エリートの責任を免除する」ことはできないといっている。逆からいえば、トランプは、「不安、失望、正当な不満で満たされた水源の栓を抜くことによって当選した」のだ。つまり、眼前にある民主主義の困難は、この間の政治的失敗の帰結であるとみるべきなのだ。

この点についてもう少しだけ詳しくみておこう。この失敗の核心は、これまで主流派であった政党が「グローバリゼーション・プロジェクトを構想・遂行した方法にある」という。ポピュリスト的な抗議は、その方法の2側面に関わる。1つはテクノクラート的な政治構想であり、もう1つは「能力主義的な勝者と敗者の定義」である。いずれも市場機能への過度の信頼、依存があることは明白だろう。

テクノクラート的だというのは、例えば不平等はどこまで許容されるのかといったイデオロギー的に紛糾しそうな論点を回避し、経済成長や効率の問題に還元したうえで、専門家に任せるべきだといったような扱いである。つまり、多くの公共問題が一般市民には理解できない技術的な専門知識の領域に移された。これが民主主義の幅を狭め、「公的言説」の言葉を空洞化させ、人々の無力感を増大させたのだ。

こうした市場化とグローバル化を基軸とするコンセプトと手法が、左右の主流派政党によって受け入れられた。サンデルが特に重大だとしているのは、中道左派政党による市場思考と市場価値の受容だ。実際、アメリカの民主党はテクノクラート的リベラリズムの政党となり、かつて地盤としていたブルーカラーや中流階級の有権者よりも知的職業階級とそりが合うものになっていた。イギリスの労働党、ヨーロッパの社会民主主義政党についても事情は同じだった。

このような変化の起源は、いうまでもなく1980年代に表舞台に登場したサッチャー、レーガンの新自由主義、新保守主義にあり、「政治は問題であり、市場は解答だ」という市場主義である。その後釜に座った中道左派の政治家たちは――クリントン、ブレア、シュレーダー――自由な市場のとげとげしさを多少は和らげたものの、サッチャー・レーガン時代の中心命題を変えることはなかった。

そして、この市場化とグローバル化の構想が行き詰まり、人々の不満が制御しがたいまで高まったとき、すなわちポピュリストが蜂起したとき、もっとも手ひどいダメージを受けたのがリベラルおよび中道左派の政党だったのである。それゆえ、これらの政党が支持を取り戻したいと願うなら、市場志向のテクノクラート的統治手法を根本的に見直すべきだということになる。

2.エリート支配と能力主義

このような統治手法、その担い手たるエリートに対して多くの有権者の怒りはどのように駆り立てられてきたのか。第1に、経済的不平等の爆発的拡大という事実があるのはいうまでもない。しかし、それだけではない。例えば、アメリカでは昔から富の不平等には寛容である(アメリカン・ドリーム!)。これは社会的上昇への素朴な信頼があったからであろう。

市場主義テクノクラートはこれに悪乗りした。すなわち、経済成長とより大きな機会の平等を訴えることで、拡大する不平等に対処できると考えた。それが「機会のレトリック」「出世のレトリック」である。だが、これらのスローガンは今やむなしく響くだけである。実際、アメリカでも、所得で下位5分の1に生まれた人のうち、上位5分の1に達するのは20人に1人にすぎないという。ほとんどの人は中流階級に上昇することさえないという統計もある。社会的流動性こそ不平等に対する答えだという社会的信念は揺らいでいる。

第2に能力主義の倫理的問題がある。仮に能力主義は正しく、その現状がただ理想から遠いというだけなら、「機会の平等」をいっそうめざせばよいということにもなろう。しかし、仮に完全な能力主義というものがあるとしても、ただちに大きな疑問が生じる。例えば、能力主義の論拠の中心には、自分で制御できない要素に基づいて報酬を受けたり、あるいはお預けにされるのはおかしいという考え方がある。

だが、サンデルの口吻を借りれば、「ある才能を持っていること(あるいは持っていないこと)は、本当にわれわれ自身の手柄(あるいは落ち度)だろうか」。能力主義を称揚するものは、こうした道徳的問題を見逃している。それは結果的に「勝者のあいだにはおごりを、敗者のあいだには屈辱と怒りを生み出す。こうした道徳的感情は、エリートに対するポピュリストの反乱の核心をなすものだ」。だから、ポピュリストの不満は、移民などへの抗議以上に、この「能力の専制」にかかわっているのだとサンデルは指摘する。そういえば、本書の原題は The Tyranny Of Meritである。

3.能力主義の病弊

サンデルによれば、能力主義(メリトクラシー)という用語を生み出したのはイギリスのマイケル・ヤングという社会学者で、彼はすでに60年前に能力主義が引き起こすおごりと怒りを予想していた。例えば、出世できた人は、それを自身の能力、努力、優れた業績への報酬にすぎないと考える。それだけでなく、自分より成功していない人を見下しがちになる。他方、出世できなかった人々は、責任はすべて自分にあると感じるようになる。ヤングは能力主義の無情な論理に感づいていたのである。だから、能力主義はめざすべき理想などではなく、社会的軋轢を招く原因だとみなされていた。

