特集● 新自由主義からの訣別を   

野党ブロックの正統性と新自由主義からの転換

政治改革は二大政党制より二大ブロック制が有効

北海学園大学教授 本田 宏

民主制の健全な機能には政権交代の現実的可能性が不可欠であり、昨今は野党連携が顕著な発展を見せている。だが長く続いてきた自民党一党優位と野党分断は、政治制度や政治意識の中に構造的偏向として残っている。現実の政治主体は「不公平」な制度環境を与件として戦略を組み立てねばならないが、民主政治をまともに機能させるには政党間の競争条件を公平なものに近づけていく必要もある。しかし昨今の政党論は、野党の党首の指導力不足や個別政策の矛盾点、政権担当能力の不足などを強調するにとどまっている。

筆者はこれまで日本や欧米諸国を事例に、原発をめぐる政治過程における社会運動や労働組合、政党に焦点を当てた研究を行ってきたので、従来とは若干異なる感覚で政治をながめている。本稿では、正統性の類型化を手がかりに、権力資源の違いに注目して日本の与野党間の断層を分析するとともに、非対称性の解消に必要な野党ブロック結集の意義、とりわけ新自由主義からの転換について論じてみたい。

1. 自民党支持の根強さの意味

社会科学においては、20世紀初頭のマックス・ウェーバーを嚆矢として、被支配者が何らかの仕方で「正しい」ものと受け止めたときに、支配は効力を持つと考えられてきた。様々な組織を研究する多様な学問領域においても、組織がいかに構成員や社会全般から「正統性」(レジティマシー)を獲得・維持・喪失するかが論じられてきている。なかでも、組織社会学者サッチマンは1995年の論文で多種多様な先行研究を整理している(Mark C. Suchman, Managing Legitimacy: Strategic and Institutional Approaches, Academy of Management Review 20)。彼は、実利的(pragmatic)、道徳的・規範的(moral, normative)、認知的(cognitive)という3種類に正統性を大別し、さらに細かい分類を行っている。

実利的正統性とは利得や機会、組織体質への共感といった便益の提供や約束が受容されることを指す。マンサー・オルソンの『集合行為論』(1965年)で論じられた「選択的誘因」(フリーライダーを防ぐために組織が構成員に提供する便益)に近い。道徳的正統性とは理屈の上で正しいとされる手続きや成果測定基準、カリスマ指導者の資質により、受け入れられることを指す。一方、認知的正統性は、理解のしやすさや「当たり前と受けとめられること」(Taken-for-Grantedness)のゆえの「正しさ」を指し、強い弾力性を持つ。

世論調査における自民党の突出して高く安定した支持率は、政権党として具体的利得や政策形成過程へのアクセスを支持団体や選挙区にもたらす期待から生じる実利的正統性と、自民党政権を「当たり前」と受け入れる認知的正統性に帰すことができる。これに対し野党は、都道府県や自治体の首長を押さえている場合を除き、政権担当能力を示す機会に乏しいので実利的正統性の獲得が難しく、政権交代の必要性や憲法を引き合いにした道徳的正統性に頼らざるをえない。

このように自民党支持率が高くなりがちな構造的偏向があるとすれば、政党支持率調査の妥当性も問われなければならない。例えばドイツでは「次の日曜日に選挙があったとしたら、どの政党に投票するか」を問う世論調査が一般的であり、政党の固定支持層は党員数の調査で把握されている。

日本では、野党の支持率と選挙での得票率は乖離しているのに、世論調査の公表のたびに自民党との支持率の圧倒的格差が印象付けられる。潜在的野党支持者は自らを実態以上に少数派だと認識し、政党支持を隠すようになる「沈黙のらせん」効果が起きやすい。また選挙ごとに立憲民主、社民、共産へ投票を移動させるが自民や公明には決して投票しないような有権者は、ゆるくても明白な党派性を示すのに政党支持なし層として扱われてしまう。

2. 野党の組織的脆弱性

野党の支持率の低さは組織面の脆弱性にも起因する。かつて政党の党員が多かった西欧においても、ドイツ緑の党のように近年党員数が増加し、支持率が大政党並みに浮上している例はあるが、政党党員数の減少が一般的である。日本の場合は大衆政党モデルが元々あまりあてはまらなかった。

自民党は選挙区の地元有力者や商工業者に依拠した後援会を基盤にし、財界の支持やメディアへの影響力も含めた政権党の権力資源上の優位を享受できる。対照的に、野党は伝統的に労働組合と個人後援会が脆弱な党組織を代替し、党員が相対的にはいても減少や高齢化が指摘され、そうした党員による党内民主主義の行使は環境の変化への柔軟な適応をかえって阻害する面もある。従って日本の場合は西欧以上に、「大衆政党」モデルとは別の形で市民とのつながりを構築していくことが求められる。

