論壇

「悪人を求む」

劇作家三好十郎の遺した現代への警鐘

筑波大学非常勤講師 今井 勇

劇作家三好十郎の絶筆

「第一に私どもを取りかこんでいる大小さまざまのオウトマティズムを科学的に査察し調査する機関が必要です。それは国内的にも国際的にもすべての政治権力からできるだけ遠く離れてあるのがよい。次に人間性についての広はんな病理学管理がどうしても必要でしょう。そしてそれは特に政治や科学や組織や権力などの要所々々の部署にある人々、つまり重要なボタンやスイッチのそばに坐っている人々を絶えず重要視しなければなりますまい。」(三好十郎「悪人を求む」、『読売新聞』1958年12月19日)

三好十郎は1902年佐賀市に生まれた劇作家である。早稲田大学在学中から詩作をはじめ、サンジカリズムの立場から次第にマルクス主義へ接近していくことになる。「自分の能力と技術で以て解放戦線上の一人の雑兵たらん」との思いでプロレタリア劇作家へと転じた三好であったが、意図や理論に現実を従属させる同時代の革命運動への反発から、激しい葛藤の末にマルクス主義と決別するに至った。その後の三好は、自己の意志に反した戦争協力へと傾斜していくことになる。そのような「精神と肉体の分裂」(精神では戦争に反対し敗戦を予期していたにもかかわらず、肉体は戦争を肯定的に描くような作品を生みだし続けていた)を二度と繰り返すことのないよう、敗戦後は徹底した自己批判に基づく反戦・平和の主張を展開したのであった。そして1958年、56年の短い生涯を終えたのである。

絶筆遺稿となった「悪人を求む」において、三好は人類滅亡をもたらす核戦争を回避するために不可欠となる二つの条件を示してこの世を去った。人類が核の領域を冒すことによって直面することになった人類滅亡の危機について、まさに最期のボタンが押されるその瞬間にまで思いをはせながら綴られたその警鐘は、決して過去の言葉としてはならない。

安保法制による戦争のオウトマティズム化

まず、人類最終戦争を回避するために用心すべき問題の一つとして、三好は「大小さまざまのオウトマティズム」の弊害に注目する。三好が例示したオウトマティズムによって引き起こされる災害の特徴は、事件のどこを捜しても犯意や害意を持った人がいないということである。確かに三好の示した、ギュウギュウ詰めの満員電車の中、他人を押そうと思う人は誰もいないにもかかわらず、次々と隣から押された末に端の人が怪我や命を落としてしまう例は象徴的であり、まさにその災害を悪とするならば、「それを行った悪人がいない」のである。さらに重大な問題は、その災害に関わった全員に悪意が無かった故に、その災害の結果について直接的な責任を感じる者が誰一人として存在しない点に三好は強く恐怖するのである。

振り返って我々の生きる現代社会においては、三好が生きた1950年代以上にオウトマティズムが「無数にもつれ合って唸りを立てている」ため、日々の日常生活においてオウトマティズムによる災害に巻き込まれる危険性は一段と拡大していることは間違いない。しかしそれ以上に警戒すべきは、合理化や効率化を大義名分として社会の至るところで強力に推し進められるオウトマティズム化政策の現状ではないだろうか。なかでも、住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット)からマイナンバーへの拡大に象徴される行政システムのオウトマティズム化もさることながら、本来であれば幅広い国民の合意を必要とし、慎重な政治決断が求められる政策案件について、オウトマティズム化するための法制度が整えられることによって、なし崩し的にオウトマティズムによる災害の危険が拡大している現実から目を背けてはならない。そして、三好の言葉を借りるまでもなく「災害の中の災害は戦争」なのである。

国際情勢の変化に対応する新たな安全保障法制の整備を掲げた現内閣の試みは、戦後日本がギリギリのところで踏みとどまってきた専守防衛のラインを制度的に踏み越えるに至った。多くの批判を受けながらも強硬に法整備を推し進めようとした原動力には、「切れ目のない、隙間のない、穴のない」安保法制の整備が必要との思いがあったという。つまり、これまでは対応すべき様々な事態が起こるたびに国会論戦で時間を費やし、多くの制限を課せられたうえでの場当たり的な時限立法で対応せざるを得なかったため、いかなる事態にも迅速かつ広範囲に、そして恒常的に対応したいという思惑があったことは間違いない。

