特集●資本主義のゆくえ

〔連載〕君は日本を知っているか ⑧

歴史から虚像をはぎ取る―『忠臣蔵』大野九郎兵衛の
人物像をめぐって

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

虚像と実像の間

今回は、「知っているか」どころではなく誰でも知っていると思われる人物についての話である。ただし、「誰でも」といっても時代劇に関心が無い若者には、歴史の教科書や授業で教えられることも無い人物なので、あまり知られていないかもしれないが、かつては老若男女を問わず誰にでも知られていた人物であった。その人物の名は大野九郎兵衛という。そう、『忠臣蔵』で「悪名」の高い赤穂藩国家老だった人物である。

なぜ、そんなに有名な人物を取り上げるのかという点については、後で論じるとして、まずは大野九郎兵衛が、一般的な『忠臣蔵』の物語の中でどのように描かれているかを見ておこう。『忠臣蔵』で大野九郎兵衛が登場するのは、江戸城中で主君の浅野内匠頭が、吉良上野介に対して刃傷に及び、幕府から切腹・お家断絶の処分を受けたという一報が国元赤穂に届いてからである。一報を受けた赤穂藩は、上を下への大騒ぎ。二百数十名の家臣達は登城を命じられ、そこで対応を協議することになった。

筆頭家老大石内蔵助は、全員籠城・切腹を主張し、大野九郎兵衛は恭順・城明け渡しを主張し対立した。その後も禄を失うことになった藩士への配分金でも対立した。大石は均等配分を主張し、大野は禄高に応じた配分を主張した。結局、大石も含め開城・赤穂退散を決めた。その時、大石が求めた盟約に加わった者は六十数名(このうち最後まで大石と行動を共にしたのは四十七名の「義士」ということになる)にとどまり、家臣の大半は離散した。大野もただちに赤穂を退散し、その後の足跡は全く知られていない。この大野の退散について、夜逃げ同然で、家財道具どころか幼い孫娘までおいていったという話も伝えられている。

こういう大野についての評判は、当然のことながらいいものではなかった。後世に芝居で演じられ、講談で語られた『忠臣蔵』の物語の中では、不忠、臆病、卑怯などの悪評がついて回ることになった。しかし、大野についての悪評を実証する確かな資料は、実際にはほとんどないのである。夜逃げ同然の大野の「逐電」について、よく使われる『堀部武庸筆記』の記事も伝聞にもとづいているもので、資料としての信頼性は必ずしも高くはない。堀部は高田馬場の仇討ちで有名な堀部安兵衛のことであるが、堀部は江戸の仇討ち急進派の一人であり、大野の「逐電」当時は赤穂にはいなかったことは確実であり、『筆記』も「仇討ち」後に書かれたものだからである。

実際のところ、大野については、その人物像も赤穂退散以後の動静についても不明というしかないのである。にもかかわらず、不忠者大野の悪評は拡大し続けた。いわば虚像が独り歩きしていったのである。

なぜ虚像は独り歩きしたか

たしかに、幕府への恭順を主張し、禄高に応じた配分金を要求し、家老という要職にありながら一般の家臣達の行く末を見届けることもなくいち早く身を隠してしまったことは間違いなさそうだから、大野に悪評がたってもおかしくはないかもしれない。特に、「討ち入り」を成し遂げた側からすれば、それに加わらなかった大野を裏切り者扱いすることも無理からぬ点もあるだろうと思われる。しかし、それにしても講談や芝居あるいは映画などに登場する大野は、いかにも強欲そうで、その実臆病そうな人物として描かれることが多い。不忠者というイメージは、そういう描かれ方の累積によって定着してきたといってもよいであろう。

