特集 ● 歴史はどう刻むか2・8総選挙
現代日本イデオロギー批判 ―⑩
虚構の概念によって縛られた思考の落し穴
徘徊する200年前の反動思想家の亡霊について
神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠
人間はこの世に存在しない?
「一七九五年の憲法は、先行の諸憲法とまったく同じように(と彼は書いている)、人間のために作られた。ところが人間というようなものはこの世に存在しない。私はこれまで生きてきた間にフランス人、イタリア人、ロシア人などを見たことがある。モンテスキューのおかげでペルシャ人ということもあり得ると知っている。だが人間について言えば、はっきり言って私は生まれてこのかたまだ出会ったことがない。もし人間が存在するとしても私には未知である。」(バーリン著『反啓蒙思想』岩波文庫より重引)
これは、フランスの反啓蒙思想家ド・メストル(1753-1821)の言葉である。ド・メストルは、フランス革命の激動期を、「あらゆる形の立憲主義と自由主義の仮借ない批判者、教皇至上主義の正統王朝派として現れ、権威と権力の神性を信じ」(バーリン)た、文字通り反革命・反動思想家として生き抜いた人物である。そのド・メストルが批判しようとしたのは、テルミドール反動によってロベスピエールの恐怖政治が終わった後の総裁政府を成立させた共和暦三年憲法であった。この憲法もフランス人権宣言を基本的に継承する内容であったことを批判しようとしたのである。
フランス人権宣言は、周知のように正式には「人間および市民の権利の宣言」といい、啓蒙思想の強い影響下に自由や平等が人間としての普遍的権利であることを高らかに謳い上げていた。封建的身分制と王権の正統性を信じるド・メストルには、それは到底許せるものではなかった。そこで彼は、普遍的人権の主体としての「人間」の概念に対して、攻撃を加えようとしたのである。
啓蒙思想の中心的教義をバーリンによりつつ整理すれば、「人間の本性はいつでもどこでも根本的に同一で、人間には人間としての普遍的な目的があり、証明可能、検証可能な一連の法則と概念の論理的結合からなる一つの認識体系を構築する能力、すなわち理性が備わっている」ということであろう。そして、こうした理性の働きによって、無知や偏見、迷信、ドグマ、幻想を一掃し、人間を政治的不正や制度的抑圧から解放し、文明の進歩・発展を実現することが可能になる。
こういう啓蒙思想の描く人間は、ド・メストルにとっては、哲学者の抽象的思考によって捏造された虚構でしかなく、現実に存在するものではない。虚構でしかないものは、目には見えるはずもなく、見えないものは存在しないというしかない。存在しないものに権利を与えても無意味である。無意味な行為は、混乱をもたらすだけである。ジャコバン派の恐怖政治の原因は、実在しない、虚構の人間を実在するかのように偽り、実在しないものに自由や平等の権利を認め、政治的意思決定をゆだねてしまったことにある。共和暦三年憲法は、ジャコバン派追放の後に制定されたが、その思想的基礎まで破壊するには至らなかった。その体制は、いずれ新たなる混乱と悲惨をもたらすに違いない。これがド・メストルが主張したかったことであった。
民族も国民も、もう一つの虚構である
ド・メストルの危惧が実際にどうなったかはともかくとして、彼の目にはっきりと見える実在する存在は、なんであったか。それは、フランス人、イタリア人、ロシア人であり、そしてあり得るかもしれない存在としてのペルシャ人であった。ペルシャ人については、当時話題をよんでいたモンテスキューの著作『ペルシャ人の手紙』を念頭に置いていると思われるが、「あり得る」程度の認識であり、ヨーロッパ以外の人種・民族はほとんど眼中にない不確かな存在でしかなかった。ド・メストルにとって、その実在が確かに認められるものは、ヨーロッパの諸民族だけであったといってもよい。言語や習慣・伝統・血統など実際に共有されていると認識できるものが実在であって、それは具体的にフランス人や、イタリア人、ドイツ人、ロシア人などの名で呼ばれる諸民族であるということになる。
啓蒙主義の抽象的・作為的な人間観念に対して、具体的な言語や伝統を担う民族を持ち出すド・メストルは、単なる封建反動ではない。封建反動であれば、人は身分や職分によって分類される、すなわち人間一般ではなく、君主・貴族・農民・商人・職人などとしての存在こそが実在であると主張されるはずである。ド・メストルはそうした封建制的範疇に執着することなく、ナポレオンによる「革命の輸出」に抵抗して登場したナショナリストに類似した論理を展開する。