ラッセル・J・ダルトンら(R. J. Dalton et al., Political Parties and Democratic Linkage: How Parties Organize Democracy. Oxford University Press, 2011)は民主政治の健全な機能として、いかに政党が市民を政府機構へと多面的に結びつけているかを論じている。政党は候補者を発掘し、選挙綱領や宣伝啓発活動を通じて選挙戦の争点・議題を設定し、市民を投票や選挙活動へと誘導・動員する。政党はまた社会の多様な利害関心を集約し、政策パッケージへと単純化することで、選挙での選択を容易にする。こうして有権者が投票した結果、得票が議席に変換され、少なくとも多数派の選択が選挙後の政府形成に反映される。選挙公約や選挙後の連立交渉で成立した協定に基づく政策は、政府によって実施される。

従来の日本の政党論議においては、二大政党への集約や政府形成、マニフェスト実施の監視を通じた「アカウンタビリティ」(説明責任というよりは答責性、責任を問えるようにすること)の確保に焦点が当てられてきた。しかし政党が平常時から政治争点に関する自らの解釈を市民に伝える回路を確保しておくことも重要である。政党機関紙・誌の講読者増加には期待できない。販売部数や広告収入の激減に直面する既成メディアの論調も内閣や官庁、大企業の視点を内面化したものや、野党内の対立を強調するものが目立つ。ネット媒体への社会的信頼性も未確立である。党員や系列組織になるのとは異なる仕方で、むしろ市民の方がゆるやかに組織化され、政党とつながっていくことが求められている。

従来の政党論議がやはり軽視してきたのは、政治家の募集回路の多様化や政治参加の受け皿の機能である。政党間の競争や政権交代の可能性が担保されていればよしとする「エリート競争民主主義論」に代わって、多様な社会的属性を持つ議員で議会が構成される方が有権者にとって代表制の正統性を高めるという見方が有力になりつつある。

自民党議員の大半は親も国会・地方議員だった政治家一族の男性である。政治家補充回路の多様化は主に野党が担わなくてはならない。しかし補充回路は大野党が公務員労組か大企業労組か官僚、公明党が創価学会、共産党が系列諸組織など、組織系列ごとに決まっており、その枠内で選挙運動も行われてきた。系列ごとの補充や選挙運動、示威行動は党派的結束を高めるのには有効だが、一般市民を政治から遠ざける。

選挙運動が有権者の政治的関心を高め、投票率を高める機会にならないのは公職選挙法のせいでもある。1920年代の選挙権拡大に伴い、労働者層の政治参加を抑制するために選挙運動を規制する法規が導入された。戦後の公職選挙法にも参加に制限的な規定は引き継がれ、諸外国の選挙運動では最も重要とされる戸別訪問は禁止され、短い選挙運動期間や高額の供託金は現職有利になっている。政治参加を促進する制度改革が望まれる。

また潤沢な企業献金を得られる自民党に対する野党の政治資金上の構造的不利も解消する必要がある。規制の実効性を考慮すると、議員当たりの政治活動費に上限をはめ、その枠内で企業献金と政党助成金の額にも上限を設定し、残りは市民から寄付を募る競争をさせてはどうだろうか。このほか内閣官房機密費のような不透明な予算項目を制限することも必要である。

3. 二大ブロック制の構築

1993年夏の初の自民党下野に始まる「政治改革」以降の政治の実態は連立政治だったが、政治改革論議は二大政党制への発展を暗に想定していた。しかし民主党下野後の過程で選択肢は狭まり、以下のような前提条件で政治戦略を組み立てることが不可避となっている。

二大政党制はモデルたりえないこと。二大政党制はもはや米国にしか見られない特異形態である。これは独特の歴史的経緯の中で発展してきたものだが、米国特有の政治制度は大統領選挙の混乱に見られるように、困難に直面している。また英国の政党制はすでに多党化している。

「中道」「第三極」の退潮。政権交代がないと、政権と対峙し続けるよりも中間的位置を占めて交渉力を得ようとする機会主義勢力が野党の中から出てくる。かつて大企業労組を基盤とする民主社会党が零細事業主も基盤としていた公明党とともに「中道」を掲げたことは、日本型労使協調路線とも整合的だった。しかし小選挙区制の比重を高める政治改革が政界の両極化を促すと、公明党はうまく適応し、自民党と堅固な連立ブロックを形成した。維新の党系勢力は大阪の市・府政を押さえたものの地域政党にとどまり、国民民主党も埋没した結果、「中道」は退潮した。

