論壇

課題としてー「近代(現代)公教育」を批判するための思想と論理

「田中萬年 VS 池田祥子」を超えて

本誌編集委員 池田 祥子

はじめにー論点の整理

田中萬年氏の「奇妙な日本語=教育を受ける権利」という主張に、私は、まずは「歴史を踏まえて議論しましょうよ」と思ったのだが、それよりも何よりも、その前提としての、氏の「教育」という言葉の定義や解釈にも戸惑ってしまった。この出発点から食い違ってしまうと、何よりも「議論」自体が成り立たなくなってしまうではないか。

ということから、前回(『現代の理論』25号)私は、ふらふらと、「教育」とは何か?というあまりにも「一般的」というか、親や子ども、あるいは師匠(教師)と学徒(生徒)という一対一の関係に焦点を当てた「私的教育(だが社会的でもあるが?!・・・)」という問題から論じ始めてしまった。私の文章を読んだ友人に、「私たちがいま問題にしなければならないのは、‟近代公教育”でしょ?なぜそんな超歴史的な個々人の間での‟私的な教育”の問題から始めるのですか?」と疑問を呈されてしまった。

確かに、田中萬年氏が依拠する「広辞苑」(第一版、1925)の「教育」の項では、

「教え育てること、導いて善良ならしめること、人を教えて知識を開くこと」という一対一の原初的な意味が最初に置かれ、それは現在まで変わってはいない。そして、その上で、教育作用を施す主体として「家庭・学校・社会・国家・その他」がまったく同列に(非歴史的に)配置されているのである。

私たちが、その本質を掴み、少しでもそれを変えていくための手がかりを探ってきたのは、他でもない、19世紀末に世界的に制度化されてきた、近代国家による「国民教育=近代公教育」の制度であった。

もっとも、近代的欧米諸国といえども、建国の歴史、学校の歴史、「国家」観、人権=民主主義の現実、等など、詳しく辿ればそれぞれに差違はある。どの国をモデルにするかで、その制度の中身もかなり変わってくるだろう。

ただ、徳川幕府を中心とする武家社会から一挙に、「天皇」を奉る天皇制「近代」国家を早づくりした日本の「国民教育制度」には、いわゆる「近代国家」に必要な要素が、複数の国々を参考にしながら、素早く掴みだされている。「国家の共有の言葉=国語」の設定、徴兵制に伴う「近代的軍隊」や「近代的労働」に見合う「一定の学と技術と労働モラルを備えた国民」づくり・・・などである。その上で、西欧諸国と肩を並べるためにやや遅れて、大日本帝国憲法を発布したものの、さらに重ねてその翌年、1890(明治23)年の「教育勅語」によって、日本独自の「忠孝」思想を基軸にした「国民=臣民」づくりを徹底させることになる。

こうして、「教育」という言葉は、国民教育制度の成立に伴って、「学校教育」を意味する言葉として広まっていったと思われる。

しかし、田中萬年氏は次のように言う。「歴史を遡ると、孟子による教育の創造以来、元来教育はブラックだったのである」と(『現代の理論』第2号)。

このように言葉を固定的に定義されると、その後の「教育」という言葉をめぐる「自由」や「権利」との関わりによる意味の変容も追えなくなるし、また、社会に広く定着することで頻繁に使用されることになる「学校教育」という言葉、およびそれに連なる「幼児教育」「家庭教育」「社会教育」「義務教育」「高等教育」、さらには「職業教育」等々に対しても、その都度「目くじら」を立てなければならなくなってしまう。

このように歴史を追ってみると、かつても同様、私たちが社会的に「教育問題」として悩み考えるのは、基本的に目の前にある日本の「国民教育(学校教育)制度」のあり様をめぐってであるのは、田中萬年氏も異議がないのではなかろうか。この点に関する認識が共有されれば、おそらく議論もよりスムーズに進むだろう。

1 日本の「国民教育制度」の発端―「学制」頒布

1871年「文部省」発足、1872(明治5)年「学制」頒布。明治政府が誕生して間もなくの、「国民皆学」を謳う「国民教育制度」の宣言(仰せ出され書)および発足である。近代国家を樹立し、「殖産興業」で欧米に追いつくためにも、何よりも「邑にも家にも」「不学」の者が居ないように・・・と。