しかし、ド・メストルが抽象的虚構と断じた人間観念に対置し、これこそが実在だと主張したフランス人、イタリア人、ロシア人についてもそれほど充実した実在という印象は受けない。たとえば、フランス人という範疇について考えてみよう。ド・メストルの時代には、すでにヨーロッパ大陸西部の一定の土地の上に居住し、生活し、言語・文化・伝統・制度を共有する集団を一つの民族として認識し、フランス人と呼ぶことが広く承認されていたとしてもよいかもしれない。しかし、そのフランス人はどこから来た人々であったのか、については十九世紀においても、ゴート族あるいはフランク族に由来する、いやローマ由来のラテン民族である等の諸説があり、一定しない。さらに現代にまで独自の民族性を主張するノルマン人やブリトン人もフランス人なのか判然としない。それでもフランスはすでにブルボン王朝の下で絶対主義の中央集権国家が形成されていたから、そのいわば外枠に合わせてフランス人という範疇の実在性を主張しえたといってもよいかもしれない。
それに比して、イタリア人の場合はもっと曖昧性が増す。周知のように、イタリアに統一国家ができたのは、一八六一年のことで、それまでは都市国家といってよいであろう小国家が併存している状態であった。人々は、ベネチア人、フィレンツェ人、ナポリ人、シチリア人という意識はあっても、イタリア人という認識が明確に存在していたかどうかもあやしい。そういう状況はドイツでも似たような状況であった。イギリスやロシアにしても、それぞれ異なる経緯・歴史があるにしても、民族として明確に規定された範疇が確立していたとはいえる状態ではなかった。
たしかに、人種や民族の概念は、人間一般という概念ほどの抽象性はない。しかし、その概念もどう定義してもその周辺に曖昧さを残さざるを得ない。また、伝統や歴史にその由来を求めようとしても、時間をさかのぼればさかのぼるほど事態はあいまいさを増す。その曖昧さを逃れようとして物語を作り出そうとしても、その物語の神話性を強め、権力による意識的注入と言って悪ければ教化によって、かえってその虚構性を強めざるを得ない。その意味では普遍的人権の担い手としての人間の概念を否定しようとして人種や民族の概念を持ち出しても、その虚構性を完全に排除することは不可能なのである。
「同じ民族なのに」と「同じ人間なのに」の論理は対立するか
啓蒙主義的人間を排除し、民族や人種を持ち出し、普遍的人権の名による革命に敵対しようとする試みは、民族や人種の概念が多分に曖昧さを含んだ虚構性を排除できないという意味で、啓蒙主義批判としての限界を有することが明らかになった。民族や人種の概念を持ち出すことによっても、自由や平等という権利の概念を否定することはできない。自由や平等という権利の要求は、封建的身分制による社会あるいは人間活動への拘束からの解放を求める人々の要求から生まれる。
封建的身分制は、社会を垂直方向に序列化する制度である。市民革命以前のヨーロッパ大陸においては、王族や貴族階級の人々は、後に民族国家として地域的に分断され、独立の政治体として自立することになる枠組みを横断する支配階層を形成していた。人々は、王侯貴族が領有する封地(領地)の中で農民・職人という身分に封じ込められて生活していた。市民革命は、抽象的人間が天賦の普遍的な自然の人権を実現するという論理によって起こされたということであるが、それはいわば理念的な側面を表現しているだけであって、実態は領地と身分によって水平的にも垂直的にも分断された社会の壁の破壊の過程であった。
人種はともかく民族や国民の概念は、自由や平等という理念と相反するものではなく、場合によってはその理念の現実化への強い援軍となることもある。民族ないし国民の国家が成立すると、その国家の維持のための負担が生じる。納税や兵役、勤労など国民の義務とされる負担である。負担を負わされた者は、負担に応じた見返りを求める。その見返りは、経済的なものとは限らない。権利や権限、名誉の配分であることもある。一部の集団が、富、権力、地位、権限など様々な価値の配分において有利な配分を受け、特権化することには「同じ国民」あるいは「同じ民族」なのにという批判・反発が起こってくる。少なくとも、価値の配分をめぐる競争に平等に参加する条件とチャンスを保障しろという要求にこたえなければ、そのシステムは安定しない。民主主義がそういう機会の平等の保障を意味するとすれば、ナショナリズムと民主主義との相性は悪くない。(ナショナリズムに批判的な啓蒙家はこのことを忘れがちであるが。)
にもかかわらず、ナショナリズムは時に暴走し、流血と戦争という悲惨と暗黒をもたらしてきた。ナショナリズムの論理が、「同じ民族なのに」という範囲を超越して、「同じ人間なのに」というところまで展開するのを妨げてしまうからである。しかし、これとても論理必然的にそうなるというわけではない。民族内部の人と人との平等という論理が、民族と民族との平等という論理に展開する可能性も存在するのだ。
