この一冊

『人びとの戦後経済秘史』(東京・中日新聞経済部編 岩波書店、2016年8月)

歴史健忘症の日本人への記憶遺産

早稲田大学非常勤講師 宮崎 徹

この本はちょうど戦後70年に当たる2015年に中日・東京新聞が1年間にわたって連載した企画記事をまとめたものである。総勢29名の記者たちの奮闘の賜物のようである。「いま取材しなければ、永遠に間に合わない」これが取材班の焦りにも似た問題意識だった。実際、戦後史のそれぞれの当事者や経験者は加速度を増すごとく、いなくなりつつある。

『人びとの戦後経済秘史』

この企画を進めるにあたって彼らが留意したのは、「実際に体験した人や当時の内部文書など一次情報にあたる」ことであった。特にこだわったのは「普通の庶民や歴史の陰で日の目を見なかった人びとの証言」である。さらには、「秘史」を掘り起こし、「正史」とされていることを疑ってみるという「まっさらな態度」で歴史と向き合えば、いまの時代に有益なヒントが見つかるのではという期待がこめられている。

いってみれば、戦後の日本経済をめぐる人々の「記憶遺産」を作るという試みである。記憶遺産には輝けるものもあるだろうが、本書が主に焦点を当てているのは教訓化されるべき出来事のほうである。戦前が文字通り戦争に翻弄されたとすれば、戦後はいわば経済戦争、その歪みや副作用が人々の暮らしに大きな影響を及ぼしたからである。悲惨な結果を経験した世代がいなくなると、社会は再び危ない道を走り出す。だから、きちんとした記憶遺産を作り、いつも参照可能な形にしておかねばならない。これは歴史健忘症気味の日本人にとって大切なことのように思われる。

以下、紙幅の許す範囲で内容の紹介をしたい。本書は4章からなっているが、全体の構成がイメージしやすいように各章から1、2興味深い事例を取り出してみよう。ただし、これはまったく評者の関心本位にすぎず、各章には掘り出し物がぎっしり詰まっていることを申し添えておかねばならない。

第1章 どんぐりと爆撃機 ――国家総動員経済の真相

戦時中に松根油から石油代用品を作った話は聞いたことがあるが、どんぐりからも戦闘機燃料を作ろうとしていたことには驚かされる。子供によるどんぐり集めは1940年に農林省や文部省が自治体や学校に要請したことではじまったという。悲しいほどに、貧すれば鈍す。そして、戦後も食糧難対策として子供のどんぐり集めは続いた。一部はパンに加工され、学校給食になったのだ。

また驚くのは、東京の武蔵小山商店街で呉服店を営んできた83歳の男性の証言である。中学生だった44年には空襲による類焼を防ぐために自らが育った商店街を壊して回った。政府は廃業を勧告、店を閉めた店主らは軍需工場の労働者として徴用された。街は廃墟同然となりつつあったが、その前年には国策に促されて地元商店主ら1000人規模の満州開拓団も結成された。衝撃的なのは、敗戦後に生きて帰れた人が100人に満たなかったことだ。開拓団の悲劇はこんな都心部でも起こっていたのだ。

もうひとつだけ加えよう。戦後も活躍した有沢広巳ら当時の気鋭の経済学者が作成していた「英米合作経済抗戦力調査」の全容が最近になって明らかになった。生前、有沢本人が軍部の指示で回収、焼却したと証言していたが、まず91年に残した蔵書の中から報告書第1巻が見つかり、2014年に第2巻が東京の古書店で売られていたのが発見された。その提言では明確に「勝算がない」とはいっていないが、裏づけとなる豊富な経済情報をみれば戦力の背景となる経済力の彼我の落差は明らかであった。消極的な言い回しながら、戦争は無理だといっているのだと理解できるという。