そして、いま能力主義の病弊が社会を広く汚染している。「能力の専制」に虐げられていると感じる人々にとっては、問題は低迷する賃金だけではなく、「社会的敬意の喪失」でもある。テクノロジーの進化や外部委託(内外のアウトソーシング)に起因する失業に伴って、労働者階級が携わる仕事に対する社会の敬意が低下している。加えて、ヘッジファンドのマネージャー、銀行家、知的職業階級に途方もない報酬が与えられるようになって、昔ながらの仕事に払われる敬意は脆く不確かなものになった。ポピュリスト的不満の根底にはこのような不安や怒りがあると診断される。

主流派の政党やエリートは政治的うず巻きの底にあるこうしたどす黒い怒りを見落としている、あるいは見たくないのかもしれない。しかし、政治的な怒りを分配への不満、すなわち経済問題に還元して、あたかも市場による解決や専門家への外注で解決しようというテクノクラート的手法は的外れだった。そればかりではない。そうした政策技術へと論議が狭められることで、政治が本来扱うべき価値や目的をめぐる民主的議論は空虚になってしまった。その言論空間の空隙に声高なナショナリズムや宗教原理主義がはびこることになる。

4.学歴による社会の分断

能力主義の物語の主戦場は教育と労働である。例えば能力主義は、世間的には学歴主義として具体化している。アメリカでは、人種主義や性差別が疎まれる時代となっているなかで、学歴偏重主義はなお容認されている最後の偏見だという。

サンデルが紹介している調査によれば、高学歴者は人種差別や性差別を非難するかもしれないが、みずからの低学歴者に対する否定的態度については非を認めようとしない。こうした一種の偏見の由来は、能力主義に基づく自己責任論である。エリートたちは、貧しい人々や労働者階級に属する人々に対する以上に、学歴の低い人々を嫌う。貧困や所属階級は個人の力ではどうにもならない側面が強いが、学業成績が悪いのは個人の努力不足で、大学へ行けなかった人の落ち度だというのだ。

問題は、こうした偏見がエリートだけのものではなく、低学歴者自身が共有していることだ。低学歴者が自身への不利な評価を「内面化」してしまっている。こうした現象は、学歴を代理変数とする能力主義的な見方がいかに広くアメリカ社会に浸透しているかを示している。

かくして学歴による社会の分断、より鮮明には政治的分裂が避けがたくなる。前回のアメリカ大統領選の分析結果によると、大学の学位を持たない白人の3分の2がトランプに投票した。一方、クリントンは学士号以上の学位を持つ有権者の70%超から得票したという。だから、選挙予測では、所得ではなく教育関連指標のほうが役に立つといわれている。

サンデルがいうには、20世紀の大半を通じて、左派政党は学歴の低い人々、右派政党は高い人々を引きつけたものだ。「能力主義の時代にはこのパターンが逆転してしまった」。いまでは、学歴の高い人は中道左派の政党に投票し、低い人は右派政党を支持している。ベストセラー『21世紀の資本』を著したトマ・ピケティは、この逆転がアメリカ、イギリス、フランスで全く並行して生じたことを示した。

ピケティはさらに次のように推測している。労働者の党から専門職エリートの党へと変身したことが、左派政党がこの数十年の不平等の拡大に十分な対策を取らなかった理由ではないか(能力主義イデオロギーの呪縛)。高い学歴を持たない人々は、エリートが推進するグローバリゼーションに反発し、あげくポピュリストで移民排斥を唱える候補者を応援するようになった。既成体制全般への不定形ないら立ちがそうした表現をとっているのだろう。

5.失われた労働への社会的敬意

教育という世界の内部についてもサンデルは興味深い事実をたくさん挙げているが、ここで紹介、議論する余裕はない。能力主義が悪影響を及ぼしているもう一つの代表的な場面は労働の世界である。能力主義という選別装置は学歴をはじめ資格を持たない人を貶めてきた。彼らの仕事は専門職より市場の評価が低く、社会への貢献が少ないから社会の承認と評価の度合いが低いというのが選別装置の言い分である。これまでの仕事の技能への低評価である。

そして、政策担当者や経済学者は、労働者の不満の原因を失業と賃金の停滞としかみない。しかし、仕事は経済的であると同時に文化的なものだ。生計を立てる手段であるとともに、社会的評価と承認の源泉でもある。

サンデルによれば、アメリカの労働者の意欲喪失を切実に示しているのは労働の放棄にとどまらず、人生そのものを放棄しているようにみえる「絶望死」の増加である。ちなみに、ある調査では、アメリカ人の平均寿命は2014年から17年にかけて、この100年で初めて3年連続で縮んだ。その原因は、自殺、薬物の過剰摂取、アルコール性肝臓疾患などによる死亡の蔓延である。形こそさまざまだが、いずれも自ら招いた死であるから絶望死とみなされている。

