特集 ●第4の権力―メディアが問われる  

社会民主主義の再生とベーシックアセット

拙著「貧困・介護・育児の政治」をめぐって

中央大学教授 宮本 太郎

(本誌では、本稿の宮本太郎さんの提起をふまえ、次号で労働政策研究・研修機構労働政策研究所長・濱口桂一郎さんと宮本さんの対談を予定します―編集部)

1.コロナ禍のなかの「新しい生活困難層」

現代日本の社会保障と福祉について、そのきわめて厳しい現実を受けとめつつ、そこになお何らかの可能性をみいだそうとする時、私たちはこれまでの経緯をどう振り返ればよいのであろうか。

社会保障と福祉を、単に市場経済の補完物と考えるのではなく、市場経済の構造そのものを転換するツールになり得るものとして、その可能性を引き出す手がかりを得ようとするならば、どのような視点が必要なのか。

この30年ほどを振り返ると、介護保険制度の導入など、市民運動が関わった広義の社会民主主義的な改革もおこなわれてきた。その達成について、今の時点でどのように評価できるのか。新自由主義が席巻しているようにいわれる現実のなかで、改革の成果は無に帰してしまったのであろうか。

2021年4月に公刊した拙著『貧困・介護・育児の政治 ベーシックアセットの福祉国家へ』(朝日新聞出版)の問題意識を、この『現代の理論』という媒体の性格を意識しつつ要約するとこのようになろうか。

目の前の現実から出発すれば、希望の火をともすことすら困難に感じられることはよく分かる。

この国では、非正規雇用、フリーランス、ひとり親世帯、心身の障害を抱える人などのなかで生活困難が深刻化していた。こうした「新しい生活困難層」に、これまでの社会保障と福祉の制度が対応できていなかった。そこにパンデミックが追い打ちをかけた。

これまでの日本の社会保障と福祉は、男性稼ぎ主の安定雇用(全部雇用)を前提に、これに税支出で財源を補填した社会保険を組み合わせて、家族扶養を可能にすることを基本としていた。税を国民健康保険や国民年金などの地域保険の財源補填に充てた分、税だけで運用する生活保護などの公的扶助に充てられる財源は制約され、その対象は事実上、働くことができない人々などに絞り込まれてきた。

旧来の制度の限界はすでに早い段階で現れていた。一つは、男性稼ぎ主の安定雇用で扶養される家族に育児や介護が押しつけられ、その負荷が限界まで高まったことである。もう一つは、先に触れた「新しい生活困難層」、すなわち安定雇用+社会保険と公的扶助の制度の間にあって、いずれの支援も届いていない人々の増大である。「新しい生活困難層」は、安定雇用を欠いたまま、育児や介護の困難を背負い込み、さらにこれにメンタルヘルスや多重債務などの複合的困難が積み重なった人々ともいえる。

この日本社会の一番弱い部分が、いわばむき出しのままコロナ禍の打撃にさらされているのだ。

2.改革は無に帰したか?

旧来の日本型生活保障の問題点に関して、個人と世帯の支援を謳った施策が様々に導入されてきた。介護保険制度、生活困窮者自立支援制度、子ども子育て支援新制度などである。これらの制度は、公的な財源で幅広い人々の生活を支えることを目指した点で、社会民主主義的な性格の施策であった。

だが、こうした諸制度は期待された支援を実現できていない。趣旨からすれば決して間違っていない施策が失速してしまう背景には、この国の政治において繰り返されるある「パターン」がある。

まず、福祉の機能強化は、時の政権が危機に陥った際に打ち出される。1993年に自民党政権が倒れ、非自民連立政権が出来たことから介護保険制度の論議が本格化した。2009年に自民党の政権維持が困難になり、続く民主党政権もマニフェストを実行できず混乱するなかで、生活困窮者自立支援制度や子ども子育て支援新制度への動きがスタートした。私はこれを「例外状況の社会民主主義」と呼んでいる。

だが、新たな政策が実現しても、例外状況が終息すると「磁力としての新自由主義」がその展開を阻む。新自由主義をほんとうに信奉する人は決して多くはない。にもかかわらず、政策に関わる人たちが新自由主義的に振り舞わざるを得ない構造、それが「磁力としての新自由主義」だ。

日本はOECD諸国のなかで、高齢化率と政府の長期債務において抜きんでている。だが租税負担率は下から5番目だ。納税者にとって税は還元感がないまま「取られる」だけで、制度不信も強いので、よけい税は上げられない。ゆえに小さな政府しか選択肢が残らず、導入された施策は、すぐにはしごを外されるのだ。