この「大忙し」の国民教育制度の発足に関して、田中萬年氏は、「教育」という言葉ではなく、「学」あるいは「学問」という言葉が用いられていたこと、「文部省」も「教育省」ではないこと、に着目している。

もっとも、それについては私自身も推測の域を超ええないが、政治は「王政復古」を掲げたために、かつて(8世紀)の「式部省」、あるいは一時的に設けられた「文部省(ぶんぶしょう)」が参考にされたのではないか。いずれにしても、西欧の「国民教育制度」の言葉も知識も知らないわけではなかっただろうが、何分にも日本社会にはいまだ、「社会的な教育の制度」を意味する「教育」という言葉は、当然ながら馴染みもなく流布していなかったと思われる。

この『現代の理論』第25号で私がすでに触れた通り、福沢諭吉が当初「教育の文字、はなはだ穏当ならず・・・これを発育と称すべきなり」と述べていたことは、田中萬年氏も大いに気を強くする事実ではあるが、「近代」という時代にいち早く触れた福沢諭吉らしい主張だとは思う。ルソーの『エミール』やフレーベルの「キンダーガルテン」の論や実践には、封建的な「教育」のあり様に対抗する子どもの「自発性」尊重の思想がすでにして基軸になっているからである。

だが、「教育」という用語は、欧米諸国の「国民教育制度」の情報や実態が明らかになるにつれ、日本でも、この「制度化された教育」を改めて「(公的な)教育」と称するようになったのであろう。田中萬年氏は、日本の戦前の「教育」という言葉は「教育勅語」そのもの、と受け止めているようだが、教育勅語以前から、すでに「教育令(米を参照したため自由教育令とも言われる)」(1879・明治12)として公的に使われるようになっているのである。

さて、明治5(1875)年のこの「学制」の特徴を、二つばかり確認しておこう。

一つは、国民に向かって、「学問ハ身ヲ立ツルの財本」と強調していることである。それこそ1960年当初、いわゆる「60年安保闘争」の後、世の中は「所得倍増」の掛け声とともに、教育もまた「人材開発」「教育投資論」で賑やかになった。「人間相手の教育に経済効率を持ち込むとは!」と、当時の民主的な教育関係者はこぞって反発したものだが、何をか言わん、「学は身を立てるの財本」というのは、明治の当初よりの国家(および国民)の教育観である。

だが、多くの親や子どもの実態は、「学制」の思想には遠かった。江戸末期には、庶民の2割ほどは「寺子屋」に通っていたとも言われるが、農民・漁民の子どもたちは4,5歳から、6、7、8歳は当然にして、すでに家の重要な「働き手」であった。その子どもたちを日中「学校」に奪われ、しかも「金」を払う?・・・「学制」の当初、全国の村々での「学校打ちこわし」が記録に残るが、イギリスでの労働者による「機械打ちこわし」運動同様、「自分たちの生活を守るため!」至極当然であっただろう。

だからこそ、「学制(被仰出書)」には重ねて親たちへの「子どもの就学督促」を強いる「脅し」までもが書かれていた。

「ほら見てごらんなさい、道路に屯し、飢餓に陥り、家を亡くし身を滅ぼしている輩を!彼らは‟学ぶ”ということをしなかったからなのです」と。

初めは、そのような脅しにそっぽを向き反抗していた農民たちも、やがては、「学校」に通いより上級の学校を出ることは、「なるほど!生活が楽になる、立身出世に連なる!」と周りを見ながら納得し始めるや、少々(かなり)の無理をしてでも男子を「より上級の学校」に進学させることが、親の「愛情=義務=欲望」ともなっていく。このような、国家の思惑と国民の私的利害追求の相互関係は、残念ながら戦後も同様、さらに拡大され、継承されつづけている。

いま一つは、上記のこととだぶってしまうが、「学制」の時から、「子どもの教育=学校に通わせる」ことは、「親の愛情と義務」ということを原点に置いていることである。

「人の父兄たるものよ、良く聴けよ!お前たちの子どもに対する‟愛育の情”を大切にし、それあればこそ、しっかり子どもたちを学校に通わせるべきものぞ」と。

こうして、日本の国民教育制度は、まずは「国家のため、国家からの要請」として国民に強要されながら(「義務教育」)、表向きは「国民の立身出世のため」と説かれ、その義務と負担は子どもたちの「親」に課せられたのであった。この後、「権利」思想による「教育」の内容の理解は変化していくものの、現在に至っても、この「親の子どもへの就学義務」は根底に据えられたままである。

