特集 ●第4の権力―メディアが問われる  

首里城正殿大龍柱の向き「改変」の意味

「復帰」50年―封印される「琉球」と恐れる「日本」

神奈川大学教授 後田多 敦

来年の2022年は、沖縄の施政権が1972年にアメリカから日本に「返還」されて50年の節目となる。日本によるこの沖縄の「再併合」を「復帰」と呼ぶことが一般化しているが、実際にはさまざまな意見や評価が存在している。評価をめぐる議論が本稿の主要テーマではないので、ここでは便宜的に1972年の出来事をカッコつきで「復帰」と表記しておきたい。

沖縄の「復帰」を話題とするために、最初に必要な前提知識を簡単に説明したい。王政復古を宣言することで始まった明治日本は1879(明治12)年に「琉球処分」で、琉球国を併合、日本に編入して沖縄県を設置した。その沖縄県には1945年、アメリカ軍が上陸し日本軍を戦闘で壊滅させ、日本統治から切り離し占領を始めた。サンフランシスコ講和条約が1952年に発効すると、日本自体は占領から独立を回復したが、同条約3条を根拠に沖縄ではアメリカの統治が継続した。そして、1972年の「復帰」で、日本が再び統治することになった。この「復帰」の評価は、「琉球処分」とその後の日本統治、沖縄戦からのアメリカ統治などの前史をどのように理解するかで異なることになる。

「復帰」からの沖縄の50年は、「日本化」が強力に進められた歳月である。そして、それは現在進行形であり、現在の沖縄でも「本来の姿」が否定され、あるいは読みかえられる作業が続いている。政治や経済、文化や教育、軍事など、現在の沖縄社会のあらゆる場で起きていることは、その総仕上げだといってもいいだろう。自衛隊の「南西シフト」による島々の要塞化や沖縄戦当時の内務官僚知事の美化など、軍事から歴史修正まで幅広い。ここでは、首里城火災後の再建の動きで再び焦点となっている正殿大龍柱の向きをめぐる問題を取り上げて考えてみたい。

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首里城は日本による併合以前の琉球国の王城で、「琉球処分」によって1879(明治12)年に日本に接収された。接収後は日本軍が駐屯し、その後は建物から段階的に払い下げられ、学校や県社・沖縄神社などに利用されていた。1945年の沖縄戦直前には、沖縄守備軍の第32軍司令部が地下に築かれたため、日米の戦闘で首里城は壊滅的に破壊された。戦後は琉球大学が置かれたが移転し、「復帰20年」を記念して1992年に正殿などが復元された(「平成復元」)。その後も城内の復元は進み、2019年2月に一通りの復元が完成していた。ところが、同年10月31日未明に正殿から出火し、正殿を含む8棟が焼失した。現在、正殿などの再建などが進められている。

日本接収後の首里城の来し方は、沖縄の歩みと相似形をなしている。そして、この首里城の扱われ方をさらに象徴するものの一つが、正殿正面石階段の両側に建てられていた一対の龍柱(大龍柱と呼ばれている)だ。ガマ首を持ち上げた龍そのものが柱となっている龍柱は、琉球以外に事例が確認されていないもので、首里城を作り上げた琉球文化の特徴が集約されているともいわれる。つまり、造形化されて可視化された「琉球」そのものだといっていい。それ故に、最後の国王・尚泰が王城を追い出された後、大龍柱もまた多くの苦難にさらされてきた。

最初の破壊は、駐屯していた日本軍兵士が行った。大龍柱を持ち去ろうとして、日本兵が右側(正殿に向かって)をへし折ったという。そして、その後左側もへし折られ、両方とも短小化された上で接続された。大正末期には城内に沖縄神社が創建され、正殿は拝殿とされた。そして、1928(昭和3)年からの正殿修復の際、へし折られて短小化されていた大龍柱は、その向き自体を相対向き(大龍柱が向き合う形)に改変された。向き「改変」の理由を示す資料は確認できないが、「日本の神社における狛犬が向き合う形であるから、合わせたのではないか」と、推測されている。いずれにしても、昭和3年からの修復で、大龍柱は相対向きに「改変」された。

琉球国王城の独自性を象徴していた大龍柱は、駐屯した日本軍の兵士によってへし折られて短小化された後、「修復」という名目で向きを相対向きに「改変」させられた。この「改変」は、首里城が、御城と呼ばれたかつての王城でないことを具体的に示すことにもなった。

大龍柱の「改変」はこのときだけではない。大日本帝国が引き起こした沖縄戦で破壊された首里城は、「復帰」20年の記念事業の一環として復元された。この「平成復元」では「1712年頃再建され1925年に国宝指定された正殿の復元を原則」とする方針が採用されたが、大龍柱は『百浦添御殿普請付御絵図并御材木寸法記』(乾隆33年=1768年、以下「寸法記」)絵図を根拠として互いに向き合う形(相対向き)で設置された。つまり、大龍柱は昭和3年からの「修復」で、「改変」された姿で再現されたのである。いいかえれば、「改変」の固定化だ。「平成復元」で、大龍柱が相対向きに設置されたことに対して、市民らからは強い抗議の声があがっていた。そして、正殿などが2019年に焼失したことを受け、「本来の向き」に戻すべきとの声は、現在ではさらに大きくなっている。