結果的に地域では「日常的現実としての保守主義」がはびこる。その実態は、地域や家族のなかで、弱者どうしがぎりぎりのところで依存しあう姿だ。たとえば、引きこもりの50代の息子が80代の老親の年金を頼る8050問題、子どもや学生が学業を犠牲にしてケアに携わるヤングケアラー、認知症高齢者が認知症高齢者を介護する認認介護などだ。

「例外状況の社会民主主義」で福祉の機能強化が図られても、「磁力としての新自由主義」が行く手を遮り、それゆえ「日常的現実としての保守主義」が広がり、見返りのない負担への反発は、「磁力としての新自由主義」にフィードバックしこれを強める。この負のパターンが繰り返されてきたのだ。

拙著の主な目的は、あくまで福祉政治の政治過程を分析することであった。では、こうした分析に立った上で、これまで提起されてきた制度構想も活かしつつ、多くの人々を支えていく社会保障・福祉への転換を実現することは不可能なのであろうか。

この先、「例外状況の社会民主主義」すらも成立するか定かではないなか、そして欧州では社会民主主義そのものが衰退を辿っているなかで、新しい社会民主主義的なビジョンは成り立ちうるのか。

このことを考える手がかりとして、本書ではベーシックアセットという考え方に触れている。このベーシックアセットについて、少し敷衍しておきたい。

3.ベーシックホワット?

ベーシックアセットとは、言葉の響きからも推察できるように、ベーシックインカム論やベーシックサービス論をふまえた議論である。フィンランドのシンクタンクであるデモス・ヘルシンキやカリフォルニア・パロアルトの未来研究所などが提起しているが、私自身は、これらの提起に一定のアレンジを加えて論じている。

コロナ禍のなかで、ベーシックインカムが提起されることも多くなった。真剣に受け止めるべきビジョンではある。だが、竹中平蔵・パソナ会長までがこれを言い出すに及んで、この考え方の危うい側面も見えてきた。

ベーシックインカムは、元々は左派リバタリアンが主に提起していた議論である。旧来の社会民主主義が陥りがちであった国家の介入主義やパターナリズムから決別し、再分配のみをおこなう最小国家を実現することが目指されていた。

だが、生活保護から年金、失業手当に至るまで、現金給付がベーシックインカムに一本化され、しかる後に(たとえば竹中流ベーシックインカムに転じるなどして)切り下げられたら、目も当てられないのではないか。そうでなくても、ベーシックインカムという、国家の一制度に、人々がそこまで依存するというのは、実は究極のパターナリズムになりはしないか。

他方で、ベーシックサービスという考え方がロンドン大学のアンナ・コートらから提起されている。ベーシックサービスは、ベーシックインカムがサービス給付をないがしろにしていると批判する。実際にはほとんどのベーシックインカム論者はサービスも重要とするのであるが、ILOのペーパーによれば、誰もが貧困線から脱却できる水準のベーシックインカムを給付すればGDPの2割は必要になる。たしかにそれでは、サービス給付が圧迫されることは避けられない。

ただベーシックサービスという考え方それ自体についても、具体的には何を提起しているかよく分からないところがある。そもそも、誰にも有用なベーシックなサービスとは何なのか。アンナ・コートらがベーシックサービスとしてあげる公営住宅は、低所得層にとっては不可欠なサービスである。だが中間層にとっても同じであろうか。誰にも関わるベーシックなサービスがあったとして、それを抜き出して並べることにどれほどの意味があるか。

4.「私・公・共」のアセット

このように私自身は、ベーシックインカムやベーシックサービスという考え方には疑問をもっている。いずれもエッジが立った分かりやすい問題提起にみえるが、結局は現金給付とサービス給付いずれも大事だということなので、制度の全体像という点では逆に曖昧なのである。

さらに、「新しい生活困難層」を含めて、人々と社会とのつながりをどう維持、拡大していくかが、こうしたビジョンには不可欠であるが、とくにベーシックインカムについてはその点がみえてこない。誰しもが居場所を得て、あるいはそれぞれの条件に応じて働く機会があり、社会的な承認のもとで自己肯定感を高めることができる条件をどう実現するか、具体的な展望が必要である。

その一方で、改革が実現するべき目標を(できれば短い言葉で)表現することは大事であると思う。私自身、社会的包摂とかアクティベーションといった言葉を使ってきた。人々を支援し社会につなぐ、という点ではこうした言葉は依然として重要である。ただ、いささか「上から目線」であることは否めない。

