コラム/沖縄発

沖縄戦の表象――劇映画、フィクションの先にあるもの

映画監督/ライター 福地 リコ

「沖縄戦」表象の可能性を探る

沖縄において最も広大な米軍基地、嘉手納飛行場の近くには北谷町という町がある。国道58号線沿いには回転すしやカレーといった本土企業の大手チェーンが立ち並ぶ。58号線から海側に向かって車を走らせると、「アメリカンビレッジ」という巨大な看板とともに、煌びやかなネオンに彩られたテーマパークもどきの建造物が現れる。そこにはビーチや洋服店、雑貨屋、酸味の強い今時のコーヒー店が立ち並び、観光スポットとしても一押しなエリアだ。

この「アメリカンビレッジ」の一角に位置する比較的古い映画館は、レトロな昔のシネマコンプレックスのムードを残している。掛かる映画のセレクションも含め、私のお気に入りだ。休日は沖縄県民のみならず、近隣の米軍基地からの観客も見られる。私の住む恩納村という沖縄県中北部の村からこの映画館に向かうには、米軍基地に囲まれた国道58号線をひたすら南下しなければならない。

ハリウッドの大作映画を目当てに車を走らせていると、フェンスの向こう側の広大なスペースが目に入る。土地を持て余しているような、美しく整備された芝生を眺めながらぼんやりと思いを馳せるのは、基地ができる前ーーーーー住人を巻き込んだ太平洋戦争最後の地上戦となった「沖縄戦」のことだ。

ここでは、「表象不可能」ともいえる沖縄戦を、劇映画及びフィクションという領域から如何なる方法で表象し得るのか、過去に制作された劇映画も同時に分析しながら、これからの表象の可能性を探る。

沖縄戦を描いた劇映画『ひめゆりの塔』――憐愍の涙と錯覚

沖縄戦についての劇映画の中から、いくばくか一般に知れている作品を挙げるとしたら、何度もリメイクされている『ひめゆりの塔』(1953年、監督:今井正)と『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年、監督:岡本喜八)があるだろう。

『ひめゆりの塔』はその題材の話題性もさることながら、公開当時全国的に大ヒットを記録した。儚い乙女たちの健気なイメージ(アイコン化してると言ってもいい)は映画に限らず飽きるほど目にしてきたが、この作品も例に洩れず、少女のひた向きな姿が大衆の涙を誘った。しかしこれらの劇映画は「沖縄戦」の表象についてスクリーンに映すことを充分に検討しているとは言い難い。登場する少女たちの翻弄される運命に同情させ、感動を与え、観客を見事に感情移入させるが故に、実際の現実として起きた戦争についてはあたかも「何か」を体験したような気にさせてしまう。

映画を追体験することによって一見理解し得たかのような感覚は、劇映画を見る過程においてごく普通のことだ。しかし、現実に起きた想像の範疇を超える事象に向き合う際、触知(しょくち)できていないのにも関わらず、まるで知り得たかのような危うい錯覚を生む可能性もある。

「1フィートフィルム運動の会」の記録映像――実際の沖縄戦フィルムからみるカメラの立場性

そもそも、劇映画で表象する以前に”実際の沖縄戦”を映した記録映像はどのくらい残っているのか。沖縄戦の記録映像における「1フィートフィルム運動の会」(正式名称:子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会)は、映像資料として、さらには後世に継がれていく沖縄戦史として重要な役割を担っていた。1980年に広島の「10フィートフィルム運動」にヒントを得て発足した会であり、その映像は313本にもなるフィルムの56時間に及ぶ膨大な沖縄戦の映像だ。

小学校から高校にかけて、毎年慰霊の日間近になると”沖縄戦”を題材とした1フィートの映像を見る平和学習や戦争体験者の講演などを聞いてきたが、あまり印象に残っていないのが正直なところだ。平成生まれの私は沖縄戦どころか、アメリカ統治時代も知らない世代である。しかし、平和学習で散々見た沖縄戦の映像が、全く覚えていないかといえば、それは自信を持って否定できる。トラウマ的映像体験、すなわち幼少期に見聞せざるを得なかった沖縄戦は自分が思うより身体のどこかに記憶されているものかもしれないと今なら断言することが出来る。

現在、1フィートフィルム運動の会がアメリカから買い戻した沖縄戦記録フィルムは、公文書館などに行けば誰でもすぐ目にすることが出来る。ハリウッドの映画人など、当時のスペシャリストと言ってもいい人材をこの戦闘の場に派遣したというアメリカの意図は、敵国の戦地という撮影対象のみにとどまらず、沖縄というアジアに位置する南国の風俗を記録するという目的もあったともいえる。

”敗者は映像を持たない”ーーーーーという大島渚が残した有名なフレーズがあるが、アメリカ軍の残したこの膨大な映像資料を見ているとその言葉がリフレインして頭に浮かんでくる。陰鬱な気分になってしまうが、現在、実際の沖縄戦の映像を追体験するにはこのフィルムを見る以外選択肢が無いのである。

また、未編集のラッシュによるこの映像群は、「勝者」の特権的な視線の域を脱さない。断片的に見える住人の怯えた表情、火炎放射器によってガマが燃えていく映像は、当時の沖縄の人々が絶対に見ることのできなかった光景=映像である。我々がこの映像資料を見るときは、沖縄戦当時決して獲得し得なかった勝者の視線(見る側の視線)をなぞることで、視覚体験が成立するのである。