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首里城火災後の日本政府の動きは早かった、日本政府は2019 年 12 月 11 日には「首里城復元に向けた基本的な方針」を関係閣僚会議で決定している。方針では「国営公園事業である首里城の一日も早い復元に向けて、沖縄県や地元の方々のご意見を伺いながら、予算措置を含め、政府として責任を持って取り組んでいる」とし、この基本的な方針に基づきこれまで復元に携わってきた沖縄の有識者の方を含めた技術的な検討の場として、内閣府沖縄総合事務局に「首里城復元に向けた技術検討委員会」を設けた。そして、「首里城正殿等の復元に向けた工程表」では、「前回復元時の設計・工程を踏襲することを基本とし、2022(令和4)年中には本体工事に着工し、2026(令和8)年までに復元することを目指すとした(「首里城正殿等の復元に向けた工程表」2020年3月27日、首里城復元のための関係閣僚会議)。

日本政府の基本方針は、国営公園事業の一つである首里城の一日も早い復元に向けて、前回復元時の設計・工程を踏襲するということだ。この方針では、重要な要素が端的に確認・整理されている。第一は首里城が国営公園事業であること。第二は、今回の復旧は、前回復元時(平成復元)の設計・工程を踏襲するということだ。「平成復元」での大龍柱は相対向きで復元されていた。「前回復元時(平成復元)の設計・工程を踏襲」すれば、大龍柱は相対向きでの設置となる。

「平成復元」で異論が噴出したのは、「寸法記」絵図の解読の仕方だった。「寸法記」絵図の大龍柱は相対向きで描かれていた。首里城側は「絵図」の向きは事実を反映しているとして相対向きを採用していたが、西村貞雄琉球大学名誉教授や市民グループは、「寸法記」絵図は寸法などを示すためのもので、向きを写実的に描いたものではないと主張していた。琉球国時代の大龍柱を描いた絵図は他にも幾つか残り、それらの絵図では相対向きと正面向きなどがある。大龍柱の「本来の向き」は、「寸法記」絵図の解読という資料の理解の仕方と直結する議論にもなった。

「平成復元」が採用した相対説には、「実証」という点で致命的な欠陥があった。相対説は、接収後の大龍柱は正面向きだったという確定した事実の意味を説明できていないのである。相対説が成立するためには、「寸法記」が成立した1768年段階で相対向きだった大龍柱が、その後の正面向きに変更されている必要がある。しかし、相対説は向きがいつ変更されたのか具体的に検討せず、変更の事実も提示できなかった。日本兵にへし折られる前と考えられる大龍柱(短小化前の大龍柱)をとらえた写真が数点確認されている。正面説を裏付けるものだが、首里城側は撮影時期が不明だとして、資料的価値を否定してきた。相対説は自説に都合の悪い資料を無視していたのである。

さらに、正面説を裏付ける写真が確認された。琉球国(藩)を訪れ王城を表敬訪問したフランス人一行のルヴェルトガが、1877(明治10)年に撮影した正殿写真が存在していたのである。その写真の大龍柱は正面を向いていた(『沖縄タイムス』『琉球新報』2020年11月14日)。ルヴェルトガが正殿を撮影したことは以前から知られており、写真を基にした図版(図版の大龍柱は正面向き)自体もよく知られていた。ルヴェルトガ写真が撮影された1877年当時、王城には国王尚泰が居住していた。国王尚泰が居住していた時期の正殿大龍柱は、正面向だったのである。

ルヴェルトガ写真によって、明治政府に接収後に大龍柱の向きが正面に変更されたことを前提とする相対説(平成復元)の前提は、完全に崩壊した。つまり、相対説は成り立たなくなった。相対説は「寸法記」絵図を誤読していたのである。

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ルヴェルトガ写真で相対説の前提が成立しないことが確認された後も、首里城の技術的問題を担当する「首里城復元に向けた技術検討委員会」は、相対説に固執し続けていまだに修正を行っていない。関係閣僚会議の「首里城復元に向けた基本的な方針」が、「前回復元時の設計・工程を踏襲することを基本」としていることとも関連しているのだろうか。

「琉球処分」によって琉球国が日本に併合されて以降、琉球的なものは否定され、または改変された。それが日本のなかの沖縄ということでもあった。琉球の「気」が集約された首里城の正殿石階段側から御庭を睥睨する大龍柱。日本のなかの沖縄で、<琉球の力を蓄えるような>大龍柱は許されなかったのだろう。大龍柱はへし折られ短小化された。短小化された大龍柱は、日本に併合されて歴史や文化を否定される「琉球」の姿でもある。さらに、短小化された大龍柱は向き合うように「改変」された。日本のなかで、沖縄が<気を蓄えることがあってはならない>。向き合う形の大龍柱は、封印される「琉球」の姿なのかもしれない。向き「改変」に異議申し立てを続ける市民らの声を代弁すれば、このようなことになるのだろうか。