共産党の柔軟化。安全保障法案可決など、激論を呼んだ安倍政権の強引な政策決定に反対する中で野党議員の国会共闘が発展し、共産党は全選挙区に独自候補を立てる方針を止めた(代わって「れいわ」が独自路線を追求している)。学校新設や「桜の会」をめぐる便宜供与や公文書改竄、国会虚偽答弁、コロナ対策の混乱といった安倍政権の数々の失政を追及する過程で、野党議員間の共闘や信頼関係は一層進展し、選挙区での候補者調整も共産党の譲歩によって進化している。

上記の条件を与件とすれば、自民・公明党ブロックに対抗して、共産党も統合した野党ブロックの形成を積極的に追求するのが合理的戦略となる。フランスからスウェーデンに至るまで、多党制下で二大ブロックが形成されている国は多い。二大ブロック制には以下のような利点がある。

第1に、ダルトンらも論じているが、二大ブロック制は多党制の欠点といわれるものを解消する効果がある。多党制では連立政権が通例となる。しかし選挙後の連立交渉次第では、多くの有権者の好みとは異なる組み合わせの連立政権が誕生したり、議席をかなり減らした政党が主導する政権が成立したりする可能性はある。そこで、あらかじめ友好関係にある政党を明示しておけば、有権者は選挙後の連立交渉の枠組みを予期しながら投票できる。

各党は比例代表制では別々に、小選挙区では候補者調整を行いながら、選挙戦を闘う。選挙後に過半数に少し足りず、もう一党を多数派形成のために加えなくてはならない場合も、新政権の政策の大枠は方向づけられている。また大まかな共同選挙綱領を発表しておけば、ブロックを構成するどの政党に投票しても政策と政権の同時選択選挙として機能しうる。その結果、見かけ上は主要政党の数が多くても複雑性は減り、有権者の選択は容易になる。

第2に、政権与党の実績に不満な支持者が政権交代までは望まない場合、二大ブロック制では別の連立与党に票を移動させて制裁を課すことができ、政治の安定を維持できる。対照的に二大政党制下では単独与党への懲罰投票をためらい、それでも懲罰投票に多くの支持者が踏み切ると、固定支持層が少ない政党は政権崩壊が政党崩壊につながり、政治が不安定化する恐れがある。

二大ブロック制の形成は、イタリアで1990年代に起きたように、政治システムへの共産党の完全統合を伴う。日本の共産党は、戦前の非合法時代から冷戦初期のパージを経て、1970年代前後には革新自治体の枠内で社会党と共闘していたが、1980年代以降、2009年の民主党主導政権成立に至るまで、野党の連立政権構想から排除され続けた。しかし近年、共産党との協力に消極的だった国民民主党が埋没し、その大半は選挙協力に積極的な立憲民主党と合流するに至り、合流を推進した労働団体の「連合」執行部も連立政権は否定しつつも選挙協力は容認している。

共産党排除は身分制や開発国家、冷戦の遺物である。かつて大企業の労組や一部の野党政治家は反共防波堤として自らの存在感を強調することをレバレッジに利用できた。だが非正規雇用が増大し、相対的貧困率も上昇する中、共産党への社会的抵抗感は薄れ、むしろ共産党の方が未組織労働者層を代表できる位置にある。また現在の共産党は議会制民主主義の枠内で護憲や政府監視、労働基本権、貧困問題などに重点を置き、合理的かつ柔軟に行動しており、政策面でも社民党との違いはない。ネコの手も借りたいときに、座敷には上げないと言っていられる余裕はない。

4. 新しい対抗軸

政治学者は左右のイデオロギー的対抗軸に何かと政党を並べたがる。欧米の政治学ではかつて、階級対立に起源をもつ経済・福祉政策の志向、つまり政府による介入や再分配と、企業の自由や市場的調整のいずれを重視するか、その違いこそが主たる対抗軸たるべきだという立場が強かった。日本でも政権交代論が台頭する中で、やはり経済・福祉が対抗軸にならないのはおかしいという声が強まっていった。だが欧米でも宗教をめぐる文化的争点は古くから伏流にある。高度経済成長期以降は「脱物質主義」的価値観の広がりにより、環境・自治志向の争点や移民、ジェンダー、歴史認識に絡んだ宗教的・文化的争点が浮上してきたという説明がなされる。

ただし経済的争点と文化的争点、物質主義と脱物質主義、「古い社会運動」と「新しい社会運動」といった二分法は、欧米でも、また日本についてはなおさら問題をはらんでいる。例えば平和や環境、憲法といった争点は文脈次第で様相が変わる。戦争や公害からの直接被害がある場合は物質主義的争点となりえるし、憲法も生存権に関わる側面を持つ一方、直接被害の経験が時間や空間の面で遠ざかれば、平和や環境の争点は専門家を介したイデオロギー性が強くなる。