『サウルの息子』ゾンダーコマンドの身体的カメラワーク――視線の行く先を過剰に制限する

2015年に制作され、第68回カンヌ国際映画祭にてグランプリを受賞した映画『サウルの息子』(監督:ネメシュ・ラースロー)は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所内にて働くゾンダーコマンドという役職で働かされていた人物の目線から描かれた特異な映画だ。この作品の最も驚異的な一面は、徹底して「囚人」の視点から作られていることである。映画の中では極端に視界が限定され、カメラは主人公の男にしっかりと張り付き、彼のクローズアップや周囲の様子が断片的に見えるだけだ。

我々観客は、この強制収容所内がどのような構造となっているのか、周囲には何が存在しているのか、ナチス将校はどんな顔をしているのか、イメージを情報として得ることができない。しばらく見ていると映画内の時間の感覚ですら麻痺してくるのである。また、飛び交う怒号や「何らか」の荷物を運ぶ音、主人公の荒い息遣いが音の情報として入ってくる。断片的にしか画面内で起こっていることがわからないこの映画は、スピード感も含め時折振り落とされそうになるのである。この振り落とされそうになるという感覚は一体何なのか。

一つは、この映画を初めて見たときの「本来なら映るはずの映像」が見えないことのもどかしさに起因するように思う。「本来なら映るはずの映像」とは強制収容所の全景ショットや他の登場人物の顔が認識できるイメージ、そして起きている出来事を説明するカットである。殆どのフィクション映画が撮影、編集というプロセスを経て、観客にストーリーが伝わるよう、場面説明がカット割りの作業などで緻密に構成されている。

それに対し、この映画はそのような基本的な劇映画のコードがいくつか存在していない。強制収容所内で必死に生きる人間の限定された視界は、カメラワーク、サウンド構成を通して我々に弱き者であった人間の視界を文字通り「追体験」させる。周囲の風景を決して俯瞰することのないカメラは、当時自分たちの置かれた状況を把握できなかったゾンダーコマンドの目線(視線)に徹底的に寄り添う。見えないもどかしさを抱えながら、スピード感に振り落とされそうになりながら、この視界の狭さは何なのかを考えながら映画体験をする、稀有な作品である。

「土の人」が再構築したフィクションとしての沖縄戦

世界的にも高評価を受けている沖縄出身の映像作家、山城知佳子の映像作品「土の人」(2018年)を舞台化したライブパフォーマンス「あなたをくぐり抜けて-海底(うみぞこ)でなびく 土底(つちぞこ)でひびく あなたのカラダを くぐり抜けて-」は「沖縄戦」を現世から考える際に外せない作品である。

ヒューマンビートボックスやラップによる音響構成も印象的だが、驚くのは「見る側」であると信じていた観客が、観客自身に向けられたカメラによってスクリーンに投影される瞬間だ。倒れ伏した俳優に囲まれ、爆撃音が鳴り響く中、突然「見られる側」になってしまう観客=我々は、各々がその肉体を持って作品に対峙せざるを得なくなる。

この舞台には、沖縄公文書館に所蔵されている沖縄1フィートフィルム運動の会が集めた沖縄戦の記録映像が一部使われている。舞台のスクリーンに投影されている映像はカラーフィルムであり、火炎放射器によって焼かれていくガマや、爆撃した瞬間に立ち上る赤い炎、燃え盛る民家など、「赤」というカラーに執着してラッシュを選定、モンタージュしたことがわかる。

私はこの舞台の「一要素」としてのフィルムの使用方法は、アメリカ軍が撮影したこの映像を、サンプリングしてしまうという意味で沖縄戦の映像を再創造していると考える。すなわち、作品の素材として、アメリカ軍の撮影した実際の記録映像をモンタージュしながら「沖縄戦」を再構築する。現存する映像を駆使した作品制作の、新たな可能性ではなかろうか。

沖縄戦の映像を取り戻す――劇映画、あるいはフィクションから語る

”そもそも表象とは唯一性の代理であり、そのかぎりで表象行為はつねに唯一性を損ねることでしか成立しない”

映画評論家の加藤幹郎は、著書『映画とは何か』の中で上記の言葉を残している。

沖縄として、あるいは国家間の戦争に巻き込まれた「敗者」として映像を取り戻すこと、それはドキュメンタリー映画の持つ潜在能力とはまた別に、フィクションとして再構築していく試みがもっと必要なのではないだろうか。沖縄戦中、逃げ惑い、生き延びることに必死だった沖縄側(日本側)が、どうして悠長にカメラを回すことができよう。

戦後、数多の沖縄戦証言記録映像やドキュメンタリー映画、劇映画、ニュース映画などが出現したが、過去に遡ることは無論不可能であり、それは沖縄戦を”沖縄”側から、再構築を試みることのみが可能であった。沖縄戦のみならず、戦争において「弱者」であった人間たちの表象は、さまざまな形で劇映画、またはフィクションという領域の中にその可能性が残されている。

ふくち・リコ

1993年沖縄生まれ。「沖縄戦記録1フィートフィルム運動の会」元会長、福地曠昭を祖父に持つ。東京造形大学映画専攻卒業。東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻修了。沖縄にて映画監督及びライターとして活動。監督作「汀にて」「BOUNDARIES」など。

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