この大龍柱の向きをめぐる沖縄の意識は、単なる空想や妄想ではない。琉球国の正史『球陽』は尚敬王元年(1713年)の項で、次のように正殿や門、殿前の輦道の向きの重要性を記している。

「若し俗眼を以て之を観れば、則ち首里城何ぞ称するに足らん。然れども、竜の来歴、気脈鐘まる所、誠に取るべきもの有り。況んや、夫の国殿、立向甚だ好く、殿前の輦道、其の向、殿と同じからずして最も妙なるものをや。且、広福・漏刻・瑞泉・歓会等の門、左廻右転し、曲折して直からざるは、皆能く其の法を得たり。……国殿能く外盤を用て甲に坐し庚に向ふ。殿前の輦道は却つて内盤を用て卯より酉に横はりて、二者の立向同じからざるは、最も妙なり。山川林壑四面拱衛して、永く王城と為すに足るは、唯此の二者の力なり。決して改向すること勿れ。城内の諸門、左廻右転し、曲折して直ならざるは最も其の法を得たり。若し一直にして開門すれば、則ち資材耗散し、必ず不慮の憂有らん。決して改開すること勿れ」(球陽研究会編『球陽 読み下し編』角川書店、1982年、688)

首里城の立地は「竜の来歴、気脈鐘まる所」であり、国殿(正殿)と各門、輦道(正殿前の御庭にある浮道のこと)の向きは絶妙なので、「決して改向すること勿れ」と記している。これは正議大夫毛文哲、都通事蔡温などが、王城や国廟の風水を見た際の判断だとある。そこから、「竜の来歴、気脈鐘まる所」としての首里城の象徴の一つとしての大龍柱の意味を読み取ることもできる。

現在の日本政府やその意向を受けて復元にかかわる「専門家」たちが、破綻した相対説に固執する理由もまたここにある。首里城が「永く王城と為すに足る」ことを恐れているのだろう。首里城は国営公園事業であり、沖縄は日本の一県でなければならない。日本政府からすれば、日本の国営公園事業の一つである首里城の大龍柱が、正面を向く「琉球の本来の姿」に戻ることは許されない。なぜなら、それは否定されるべき「琉球」だからである。

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1910年に韓国を併合した大日本帝国は、朝鮮王朝の王宮を植民地支配の拠点空間へと作り変えた。日本が去った後、韓国は「重し」だった建物を取り壊し、「気」を取りもどしていた。大日本帝国のやり方を思い起こせば、現在の日本政府や「首里城復元に向けた技術検討委員会」にとって、日本のなかの沖縄を示すために相対向き大龍柱は譲れない一線なのだろう。だからこそ、首里城を復元するなら大龍柱は相対向きでなければならない。それは燻る「琉球」を封印する方法の一つなのだ。つまり、日本政府やその意向を受けた「専門家」たちにとって、大龍柱の向きは歴史的事実の問題ではないのだ。「専門家」が本格的な検証も行わないまま、相対向きに固執する理由もそこにあるのだろう。

「復帰」から50年が過ぎようとしている現在でも、日本政府は「琉球」を封印することに成功してはいない。経済や社会を支配し、自体隊を島々に配備して力で抑えつけようとしても、かつての大日本帝国のようにいつまでも続かないだろう。事実を抑え続けるためには膨大な力が必要だが、虚を暴くのにはわずかな力でも事足りる。事実は力を蓄え、虚は恐れを増幅させる。そして、虚と恐れは諸々をむしばんでいく。これは歴史が教えるところだ。

もし、日本政府が政治的判断を優先し事実を歪め続けようとするなら、大龍柱の向きをめぐる「琉球」と「日本」のせめぎ合いは分かり易い形で続くことになるだろう。そして、このせめぎ合いは単に大龍柱の向きに留まらない。「沖縄」と「日本」の関係を分かりやすく象徴的に表すものだ。琉球国時代の「本来の向き」は、正当性なき「琉球処分」やその後の統治、同化政策が失敗だったことにもなる。日本政府の恐れの理由はそこにあり、そして、その恐れこそが、結果的に「虚」を浮かび上がらせることにもなる。いずれにしても、やがて大龍柱は「本来の向き」を取り戻すことになるだろう。

しいただ・あつし

1962年石垣島生まれ。神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科前期課程修了。沖縄タイムス記者、琉球文化研究所研究員などを経て、2015年4月より神奈川大学外国語学部准教授、2021年国際日本学部教授。著書に『琉球救国運動—抗日の思想と行動—』(出版舎Mugen、2010年)、『琉球の国家祭祀制度—その変容・解体過程—』(出版舎Mugen、2009年)。『「海邦小国」をめざして—「史軸」批評による沖縄「現在史」—』(出版舎Mugen、2016年)など。

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