それでは、その可能性の現実化を妨げているものは何か。それは、ド・メストルの所説に現れている人間観にある。ふたたびバーリンのド・メストル論によって整理すれば、ド・メストルは、「基本的人間性という理想化された概念を先験的に措定するかわりに」、「歴史や動物学や普通の観察が示す経験的事実に訴え」、「進歩や自由や人間の完成可能性といった理想に代えて」、「人間の本性は救いがたく悪に染まって腐敗しており」、「権威と階層秩序、服従と隷属がどうしても必要である」と説き、さらに「共通の利益と人間の生まれながらの善性を前提とする平和と社会の平等の理想に代えて」、「堕落した人間と人間が属する諸国の通常の状態は本質的に不平等であり、各人、各国の目的や利害が互いに激しく衝突する」のが現実であると主張した。
ようするにド・メストルは、人間は本質的に堕落した悪であり、その人間同士がいさかいを起こし、流血と戦争は必然であると主張しているというのである。こういう人間と社会についてのニヒルな現実主義とナショナリズムが結合した時、その暴走が始まる。まるで二百年前の思想家が、現代の全体主義の苛烈な支配と残酷な戦争を見通していたかのようではないか。
虚構の概念の前に立ちすくんではいられない
ところで、今世界を見回してみると、あっちでもこっちでも、表現は様々であるがMAGA的自国第一主義が蔓延しているように見える。まるで、十九世紀の帝国主義時代を彷彿とさせるものがあるかと思えば、ずっと遡って古代帝国の再来を待望しているのかと思わせるものまで、登場した。偉大なとか、強いという形容詞の氾濫は、それぞれの偉大さや強大さがそのまま実現したらどこかで必ず衝突せざるを得なくなるのではないかと心配になるほどである。
そうした世界の動きの火付け役は、アメリカ合州国のトランプ政権であることは言うまでもないが、その余波は確実に日本にまで及んできた。まだ、「日本を再び偉大に」(MJGA)とまではいかず、「日本列島を強く豊かに」などと、よく考えると意味不明なスローガンを、「全身全霊をかけて成し遂げる」などと大仰な身振りで声を張り上げるのは、ご愛嬌というしかないが、「日本人ファースト」とまで言わないまでも、「日本人だから日本のことを第一に考えるのは当然でしょ」とか、「外国人を差別するわけではないが、日本で暮らそうとするなら日本に同化してもらわなければ」などということが、いかにも当然のような雰囲気は確実に広がっている。
選挙戦のキャンペーンを聞いても、人類や普遍的人権や平和を語る声はか細くなるばかりで、ほとんどの政党は、物価対策・生活支援あるいは減税・給付金・負担軽減の具体策のレベルの競い合いに終始していた。そして、その具体的政策の対象範囲は、日本や日本人に限定されていることが暗黙のうちに共通の前提になっていた。二百年前の反動思想家は、啓蒙思想の抽象性・観念性を批判して、人間や市民の概念に代えて、フランス人・イタリア人・ロシア人のような経験的に認識可能に見える民族の概念を強く押し出さざるを得なかったが、現代の日本では、具体的であり、現実的であることを政策の前提に掲げさえすれば、人々の思考を日本や日本人という特定の国家・民族の枠組みの中に閉じ込めることが可能になっているのである。
思い起こせば、世紀が変わったころから、「空白の何十年」という言葉が呪文のように繰り返されてきた。右も左も、保守もリベラルも、それぞれ異なる内容を込めているのであろうが、同じ呪文を唱えてきた。空白なのは何なのか、厳密に定義されることもなく、なんとなく「日本」が主語の位置に据えられていた。「空白の何十年」という呪文は、日本(国家)や日本人(民族)という曖昧さを残す概念を主語の位置に置き続けることに成功した。階級はいうまでもなく市民も人間も、主語の位置から確実に排除されつつある。高市自民党の大勝は、「高市推し」とかネット選挙だとかの要因によると考えている者には、気づかないところで大きな変化が起こっている。アメリカ合州国のトランプ陣営が、五年前の敗北の教訓から「文化戦争」に転じ、復活再選を果たしたことが指摘されているが、日本でも「空白の何十年」という表現の浸透が「文化戦争」の代わりの役割を果たしたように思われる。
二百年前の反啓蒙思想家は、強面の妖怪のようにみえるが、現代の反動はお土産をぶらぶらさせて、ニコニコ顔で近づいてくる。しかし、虚構の概念(ナショナリズム)とニヒルな現実主義(所詮世界はカネと力だ)が結びつけば、暗い将来が待っていることに変わりはない。虚構の概念の前で立ちすくんでいるわけにはいかないのである。
きつかわ・としただ
1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。