2 「教育を受ける権利」の歴史性―特に「授業料無償」をめぐって

「教育勅語」が発布された年、同時に「小学校令」が改正(勅令)された。それまでは教育に関するものも「法令」だったのに、これ以降は、教育に関してはすべて「勅令」となっている。

明治初期には、わずかであれ見られていた「個人主義」的傾向や「自由」の精神は、「教育勅語」以降は確実に後退させられている。親への「就学義務」も、「強迫教育」(国家が命令し、臣民は服従しなければならない=不対等者間の権力関係)とまで解釈され(小林歌吉『教育行政法』金港堂、1900)、また同じことだが、「統治権の主体である国家が、保護者に命令して強制するものである」と断言されている(松本順吉『教育行政要義』明倫館、1900)。

もっとも、先の小林歌吉は、「国家が臣民に(教育を)強迫し強制するなどといえば、それこそ‟人民天賦の自由”を害するものだ」と言われるだろう、と自ら疑問を投げかけ、「そうだ、その通り、国家は臣民の自由を侵害するのだ」と開き直り、その先に次のような論理を披歴する。「国家は、自己生存のために最小の義務を負担しつつ、それによって国家の生存が維持されるならば、一私人もまた幸福安寧を享受することになるのだから・・・」と。これこそまさしく、「天賦人権説」も繰り込んだ「天皇(国家権力)=臣民」一体の天皇制国体観が強調されている。

その後、日本の就学状況は、度々の「戦争」を経、辛うじてその勝利を手にする度に上昇・拡大している(!)。戦争の「勝利」によって、国家の財政が潤い、国民の生活状況も少しずつ上向いてきたことによる就学率の向上である。

1900(明治33)年、日清戦争後、就学義務年齢は「4年」と定められ、その年から「授業料は無償」と定められた。さらに日露戦争後の1907(明治40)年、就学年齢は「6年」に延長され、1915(大正4)年には、全体の就学率が何と90%を超えた、と記されている。

しかし、ここで「子どもの就学」をめぐって、一つの問題が生じて来る。

「国民教育制度」とは、実を言えば、「国民=臣民」のためと言いつつ、実は「国家」それ自体にとっての緊急不可欠の事業であったことである。最初に述べたように、近代国家を成立させ、産業を発展させ、軍備を増強し、国力を一層高めていくためにも、国民全体の「教育力=学習力」の向上は不可欠なのだ。

ところが、実態として国民は「同等」ではない。経済力の格差は大きい。したがって、「父兄の義務」として課されていた「子どもの就学」は、そのままでは「国民皆学」には至らない。こうして、止む無く国家の負担による「授業料無償」に踏み切られることになる。ここに至ってもなお、日本の国家主義的な解釈からすれば、「授業料不徴収の原則」も、「義務教育を普及させようとするための行政の便宜から行われるものである」(松浦鎮次郎『教育行政法』東京出版社、1912)と強弁されている。

もちろん、当時でも西欧の教育における「権利論」も一方で紹介されてはいるが、以上のような国家主義的な教育土壌の下でも、「子どもの権利」論が否応なく導かれてくることに注目したい。

例えば木場貞長は次のように述べている。「子弟を就学させる義務を果たさない無智の小人(ママ)が少なくはないため、国家は、自分からは訴えることのできない幼年者のために、その権利を保護して修学の便を得られるようにすべきである」と(『教育行政』金港堂、1902)。また、同じような論理であるが、龍山義亮も次のように述べている。「もし強制教育を実施しても無月謝制を取らなければ、貧困な無教育の両親はその子弟を学校に入学させられないこととなる。こうして、ある程度の教育は義務であると同時に権利であるという思想が産まれて来た」(『教育制度の原理』目黒書店、1939)。