このような不忠者イメージの形成には二つの大きな要因がある。一つは、赤穂事件の歴史的資料が、「討ち入り」を成し遂げた側に多く残り、それに加わらなかった者についての資料が極めて乏しいという要因である。「討ち入り」に参加した四十六人は、周知のように「討ち入り」後、切腹するまでの二か月半余、細川藩などいくつかの大名の江戸屋敷に「お預け」ということになっていた。その間に参加者たちは、各藩家臣からの聞き取りに応じたり、身辺を整理してかなりの記録を残すことができた。それに対して、不参加の者は、世間をはばかってひっそりと暮らすことを余儀なくされ、記録を残すどころではなかったと思われるし、実際ほとんど残っていない。したがって、「討ち入り」参加者の言い分や評価のみが後世に伝えられることになったという事情が、大きく影響したということである。

二つ目は、「討ち入り」参加者を「義士」に祭り上げる動きとの関係である。「討ち入り」を、主君の仇を討った忠義の武士による「義挙」とするか否かについては、儒学者達の間ではやかましい論争があったが、江戸庶民の間では「義挙」とする評判が圧倒的であったらしい。歌舞伎や講談など庶民向けの大衆芸能の世界で、赤穂事件はかっこうの演題に取り上げられ、上演されることになったが、幕府への抗議という性格を持つ「討ち入り」事件は、「義挙」として美化されることになった。

事件を「義挙」として、また赤穂浪人を「義士」として美化することは「忠」という幕府推奨の封建道徳を称揚するという結果にもなるが、そこに庶民の幕府への反感を読み取ることも可能ではある。それはともかく、美化の効果は、「義士」に対して「不忠者」を対置することによって増大する。ドラマの構成上から、「仇」はより憎々しく、「不忠者」はより姑息で、臆病者のように誇張して描かれることになるのである。

赤穂事件をドラマ化した物語を『忠臣蔵』と総称しておけば、『忠臣蔵』は、特に「忠」の倫理的価値が天皇制のイデオロギーとして強調されるのに即応して、「義士」の物語として再編・強化されていった。「義士」という呼び方も明治中期以後に定着したといわれている。吉良も大野についても、そういう風潮の中で仇、不忠者としての虚像が独り歩きしていったのである。

歴史は虚像から作られる?

虚像の独り歩きが、芝居や講談の世界にとどまっているならば、特に異を唱える必要もないが、それが人々の歴史認識に大きな影響を与えているとしたら、問題は小さくない。そして、実際、確実な資料にもとづき厳密な実証を業としている研究者ならともかく、そういう訓練を受けていない者にとって、実像と虚像の区別を付けようがないのが実情であろう。また、歴史は物語性を帯びているので、物語として分かりやすい図式で描かれている方が理解しやすいという面も否定できない。したがって、歴史と虚像は、普通に考えられる以上に密接につながっている。その意味で、『忠臣蔵』の物語とそこに描かれた人物像の問題は、歴史と虚像の関係を考えるよい実例をしめしているといってよい。

そもそも、資料的にいえば、赤穂事件の発端となった江戸城松の廊下の刃傷事件の原因自体が不明である。浅野内匠頭が度重なる吉良上野介の嫌がらせに耐え兼ね、堪忍袋の緒が切れての刃傷沙汰という芝居の筋書きを実証する資料は何もない。また、「喧嘩両成敗」の慣例を幕府が守らなかったことを問題にするならば、抗議は幕府に向けられるべきであって、吉良個人への攻撃は筋が通らない。

さらに、幕府は、浅野を取り調べた上で「喧嘩」と認定できる証拠を得られなかったので、浅野だけに厳罰を与えざるをえなかったわけで、その処置について当時の慣例上、特に大きな瑕疵はなかったというべきであろう。そうなると、赤穂の浪人達の吉良邸襲撃は、単なる徒党の思い込みによる集団暴力事件ということになり、それこそ当時の法度にてらして厳罰に値するということになる。

このように、『忠臣蔵』の物語は、その発端からして不明な部分が多く、当時も多くの論議を呼んでいたのである。しかし、その論議については、一朝一夕に論じられるような問題ではないので、ここでは、大野九郎兵衛の問題に限って検討を加えてみよう。