ベーシックインカムやベーシックサービスが関心を集めるのは、何が保障されるのかということを明確に示しているようにみえるからだ。したがって私は、ベーシックアセットという言葉を使って、これからの社会保障や福祉が、要するに何を保障しようとしているかを表現していくこと自体は、とても大切だと考えるのである。

ではベーシックアセットとは何なのか。アセットというのは「有益な財」の総称であるから、様々な財が一揃えパッケージ化されている、といったイメージが浮かぶかもしれない。ベーシックアセットとは、「私・公・共」のアセットである。すなわち、私的な資源につながる現金給付、公的な財を使ったサービス給付、そして共同の(誰のものでもない)資源をめぐるコモンズの保障から成る。コモンズには、自然環境やITネットワークなども含まれるが、ここではコミュニティ(居場所や就労の場)に絞って考えた方がよいであろう。いずれにせよ、たしかに多様な資源に関わる。

ただしそうは言っても、これは現金給付もサービス給付もすべて並べて優位に立とうというほど安易な考え方ではない。そもそもコモンズに相当するコミュニティは、切り分けて配るわけにはいかない。コモンズをアセットにするとは、現金給付やサービスによって誰もがコミュニティに参加できる条件が整う、という意味である。

逆にいえば、現金給付とサービスも、人々をコモンズにつなげるために必要最低限で最適な組み合わせが追求されることになる。したがって、すべての人に同額の現金給付と等しいサービスを、ということにはならない。

5.何を配るかよりどう配るか

まずベーシックアセットには、私的な資源につながる現金給付と公的な財によるサービス給付のいずれもが含まれる。「私・公・共」のアセットのうち最初の二つである。

ベーシックアセットは、現金給付とサービスを、限度内でそれぞれの人の必要に応じて、と主張する。こういうと、それでは現行の社会保障制度とどう違うのかということになる。

たしかに現行の社会保障制度も必要に応じた給付を謳う。だが、人々に最適な現金給付とサービスにつなげるための制度設計は、正面から追求されてきたとはいいがたい。

現金給付から考えよう。コロナ禍のなか、特別定額給付金や生活困窮者支援金の給付がおこなわれた。この給付をめぐる混乱から浮き彫りになってきたのは、給付のターゲット化のための基準や行政手続きがあまりに未熟なままである、という事実である。

北欧型の社会民主主義が、福祉の普遍主義を提起したが、ターゲット化自体が後ろ向きであるかにいうのは誤解であり、客観的基準による透明度の高いターゲット化は有用である。

児童扶養手当の受給児童は90万人を超える程度であるが、17歳以下の人口に子どもの貧困率を掛け合わせて相対的貧困にあると目される子どもの数を概算すると250万人ほどになる。このギャップを埋めつつ、子どもの貧困率を抑制する現金給付は、ベーシックインカムよりずっと説得的でかつ現実的であり、支持を広げる可能性が高い。

サービス給付についても、人々を最適なサービスにつなげる仕組みが重要になる。実はこの点で、「例外状況の社会民主主義」のなかで提起されてきた準市場のかたちは、ベーシックアセットの前提として重要になる。準市場は、元々はイギリスの社会政策学者ジュリアン・ルグランが、パターナリズムに傾斜しがちだった社会民主主義の刷新のために唱えた考え方で、あくまで公的な財源に基づいて、利用者の選択の幅を広げる仕組みである。

本来は、介護保険制度や子ども子育て支援新制度のグランドデザインは、この準市場であった。ところが、「磁力としての新自由主義」に阻まれ、現状では単なる市場化に陥り、むしろ一部の人々を排除する結果を招いている。

こうしたなかベーシックアセットは、「何を給付するか」を形式的に絞り込むより、「どう給付するか」を重視する。

ターゲット化の基準を洗練させ、準市場の制度を本来の趣旨に近づけることは、重要な課題となる。人々と最適な給付をつなぐ支援としては、包括的な相談支援も焦点となる。相談支援は、ソーシャルワークの原点であるにもかかわらず、縦割りの制度に制約されてきた。2020年の改正社会福祉法で規定された重層的支援体制整備事業は、地域に包括的相談支援を定着させるツールとして活かされるべきである。

6.コモンズというアセット

さて、「私・公・共」の資源から成るベーシックアセットの三つ目はコモンズである。

コモンズは、誰もが必要とするが、誰のものでもなく、誰にも開かれているがゆえに、誰かによって占有されてしまいかねない、そのような資源である。コモンズ占有が引き起こす「共有地の悲劇」は、たとえば自然環境というコモンズにおいて深刻化している。