こうして、国家に必要な「国民の就学義務」を現実的に徹底するためにも、就学のための「授業料無償=国庫負担」が余儀なくされていく。西欧の「公費=国民の税金」という認識から「国民の権利」としての「義務教育無償」(「社会権」としての教育)が導き出されるのとは逆であるが、「子どもの就学」保障→「父兄の義務」→「国家の義務」という形で、「子どもの就学する権利」が認識されてくる事実は興味深い。よって、法規に規定されている「父兄の(子弟を)就学させる義務」から、子どもの観点から「教育を受ける権利」が導き出されたことが理解できるだろう。さらに言えば、「親の、子どもを就学させる義務」は「子どもに教育を受けさせる義務」であるが、子どもの立場からは「教育を受ける権利」となり、それは同時に「学習する権利」ともなるのである。

これ以降、大正期には、西欧の権利思想にも影響されつつ、「子どもの権利」「子どもの教育を受ける権利」はより一般化した形で普遍化していく。中には、「親の教育権」(民法)とは異なって、「児童の教育権」は、「生活権とか労働権とかと相似て、ますます意味深長なものがある」と、基本的人権的に理解されている(谷本富『義務教育問題』隆文館、1922 所収、他にも阿部重孝など)。

さらに、田中萬年氏も引用されている下中彌三郎は、日本の国民教育制度の「強制性」への根底的な批判を軸に、次のように述べている。

「教育は必要である。教育は尊重しなければならない。しかし、その教育は決して人間を国家に従属させる為の方法ではない。人間の自由の為の人類の真の発展の為の教育である。・・・このような教育を大いに盛んにしようとするならば、従来の義務教育、国家主義の立場からの教育強制制度を全て撤廃し、それに代えて小学より大学までの自由選択制の公教育制度を樹立しなくてはならない」(『教育再建』啓明会、1920)。

こうして、「子どもの権利」の観点から、「学校教育を受ける権利」はすなわち「学校教育を学ぶ権利」と同定されていく。「教育=学習」という表記は、このような歴史過程を踏まえた上での結果である。 

蛇足ながら、織田万が、西欧の「公教育」を前提にして、「教育の自由は・・・思想もしくは信仰の自由に外ならない」と、「教育の自由」を定義し主張しているが(『教育行政及行政法』冨山房、1916)、国民教育をめぐる国家と教会や、国家と地方との拮抗関係を経験することのない日本では、十分に理解され難かったであろう。西欧の the right to education (教育への自由および権利)への理解は、戦後まで持ち越されたといえるであろう。

3 「普通教育」と「職業教育」―嫌われた「行き止まりの複線型」

田中萬年氏は、「職業教育訓練」を何よりも重視されている。私はそのこと自体に異議はない。ただ、日本の労働現場の状況を考慮しつつ、科学技術の変化・発展に有効に対応できる職業教育訓練の具体案については、残念ながらお任せする他はない。

他方、田中萬年氏が、「教育を受ける権利」という「奇妙な言葉?!」の主張によって、日本の重要な「職業教育訓練」が蔑ろにされた、と主張し続けている点については今なお納得できない。日本の職業教育軽視の現実は、もう少し別の要因のせいだったのではないか、と考えるからである。

明治の初め、「学制」発布の翌年、文部省はすでに諸民学校、商業学校、工業学校、農業学校、通弁学校の「案」を発表している。「下等小学」「上等小学」「中学校」「大学校」の他に、職業に関連し職業に連なる教育・学校構想がないわけではなかったことが分かる。ただ、具体的になるのは、子どもたちの就学が拡大し定着していく後のことである。

1899(明治32)年、実業学校令が制定される。それに伴って、翌1900(明治33)年、尋常小学校が「4年」と定められ、尋常小学校の後に実業学校(乙種)および実業補習学校、さらに2年間の高等小学校の後には、甲種実業学校が置かれた。1908(明治41)年には、尋常小学校は「6年」となり、その後に、乙種実業補習学校や徒弟学校、2年の高等小学校の後には、同じく、甲種実業学校が続いていた。

これらの「実業学校」の制度化について、欧米の教育の実態や理論に依拠していた織田万などは、「業務 Beruf 教育」は社会の進歩が必要とする「分業」に応ずるものだとして、積極的に評価しているが(前掲書)、やはりこれもまた日本の現実とはそぐわなかったようだ。