この嘆かわしい事態は、先のマイケル・ヤングの見解の正しさを立証している。すなわち、能力をあまりに重んじる社会で、能力がないと判定されるのはつらい。「底辺層の人々が、これほど無防備なまま取り残されることはかつてなかった」。グローバリゼーションの荒波と格差拡大の中で取り残された人びとは、賃金の停滞に苦しんでいただけではない。彼らが直面し、恐れたのは、時代から取り残されることだった。「自分が暮らす社会は、自分が提供できる技能をもう必要としていないように見えたのだ」。

さらにいえば、経済成長第一主義はどうしても需要の喚起(まず売れなければ!)、つまり生産より消費に目を向けがちである。人々は消費者であるとともに生産者でもあるのだが、消費があおられるなかで、どうしても消費者的側面へと誘導される。消費者としては内外からを問わず安いものが手に入れば、喜んでしまう。そこで、消費者の利益のためと称して世界的規模で効率を追求することになり、それに伴うアウトソーシング(外部委託)、移民労働などが生産者に及ぼす影響が顧みられなくなった。しかし、ふと生産者の立場に立てば、やりがいがあって報酬の良い仕事が失われていることに気づく。

消費者であり、生産者であるという人々の両面を調整し、「仲裁」するのは政府の役割であるはずだとサンデルは指摘する。しかし、エリートが支配する政府は、グローバリゼーションが労働の尊厳に与えた有害な影響には目もくれなかったと断じている。働く人々の怒りの底には生産者としての地位が被った損傷があるのに。

 

以上、サンデルによりながら眼前の問題状況の本質はどこにあるのかをみてきた。貧富の差の拡大や失業といった経済問題はたしかに考える起点となるが、さらに一歩進んで、それをもたらした政策、それを導いた思想を問うことが重要だ。そうすれば、改めて政治主体の問題を俎上に載せることができ、そこから解決の糸口が見えてくるかもしれない。

そういう必要性からいえば、本書は、我々がおおむねこうだろうなと思っていたことをクリアに、そして事実を列挙しながら巧みに描いてくれている。加えて、能力主義や自己責任論など広く人々を方向付ける思想やイデオロギーという深部にまでメスを振るっている。しかも、それを易しく説いている。さすがだ。超人気哲学教授の面目躍如である。

それだけに深く議論すべき点は多い。他方で、もちろん、サンデルに賛同できないところもあろう。代案がないという常套的な、無いものねだりの声も上がっている。だが、与えられた紙幅をすでに大幅に超過してしまった。いくつかの論点を挙げるにとどめ、議論は他日に期したい。

 

1つは、市場第一主義は論外としても、市場という鋭利なメカニズムをどう扱うか。単なる道具にはとどまってはくれないだろう。人々の思考法に影響する。しかし、大きな社会全体でヒト、モノ、カネ、つまり資源を必要な範囲で合理的に配分するには、市場はベストではないとしてもベターではないのか(社会主義計画経済の失敗)。拮抗する2つの社会編成原理、すなわち再配分原理、贈与と互酬の原理で市場を相対化するのか。つまり、市場をどう使うか、使いこなせるのかという問題がある。

2つは、政策の結果とはいえ、IT化やサービス経済化で産業構造は大きく変化し、仕事の内容もそうだ。その変化の中で、新しい産業の担い手たる階級・階層はどう性格づけられるのか。新しい仕事と従来型(ベーシックな)の仕事との関係、それぞれの担い手の連携はどう作られるのか、という社会連帯の問題がある。

3つめに、能力主義の問題も、突き詰めれば難しい。一例を挙げれば、「運の平等主義」という議論がある。その主張は、「分配的正義の立場に立てば、運のよい者は幸運のおかげで手に入れたものの一部を、あるいは全部を運の悪い者に譲るべきだ」というものだ。一見、運に左右される事態への寛大な対応のようにみえるが、実際は、例えば貧困の原因は、運の悪さなのか当人の選択の誤りの結果なのかによって公的支援を受けられるかどうかが決まる。誰が判定するのか。公的機関? もちろん、これに対しては「救貧法的思考」だという批判がある。

さらに、「幸運のおかげで手に入れたもの」には何を含めるのか。経済的アドバンテージはともかく、極端に走れば、「優秀な遺伝子」も入るのかという素朴な疑問が出るかもしれない。また、努力と生まれつきの才能の関係も難しい。努力する才能も運のうちか。だからといって、成功した人は、自分ひとりの力だけではなく、幸運や家庭環境に想いを致し、謙虚さや負い目感覚を持たねばならないというのでは、ただの処世訓になってしまう。

 

ことほど左様にまだ論点は多いのですが、また改めまして。

みやざき・とおる

1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大、早稲田大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」理事。

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