大野は、家老といっても、大石内蔵助のように家累代の家老ではなく、才覚を認められて取り立てられた一代家老であった。その才覚の中身は必ずしも明らかではないが、財政面での能力であったと推定して間違いはないようである。赤穂藩は、先代藩主の無理な築城事業によって一時財政難に陥っていたが、特産の塩の生産に力を入れ、財政難を克服し、表高五万石以上の財政力を持つようになっていたが、その財政運営に力を発揮したのが大野であったと推測されるからである。というのも筆頭家老大石は、「昼行燈」とあだ名されていたように、刃傷事件が発生するまで藩政に真面目に取り組んではいなかったといわれているので、藩政の立て直しは大野によるところが大きかったとしてもまちがいないところであろう。

そういう大野にしてみれば、若い藩主が理由もはっきりしない刃傷沙汰を起し、藩を存亡の危機に陥れたなどということは理解できないことであったにちがいない。幕府への恭順を主張し、禄高に応じた分配金の要求も、それほど不当なことでもない。「逐電」にしても、籠城だの切腹だの、あるいは仇討ちだのと騒ぐ家臣たちの言動を見て、早々に見切りをつけただけのことかもしれない。現代人の感覚からすれば、大野の行動の方がよほど合理的だったとすらいえるのではないか。

しかし、先にも記したように大野の人物像を推定させる確実な資料はあまりにも少ない。したがって、合理的と評価できるような人物像を描いても、その根拠は薄弱ではあろう。ただ、不忠、臆病、卑怯などという言葉で評されるのも同じように根拠薄弱であることは確認できる。ようするに不明としておくしかないのであるが、それでは物語が面白くなくなるとしても、それはあくまで虚構の物語の世界に閉じ込めておくべきで、歴史そのものと誤認することが無いように注意を払うべきであろう。その意味で、大野九郎兵衛の問題を考えるということは、歴史認識にいかに虚偽が入ってくるのかを考えるという重大な問題に気付かせてくれるきっかけになるであろう。

実は、赤穂事件と『忠臣蔵』をめぐる問題は、まだまだ多くの論点があるのだが、そのうち事件の描かれ方の変化について最後に少しだけ触れておこう。先にも触れたように、『忠臣蔵』が、忠義の「義士」とその苦労の物語に仕立て上げられる傾向は、天皇制国家が国民道徳の柱として「忠君愛国」を強調するようになるのと対応しているが、その傾向は、戦後多少は変わってきてはいる。

NHKが日曜日の大河ドラマではじめて『忠臣蔵』を取り上げた時のタイトルは『赤穂浪士』であって、「赤穂義士」ではなかったことなどがその例である。また、『忠臣蔵』を女性の視点から描くというようなドラマも登場した。さらに、堺屋太一の『峠の群像』のように、藩を企業に見立て、経済小説に仕立てるような小説も書かれた。その中で、吉良や大野の人物像にも変化が見られるようになってきた。大野についていえば、米沢の板谷峠に伝わる大野九郎兵衛第二陣説(大野は、吉良上野介の養子の出である米沢藩に逃げ込む場合を想定して、仇討ち第二陣として板谷峠に潜伏し、仇討ち成就の報を聞いて自刃したという伝承。ただし、その伝承が何時頃どのようにできたかは不明)が、注目されたりすることもあった。

今や、映画やドラマで取り上げられることもめっきり少なくなったようであるが、『忠臣蔵』の物語、それ自身の変化も、歴史を考える上で面白いテーマであるにちがいない。今年も年末が近づいた。少なくなったとはいえ、なにがしかの忠臣蔵ものが放映されるであろうから、しばし、歴史と虚像の問題について思いをはせるのも悪くはないであろう。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任、昨年4月より名誉教授。前現代の理論編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社、7月刊)など。

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