学制当初から、「学問は身を立つるの財本」と煽られ、形式的な「学歴」が意味を持つ学校階梯が仕組まれた日本では、国民の経済力が高まるにつれて、国民(男子)が目指したのは「中学校」である(女子は「高等女学校」。男子の「中学校」が女子にとっては「高等」に位した)。上級の学校に進学するための「一般的な学力」が要請されたためであろうか、尋常小学校・中学校・高等学校の教育内容が、すべて「普通教育(高等学校は「高等普通教育」)」と規定されていたのである。

一方で、国家主導の「殖産興業」により、資本主義的な大企業も国家の力を頼んでのこと、そこで働く労働者も言葉通りの「単純な雇用労働者」、特定の職能に長けた自立的な職工が育つ暇もなかったであろう。それは、イギリスのような「職工組合(ギルド)」や産業別組合を持ち得なかった戦前・戦後を通じた日本の労働者・労働組合の特徴の一つでもある。また、それに乗れなかった昔からの中小の労働現場は、親方による「徒弟制度」が残り続けていただろうし、それこそ「封建的な徒弟制度」と、疎んじられたものと思われる。

ところが、昭和年代に入ると、学制以来続いてきた国民教育制度の綻びが目立ち、「教育の機会均等」や、普通教育と実業教育の対立、などが大きく問題化されるようになる。この当時、帝国教育会、教育研究会、全国中学校校長会、経済審議会、日本工学会、茗渓会、教育改革同志会、その他、阿部重孝の私案なども含め、大掛かりな「学制改革案」が提唱されている。

中でも、武部欽一などは、「現代の社会組織の下では、普通教育を重んじ、実業教育を軽んじるというのは、誤った思想である」と述べてもいる(『現代法学全集』第27巻『教育行政法』、日本評論社、1930)。さらに続いて、デューイの「ソーシャル・センターとしての学校」観に基づき、「普通教育と職業との統合近接」を主張するものや(龍山義亮『教育制度の研究』日本学術普及会、1926)、「現制の高等小学校、青年学校、低度(ママ)の実業学校を一丸として、国民大衆の為に新たな教育体系を確立することも不可能ではあるまい」と大規模な教育改革を提唱するものも少なくなかった(阿部重孝、城戸潘太郎など。なお、山本敏夫・持田栄一編著『教育演習・教育制度』所収の伊藤祥子「教育制度研究の歩みー戦前戦後の日本」参照。学文社、1969)。

だが、これらの大規模な「教育改革案」は、間もなく突入する「戦時体制」の下、戦前においては実現することはなかった。ただ、実業学校その他の職業教育課程が、その後の高等学校や大学への進学が閉ざされていたために、「行き止まりの複線型」として、国民にも歓迎されず、「封建的な教育制度」として批判的に位置づけられていたことは、幸か不幸か、戦後にも大きな影響を及ぼしたのであった。

4 持田栄一の「民主国民教育論=堀尾輝久」批判

田中萬年氏によって、私は「教育を受ける権利」の擁護者、と認定された(本第26号)。しかし、正確には以上述べてきたように、「擁護している」というのではなく、その言葉や概念が成立するに至った日本の学校教育の歴史や現状を理解する必要を主張しただけなのだ。田中萬年氏がこの「教育を受ける権利」という用語自体を「奇妙な日本語」として批判し排斥することは、決して現実的ではないし、有効でもないと思うからである。

そのため、今回、少々細かな所まで立ち入ってしまったかもしれず、その点は申し訳ないと思う。

ところで、今更ながらではあるが、私は学部で卒論を執筆していた頃から一貫して、いわゆる「グラムシ構造改革派」の持田栄一支持であり、院生になって以降は何と「持田栄一一派?!」であった(『講座マルクス主義6教育(持田栄一編)』日本評論社、1969、持田栄一編『教育の変革への視座』田畑書店、1973、など参照。「伊藤」姓で執筆)。

ごくごく少数派、今となれば殆ど知っている人すらいない「持田栄一一派」とは?一体何を主張していたか。

それは、宗像誠也に続いて「民主国民教育論」を展開していた堀尾輝久批判を主として、「下からの教育変革」を志向していた一学派であった(なお、日本の教育行政論における持田栄一の歴史的位置づけに関する最新の論稿として、広瀬裕子編著『カリキュラム・学校・統治の理論』世識書房、2021、とりわけ第9章広瀬裕子を参照)。