第2章 「りんごの唄」から「炭坑節」――混沌からの生活再建

戦後すぐに活発化した産業は「改造業」だった。鉄兜が鍋に変身した。戦車や鉄砲を回収、再利用する「兵器処理委員会」という組織も作られたそうだ。いまや乗用車レガシーの人気にわく富士重工業のエピソードは1つの典型である。前身である中島飛行機は戦闘機「隼」などを生産する航空機メーカーだった。再出発に当たって米国製スクーターに倣って「新しい乗り物を作れないか」ということになったが、使えるタイヤがない。窮して倉庫に眠っていた爆撃機の尾輪を取り付けるしかなかったが、これがぴったりで開発に拍車がかかった。「ラビット」の名で量産することができ、自動車メーカーに脱皮していく足掛りになったという。

戦時に強制的に軍需品を作らされた企業はこのように改造や転用、変身と脱皮を余儀なくされた。みずからの技術力を平和な時代にいかしていくアイデアとたくましさがその後の経済成長の原動力になったといえよう。

第3章 高度経済成長と「人間蒸発」――国造りの「神話」

この時代には新旧の三種の神器をはじめ新製品が次々に売り出され、しだいに大衆消費社会が形成されていく。ここで紹介されている即席ラーメン、回転寿司など「庶民発イノベーション」も楽しい話だ。

しかし他方では、環境や健康を破壊する公害が広がった。企業内部にも誤りに気づいている社員はいた。公害の典型だった四日市コンビナートでも被告企業の元社員による内部告発があった。その人への取材では「告発の中身は社内の多くの社員が知っていた」、「辞めなきゃ私だって口に出せなかった。それが社内の空気だった」という証言を引き出している。

石油企業の役員秘書だった別の証言者も「はっきり声を上げられなかったことに忸怩たる思い」を今も捨てきれない。この人は後に公害企業で働き続ける悩みを描いた小説を書くことになった。取材記者は「戦争も公害も組織内部では多くの人が、おかしいと思いながら破局に向けて突き進んでしまった。福島の原発事故も同じ構図だ」と思わずにはいられない。

第4章 オイルショックと「老いるショック」――行き詰まる豊かな社会

70年代の2度にわたる石油危機と少子高齢化社会の到来とともに高度成長の時代も終わりを告げる。成長による利益の分配で矛盾と利害対立を糊塗してきた時代から犠牲を分配せざるをえない時代になって、あるいは日本経済が成熟化という新たな発展段階に入ったゆえに、ないがしろにしてきた理論や政策思想の欠如のつけがいっぺんに顕在化することになった。

典型的なのはバブルの発生とその後始末に際しての無能無策ぶりだ。これについては実録本や研究書がすでにいくつも刊行されている。本書でも当時の日銀理事や大蔵省銀行局長へインタビューをしている。挙句の果て、「どうしてバブルを止められなかったのか。僕らは戦犯だ」とか「(グリーンスパンからの「大恐慌時に似ている、大胆な公的資金注入が必要」)あのアドバイスをもっと研究すべきだった」といまさらいわれても救われない。


このように戦後経済の歩みをたどった取材班は、「いまの経済状況と酷似していると感じることも多かったと」と「あとがき」に記している。現に、戦時の株価操作は、現政権の金融緩和や年金資金投入による株価押し上げに重なるという。異次元の量的緩和は戦後のハイパーインフレを連想させる。財政赤字の巨額さも戦時財政を髣髴とさせる。企業の不祥事も然り。

歴史が悪い方向で繰り返しては困る。しかし、先の公害小説を書いた人の「人間は本当に変わることができるのか」という強い疑いも否定しきれない。とはいえ、歴史を謙虚に学ぶ営為を続けるしか道はなく、本書のような「記憶遺産」をいろいろな分野で作り続けるべきだろう。

最後に蛇足をひとつ。東京・中日新聞はがんばっているように感じるが、そのほか大新聞は最近、体制への忖度と自主規制がめだち、精彩がない。本書に結実した企画もの、調査報道に力を入れることが現状打破になるのではないだろうか。こういう仕事に参画する好運に恵まれた若い人たちは立派な記者になるだろう。

みやざき・とおる

1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」常務理事。

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