戦後日本の場合、欧米に比べて基本権の確立が遅れた上に、労働者にとっても重要だった戦争経験のゆえに、憲法問題が重要争点になったのはやむを得なかった。ただし米国の強い影響と冷戦の下、対立軸は独特の形で集約され、与野党は別々の土俵でひとり相撲を続けた。

自民党政権が復古主義的改憲という道徳的正統性の追求を封印し、経済成長を追求して実利的正統性を獲得したのに対し、革新野党は革新自治体への関与を通じて実利的正統性を部分的に獲得することはあっても、基本的に平和主義・自由主義的憲法の擁護という道徳的正統性を追求し続け、また反共中道野党は支持団体からの実利的正統性を追求するという構図になった。

2000年代以降になると憲法や平和をめぐる争点が、ジェンダーや歴史認識をめぐる文化的争点と融合し、自民党と野党内左派との間で再燃した。一方、自民党政権の新自由主義的改革を公明党や民主党も基本的に受け入れていたので、経済争点は2000年代にも与野党の対抗軸にはならなかった。民主党政権は実利的正統性を十分示せずに短命に終わり、自民党政権という「当たり前」に戻った。だがコロナ禍で自民党主導政権の失策が相次ぎ、実利的正統性が低下してきた中、野党ブロック結集の意義は強まっている。

では、野党ブロックの結集軸はどのようなものになるべきか。経済争点に関してヒントとなるのは、新立憲民主党の「結党大会」でのあいさつで枝野幸男代表が新自由主義からの決別に言及したことである。自民党総裁選で「自助、共助、公助」の順に言及した菅義偉首相の発言を引用し、行き過ぎた「自助」と自己責任を求める新自由主義の政党として自民党を規定する一方、立憲民主党は「支え合いの社会」を目指すと位置づけたのである。共産党の志位和夫委員長も新自由主義からの転換が共闘の旗印になると期待する(毎日新聞2020年9月15日)。

新自由主義は1980年代の英米を起点に様々な派生形態をとりつつ世界に広がり、社会生活のあらゆる面に深く浸透したイデオロギーである。それだけに、見直されるべき新自由主義をどのように理解するかは論争的である。ここでは、市民の権利と政府の責任に基づく公共財の供給よりも、個人の経済力と自己責任に基づく市場でのサービス調達の効率性を強調しながら、国家資源の選択的集中および縮減によって、資本所有者の所得や影響力の拡大を追求する戦略として、新自由主義を定義しておく。

新自由主義の政策は軍事費増大や労働組合への規制、貧困層向け福祉の削減に見られるように、緊縮や規制緩和は一律ではなく選択的である。先進国の税収や福祉予算の全体がレトリックほどには削減されなかったからといって、新自由主義が挫折したとはいえない。また消費増税は、多国籍企業や富裕層の資産への適切な課税がなされないまま、法人減税と抱き合わせで行われるならば、逆進性は増し、新自由主義的性格が強くなる。結局、誰にとっての「小さな政府」や規制緩和なのかが問題なのである。

生活保護費圧縮、法人減税と消費増税、公立病院の整理統合、行政事務の民間委託といった安倍・菅政権下の政策は、コロナ禍に対して脆弱な医療体制や給付金さえ満足に支給できない行政、生活困窮者増加をもたらした。また電子決済普及や旅行・飲食促進を医療支援や休業補償よりも優先する政策は、世論の厳しい批判を浴びている。ふるさと納税や外国人観光客頼みの地方振興、低賃金労働力頼みの介護・保育業界や農業も限界を迎えている。PDCAサイクルのような企業用語を評価基準にして学校のロボット工場化を促進する教育政策も見直されなければならない。

こうした新自由主義的政策に加えて、感染リスクを高める人口集中や大規模イベントの問題も露呈した。原発事故のリスクも併せて考えると、分散型の社会や経済の構築が求められる。

さらに、安倍政権下で損なわれた法の支配や行政の答責性の回復、ジェンダー平等の推進が野党ブロックの共通枠組みとなりうる。ただし野党ブロックの枠内で、小政党は正義を強調するだろうし、大政党は幅広い有権者を対象に実利主義的に行動せざるをえないだろう。相互尊重を前提に社会的な対話を重ねながら、合意できるところから共通政策を形成していくのが望ましい。

ほんだ・ひろし

1968年生まれ。北海学園大学法学部政治学科教授(政治過程論)。著書・論文:『脱原子力の運動と政治』(北海道大学図書刊行会、2005年)、「原子力問題と労働運動・政党」大原社会問題研究所編『日本労働年鑑2012年版』、本田宏・堀江孝司編『脱原発の比較政治学』(法政大学出版局、2014年)、『参加と交渉の政治学』(法政大学出版局、2017年)。

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