宗像誠也は、戦前・戦後を「教育勅語体制VS教育基本法体制」と位置づけ、「前者は×、後者は◯」という極めて単純な歴史認識を根底に据えていた。「戦後民主主義」の全面的な肯定である。したがって、1950年前後、いわゆる冷戦体制下で始まる日本の政治の右傾化に対して、それは「戦後民主主義」の否定=「反動化」と規定し抵抗する「民主的な国民運動」を支える心強い理論でもあった。

一方、堀尾輝久の「公教育論」も、主としてフランスのコンドルセに依拠し、市民の「教育への自由」「教育の私事性」を基軸に「公教育論」を構築し、「思想の自由=内面の自由」は、公教育においても堅持されるべきだ、とした。また、公教育の「義務制」は、国民の教育を受ける権利保障のためであり、国家はその「国民に教育を受けさせる(保障する)」ために、「義務制=無償制」で応じなければならないとする。

戦後憲法は、第26条で、「すべて国民は、・・・その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と規定している。田中萬年氏は、憲法改正案をめぐる貴族院の「帝国憲法改正案特別委員会」での審議にまで目を通し、そこで、佐々木惣一が「教育を受ける権利」に疑問を呈していると指摘する。しかし、残念ながら引用されている部分を読む限り、佐々木惣一はこの26条の「重点」がどこにあるのか、と問うているのである。「ひとしく」に重点の置かれた「権利」なのか、「教育を受ける」に重点のある「権利」なのかと。田中萬年氏が抱くような、「教育を受ける」ということが「権利」になるのか?という意味合いではない。それを受けた田中耕太郎が、「ひとしく」という事にこそ意味がある、と答えつつ、だが「教育を受ける権利」という「権利規定」も重要であると答えている。

改めて考えるまでもなく、この条文は奇妙である。「その能力に応じて」と「ひとしく」が当たり前に繋げられている。

戦後の「民主主義教育」は、殊の外、この「ひとしく」に焦点を当て、戦前の「行き止まりの複線型」学校体系を嫌悪し、「全ての人に開かれている」オープンな戦後の「単線型」学校体系を手離しで評価した。1960年当初から始まる「高校全入運動」も、父母・教師を中心としたいわゆる「戦後民主主義」(すべての者に後期中等教育を!)を掲げた教育運動であった。

もっとも、この「ひとしく教育を受ける権利」は、基本的に「能力に応じて」「選別・分断」の要素をもつ日本の学校教育に対して、「障がい児」の学区内小・中学校への、あるいは希望する高校への入学希望=就学闘争の際に、それなりの理論的支柱として活用されたのは事実である。

その点は認めつつ、しかし持田栄一一派は、「国民づくり」という国家的イデオロギー政策とともに、この「能力に応じて」の能力主義、選別機能に批判を集中させた。なぜなら、戦後の国民教育制度とは、基本的に「労働力商品の再生産」装置であり、「テスト」「成績」「入学試験」によって人々を「能力別」に選別する国家の中枢機能の一つでもあるからである。また、戦後の公教育は、「家庭・学校・企業」の三位一体化した構造の中で営まれていった(本田由紀など参照)。

結局、問題は、戦前日本の天皇制国家および戦後日本の象徴天皇制と、復権した文部省による国家主義的教育行政についての、さらに丁寧な分析と批判が求められていたといえる。その点では、堀尾輝久らの「民主国民教育論」も、その批判を試みた「持田栄一一派」も、現実にはほとんど効力を発揮できなかったと言えるだろう。

この『現代の理論』で、私の戦後の教育の振り返りを数回にわたって掲載して頂いたのだが、最後にその論稿一覧を上げさせてもらうことにする。作業はまだまだ中途ではあるが、1号分だけでも読んでいただければ、私の問題意識の一端だけでも分かってもらえるかもしれない。

戦後教育委員会制度と文部省の復権―教育勅語との共存(第4号・2015春)

日本の戦後公教育のゆらぎと確立―文部省の延命のいきさつ(第5号・2015夏)

冷戦下での文部省体制の確立(第6号・2015秋)

官僚的教育行政の確立―1956年地方教育行政法の強行採決(第8号・2016春)

高校全入運動と大衆社会の到来(第10号・2016秋)

教育勅語と教育基本法―断絶と通底(タブーと強制では「道徳」は育たない)(第12号・2017春)

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

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