しかしそのような思惑以上に確認されるべきは、今後実現した法制度に則って迅速かつ広範囲に、そして恒常的に対応が繰り返されるなかで、海外派兵もまたオウトマティズム化される危険性があるという点ではないだろうか。つまり、戦争放棄の憲法原則を無視した安全保障法制の整備によって、新たな法制度に基づいた「切れ目のない、隙間のない、穴のない」海外派兵が可能となったということなのである。それは、海外派兵のオウトマティズム化以外の何ものでもなく、たとえ現総理や現閣僚が「戦争に巻き込まれることはない」と繰り返したところで、オウトマティズム化された海外派兵は次の政権、その次の政権においても切れ目なく繰り返され、そのいずれかで戦争に巻き込まれたとしても、そして兵士や国民に被害が及んだとしても、おそらく現総理や現閣僚の責任が問われることはない。それは三好が指摘したとおり、オウトマティズムによる災害の結果について直接的な責任を感じる者が誰一人として存在しない状況そのものであり、それが海外派兵のオウトマティズム化の行き着く末路であるならば、決して座視することの許されない現実に我々は直面しているといえよう。

戦争の惨禍をもたらす「善意の人」

そして、三好が人類最終戦争を回避するために用心すべき課題の二つ目としてあげたのが、敗戦後「どうしても犯罪者らしく見えない兇悪な犯罪者の数がむやみとふえた」点である。アルベール・カミュ作『異邦人』に登場する主人公ムルソウの姿に重ねあわされるその種の犯罪者たちは、十分な意思も犯罪の動機もなく「思いがけぬ時にびっくりするような兇行を演」じる一方で、実直で極端におとなしく、他に対して悪意を持ち得ない性質の持ち主ばかりであると三好は分析する。その意味では、もはや「善意の人」としか評することのできない人間によって引き起こされる無残な傷害や殺人事件からは、その犯罪の質と重さにふさわしい「悪人や悪意を求めてどこを捜しても見つからぬ」ことに三好は困惑する。

そのような「悪人を求めても得られない」現象と先のオウトマティズムの問題が錯綜し、不幸にも重なり合うことによって引き起こされる災害=核戦争を回避する方法として示されたのが冒頭の言葉だったのである。しかし、三好は二つの用心すべき課題をそれぞれ独立した課題として分析の対象としたが、じつは両者は決して切り離すことのできない関係にあり、広く社会におけるオウトマティズムの浸透こそが「悪人を求めても得られない」状況を再生産し続けているのではないかと考えられるのである。

つまり、先の安保法制の整備について考えるならば、法整備によって海外派兵がオウトマティズム化されると、そのオウトマティズム化された法制度に従って兵士は海外に派遣され、法制度に従って戦争を始めるのである。派遣する人間もされる人間も、あくまで整備された制度に則り行動するのであり、そこには当然ながら悪の意識や動機は存在しない。悪の意識や動機が存在しないどころか、国家によって定められた法規定に従うことは国民の義務であり、その義務を粛々と遂行することが正しいことであり正義であるとの認識の方が広く共有されるようになるのではないだろうか。その結果として、兵士が殺し・殺される存在となり、再び戦争の惨禍がもたらされることになったとしても、オウトマティズム化された日常に身をゆだね、システム化された正義に従属することを是とするかぎり、その結果に見合った悪の意識や動機を見出すことは不可能に違いない。そして、そのオウトマティズム化された正義を信じ粛々と実行するものこそ、ごくありふれた無数の「善意の人」であることを鋭く見据えながら、三好は旅立ったのである。

三好はその「善意の人」が引き起こす唐突な「無邪気な兇行」を警戒し、さらにはオウトマティズムと結びつくことによる災害の深刻化に言及したが、じつは自身の正義や価値観を信じて疑わない「善意の人」だからこそ、その正義や価値観を頑なに貫いた結果として、時に「無邪気な兇行」が実行されるのである。その意味でも、求められるべきは、既存の正義や価値観に安易に迎合するのではなく、常に批判的に検証し得る冷ややかな視線を保持した「悪人」であることは、現代においてもいささかの変りもない。ただ、既存の正義を撃つ悪もまた絶対的な正義たりえないことに、我々は絶えず自覚的でなければなるまい。それが、現代において「悪人を求む」ための心構えといえるのではないだろうか。

いまい・たけし

1976年、香川県生まれ。専門は、日本近・現代史。主要論文に、砂川基地闘争における反原水爆の意味」(『歴史評論』778、2015.2)、「三好十郎 弱き大衆が獲得した強き確信」(『三好十郎研究』6、2013.12)など。

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