ITネットワークにもこうした占有がもたらす悲劇が起きている。ITネットワークは、参加する人々が無限大の情報を発信し、検索などをとおして多様な選好を表明し、そのことで初めて成り立つコモンズである。ところがその収益は、アルゴリズムやデータが帰属する一握りのプラットフォーム企業が独占している。コロナ禍のなかではグローバルなプラットフォーム企業への圧倒的な富の集中が起きた。

ベーシックアセットに直接関わるコモンズは、コミュニティというコモンズである。あまり話を広げて混乱を招かないためにも、ここではコミュニティというコモンズに対象を絞ろう。

私たちは、認め認められる相互承認の関係のなかで、自己肯定感を高めることができる。ジョン・ロールズは「正義論」のなかで、人々に保障されるべき基本財を検討し、「自尊(self-respect)の社会的基盤」こそ「おそらくもっとも重要な基本財の一つに数えられる」と述べていた。コミュニティこそは、自尊の社会的基盤といえよう。

官僚制が地域の共同体秩序を動員してきた歴史をもつ日本では、地域の共同体や職場の秩序は、むしろ人々を囲い込み圧迫することがしばしばであった。コミュニティもまた占有されてきたのである。

だからこそ、コミュニティというコモンズをベーシックアセットのなかに位置づけ、人々に開いていくことが求められる。自分が根を張るコミュニティは、選択可能であり、また離脱可能でもあることが、アセットたる所以である。

現金給付やサービス給付は、人々がコミュニティとつながったり、離脱したりする際の条件としても重要である。人々は、包括的相談支援や職業紹介のサービスを利用してコミュニティとつながる。コミュニティが就労の場であり、そこからの所得が十分ではない場合は、現金給付が補完することで生活が成り立つ。また失業手当給付が保障されることで、人々は馘首を過度に怖れず職場で発言し、そのコミュニティとしての実質を高めることができる。さらに一連の給付は、コミュニティからの離脱(離職であれ離婚であれ)を図る際にもそのテコとなるであろう。

7.憲法25条とベーシックアセット

以上のように、ベーシックアセットは決して現実から乖離した構想ではない。むしろ、準市場の構想を本来の趣旨に沿って発展させ、包括的相談支援を拡大し、社会的包摂を「一億総活躍」的な支援なき動員論から切り離していく上で有益な理念である。

こうした現実的課題を担うベーシックアセットの構想には、実は憲法上の根拠があるといえるのはではないか。他でもない、憲法25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文である。

憲法25条のこの表現は、国や自治体による給付それ自体より「生活」を保障している点で独自のものがある。そのためには、当事者がコミュニティというコモンズに能動的に参加できることが重要な条件になる。さらに、「健康」な生活のためには自然環境コモンズが、そして今日の「文化的」な生活にはITネットワークというコモンズが、グローバルビジネスに蹂躙されることなく、誰にも開かれたかたちで成立している必要がある。

ベーシックアセットは、まさに「健康で文化的な最低限度の生活」を今日的な次元で実現していく構想なのである。この場合、いかなる給付でどのようなコモンズとつながるかは、心身の、あるいは経済的な条件によって異なり、また一人ひとりの幸福観も関係する。そのためにも、準市場などの制度で国民がサービスを選択し、包括的相談支援などでコモンズを見渡せることが大切になるのである。

みやもと・たろう

1958年東京都に生まれる。中央大学大学院法学研究科修了。中央大学法学部教授。北海道大学名誉教授。福祉政治論専攻。内閣府参与、総務省顧問、男女共同参画会議議員など歴任、現在、社会保障審議会委員、『月刊福祉』編集委員長など。単著に『共生保障 「支え合い」の戦略』(岩波新書)、『生活保障 排除しない社会へ』(岩波新書)、『社会的包摂の政治学 自立と承認をめぐる政治対抗』(ミネルヴァ書房)、『福祉国家という戦略 スウェーデンモデルの政治経済学』(法律文化社)、『福祉政治 日本の生活保障とデモクラシー』(有斐閣)など。

 

 

『貧困・介護・育児の政治 ベーシックアセットの福祉国家へ』

(朝日選書/宮本太郎著/2021.4/1,870円)

■複雑な福祉政治を読み解く――「例外状況の社会民主主義」が「磁力としての新自由主義」に阻まれ、「日常的現実としての保守主義」へ

■「新しい生活困難層」とは誰のことか 日本にいかなる分断関係が生じているか

■介護保険制度や子ども・子育て支援新制度は、市場化に向かうのか

■北欧ももはやそのままモデルにはならない 何が起きているのか

■ベーシックインカムでもベーシックサービスでもなくベーシックアセットを

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